対話空間_失われた他者を求めて

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なぜ旅行したいか

 

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<モロッコのカスバ街道にて>

 

 

 

先月の4週間日本を離れスペイン、ポルトガル、モロッコを旅してきた。これを書いているのは帰国して一週間ほど経った頃だが日本の落ち着いた生活をしみじみと有り難く感じている。

 

行った所を時系列順に述べると、スペインはマドリード、トレド、ポルトガルに移りリスボン、シントラ地区、再びスペインに戻りバルセロナバルセロナからアフリカ北西部のモロッコに飛び古都フェズ、サハラ砂漠の玄関口メルズーガ、観光都市マラケシュ、モロッコ最大の経済都市カサブランカである。

スペイン、ポルトガルのヨーロッパに2週間、アフリカ大陸のモロッコに2週間滞在したことになる。



帰ってきた今、良くも悪くも印象に残っているのは何と言ってもモロッコである。

誰が言い出したのか知らないが「世界3大うざい国」という言葉があり、モロッコはインド、エジプトと共にその中に数えられている。確かにモロッコは「うざい」国であった。とくに観光地化された旧市街では声をかけられないで百歩も歩けないといった状況で、ヨーロッパのような落ち着いた観光など到底不可能であった。しつこく馴れ馴れしい客引き、勝手に案内をはじめていらないというのにべらべらと喋ってついてくる自称公認ガイド(後でガイド料を要求するのだ)、これといった打算がなくともただ異邦人である日本人に話しかけたい人々等がこころの静寂を許してくれない。

しかしモロッコ人は、特に観光地では金に汚く、また「うざい」と形容されても仕方のない人々だと思うが、全体的に言えば元来は親切なのだと思う。彼らは他者に対するよそよそしさとは無縁で、ありがた迷惑なぐらいおせっかいを焼いてくる。道に迷い地図を広げて立っていると大抵の場合すぐに誰かが助けようとしてくれる。

日本人は他国民に比べ特にこういった馴れ馴れしさには抵抗を強く感じるかもしれない。たとえば欧米ではモロッコほどではないにしろ見知らぬ他者と会話を楽しむという習慣がある。日本にはそんな習慣は存在しない。日本では例えば偶然バスで隣に座った見ず知らずの他人と日常会話をはじめるというようなことは全くないわけではないものの一般的には見られない光景である。日本の社会では二人称と三人称は明確に区別されているが、モロッコは二人称的な社会であり「彼」もまた「あなた」なのだ。だから僕ら日本人は特にこういった不慣れななれなれしさを悪く言えば「うざく」不快に感じていると思う。



さて、わたしは豊富な旅行の経験があるわけでもないが、やはり人並みに旅行は好きである。

一体どうして人々は旅行を求めるのであろうか? 一般的に旅行する動機として考えられているのは以下の様なことだろう。すなわち、知らない土地をめぐり見聞を広げるとか、未知なる文化や環境を体験すること、つまりおのれのすみかから離れた場所で或る刺激を求めるという動機である。たとえばカナダでオーロラを見たいとか、スペインでサッカーを観たいとか、パリの洒落た街並みを見物したいなどというのが旅行の動機として一般的に語られることである。

わたしは別にそのことを否定するつもりはない。けれどもそれは動機のうち半分しか語られていないように思われる。

というのは、旅行は確かに非日常の刺激を与えてくれるという一面はあるのだが、それだけでなく弛緩した日常生活に再び緊張を与え、充実した生活を取り戻させるという功徳がもう一面存在するからである。非日常の刺激を求めることによって、本来の活き活きとした生活をわたしたちは立て直すことができるのだ。カナダの圧倒的な大自然を体験することが、ややもすれば弛緩したリズム、単調なルーチンに陥りやすい日常生活に再び緊張した充実感を与えることになるのである。

 

日常と距離を置き非日常を経験することによって、そこにどっぷりと浸かっていてそのあまりの近さゆえに意識されなかった日常をわたしたちは見つめることになる。今回の私の旅行を例にとれば、わたしはモロッコの人びとの馴れ馴れしさを経験して、一体どれだけ強く日本人であるわたしとの相違を感じただろうか。ハエの飛び交うモロッコの食事風景、あるいは下水処理に欠陥があるのだろうかそれとも家畜のものだろうか分からないが糞尿の臭いが漂う街々、こういったものがどれだけ明瞭に日本の清潔文化をわたしに悟らせてくれただろうか。

あまりに当たり前すぎて見えない日常を、非日常は教えてくれる。そして距離を置いて日常を眺めることによって、わたしたちは日常を再び意識的に生きることができる。

わたしたち人間の生は両義的であって、それは木や石ころのように完全に世界に沈澱しているわけではなく、また自分自身を含めたあらゆるものを対象として意識的に操っているわけでもない。人間の存在様式は意識と無意識、世界であることと世界から引き離されてあることの両義性として成立している。この両義性を巧みにコントロールしてわたしたちは生を成立させている。

旅行は単調で弛緩したルーチンになりつつあった偏った日常、すなわち世界に埋没しつつあった日常を、距離を置いて眺めることによって本来の両義的な人間存在のバランスを回復させ、新鮮な緊張感のある充実した日常を取り戻す営みのひとつなのである。




<筆者murata>