対話空間_失われた他者を求めて

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知覚の現象学と無の存在論

メルロー=ポンティとサルトル

『知覚の現象学』は1945年、サルトルの『存在と無』(1943年)を追うように刊行された。この記事では、両者を対照させながら『知覚の現象学』について論じていきたい。

まず大づかみに、『知覚の現象学』を母性的、『存在と無』を父性的、とくくってみる。哲学書をこのように分けるのは卑近だが、多少の指針にはなると思う。ユング派心理学者の河合隼雄は、父性と母性の原理を次のように対比している。

母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。…これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分割し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。(河合隼雄『母性社会日本の病理』pp.19-20)

 書名からして、メルローは「知覚の現象」に行動も、意識も、身体も、心理も、取り込んでいくのに対し、サルトルは「存在と無」という根本的な対立を立てる。メルローは「現象」に対立される概念の結合を見るのに対して、サルトルの「無」とは、存在の核心にひそむ「否性」である。

現象学が獲得した最も重要な成果はおそらく、極端な主観主義と極端な客観主義とを、世界もしくは合理性に関するその概念のうちで結合させたことにあるであろう。…現象学的世界とは純粋な存在ではなくて、私のさまざまな経験の交点に、私の経験と他人の経験との交点に、相互の噛み合いをとおして現れるところの、意味なのである。(メルロー=ポンティ『知覚の現象学』pp.23-24)

知覚によって現象学的世界を回復することが、『知覚の現象学』のモチーフといってもいいだろう。サルトルの現象の捉え方は、それとは好対照である。

それでは、われわれは存在するものをそのもろもろの顕現に還元することによって、あらゆる二元論を克服することに成功したと言えるであろうか? むしろわれわれはすべてをあらたな二元論、すなわち有限なものと無限なものとの二元論へ、転化させたように思われる。(サルトル『存在と無Ⅰ』p.21)

この二元論が、端的にただそれだけで現れる有限の「即自」と、それを常に超え出てゆく無限の「対自」とに対応し、『存在と無』の基本枠組みとなる。

メルローを好む人とサルトルを好む人とにも、何かこの対立をしのばせるものがある。

メルロ=ポンティはあかるい哲学者である。やわらかな哲学者である。(鷲田清一メルロ=ポンティ』p.10)

キルケゴールに典型的であり、ほぼ同じ感度をサルトルが保持しているが…自分を「書きそこない」(キルケゴール)あるいは完全な「余計者」(サルトル)と自覚する清潔さである。(中島義道『善人ほど悪い奴はいない』p.6)

 なお、メルローは「お母さんっ子」であり、母との親密な関係が終生続いたようだ。メルロー自身の述懐。

青年である二つの仕方があり、両者は相手を容易には理解し得ないものである。まず幼年期によって魅惑されているある種の人びとがいる。幼年期が彼に取りつき、彼らを特権的な可能性の次元に魅了されたままにしておくのだ。また、幼年期によって、大人の生活の方へ投げ出される別の種類の人間がいる。彼らは、自分には過去がなく、またあらゆる可能性のすぐそばにいると思っている。サルトルは後の方の種類の人間に属していた。(木田元メルロ=ポンティの思想』p.3)

そしてメルローは「前の方の種類」に属していたのである。

現象学とはなにか

『知覚の現象学』も『存在と無』も、その緒論でフッサールを論じている。そこでまずフッサールからはじめる。いった現象とはなんだろうか。

よく考えてみよう。根本から省察する哲学者として私たちはいまでは私たちにとって通用している学問も、私たちにとって存在する世界も持っていない。世界は端的に存在するのではなく、すなわち、経験がもつ存在の信念のうちで自然に通用しているのではなく、それは単なる存在の要求に過ぎなくなる。…要するに、物理的な自然のみならず、具体的な生活の周囲世界の全体が、もはや私にとっては存在ではなく、単なる存在という現象にすぎなくなる。(フッサールデカルト省察』pp.45-46)

フッサールが迫るのは、世界全体に対する「存在の信念」を差し控えることである。率直に無反省に断定せず、「直観されたものに対して態度決定を差し控える」。ものごとがどんなに自明に成立しているとしても、そのものごとはそうであるのではなくて、あるべきだ、あるはずだ、という要求に変わる。

まさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。(フッサールデカルト省察』p.48)

しかし、メルローはこの図式をひっくり返してしまう。

こうして反省はみずからおのれを忘れ、存在と時間に至る手前の不死身の主観性に立ち戻る。だが、これは無邪気な独りよがりだ。…反省は、おのれが出来事であることを、知らないわけにはいかない。それだから反省は、真の創造として、意識の構造における変化として、自己自身に現れる。主観が自己自身に与えられているのだから、主観に与えられている世界を、反省は反省自身の働きの手前にあるものと、認めなくてはならない。(『知覚の現象学』pp.6-7)

メルローもまず反省を行い、態度決定を差し控える。ところが、そうしてわかることは、反省そのものが私に対する一つの現象である。私はもともと反省するものであったのではなく、「反省しはじめた私」に気がついたのである。こうして、メルローフッサールが懐疑の中に投げ込んだ「世界が現にあることの明証」に戻る。ただし、それを「明証」ではなく「知覚」と呼ぶ。

(態度決定を差し控えると、)知覚は世界に関する一つの科学ではない。(反省する私に気づくと、)それは一つの行為ですらない、つまり熟慮を経た上での態度の決定ではない。知覚は、その上に(反省を含めた)あらゆる行為が浮かび上がる背景であり、行為はこれを前提している。(『知覚の現象学』p.7)

メルローの卓見は、反省もまた行為であることに気付いたことである。反省は心理に属し、行為は身体に属すというのが常識であるが、両者は本質的には同じものなのである。なぜそうなるのかは後で触れよう。

では、サルトルはどう考えているか。

われわれはわれわれの探究の終わりに達したように思われる。われわれは事物を、そのもろもろの現れのまとまった全体に還元した。ついで、われわれはそれらの現れが、それ自体もはや現れではない存在を要求することを確かめた。《知覚されること》はわれわれに《知覚する者》を指し示した。そしてこの知覚する者の存在は、意識としてわれわれに顕示された。したがって、われわれは認識の存在論的根拠に到達したといってもいいであろう。(『存在と無Ⅰ』pp.44-45)

サルトルメルローほどナイーヴではない。「反省する私」という現象は、私を世界に連れ戻すのではなく、「反省する私」という現象を反省する私を考えることになるだけである。反省という意識をすべての根底におこうとするフッサールの意図は、サルトルの方がよく汲みとっていると言えるだろう。その上で、サルトルはこう続ける。

意識は何ものかについての意識である。…いいかえれば、意識は、意識ではない一つの存在に向けられて生まれるという意味である。これこそは、われわれが存在論的証明と呼ぶものである。(『存在と無Ⅰ』p.55)

意識が存在の根拠なのだから、意識が向けられる何ものかが存在する。ところが、意識が向けられるのは、端的に存在するものだけだろうか。私たちは何かが存在しないことにも気がつく。つまり、何かが存在するはずであることや、何かが存在するべきであることも意識するのではないだろうか。こうして無が問題になる。

経験主義と主知主義の批判

メルローは序文で、

記述することが肝心なのであって、説明したり、分析したりすることではない。フッサールが初期の現象学に与えたこの命令、つまり「記述心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、さしあたり科学の否認である。

 と述べている。この「科学の否認」つまり科学批判としての現象学が、『知覚の現象学』緒論の主題であるように思われる。以下、その線に沿って整理してみる。

知覚はもっぱら、神経生理学において、感覚器官を介した刺激の受容と応答として探究されてきた。メルローはこうした探究をおおまかに経験主義と呼ぶ。

われわれが経験主義に対して非難している点は、それが自然的世界を分析の第一の主題としたことではない。なぜなら、自然はぼんやりとした遠い存在ではあろうが、いかなる文化的対象といえども自然という背景の上に現れ、これを振り返るものだからである。われわれの知覚は、カンヴァスの身近な存在を画像の背後に感じている。…しかし、経験主義の言う自然とは、もろもろの刺激と諸性質の総和である。かかる自然について、例えたんに志向の上とはいえ、われわれの知覚の第一の対象だと言い張ることは、馬鹿げている。(『知覚の現象学』p.62)

私たちはひまわりを知覚すると同時に、カンバスの布とその上に盛り上がった絵具を知覚する(まさにこれがゴッホの表現の特徴でもある)。これを、カンバスや絵具が与える刺激の総和に還元することはできないし、そのような還元は「ひまわり」という作品の知覚を切り捨ててしまうだろう。ところが、さいころの見えない三つの面からひとの表情まで、日常世界の知覚はこのような、物質的な知覚と同時にその意味を知覚するという経験にあふれていることがわかるだろう。そこで、経験主義的な探求は「顕わにされた経験をとても汲みつくすことなどできない体系」となるだろう。

経験主義の偏頗さを、メルローは意味がもっぱら人間の情報処理能力として、悟性の推論能力等々の「超越論的主観」によって論じられていたところに求める。意識の中で判断するところに意味が生まれ感覚はデータに過ぎないというような説明を、メルロー主知主義と呼び、そのような説明に満足するのは「古典的偏見」だと考える。

主知主義は、たしかに、知覚の構造を…反省によって明るみに出そうと企てた。しかし知覚に対する観察は、ここでもまだ直接的ではない。主知主義の分析において、判断の概念が演じている役割を吟味してみるなら、この事情がいっそう明らかとなろう。判断は、しばしば、知覚を可能ならしめるために、感覚にかけているものを補うものとして、導入される。(『知覚の現象学』p.74)

主知主義は判断を、反省し吟味して合理的に構成する過程として描きだそうとした。ありていに言えば、ふつうの人間の日常の判断ではなく、学者の、特に科学者の行う判断をいかに説明するかということだけを課題とした。

科学者の思惟のみが、真の対自であって、ほかに対自らしきものは存在しなかった。こうして一方では生ける身体が内部のない外部になるとともに、他方では主体性が外部のない内部に、つまり公平無私な傍観者になっていたのである。科学の自然主義、ならびに科学に対する反省がゆきついた普遍的構成的主観の唯心論(『知覚の現象学』p.109)

フッサールがあくまで学者の判断のし方を「エポケー」として抽象化することから諸学の基礎づけを行おうとしたのに対し、メルローはふつうの人間のふつうの判断のありようを説明するところに知的良心をかけたと整理できるかもしれない。

こうみると、サルトルは別の意味で対照的である。サルトルの興味はふつうの人間のふつうのありようを分析し曝露することである。サルトルらしさが特に際立つのは「自己欺瞞」の章であろう。

人間存在は、単に世界の中に否性をあらわさせる存在であるばかりでなく、自己に対して否定的態度をとりうる存在でもある。(『存在と無Ⅰ』p.170)

自己に対する否定的態度は、新たな問いを立てることを許す。すなわち、人間は、自己を否定しうるためには、その存在においていかなるものであらねばならないか?(『存在と無Ⅰ』p.171)

先の「存在論的証明」の鋭い切り返しである。否定的態度、世界をあるがままに認めない態度として、サルトルが取り上げるのは「嘘」である。では、「自分で自分に嘘をついている」とはどういうことか、どうすれば人間は自己意識においてすら対自的でありうるのか?

事実、虚偽の本質には、嘘をつく当人が完全に真実を知り抜いていながら、それを偽っている、ということが含まれている。…嘘をつく人の理想は、自分では真実を肯定しながら、自分のことばにおいてはそれを否定し、さらに自分自身に対してはこの否定を否定する、そういうシニックな意識であると言えよう。(『存在と無Ⅰ』p.172)

では、なぜ人は嘘をつくのだろうか。自分のことば、自分の行為に対し、でも「本当は」そうではないというシニックな意識を持つのだろうか。それは人間が演技する存在だからである。

かれはキャフェのボーイであることを演じているのである。それはなにも意外なことではない。…キャフェのボーイは自己の身分をもてあそぶことによって、その身分を実現する。…そこには、人間を彼があるところのもののうちに閉じ込める用心がみられる。…かかる主体は、他の人々にとってもまた私自身にとっても一つの「表象」である。(『存在と無Ⅰ』pp.200-201)

「表象」つまり演技こそ即自、人間存在そのものである。そこでサルトルはシニカルな意識を捨て、演技のうちに開き直るふてぶてしさに「誠実」をみる。人間が本当のことを求めるのは、都合のいい事実に満足し、不都合な事実から目をそらすためである。

誠実の代表者は、彼が判断すると称しながら、実はみずから気休めを得ようとするかぎりにおいて、また彼が他者の自由に対して、それが自由のままで自己を構成するように要求する限りにおいて、自己欺瞞的である。(『存在と無Ⅰ』p.214)

そこで、自分に対して演技することに「誠実」になることが、自己欺瞞の構造である。

かくして誠実の本質的構造は、自己欺瞞の本質的構造と異なるものではない。というのも、誠実な人は、彼がそれであらぬためにそれであるところのものとして、自己を構成するからである。「われわれは誠実であるあまりに、自己欺瞞に陥ることがある」という万人に認められているこの真理の本当の意味はそこにある。(『存在と無Ⅰ』p.215)

メルローとの違いを実感できるだろう。サルトルは簡単に他者の心を読み切ってしまう。メルローが禁じた超越あるいは上空俯瞰を、サルトルはやすやすと行うのである。

フロイトとの関係

『知覚の現象学』は第一部五章で「性的存在としての身体」を論じ、フロイトにも言及している。フロイトの説にはあまり肯定的ではないが、第六章の冒頭で、その結論を次のように要約している。

われわれは身体に、科学的対象の統一とは区別される別種の統一を認めた。われわれは今しがた身体の「性的機能」の中にまで、嗜好性と意味能力とを発見したばかりである。(『知覚の現象学』p.289)

しかし、私たちの読書会でも第五章は難解であり、この「統一」がどのようなものなのかをつかみかねた。これを私なりに論じてみたい。私が注目するのは幻像肢である。

実は、病徴不覚症患者は、単純にマヒした肢体を知らないということではない。彼が欠陥から目を背けることができるのは、どこで欠陥に出会うかを彼が承知していればこそである。ちょうど、精神分析において、患者は面と向かって見たくないものを、実はみずから知っているのであり、もしそうでなければ、彼はこうも巧みにそれを避けることはできないだろう、というのと同じである。(『知覚の現象学』p.147)

現実にマヒした肢体と、それを代償する空想の肢体。フロイトは空想についてこう述べている。

人間の自我は、外的な必然の作用を通してだんだんと、現実を重視し現実原理に従うように教育されてゆき、そのなかで、快を求める自らの努力―それは性的なものだけではありません―のさまざまな対象と目標を、一時的ないしは永続的に断念せざるを得ません。しかし快の断念は、人間にはいつも辛いものでした。人間は、何らかの埋め合わせがなければ、快の断念を潔しとはいたしません。こうして人間は、これらすべての断念された快源泉や快獲得の道がそのあともなお生き残ることができるようなある心の活動を、手元に残しておくことになったわけです。…人間は、あるときはなお快動物にとどまり、あるときは再び分別のある生き物になるということを、相互に繰り返すことができるようになりました。(『精神分析入門』pp.386-387)

メルローは幻肢とヒステリーの関係に気づいていたはずである。一方は失われた肢があたかもあるように振舞い、一方は健常な肢が麻痺を起こす。しかし、その仕組みは同じである。幻肢のもっとも単純な理解は、それが願望充足だということである。つまり、肢をうしなったことを受け入れられない「肢を動かしたい」という欲望が、幻肢というかたちで充足される。これは自己欺瞞の構造でもある。メルローの「患者は自分の無力をまさに知らない限りにおいて知っているのであり、知っている限りにおいて知らない」という定式はまるでサルトルのものである。*1

幻像肢の現象は抑圧の現象と一緒になる。抑圧の現象は幻像肢の現象に光を当てるはずである。というのは、精神分析学でいう抑圧とは、ひとがある道―たとえば恋愛、立身出世、仕事など―に足を踏み入れながら、その途上である障害にぶつかり、そこで障害物を取り除く力もなければ企てを断念する決心もつかないで、この試みの中に閉じ込められ、心のなかでこの試みを繰り返すために無際限にその力を使う、ということだからである。(『知覚の現象学』p.151)

だから、肢を失ったことを理解するにつれ、検閲(抑圧)を理解したヒステリー患者が寛解するように、幻肢はしだいに失われる。もちろんものごとはそんなに単純ではないだろう。そもそもヒステリーと同様、場合によっては器質的な原因に帰着できるかもしれない。また、身体感覚(身体に向かう欲望)の「器質的抑圧」や「コンプレックス」や「転移」をもっと理論化しなければいけないだろう。あるいは、単なる欲望充足とは考えにくい、痛みを伴う幻肢などが、フロイトに立ちはだかった反復強迫のように、問題となるだろう。

メルローは身体と夢とを結び付ける一歩手前まで進んでいたように思う。私たちが身体を把握するし方と夢を見る仕方が同じであり、身体の知覚にも抑圧や象徴があるのだとすれば、そして夢もまた身体が見るものだとすれば、さらには言葉を空想的に延長された身体と考えれば、ここにあるのは心身二元論の消滅、あるいは解消である。そこでは知覚の言葉は、意識そのものと身体そのものとを同時に論じているはずである。フロイト「夢工作とは本質的に、思考を幻覚的体験に転化させるものだ」が、これがなぜ起こるのかは一般心理学の問題だから精神分析は答えない、と述べている。その答えは存外このあたりにあるような気がする。

いかなる知覚も交信(communication)あるいは交感(communion)である。つまり外部の志向のわれわれによる継承もしくは成熟であり、あるいは逆にわれわれの知覚の諸能力の外界における実現であり、いわばわれわれの身体と物との交合である。ひとびとがこの点にもっと早くから気づかななったのは、知覚世界の自覚が客観的思惟の先入主によって困難にされていたからである。(『知覚の現象学』p.523)

しかし、第一部で「性的存在としての身体」「表現としての身体と言葉」にまで論を進めたにもかかわらず、第二部でメルローはこの方向に進んでいないように見える。では、なぜその一歩を踏み出さなかったのか。これを妨げたのは、「無意識」という言葉を避けているように、精神分析から距離を置こうという配慮があったかもしれない。また、メルローは哲学プロパーであり、第二部は超越やコギトや自由といったテーマに戻って行きたかったとも読める。しかし私は、より根本的な原因があると思う。それは「上空俯瞰的な思考」へのためらいである。メルローは、フロイトのように問題を一般化させるよりは、卑近な自分自身の問題に限定することを望んだような気がする。

終わりに、母性的なメルローと父性的なフロイトを対比させておく。

ひとが所有したいと思っているものは、一つの物体ではなく、意識によって生気を与えられた身体なのである。そしてアランも言うように、狂気の女性を愛することは、発狂する前から彼女を愛していたのでなければ不可能である。身体に賦与された重要性、性愛の諸矛盾は、私の身体の形而上学的な構造、つまり他人にとっての対象であると同時に、私にとって主体であるという構造に基づくいっそう普遍的なドラマに結びついているのである。…性的快感の激しさだけでは、人間生活における性欲の占める位置を、例えばエロティスムの現象を説明するのに十分ではなかろう。(『知覚の現象学』p.282)

メルローがエロティシズムに統一を求めるのに対し、フロイトは断片的な対象に執着するフェティシズムを強調する。

倒錯がどれほど面罵され、健常の性的活動と鋭く対比されようと、簡単に観察されるように、健常者の性生活にも何らかの倒錯的特徴がみられないことはごく希です。接吻にしてすでに倒錯行為の名に値します。…健常の性欲とは、以前の(幼少期に性的興奮を引き起こしていた、様々な倒錯的)素材の特徴のいくつかを役立たずだとして排斥し、残った特徴をひとくくりにして生殖という新たな目標に従属させるという形で、以前に存していたその素材から出て来るものなのです。(『精神分析入門』pp.337-338)

異常から正常を考えるのか、それとも正常もまた一つの異常なのか。断定は控えておこう。

フランス戦後思想

カミュレジスタンス活動における「コンバ」紙の主筆として、サルトルは戦後行動する知識人として著名であった。しかしメルローもまた、戦後を代表する左派の論客であり、1944年9月のパリ解放とともに雑誌『現代』の刊行を企画した。編集委員にはボーヴォワールも参加している。メルローはそこで政治的論説のほとんどを執筆し、それは『ヒューマニズムとテロル』にまとめられている。以下に、サルトルの言葉。

私は読み、教えられ、ついには夢中になって読んだ。彼(メルロー=ポンティ)は私の道案内人だった。私を踏み切らせたのは『ヒューマニズムとテロル』であった。きわめて密度の高いこの小冊子が私の方法と対照とを明かしてくれたのだ。それは私に事なかれ主義を脱するに必要な刺戟を与えてくれた。(木田元メルロ=ポンティの思想』p.162)

どこか丸山眞男を思わせなくもない。カミュが文学に、サルトルが哲学に向かったように、メルローは神経生理学に知的誠実を求めたのだろう。主知主義の批判に続いて、メルローの政治性を垣間見る一節がある。

自然はおのずから幾何学的なものであるというわけではない。それがそのように見えるのは、巨視的な条件を踏み越えようとしない慎み深い観察者にとってだけである。人間社会ももともと理性的精神の共同体であるというわけではない。生活上ならびに経済上の均衡が局部的一時的に獲得された恵まれた国々において、初めてこのように理解されえたのである。思弁的領域においても他の領域におけると同様に混乱を経験したという事実が…理性によってつくられたのではない世界の中に理性が湧き出たという事実を、われわれに理解させるような一つの哲学を、そして理性と自由とが空虚になったり解体したりしないために是非とも必要な、生命的な下部構造を用意する一つの哲学を、探究するようにとわれわれを促すのである。(『知覚の現象学』pp.110-111)

カミュが書いたとしてもおかしくないような文章である。とくに、「理性と自由とが空虚になったり解体したりしないために」というところが読ませどころだと思う。これを、1937年に脱稿した、どちらかといえばアカデミズムに沈潜した『行動の構造』に対する自戒と呼んでも間違いではあるまい。

『知覚の現象学』には確かに強い知的緊張がある。それは、結果のためにはあらゆる謀略が許される政治の世界において、自身の信念の根拠を確保するための戦いであったのかもしれない、と思うのである。

 

知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)

知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

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デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

 

 

1915-17年 精神分析入門講義 (フロイト全集 第15巻)
 

 

 

メルロ=ポンティの思想

メルロ=ポンティの思想

 

 

*1:フロイトも次のように述べている。

彼は、自分が知っているということを知らないだけなのです。そして、それがために、自分は知らないのだと信じ切っているのです。『精神分析入門』p.112