対話空間_失われた他者を求めて

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アニメ『響け!ユーフォニアム』の魅力について―感想と考察

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 最近、ある友人からの薦めで、一年ほど前に放映されたTVアニメ『響け!ユーフォニアム』を観た。このアニメは、高校の吹奏楽部を題材にしたいわゆる部活ものなのだが、これが想像していた以上に新鮮で素晴らしく、色々と思うところのある作品だったので、今更だがこの作品について僕の考えたことを書いておきたい。ちなみに以下の考察は、基本的には既に本作を観ていることを想定の上で書くつもりであるが、一方で本作を知らない方にその魅力を紹介したいという思いもあるので、未見の方が読んでもそれなりに分かるようには配慮したいと思う。(ただし、ネタバレ等に関しては一切配慮しない。そもそも本作はネタバレを気にするようなタイプの作品ではないからだ。)なお、僕は原作の小説は未読のため、以下の考察は専らアニメ版に向けられたものであることを予め了解願いたい。

物語の複数

 まずは本作がどんなお話かというところから見てゆこう。ストーリー展開自体は至って単純明快であり、要は「並以下のレベルの吹奏楽部が全国大会出場を目指して奮闘する」という、はっきり言ってベタなものだ。ところが、見かけの分かり易さとは裏腹に、「一体どんな物語なのか?」、「何を描いているのか?」と考え出すと、実は明快な答えを出すのがなかなか難しい作品なのだ。実際、絶賛の声がある一方で、「物語性が薄い」、「特にドラマティックな事が起こるわけでもなく、退屈で何が面白いのか分からない」といった批判も結構見られる。また一部で「熱血スポ根もの」と評する声があるかと思えば、反対に「スポ根成分が薄くあまり感動できない」といった意見もある。

 ところで僕としては、少なくとも本作を「スポ根もの」と評するのは的外れだと思う。その理由として、主人公の久美子の性格が明らかにスポ根のタイプとは違うということが挙げられるが、それだけではない。そもそもスポ根ものの多くは、「主人公が不屈の根性と努力で困難を乗り越えてゆく」というような、主人公中心的な物語であろう。ところが本作の物語の中心軸は、必ずしも主人公久美子にあるのではない。確かに本作は、終始久美子の視点によって展開していくけれども、しかし一方でその視点からはこぼれ落ちる他の部員たちの様々な物語の存在も暗示されていて、それが作品全体に独特の奥行きをもたらしている。そして何よりも、最終回の演奏シーンを観れば分かるように、この作品はやはり吹奏楽部全体によって織り成される物語なのだ。そのため、スポ根もののように、特定の個人を中心軸にした物語として本作を捉えようとしても、消化不良の感を免れ得ないだろうと思う。

 それならば、本作の物語の中心軸は、特定の個人にあるのではなく、もっと全体的な吹奏楽部員という仲間との "一致団結" というところにあるのだろうか。確かにそういう側面がないわけではない。しかし本作においては、たとえ同じ部員であっても、吹奏楽に対する姿勢、取り組み方、またそこに懸ける思いなどが皆それぞれ異なっているのであって、その異質さはかなり際立った形で描写されていたと思う。しかもそれは最終話に至ってさえも、別に何らかの形で解消されるわけではなく依然として残り続けているのだ。とすれば本作は、仲間全体の物語だとも言い切れないわけである。

 『響け!ユーフォニアム』という作品は、特定の「個人」の物語だとも、団結した「仲間たち」の物語だとも言えない。実際、本作は、部員たちが皆それぞれの思いを抱えて吹奏楽に取り組んでいる様子をきわめて丁寧に描いている。そしてその際、それぞれの部員の小さな物語は、どれ一つとして絶対化されたり、物語全体の中心軸に据えられたりすることはないのである。すなわち本作は、何らかの単一の物語へと還元できるような構造を持たず、むしろ、物語の絶対的な中心軸を欠いたまま、複数の小さな物語が交錯し合う様を細緻に描写しているのだ。その描写の細やかさは目を見張るものがあり、各登場人物それぞれに人格的な奥行きを感じさせる。この点だけ見ても、凡庸な作品とは一線を画する出来栄えだと言ってよいだろう。

 けれども本作は、各部員のそれぞれの物語を単に並置しただけの作品ではない。本作において、それぞれの小さな物語たちはいかにしてつながりを持ちうるのだろうか。以下で詳しく見てゆこう。

合奏の象徴的意味

 本作の魅力は、その物語の複数性にある。しかし思えば、そこで描かれる個々の小さな物語たちが真に無類の輝きを放ちうるのは、"合奏" という行為を通してではないだろうか。最終回の演奏シーンを観る限り、僕にはそう感じられる。そこで、本作における合奏という行為の意味を、少し踏み込んで考察してみたいと思う。

 合奏とはいかなる行為だろう?それは秀一の言うとおり、「皆で音を合わせて演奏する」行為である。その際、奏でられる個々の音はバラバラであってはダメで、一つの統合された「音楽」へと昇華されねばならない。この意味では、確かに演奏者たちは "一致団結" する必要があると言えるだろう。それゆえ、本作は特定の個人の物語だとは言えないわけだ。けれどもこの "団結" は、「全国大会出場を目標に皆で一致団結する」というような意味での団結とはまた質が異なるように思われる。「音楽」は果たして、実際の合奏行為に先立って、皆が予め共有している目標と言えるだろうか。尤も、合奏に先立って「楽譜」という設計図は与えられている。したがって、楽譜はある意味で目標と呼んでも良いかもしれない。だが楽譜それ自体が音楽であるわけではない。音楽とは、その本質上、あくまで一回一回の演奏行為を通してのみ実現しうるような存在なのであり、正に、緑輝(さふぁいあ)の言うように、「一度奏でられると消え、二度と取り戻せない」という性格を持つのである。音楽とは、演奏者たちが目指す目標のようなものではなく、むしろ一回一回の演奏行為によって、その都度 "生成" しうるような出来事なのだ。

 ところで、音楽というのが「演奏者全体の目標」という形で予め存在しているわけではない以上、その成立可能性は当然、個々の演奏者それぞれの演奏行為に懸かっている。やや象徴的に換言すれば、音楽というある種の「メタ物語」は、全体が共有する物語として予め存在しているわけではなく、あくまで個々の演奏者の奏でる小さな物語が交じり合うことによって初めて生み出されるものなのである。実際、本作の演奏シーンでは、部員全体の団結よりも、むしろ個々の演奏者が懸命に自分のパートを演奏する姿が映し出されていたが、これはきわめて示唆的である。本作においては、ある意味で部員一人一人がこの物語を紡ぎ出す主人公なのだ。そして、このようにして紡ぎ出された音楽は、個々の小さな物語たちを包摂し、それらを一つの統合されたメタ物語へと昇華させうる。しかもそのメタ物語は、演奏者のみならず、オーディションに落ちて演奏できなかった葉月や夏紀たちをも包摂しうるのである。正に合奏というのは、個々の小さな物語の分断を乗り越えようとする行為なのだ。

 けれども、個々の小さな物語それ自体は合奏によって、何も単一的な全体の物語へと還元されたり、そこに解消されたりするわけではない。合奏によって輝かしい音楽というメタ物語が立ち上がるわけだが、そうして生み出されたメタ物語は、個を全体へと解消するどころか、かえってそれぞれの演奏者に固有の輝きを与え返すのである。これに関して、チューバの後藤のセリフがなんとも示唆的だ。

「チューバだけだと単調なフレーズが続くからなーんだ、と思ってた時があって。でも合奏で他のパートと音が合わさったらさ、音楽になった。ハーモニーが生まれた。支えてる実感もあった。その時から俺はずっとチューバだ。」

 本作において描き出されるそれぞれの小さな物語は、全体の物語へとは還元できないような、どこまでも異質な存在であろう。個々の部員たちは、「仲間」や「目標」といった全体の物語に完全に回収されてしまうわけではなく、あくまでそれぞれのパースペクティブ吹奏楽に取り組んでいるのであり、その異質さは別段音楽というメタ物語によって解消されるわけではない。けれども、このメタ物語は個々の小さな物語たちに固有の輝きを与え返し、部員それぞれが物語の主人公たることを可能にするのである。

集団への同質化と異質な他者からの触発

 本作は複数の小さな物語たちが、"合奏" という行為を通して、ある種のメタ物語を立ち上げてゆく様子を鮮やかに描いている。とはいえ、複数の人間が集まり関係を持ったからといって、必ずしもそこに輝かしい物語が立ち上がるわけではあるまい。むしろ集団というのはたいてい、"合奏" とは別の仕方でまとまろうとするものではないだろうか。それはすなわち、「皆が周囲に同調的に融けこむ」という仕方だ。これは合奏的調和とは異なり、周囲と「同質化」することによってまとまっていく傾向性を持つ。(ちなみに、いわゆる日常系・空気系アニメにおいてしばしば見られる、摩擦係数を極限まで減らした毛づくろい的なキャラ同士のやり取りも「同質化」の一つの様態であろう。)

 さて本作はと言えば、こうした集団の同質化的傾向性をもきちんと描いていた。その生々しい描写は実際に本作を見て確かめていただくとして、ここでは僕が印象に残ったセリフを一つ引用しておきたい。第2回の葵のセリフである。

「みんな何となく本音を見せないようにしながら、一番問題のない方向を探ってまとまっていく。学校も吹部も、先生も生徒も。」

「そうしないとぶつかっちゃうからだよ。ぶつかってみんな傷ついちゃう。」

 正に、傷つけたり傷つけられたりしないために、つまるところ、その集団内で居心地よく生活するために、周囲と同調的に関わろうとするのはある意味で普通の態度なのだろう。しかしそれにしても、「本音を見せない」という態度を存続するのは、きわめて困難なことだ。本作においてそれを為し得ていたのは、おそらく田中あすかくらいだろう。普通は、周囲と同調的に関わるうちに、自分の「本音」は集団の空気へと融かしこまれて、自分自身ですらその「本音」が見えなくなってゆくのではないだろうか。周囲の何となくの流れに追従することで、その集団の中に自分の居場所を確保しようとする。そしていつの間にか、その何となくの流れに逆らわないような当たり障りのない言動を繰り返しているものだ。このようにして、同調的同質化という傾向性が生じるわけだが、ここでは、個々の小さな物語は同質化した集団の空気の中に埋もれてしまっている。それでも多くの場合、それとひきかえに、その集団の一員としてそこに安住することを求めがちなのではないだろうか。

 けれどもその一方で、本作は同質化の傾向に逆らおうとするような人物をも描いている。それは高坂麗奈である。彼女は主人公の久美子に次のような独白をする。

「私、興味ない人とは無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんて、馬鹿げてる。当たり前に出来上がってる人の流れに抵抗したいの。全部は難しいけど。でも分かるでしょ、そういう意味不明な気持ち。」

 また麗奈は、久美子に「特別になりたい」という思いを告白する。この言葉はおそらく様々な解釈が可能だろうが、上の文脈で見るならば、正に彼女は、同質化され融解しそうになるおのれ自身の物語を何とか取り戻そうとして足掻いているのだ。周囲と同質化してしまえば、確かにそこに安住できるだろうが、それではおそらくきっと何者にもなれない。彼女はどこまでも自己存在の空洞化に抗して、何者かになろうとして足掻いているのだ。こうした自己存在の空虚さは、おそらく麗奈以外の者でもふとした瞬間に感じることがあるだろう。けれども多くの場合、周囲との馴れ合いや傷のなめ合いによって、その空虚さをやり過ごそうとするのではないか。さもなければ、他人を見下すことによって、自分が特別な存在になったかのような気分に浸ろうとする者もいる。けれども、麗奈はこうしたごまかしでは満足しない。彼女の「痛いのは嫌いじゃない」というセリフが示唆するように、周囲との軋轢を馴れ合いや見下しによってやり過ごすのではなく、その痛みを自分自身で引き受け、そこから自己を取り戻そうとしているのではないだろうか。

 一方で主人公の黄前久美子も、こうした麗奈の姿に感化されてゆく。思うに、久美子は本来、感受性豊かで、自分の思いに正直な人間だろう。けれども彼女は初め、どこかで自分の思いを抑圧して、周囲に気を使い同調的に振舞おうとしていたように思う。その原因の一つとして、中学時代の吹奏楽部での出来事が挙げられるだろう。中学時代、コンクールで演奏する者を決めるオーディションで、久美子は同じユーフォニアム奏者の先輩を蹴落としてそのオーディションに受かってしまう。そしてその先輩に、「あんたがいなければコンクールで吹けたのに!」と暴言を吐かれる。このシーンが何度もフラッシュバックすることから、おそらく久美子はこのことをずっと引き摺っているのだろう。彼女は、このときに受けた「痛み」から逃避するために、「自分自身がどう感じ、何を思うのか」ということを、何かと周囲に同調することでごまかそうとしているように思われる。だが久美子は、「特別になりたい」と言う麗奈の姿、またそれ以外にも、吹奏楽初心者の葉月が初めて音を出せて感激する姿、「チューバ、好きだから」と言う後藤、真剣にオーディションのための練習をする夏紀の姿、川べりで一人上手くいかない箇所を練習する秀一の姿など、周囲の人間のごまかしのない実直な姿に感化されてゆく。あるいは、吹奏楽をやめた葵や久美子の姉などもまた別の形で久美子を触発する。それらの姿は、久美子に同質化的同調を迫るものではなく、むしろ同質化の流れの中から突き抜けて、久美子に自分自身の在り方へと目を向けるように触発するのである。ここでもやはり、麗奈の場合と同様、「集団への同質化によって融解し見失いそうになる自己をいかに取り戻すか」というテーマが見え隠れしている。

 けれども久美子は、「取り戻すべき自己」を自分の内側に発見するわけでは決してない。いわゆる「自分探し」によって自己を見出すのではない。彼女を触発し、自己自身に連れ戻すのも、やはり周囲の他者たちなのである。ここでの他者は、同質化を迫る者ではなく、むしろそれを突き抜けたどこまでも異質な存在として自己を触発し、おのれ自身の存在に向き合わせる。思えば本作では、集団の同質化的傾向から浮き出た「異質な他者からの触発」が端々に暗示されている。長くなるので詳しくは書かないが、例えば久美子が夏紀に言った「みんなで合わせてみませんか?」という言葉は、夏紀を何らかの形で触発しただろう。それは夏紀にとって、異質な他者との出会いであったはずだ。他にも、トランペットのソロパート争いにおいて、香織は麗奈の存在を通して、トランペットやコンクールに懸ける自身の思いに向き合わされる。再オーディションの時の「ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」という香織の言葉は、単なる遠慮や部に波風を立てないための配慮によって発せられた言葉ではなく、香織自身のごまかしのない決意の表明だろう。一方麗奈は、香織のその決意によって、ソロパートという「特別」な役割を託される。この「特別」は、確かに麗奈自身が掴み取ったものであるが、しかし同時に、それは他者によって託されたものでもあるのだ。ここに見られるのは、立場や思いの違う他者たちが、その異質さゆえに相互に触発し合うような関係性である。そしておそらく、こうした他者からの触発の連鎖によってこそ、最終回のあの輝かしい演奏が実現し得たのだと思う。

『響け!ユーフォニアム』の魅力

 さて、以上の考察によって、本作における "合奏" という行為の象徴する意味がより鮮明に見えてきたように思う。合奏という行為は確かに一つの「調和」ではあるが、集団へと同質化することによって実現するものでは決してない。音楽経験者ならば分かると思うが、周囲の出方を探り探り演奏してもまともな音楽にはならない。.そんなことでは自分の演奏すべき音を見失ってしまうだろう。優れた音楽家のアンサンブルにおいて、しばしば各演奏者の厳しい競合の末に素晴らしい音楽が生み出されるということがあるが、そこでは各演奏者は癒合的に同質化しているのではなく、一人一人が音楽を生み出す主体として機能している。勿論、各々が各々の恣意で自分の音を鳴らしているわけではない。周囲の他者の奏でる音に触発され、おのれ自身の演奏が立ち上がり、さらに自身の奏でる音が一つの返答となって他者を触発する。こうした循環によって、音楽というメタ物語は紡ぎ出されてゆくのである。この意味で、本作は作品構造そのものが合奏的だと言えよう。そしてこの合奏こそが、複数の小さな物語たちの分断を乗り越え、それらをつなぎ留める契機となりうるのである。

 上でも述べたように、本作は「スポ根もの」のような特定の個人の物語でもなければ、仲間と共に何かを目指すような物語でもない。そもそも物語の機能そのものが衰弱しつつある現代にあっては、このような単数形の物語は成立し難いだろう。今や熱血スポ根的な「努力」、「根性」などというモチーフはどこかフィクションめいているし、また「全国大会出場」という目標もそれ自体では空虚な観念に過ぎない。実際本作では、この目標は集団の何となくの同調によって決定されてしまうのだ。ここにはもはや輝かしい物語は成立していない。しかしこうした中で、本作は "合奏" というモチーフによって、新たに物語を立ち上げてゆく可能性を提示している。僕はここに新鮮な感動を覚えるのだ。

 また本作には、「自己存在の寄る辺なさ」や「輝きを失った退屈な日常」という、いかにも今の時代を象徴するようなテーマがそれとなく取り入れられている。こうしたテーマは、ゼロ年代アニメにおける「セカイ系」や「日常系(空気系)」と呼ばれる作品群にも通底していると思われるが、本作はこれらの作品群とは一線を画する魅力を放っている。すなわち、こうしたテーマを、安易に周囲と癒合的に一体化することによって解消してしまうのではなく、登場人物各々が異質な他者からの触発を受けて物語を立ち上げてゆく様を描き出そうとしているのだ。そしてこうしたところに、あの輝かしい音楽が鳴り響くのである。



 なお、4月下旬にテレビシリーズを振り返る『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』が公開されるようだ。僕としては、本作は劇場版としてまとめるのが困難な作品だと思うので、正直あまり期待していないが、『ユーフォ』ファンとして一応観に行くつもりだ。願わくば、最終回の演奏シーンをノーカットで観たい。

<筆者 kubo>