対話空間_失われた他者を求めて

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奇跡ということ

ずっと不思議に思ってきたこと

 「不思議だなあ」って思うことはたくさんある。その中で僕が高校の頃からずっと、特に不思議に思ってきたことを二つ紹介したい。その一つは、「宇宙が有限であるならばその外があるはずだ。宇宙の外はどうなっているのだろう」ということだ。高校の頃私はまだ哲学書を一冊も読んだことがなかったが、このことについて自分でいくら考えても納得のいく答えはまったく得られず、この問題を前にして唯々「不思議だなあ」という思いを抱き続けてきた。「宇宙の外はどうなっているんだ」という質問を、私は父や高校の時の教師、大学の先生や友人に繰り返した。しかし誰一人この問題について一緒に考え、答えを返してくれた人はいなかった。ここでこの問題についての私の見解をごく簡単に述べておきたい。一口で言うと「宇宙の外については語ることができない」というのが今の私の見解だ。そもそも内とか外という概念はこの宇宙空間の中でしか通用しない。宇宙の外の世界というのは、死後の世界と構造的には同型だと思う。生きている者にとって死んだ後の世界は、宗教的・神話的には語れても論理的には語れないはずだ。このことについては後ほどまた少し触れたいと思っている。

 特に不思議だなあと思い続けている二つ目のことについて。「私はどうして私なんだ。私はどうして今、ここに存在しているんだ。私には七つ上の兄がいるが、その兄が私であってもいいんじゃないか。私は人間に生まれなくて犬や猿に生まれてきてもよかったのではないか。今から約68年前、私の両親の精子と卵が受精してそれがたまたま私となった。もしもたまたまその精子とは違った別の精子が受精していたとすれば、そのときに生まれた子供は私とよく似ていても私ではなく、私はこの地球上に生まれてこなかったことになる。そう考えると私の生まれる確率は限りなくゼロになる。しかもこの地球上で、つねれば痛く感じるのは私一人しかいない。今までもこれからも多くの人間が生まれ、そして死んでいく。その中でつねれば痛く感じる人間は、今ここに生きているこの私しかいないのは、一体なぜなんだ。」

 こうしたことを考えると私は、気が遠くなるほど不思議な気分になる。そしてこの不思議な気分を分かってほしいと、上記に述べたようなことを今まで色々な人に話した。高校の教師をしていたので、授業中生徒にもしばしば話をしたことがある。しかし説明が下手なせいか、いまひとつこの不思議な気分を伝えることができなかったように感じられた。私は高校を卒業してから哲学に興味を持ち、哲学書を読むようになり、独我論という考え方があることも知るようになった。上記に述べたことは独我論に通じるところがあるが、しかしこの不思議な気分は独我論ではとても表現できないように思う。今から10年程前に図書館で借りた、哲学者の永井均の本(題名は手元にないので思い出せない)を読んでいて、私がここで述べているこの不思議な感じとよく似た内容のことが書かれているように思った。そしてこのことが的確に分かりやすく表現されているように感じ、感激した。このことを永井氏の言葉で簡単に示せば「私の独在性」という表現になるであろう。

ありえないこと

 奇跡とは、常識では考えられないありえない出来事が起こることである。例えばさいころを100回投げたとする。もしも1の目だけが100回連続で出たとすれば、それはありえないことであり、奇跡だということになるだろう。それは確率で言えば6の100乗分の1となる。しかしよく注意して考えてほしい。さいころを最初に振って1の目が出て、2回目を振ると4の目が出た。以下、3、4、6、2、5、…といった順序で100回振ったとする。しかしこれは当たり前のことであり、奇跡ともなんとも思わないだろう。しかし100回振ったこの時のこの順序で出たさいころの目の出る確率も6の100乗分の1である。さいころの1の目が100回連続で出るというありえないことを奇跡と呼ぶのであれば、ありえないという確率だけで考えれば、さいころを100回投げるごとに奇跡を起こしていることになるだろう。このことを不思議に思うようになったのは、10年程前になる。これをどう考えればよいのだろうか。よく考えると、現実に起こったことというのは全て一回限りのことであり、二度と同じことは起こらない。例えば私が川に向かって石を投げたとする。その石の飛んだ軌道は何万回投げても、必ず違っているはずだ。さいころを投げて同じ目が出るといっても、それは1から6というさいころの目の数だけを抽出し、それだけに注目するからであり、さいころの転がる軌道やその速度まで含めると、何度投げても全て違うことになる。現実に起こることは一回限りで二度と同じ事は起こらない。しかし川に向かって石を投げたとき、たまたまその石がスズメに当たってスズメが落ちたとしたら(私の子供時代に本当に経験したことである)、まるで奇跡でも起こったように気持ちになる。

 同様にして、この私が生まれてくるということも、一回限りであって二度と同じことは起こらない。しかしほかでもないこの私が生まれて、今ここにいるということが、ありえない奇跡のように思われてくる。そこには一体何があるのだろう。永井均の哲学書を何冊か読んでみたが、この不思議な世界をうまく表現していても、そこに何があり何が起こっているのかがはっきりせず、その世界の中にますます引きずり込まれ、私の独在性の感覚から抜け出せなくなるような感じになった。私としてはそこから抜け出せる外部の視点が欲しかった。

 今から二ヶ月程前の5月、本屋で、たまたま今年出版されたばかりの中島義道の『不在の哲学』が目に留まり、早速買って読んでみた。この本では私が述べた「奇跡のように思われる不思議さがなぜ生じてくるのか」が、「不在」というキーワードによって実にうまく説明されていた。初めて「ああ、これなんだ」と、目からうろこが落ちた感じがした。氏の『不在の哲学』も参考にしながら、「この不思議な感じの背景には何があるのか」を、何とか伝えてみたいと思う。

奇跡的だと感じるのはなぜか

 さいころを100回投げて1の目が100回出たとしたら、なぜ奇跡的だと感じるのか。『不在の哲学』の第六章のp.338「天文学的に低い確率?」の項で、これに関連したことが述べられているので、以下に引用したい。

 

……あらゆるこれまでの出来事は現実的(ただ現にそう起こっただけ)であり、偶然的でも必然的でもない。だが、言語を習得した有機体であるわれわれ人間はただ一度だけの現実的なものをとらえた瞬間、現実的世界の「そと」の視点に移動して、現実的なものは膨大な量の「可能的なもの」のうちで、(幸運にも?)実現したというとらえかたをしてしまう。そして、<いま>なお、依然として膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのである。

 

 

 さいころを投げて1の目が出ようが3の目が出ようがどうでもよかったら、100回とも1の目が出たとしても奇跡とは感じないだろう。ところが1の目が100回とも並んで出てきたということに特別の意味を見てそれに注目すると、上記の引用で中島氏が述べているように、1の目以外の目が出る膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのだ。その結果ありえないことが起こったように感じるわけだ。中島氏の言う不在というのは、この可能的なもののように現実化されなかった事象、実在的なものからこぼれ落ちる事象のことである。現実的にはさいころを100回振って1の目が100回連続で出たとする。しかしそこに1の目以外の目が出るのではという膨大な不在を読み込み、その不在を地として現実に起こったことを見ると奇跡だと思ってしまうのだ。同様にして「この地球上に私が現れたことが奇跡的に思われ、つねれば痛く感じるのはこの私しかいないというのが不思議に思われること」も、「もし私が…だったら」とか「もし私が100年前にいたら」といった想像できる限りの不在を読み込み、それを通して「私」を見ているからだと思う。

 「つねれば痛く感じるのは私しかいない」ということを、もう少し考えてみよう。自分の手をつねれば、当然自分は痛く感じる。他者の手をつねっても自分は痛く感じない。しかし、他者も自分を同じように痛く感じるのではないかと想像することはできる。ちょうどさいころを振って1の目以外の目が出るのではないかと想像するように、他者の痛み(広い意味では他者の心)という不在の痛み(心)を見るとき「痛く感じるのはこの私一人しかいない」という不思議な感覚が立ち上がってくる。この感覚が永井均の言う「私の独在性」の感覚であり、また独我論に通じる入り口だと思う。他者の心を不在として考えるというのは、他者に心がないという意味ではない。他者にも心があると想像しながら、その他者の心が自分には直接感じられないという意味で不在なのだ。さいころを100回投げて100回とも1の目が出て、他の目が出なかったとき、「他の目も出るであろうという可能性」を不在として読み込んだように、他者の心の可能性を認めた上でそれを不在として読み込んでいるわけだ。その不在を地として独我論が立ち上がる。したがって他者の心の可能性を認めない者は独我論者にはなれないと思う。

宇宙と生

 最後に宇宙の外の世界と死の問題を、今まで見てきた不在という概念を通して考えてみたい。宇宙の外も死も究極の不在だと思う。「宇宙の外ってどうなっているのだろう」と想像して不思議だなあという感覚に私が襲われたのは、宇宙の外という究極の不在を通して宇宙を考えたからだと思う。また物に光が当たれば陰ができ、その陰という光の不在を地として物の形が浮き上がってくるように、生を考える場合でも死という究極の不在を地として、それを通して生を考えると、生は様々な相貌を伴って立ち現れてくるように思う。死という不在を無視して唯々この世の生のことばかりに夢中になっている人間は底が浅いと思う。ただし時として図地反転し、死が不気味な悪魔的な相貌を持って図として浮かび上がることがある。これが死の恐怖だと思う。

 宇宙の外や死はヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」に相当するだろう。しかし彼の『論理哲学論考』が一見無味乾燥した簡潔な論理的表現で述べられているように見えて、不思議な神秘を感じさせるのは、彼の言う語りえぬものという不在を地として、それを通して書かれているからだと思う。不在を通してものごとを眺めるとき、世界はえも言われぬ豊かな相貌を持って立ち現れてるくるのだと思う。


<筆者 史章>