対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part6)

※part1~5はこちら

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<第二章 心と有視点性 の続きから>

(2)状況把握について

(ⅲ)状況把握としての感覚

 「感覚」という語の意味を劃定させていくにあたって、ここで「感覚」と「知覚」の関係性について少し検討しておきたい。一般に感覚というものは、しばしば知覚の基礎的契機と考えられていると思われる。感覚は何らかの意味で、世界把握のための基礎的役割を担うものだというわけだ。しかし、一体如何なる意味で "基礎的" なのであろうか?一つの最も思いつき易い考え方は、感覚を要素主義的に捉えるものであろう。つまり、感覚と知覚を部分と全体の関係として捉えるわけである。感覚は知覚の構成要素というわけだ。では単純明快に、個々の刺激に対応した要素的感覚が存在し、それらが複合して、一つの知覚対象が構成されると考えればどうだろうか。これは一見いかにも自然な考え方に思える。しかし少し考えてみれば、実はこの考え方にはかなりの難があることに気づく。もう一度チェッカーシャドウの錯視を思い出していただきたい。(※この錯視図についてはpart3参照のこと。)タイルAとBの色は、それがどのようなコンテクストのもとに置かれるかによって見え方が異なるのであった。だが、もしも知覚が要素的感覚の単なる総和にすぎないのであれば、タイルA、Bの色はどのようなコンテクストのもとに置かれようとも、同色のままでなければならないはずだろう。なぜならここでは、部分的な見え方は全体の文脈に依存せず、それ自体で独立したものとして想定されているからである。ところが実際には、全体のコンテクストが、部分の見え方に影響を与えうることは明らかなのである。

 そこで人は、知覚とは、要素的感覚の単なる総和ではなく、そこに何らかの「判断」や「解釈」を加えたものだと考えたくなるかもしれない。だが実のところ、判断や解釈といった概念を付加したからといって、上で述べた難点が解消されるわけでは決してないのである。そもそも状況のコンテクストから独立した要素的感覚なるものを想定すること自体が誤りなのだ。チェッカーシャドウの錯視において、確かにA、Bの部分を切り取れば、それらはこの錯視図全体が提供するコンテクストから解放され、同色に見えるようになる。しかし、だからといってそれはあらゆる状況のコンテクストからの解放を意味するのではなく、また別の新たなコンテクストのもとでの相貌把握ということになるのを見落としてはならない。例えばA、Bだけを切り取って白い紙の上に置けば、両者は同色に見えるだろうが、それは状況から独立した色の要素的感覚を取り出したわけでは決してなく、それは無地の背景のもとでの見え方であり、やはり一つの状況のコンテクストのもとでの相貌なのである。してみれば、判断や解釈の材料となるべき要素的感覚など存在しないのであって、そうである以上、知覚的相貌は決して要素的感覚に対する判断や解釈の結果として与えられるものではないわけである。そもそも周囲世界の相貌は、判断や解釈を俟たず、謂わば端的に立ち現れるのであって、このことは、チェッカーシャドウの錯視において、いかなる判断や解釈も介さずに、端的にタイルAがBよりも濃く見えるという事実を思い起こせば事足りるだろう。

 かくして、感覚を知覚の構成要素と見るのは適切ではない。では、世界把握において感覚が担う役割とは一体どのようなものなのであろうか?見てきたように、<その都度>的世界把握とは、その都度の状況にもとづけられた世界把握のことであって、そこには周囲世界が立ち現す相貌の把捉とともに、今自分がどのような状況に身を挺しているかということの了解とが含意されている。ところで、「感覚」という語が用いられる場面を省察してみるに、それが登場するのは、周囲世界の事物の相貌について云々する場面よりもむしろ、その状況に身を置く主体の身体の様態が主題化されるような場面ではないだろうか。

 もう少し具体的に、「視覚」について考えてみよう。生理学においては伝統的に、「光」の感覚は視知覚の基礎であると考えられている。しかし、光の感覚とは一体何を意味するのだろう?生理学者はしばしば、光の感覚を視知覚の構成要素として捉えるわけだが、既に見たように、視覚的相貌は端的に立ち現れるのであって、それを構成する光の感覚要素など存在しないのである。勿論、光エネルギーが光受容器を興奮させるということ、また、こうした生理学的機構なくしてはそもそも視覚的経験は不可能であろうことは、否定しがたい事実であろう。しかし個々の光刺激に対応した光の感覚なるものが存在すると考えるのであれば、それは全くの事実誤認であり、理論上要請されたものにすぎないと思われる。そもそも光の感覚などとは言っても、我々は一体光そのものを見ることなどありうるのだろうか?知覚について、生態学的視点から独自の理論を立ち上げた心理学者J.J.ギブソンは、これをきっぱりと否定している。

 

石炭、炎の火、灯心やフィラメントをもつランプ、太陽や月――これらはみな特定の対象であり、これこれのものと特定されるものである。人は単なる光を見るのではない。(ギブソン生態学的視覚論』)

 

 さらに彼は次のように主張する。

 

我々が照明を見る唯一の方法は、ビームが当たる面や、雲、あるいは粒子に光が当たるというように、何かが照明されるということによってであると私は考える。(中略)我々が見ているものは、環境ないしは環境に関する事実であり、光量子や波長や放射エネルギーではないと主張するのは、まさに理にかなっている。(同上)

 

 ギブソンの指摘は、知覚のみならず、感覚という概念を捉え直す上でもきわめて重要なものだと思う。我々は知覚において、端的に周囲世界の事物の様相を目撃しているのであって、それを構成する光の感覚なるものを介して事物を見ているわけでは決してない。ランプを見ているときも、その光はランプという事物の相貌なのであって、光の感覚ではない。とすれば、普通に周囲世界を見ているときには、別に感覚などという概念は主題的には登場してこないわけである。では、光が感覚的なものとして現れてくるのは、一体どのようなときであろうか。例えば太陽のような強烈な光を目に受けたときなどはどうだろうか。このとき、その光は「眩しさ」という一種の感覚的なものとして受け取られうると思われる。ここでの光は、視知覚の構成要素になるどころか、むしろその強烈さによって、周囲世界を普通に見ることを阻害するようなものである。このような場合、「眩しい」という語によって主題化されているのは、太陽という事物の相貌よりも、むしろ自分自身の身体の様態であろう。あるいは、前節で検討した「痛み」の感覚であっても、自分の身体のある種の様態を表現したものである。つまり、感覚することというのは、その都度の状況のもとで、そこに身を置く主体がおのれの身体の様態を把握することだと考えられるわけである。

 尤も、「身体の様態の把握」とは言っても、日常生活におけるたいていの場面では、身体の様態は別に取り立てて主題的に把握されるわけではないだろう。感覚的なものが主題化されるのは比較的特殊な場合なのであって、その一つは、例えば上で見たような「眩しさ」や「痛み」等、過剰な刺激によって周囲世界との自然な交流が阻害されるような場面である。他には、歩きにくい道を歩くときに、転ばないように足運びに気を付けるような場合、あるいは、ピッチャーが新しい変化球を習得するような場合など、身体の振る舞い方に微妙な調整が求められるようなときには、身体の運動感覚や平衡感覚などが主題になり易いと思われる。ではこれらのような場合以外の、身体の様態が特に主題とならないような場面においては、「身体の様態の把握」というのは全く成立していないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。歩行において特にそこが悪路等でなければ、我々は普通、足の運び方をいちいち気にしたりはしない。我々は、歩いているときにはたいていの場合、歩くことそのものに意識を向けるのではなく、目的地やその後の予定等に意識を向けているものだ。しかしだからといって、歩行時に身体の運動感覚や平衡感覚が全く存在しないのかと言われれば、決してそんなことはないだろう。というのも、もしも自分の身体の様態が全く分からなくなれば、歩くことすらままらなず、それどころかいかなる行動を起こすことも不可能になるだろうからである。歩行に伴う身体の運動感覚の存在は、所謂「暗黙の了解」なのであって、したがって「身体の様態の把握」というのは、たとえ明確に主題化されずとも何らかの形で成立しうるのでなければならない。

 かくして、身体の様態の把握は多くの場合、非主題的なものである。さらに言えば、それは世界把握を遂行するためのある種の素地なのであり、それ自体はほとんど主題化されないままに、暗黙に "当てにされている" ところのものなのである。この「世界把握において身体の様態が当てにされている」とはどういうことか、もう少し敷衍しておこう。この構造が最も極端な形で表れるのは触覚的な知覚である。物の手触りなどの触覚的相貌の把握は、同時相即的に身体の様態の把握をも含意していることに留意してほしい。すべすべ、さらさら、ざらざら、ふわふわ、ごつごつ等といった物の触覚的相貌の表現は、同時にその物に触れたときの自分の身体の様態の表現にもなっている。ここでは、自分の身体の様態についての言明が、そのまま事物の相貌の言明となりうるわけである。つまり触知覚の大きな特徴は、事物の相貌を知ることと身体の様態を知ることの間に、いかなる区別も設けることができないという点にあると言えるだろう。したがって、触知覚においては「身体の様態が当てにされている」どころか、世界把握が身体の様態の把握そのものなのだ。では触知覚以外の、例えば視知覚の場合はどうだろうか。視知覚の場合はその本質上、触知覚とは対照的に、身体から距離を置いた事物の相貌把握であるため、一見すると、身体の様態の把握とは一切無縁のものに思えるかもしれない。しかし少し省察してみると、視覚的相貌にも、実はある種の触覚的なものについての了解(すなわち身体の様態の了解)が不可分に浸透していることが分かる。その最たるものは、物の「質感」である。我々は、物の様々な質感を "見る" ことができる。我々は、色に温かみや冷たさを "見る" し、シルクの布の光沢に独特のすべやかさを "見る"。あるいは、優れた画家の巧みな色遣いに、描かれた対象物の生々しい手触りを "見る"。つまり、我々は「触覚的なものを "見る"」ことによって、物の質感を把握しているのだ。尤も、こうした物の様々な質感は、芸術的な文脈等で主題化されたりしない限り、普段の生活においては、さしあたっては明確に主題化されることのないまま了解されていると思われる。我々は、何か特別な事情がない限り、シルクのシルクらしい質感とはどのようなものかを主題的に問うようなことはしないし、問われたところでどう答えるべきかかなり悩ましい。しかしだからといってシルクの質感が全く分からないのかと言われれば、勿論そんなことはないだろう。つまり、質感的なものの把握は、基本的には非主題的なものなのであり、そこには暗黙に触覚的なもの、すなわち身体の様態が "当てにされている" わけである。

 しかし、ここで次のような疑問を持つ方もいるかもしれない。「触覚的なものを "見る" というのは単なる比喩にすぎないのではないか。実際に見ているのは純粋な視覚的相貌だけであって、我々はそこに別個に、過去に経験した触覚的相貌の記憶を加味することで、その対象物の触覚的質感を判断していると言うべきなのではないか」、と。だが僕としては、「触覚的なものを "見る" 」というのを単に比喩的に述べているつもりは毛頭ない。これを比喩だと考えたくなるのは、視知覚は触覚的なものとは関係のない光刺激によって構成される、という偏見から抜け出せていないからであろう。なるほど、視覚と触覚の生理学的機構は完全に区別できるかもしれない。しかしだからといって、視知覚と触知覚が相互に一切の影響を与えない完全に独立なものだということには当然ならない。知覚経験をよく振り返っていただきたい。「シルクの独特の質感を見る」というとき、すべやかさ等の触覚的なものから完全に独立した純粋な視覚的相貌をまず把握し、しかる後に、シルクの触覚的性質を判断しているのだろうか?まず、すべやかさを欠いた視覚経験のみがあって、しかる後にその視覚経験をもとにしてすべやかだという判断を下しているのだろうか?いや、そうではないだろう。こんな不自然な段階を踏むことなく、シルクは端的にすべやかな相貌をもって立ち現われるのである。ここで一種の思考実験として、触覚的経験のみを完全に欠いた人間というのを想定してみよう。その者にとってのシルクの視覚的相貌と、普通に触覚的経験を持つ我々にとってのシルクの視覚的相貌は果たして同じものであろうか?僕としては、両者の視知覚は全く異なるものになると主張したい。視知覚とは、単なる光刺激の寄せ集めではなく、つまり独立自存する要素的感覚の総和などではなく、その都度身を置いている状況にもとづけられたものである。そして状況というのもまた、独立自存するものではなく、その都度の主体と世界との関係性を意味している。とすれば、触覚的経験の欠如は主体と世界との関係を大きく変容させうるため、それは視知覚における状況をも変容させるのであって、それゆえその状況にもとづけられた視知覚自体も何らかの変容を被らざるをえないはずであろう。してみれば触覚的経験は、その都度の視覚的体験へと浸透し、その視覚的相貌自体を変容させてしまうことが可能なのである。

 まとめると、「感覚する」とは身体の様態の把握のことであって、それは触知覚の場面を除けば、何か特別なことがない限りは非主題的であり、世界把握において暗黙に当てにされているところである。ところで、この把握様式について改めて念押ししておきたいことがある。それは、「身体の様態の把握」とは、単なる客体的事物としての身体の物理的状態の観察的把握とは全く異なるということである。(他者の場合は後に検討するとして)少なくとも自分自身の痛みの感覚を把握するのに、例えばC繊維の興奮などといった身体の物理的状態を知る必要は全くない。勿論、感覚なるものを学問的に扱う上で、そこに明確な定義を措定することはありうるにしても、少なくともこうした学問的な統一的な世界把握とは異なる別の把握様式が存在するのだ。ところで、この別の把握様式は、僕が正に<その都度>的世界把握と呼んでいるところであるわけだが、一般にはしばしば、客観的な把握に対する "主観的" な把握だと言われる。僕としては、この "主観的" という表現に真っ向から反対するつもりはないが、但しそこにいつも付き纏ってくる或る不適切なニュアンスについては、かなりの警戒を要すると思う。その不適切なニュアンスとはすなわち、「その当人にしかアクセスできない、その人の意識内部に閉ざされ完結したもの」というものである。チャーマーズが意識体験の質としてクオリアを持ち出したときにも、明らかにこうしたニュアンスが付き纏っている。確かに、「感覚」という把握様式を、客体的事物の連関仕方の把握と同一視するわけにはいかない。しかし、感覚することを、外界から隔絶された "心の中" の出来事と見做すわけにもいかないのだ。なぜなら、"心の中" とは一種の比喩であって、「心」という客体的事物が文字通りに実在するわけではないからである。ところが、この比喩的用法はしばしば踏み破られうる。人は、正当にも「主観」「客観」という語でもって、心という現象の存在性格が、客体的事物の実在的な存在性格と異なることを見抜きつつも、一方で暗々裡に、心も「その当人の "内面" に存在するもの」というような、一種の客体的事物と見立ててしまうという誤りを犯しがちなのである。そもそも世界把握、特に<その都度>的世界把握とは、独立自存する認識主観(心)が、何らかの仕方で外界の事物にアクセスすることなどではない。なぜなら、<その都度>的世界把握とは、世界を超脱した無傷の意識主観によって世界を認識することではなく、傷つきやすい身体でもって世界に巻き込まれながら世界の有様を知ることだからである。我々はつねにすでに、生活主体として周囲世界に巻き込まれているのであって、その意味では、<その都度>的世界把握とは原初的には、生活主体として周囲世界との適切なかかわり方を学ぶというところにあるのである。とすれば、<その都度>的世界把握には、外界の事物の相貌の把握だけでなく、その状況のもとでのおのれの身体の様態の把握ということも含まれているのでなければならない。そして、感覚こそがその素地を与えるのだ。感覚は、自分が何らかの状況に身を挺しているという事実をおのれ自身に告げ知らせるのである。

 以上の考察を踏まえ、僕は感覚なるものを、<その都度>的世界把握の本質的契機たる「状況把握」の一契機として位置付けたいと考える。尤も「状況把握」と言うと、普通は「身体の様態の把握」というよりは、「周囲世界の事物の様相の把握」という意味合いの方が強いように思われる。確かに状況把握において主題となるのは、多くの場合後者の方であろうが、しかしここでの「周囲世界の事物の様相の把握」というのは、客体的事物の在り方の把握といった無視点的なものではなく、私にとって立ち現われる世界の相貌の把握である。ゆえに、それは生活主体たる私が周囲世界とどのような関係を取り結んでいるかということの了解を含意していなければならないのであり、したがってそこには、その都度の状況のもとでのおのれの身体の様態の把握が(たとえ非主題的にでも)成立しているのでなければならないわけである。また一方で、「身体の様態の把握」というのも、単なる客体的事物としての身体状態の把握では決してなく、その身体が生活主体として周囲世界とどのような交流を持っているかということを含意していなくてはならないのであり、それゆえ、ここで言う「身体の様態」とは、物質的身体に完結した即自的性質のようなものではなく、世界へと身を挺するその在り方、つまり、姿勢、態度、身構え等、身体の "態勢" をも含意しうるのでなければならない。してみれば、状況把握とは、「周囲世界の様相」と「おのれの身体の様態」とを、統合された不可分の一つの世界経験として語り出すところに成立しうるのであって、それを実現しうる語りの様式は、客体的事物連関の記述ではなく、「周囲世界の "相貌"」や「おのれの身体の "態勢"」についての語りなのである。これについては、言語について考察する次章において、より詳しく検討することになるであろう。

 

(ⅳ) 状況把握としての他者理解

 さて最後に、改めて他者理解の問題について触れておこう。まず、(ⅱ)で問題にした「他者の痛み」という語をどう意味づけるかという問題について改めて回答しておこう。前に挙げておいた問題は次のようなものであった。痛みという語の意味を痛みの内的クオリアのことだと考えると、他者の痛みということの意味が分からなくなる。一方、痛みを機能主義的に、痛みの物理的機能として捉えると、確かに他者の痛みは定義しうるが、今度は「私には私の痛みしか感じられない」という経験的事実の意味が分からなくなるため、やはり不適切である。しかし、この一見したところのアポリアも、痛みを状況把握の契機として捉えることで容易く解消するのである。つまり痛みを感じるということを、生活主体として周囲世界と交流する或る種の仕方として、端的に言えば、世界経験の一つの様態として捉えればよいのである。そして、痛みの感覚なるものは、身体の物理的機能や状態でも、内的クオリアでもなく、ある種の世界経験において、その世界に身を挺する身体の様態が主題化されたものとして理解するわけである。このように理解すれば、「私には私の痛みしか感じられない」という経験的事実を掬い取ると同時に、「他者の痛み」なるものを正当に意味づけることができるのである。まず重要なのは、私が痛みを感じるためには、他でもない私のこの身体が周囲世界との関係において、痛みを感じるという状況を実現せねばならないということである。私が痛みを感じることとは、私の身体の物理的機能を観察することではなく、生活主体として周囲世界に巻き込まれながら、おのれの身体の様態を把握することなのであって、つまり私は私の身体を生きるしかない以上、「私には私の痛みしか感じられない」というわけである。しかしだからといって、「他者の痛み」という表現が無意味になるわけでは決してない。というのも、他者が痛みを感じることというのは、他者が私には接近不可能なクオリアを所有することではなく、他者の身体が周囲世界との関係において、痛みを感じるという状況を実現することだからである。この点については私の場合と全く同様であり、私と他者との間に何の非対称性もないのである。

 但し、「私自身の身体の様態の把握」と、「私が他者の身体の様態を把握すること」との間には、或る非対称性が存在するということについては留意しておかねばならない。その非対称性とはすなわち、痛みを感じるという状況の当事者であるか否かという点である。その状況の当事者が私であれば痛みを感じるが、当事者が他者である場合は私は痛みを感じない。というのも「痛みを感じる」という表現は、その状況の当事者に対してのみ用いられる表現だからである。したがって、「私自身の身体の様態の把握」とは、実際に私が「痛みを感じる」という仕方での把握のことなのである。ではもう一方の、「私が他者の身体の様態を把握する」という場合はどうだろうか。具体的に言えば、痛みを感じるという状況の当事者が他者である場合、私は他者が痛みを感じているということをどのようにして把握するのだろうか?この場合は、私はその状況の当事者でないため、私が実際に「痛みを感じる」という仕方で把握することはできない。ではどのようにして把握すればよいのか。すぐに思いつくのは、その当人から「痛い」という言語報告を聞くこと、あるいは、その当人の身体的振る舞いを見たり、場合によっては脳状態を観察したりすることによってである、という答えである。これらの答えは決して間違いではないが、しかし全く表面的なものにすぎないと思われる。例えば人工知能でも、「痛い」という言語情報をインプットしたり、痛みを感じているときに特有の脳状態や身体動作などをある程度は弁別的に抽出したりすることができるだろう。人工知能はその当人が痛みを感じているときに発現しうる、あるいは発現する傾向性が高い物理的状態を劃定することは可能なのである。だがしかし、人工知能は「痛みを感じる」とはそもそもどういうことかを果たして理解していると言えるのだろうか?あるいは、「痛み」という語の "意味" が本当に解っているのだろうか?まず少なくとも言えるのは、人工知能は身体を持たず、生活主体ではないため、自分自身が痛みを感じる状況に巻き込まれることは決してないということである。つまり、人工知能には感覚することを含め、そもそも「状況把握」ということがおよそ不可能なのである。してみれば人工知能は、その当人の言語報告や身体的振る舞い等を、「痛みを感じる」という一つの世界経験の様態として理解することができないのであって、それというのも、人工知能は言語報告や身体的振る舞い等を単なる客体的事物として無視点的にしか把握することができないからである。私が他者の身体の様態を把握するためには、その当人の言語報告や身体的振る舞い、あるいは脳状態ですらも単なる客体的事物として把握するのではなく、それらをその当人が周囲世界とのかかわりにおいてそこで実現している状況として描き出さねばならないのであって、そのためには当事者の視点からの世界経験の有様をそこに描き込む必要があるわけである。

 思うに、以上で述べたことは、つまるところ「他者理解」の可能性の条件であろう。尤も、(ⅰ)において他者理解の問題を扱ったときには、他者の身体の様態についてはあまり触れず、専ら「他者にとって立ち現われている世界の相貌を私が如何に把握するか」ということを主題にしたが、そのときに出した結論は、「他者が身を置く状況のコンテクストを私自身が何らかの仕方でなぞることによって、他者がそこで実現している一つの世界の把握様式を私自身も獲得する」ということであった。けれども結局のところ、この結論の意味するところは、「他者理解とは他者の世界経験をその当人の視点から了解することである」ということなのであって、したがってそこには、たとえ非主題的にではあっても、他者の身体の様態の把握が成立しているのでなければならない。実際、「他者の状況のコンテクストを私自身がなぞる」というところには、その状況における他者の身体の様態の把握ということが含意されている。というのも、他者の状況のコンテクストをなぞるための最も直接的な方法は、私の身体が実際に他者と同じような状況のコンテクストに巻き込まれることだからである。他者の虫歯の痛みを知るためには、私自身も虫歯になればよいのである。

 とは言っても、私は他者と完全に同じ状況を生きることなど原理的に不可能だし、それどころか他者と同じような状況のコンテクストに実際に身を置いてみることすら不可能な場合が多いのではないだろうか。例えば戦時中の生活経験の有様を了解しようとしても、私自身が実際に戦時中の生活に身を置くことは普通はできない。では、他者の状況に実際に身を置くことができない場合、私は他者の世界経験の内実を了解することが全く不可能なのであろうか?常識的に見て、全く了解不可能とまでは言えないだろう。たとえ自分で経験したことがないことであっても、その当人にその時の経験を語ってもらうことによって、その有様をある程度までは想像することができるのではないか。尤も、実際に経験した者だけにしか分からない、つまり想像の及ばないことというのは確かに存在するだろう。これは当事者か否かの非対称性によるものであり、完全に同じ状況の当事者にはなれない以上、他者理解は決して完全なものになることはない。けれども、ここで次のような疑問を呈しておきたい。では、自己理解、すなわち、自分自身の世界経験の有様の把握は、いつでも完全なものなのであろうか?他者理解について省察するとき、我々はついつい、自分の経験だけは自分自身に対して完全に透明なものだと想定しがちである。しかしそれは本当であろうか?思えば、自分がどんな経験をしたかを後になって反省的に振り返ってみることで、そこで初めてその経験について新たなことに気づくということがあるのではないだろうか。後から自分の失敗を振り返ってみて、「あの時は焦っていて冷静な判断ができていなかった」などと語るとき、その当時は自覚していなかったことに今初めて気づいたのではないか。とすれば、何らかの状況の当事者であったとしても、その当事者が自分自身の世界経験の様相を完全に把握し切っているとは限らないわけである。これは一体何を意味するだろうか?それはすなわち、或る一つの出来事を経験したとしても、その経験の様相はその都度の語り(例えば「あの時は焦っていて冷静な判断ができていなかった」などという反省的な語り)によって様々に変容しうるのであって、したがってその都度の世界経験は、それ自体で完結したものではなく、況してやそれは、実際に経験した当事者の内面に閉ざされたものなどでは決してない、ということを意味するのである。

 他者理解の問題、ひいては、心と呼ばれる現象の本質的契機たる<その当人にとっての>という構造を十分に射程に収めるためにも、我々は今や、有視点的な世界経験の有様を「語る」場面へと目を向けねばならない。尤も、<その都度>的世界把握には「状況把握」が含まれており、そして「状況把握」とは、その都度の自分と世界との交流を一つの世界経験の様態として語り出すところに成立しうるものであるから、<その都度>的世界把握にはそもそもある種の「語り」が含意されているのである。既に述べたように、或る一つの世界経験を語るためには、ちょうど人工知能がやるような単なる即自的な客体的事物とその連関仕方の記述ではなく、その都度のその当人が身を置いている状況のコンテクストを描出せねばならないわけだが、しかしここで重要なのは、「状況のコンテクスト」というのもまた、それ自体で完結したものではなく、その都度の状況把握的な語りの中で切り出されてくるものなのである。そして、過去に経験した一つの出来事は、それがその都度どのようなコンテクストのもとで語られるかによって様々な様相を呈しうるのである。例えば「彼との出会いがなければ、このような人生にはなっていなかっただろう」と語るとき、「彼との出会い」は単なる客体的事物として無視点的に把握されているわけではなく、今の自分自身の状況との関係の中で意味づけられている。一つの経験は、それ自体で完結したものではなく、その都度の語りの中で、その都度意味づけられてゆくものなのであって、この語る行為においてこそ、世界経験はその当事者の過去の一点に取り残されたものであることをやめ、他者や、あるいは今現在の自分自身に対して、その有様を開示しうるのである。

 

part7→現在執筆中

<筆者 kubo>