対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

人間力という言葉に抱く嫌悪感について

人間力という言葉が嫌いだ。

何故ならこの言葉は独善的である。人間とはかくあらねばならぬという無神経な押し付けである。悪いことに、この言葉の使用者たちはそれと意識することなしにこの暴力的な押し付けを行なっている。無自覚な分タチが悪いといえる。

 

人間力という言葉の意味

 人間力という言葉は今きわめて多義的に使われている。

それ以前にも言葉としては存在していたようであるが、この言葉が一般的に普及しはじめたのは2000年頃だろう。2003年に発表された内閣府人間力戦略研究会の発表(ここで行政は人間力という言葉をはじめて使用した)にははじめに人間力という言葉をこう説明している。

 

 

文部科学省は、近年の教育改革の中で、自ら学び、自ら考える力などの「生きる力」という理念を提唱してきた。「人間力」とは、この理念をさらに発展させ、具体化したものとしてとらえることができる。すなわち、現実の社会に生き、社会をつくる人間をモデルとし、その資質・能力を「人間力」として考える。

 

 

 更には本論で人間力を以下のように定義している。

 

人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、本報告では、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」と定義したい。

 

 

 この定義に従うならば、例えばニートやひきこもりなどは人間力のない人物ということになるだろうか。


けれども、人間力という言葉がこのような意味で使用されることはむしろ稀であろう。通常この言葉がどんなふうに使われているかといえば、社会を力強く生きていく力というよりも、「魅力あふれる人」とか、「精神力の強い人」とか、「精神性の深い人」というのが人間力のある人というふうに呼ばれているようである。

 

サッカーアテネオリンピック代表監督、山本昌邦

「オリンピックでは人間力が試される」

 

読売ジャイアンツ監督、原辰徳

阿部はこの人間力という部分において、非常に強いものを持っているのです。ちょっとやそっとのことでは動じない、精神的な強さ、プレッシャーをプラスに変える強さがある」

 

人間力という言葉が成り立つほど人間は単純な存在ではない

いずれの意味で使われるにしろ、わたしはこの言葉は使われるべきではないと思う。

 

第一に行政機関が人間力という言葉を使うべきでない理由についてである。

行政が若者の現実社会を力強く生きていく力を涵養するという大きな方針を打ち立てることについては別段異論はない。けれども、行政が人間力という言葉を使うとき、彼らの定義する人間力の強い者こそ人間として肯定されるべきであり、逆にそうではない、社会を強く生きていけない者は人間としての価値が低いということが暗に主張されている。果たして人間の価値はそんな単純なものだろうか。

また、数年前に人間力を測る試験などというものが文部科学大臣によって提言されたが、そんなものは押し付けを通り越して社会的な暴力だと思う。

 

第二に公共性の高くない日常的な場面でもやはり人間力という言葉を使うべきではないと考える理由についてである。

魅力あふれる人物、精神力の強い人物、精神性の深い人物などが社会で歓迎されるのは当然である。けれども、そういった人物を人間力のある人というふうに言ってしまうと、そういった曖昧な気質こそが人間としての唯一の価値基準であるということを言外に表明していることになる。しかしそんな唯一の尺度というものが存在するであろうか。

 

いずれにせよ、人間力という言葉を使用する者に抜け落ちている視点は、人間の多面性である。人間は人間力などといって一面的に測ることができるほど単純な存在ではない。「力」という言葉を使うと、その前につく言葉は一元化されてしまう。けれども人間は本来一元的に語ることができない。人間のくみ尽くすことのできない無限の曖昧さを「力」という言葉を使うことによって、あたかも唯一の尺度があるかのように捉えたところに無理があった。また、その尺度を自分勝手に解釈して他人に押し付ける態度は独善的であると言わざるをえない。

 

 死語になることを願う

ネットで検索したところ、わたしと同様にこの言葉に不快感を表明している者が少数ながら存在していた。この言葉にぼんやりとした違和感を抱いている者は存外少なくないのではあるまいか。人間力という言葉が独善的な押し付けであることが広く洞見され、死語として世から葬り去られることを願う。




<筆者 murata>