対話空間_失われた他者を求めて

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同情と共感

 このブログ上では最近、「人工知能」についてのコメントが行き交っており、私も興味深くそれを読んでいるが、ここではもっと身近な人間的事象である同情と共感について私の思っていることを述べたい。

 手元にある国語辞典で調べてみると、同情とは「①他人の境遇を理解してその人と同じような気持ちを自分の心に感じること。②他人の不幸を思いやっていたわること。おもいやり。」となっており、共感とは「他人の意見・論説や行動などを、その通りだと感じること」となっている。この辞典では共感の説明が不十分すぎる。これでは「共感」ではなく「同感」の説明でしかない。

 次に臨床心理学者の山口創氏の著書『子供の脳は肌にある』に書かれている共感と同情についての説明の一部を、途中を省略しながら引用したい。

 

「共感」というのは、「置かれた状況から生じる相手の情動にともなって、こちらの側にも起きる代理的な情動」と定義されている。……だから、たとえば相手が悲しくて泣いていたとすれば、こちらにも同じような悲しさを感じるのである。これに対して「同情」は、「相手の情動についてのこちらの情動的反応である」と定義されている。……相手が悲しくて泣いているのを見たときに「彼女は悲しいんだな」と相手の気持ちを理解するのが同情である。共感を広く定義した場合には、「同情」は「認知的共感」というのに近い。……人は人の姿を見ると自分の身体軸を無意識に相手と重ねようとし、身体の交感を行っているのだ。……思いやりの基礎となる共感とは、このように相手の身体に自分の身体を重ね合わせることで起こる交感を前提に生まれるものであることがわかる。

 

 さすがに臨床心理学者らしく共感の説明は詳しく、参考になるが、同情についてははっきりせず、共感と同情の違いもはっきりしない。一般に共感という言葉には、ほとんどの人が肯定的な感じを持つ。けれども一方で、同情という言葉では、それを肯定的に感じている人も多いと思うが、どちらかと言えば、「何か胡散臭い感じ」「上から目線とか偽善的なもの」といった否定的な感じを持つ人が多いのではないか。これは一体なぜなのだろう。こうした疑問を持って手元にある本を調べてみたが、このような観点で同情と共感を問題にしている本が意外と少ないように思った。そこで、インターネットで調べてみたところ、同情と共感の違いを述べているウェブサイトが複数見つかった。その多くは、心理学やカウンセリングに関するサイトであり、特にロジャースのカウンセリング理論に引き付けて両者の違いを説明しているサイトが散見された。

 今から20年程前までは、日本で最も主流のカウンセリングと言えばロジャースの来談者中心療法であった。そのカウンセリング理論は、日本の教育界にも影響を与え、「カウンセリングマインド」という表現で、教育委員会の生徒指導の手引きにも使われている。そのロジャースのカウンセリング理論の中心を成す概念に「共感的理解」という用語がある。カウンセリング理論を勉強した者は、「共感的理解」とはどういうことか、ロールプレイも含めてカウンセリングの基本として教えられたと思う。そして、この「共感的理解」との関連で「同情」についても取り上げられることが多い。こうした文脈で同情と共感の違いを扱っているウェブサイトの種々の説明を一括りにして要点だけ述べると、共感とは、「相手の気持ちに寄り添い、相手の視点で相手の心の動きを感じ理解すること」、同情とは、「私が自分の経験してきたものを基準にして、私の側の視点で相手を理解しようとすること」、と言えるだろう。しかし、同情の説明に関しては、これでは同情というよりも「類推」、「推測」といったものに近い。同情には、もっと情動的な心の動きがあるだろう。こうした従来の同情と共感の説明に疑問を投げかけている記事も掲載されてはいるが、私には今一つピンと来ず、同情の持っている「何か胡散臭い感じ」がはっきりつかめない。

 ところで、ニーチェは同情について最も批判的な哲学者であろう。著書『曙光』の中で、ショーペンハウアーが同情について、それを道徳的な行為の源泉である、と称讃したことを批判しながら、同情が有害であり危険であることを述べている。ニーチェの「同情が有害である」という考え方は複雑で錯綜しているため、ここではニーチェの同情論は取り上げないことにする。ただし、これから述べることとの関連で、一ヶ所だけ『曙光』の中の同情に関連するところを引用する。

 

―他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること―これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること―同情の哲学の要求であるが―これはわれわれを破滅に導くであろう、……。

 

同情の起こるしくみ

 上の引用文中の「他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め受け取ること」、この同情の定義は上記の「類推」とは違って情動的な心の動きが反映されている。しかしこの定義にも私は疑問を持つ。これでは、同情に伴う、相手を慰めたり相手に施しを与えたりするといった、相手を目指す心の動きが十分に捉え切れないのではないだろうか。

 例えば私の友人が、何らかのつらくて悲しい体験をし、私の前でそのことを泣きながら話しているとする。私も昔それとよく似たつらい悲しい体験をしていたとする。そうした時、私は友人の話を聞きながら、その時の自分の体験を思い出し、その時の情景を思い浮かべ、つらい悲しい気持ちが込み上げてくるのを感じたとする。するとそれを私の心から友人の心へと移し入れて重ね合わせようとする心の動きが生じるだろう。それが精神分析でいう「投影」に他ならない。そこで生じていることは「他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め受け取ること」ではなく、むしろ「自分の体験を、あたかも目の前で話をしているその人の体験であるかのように眺め受け取っている」のではないか。このように考えれば、同情の持つ「相手を目指した情動的な心の動きのしくみ」が説明できるだろう。

 けれども、同じような状況で同じようなつらい悲しい気持ちであっても、そこでの他人の体験と自分の体験とは、あくまで別のものであり、状況も違えば、気持ちも違っている。「そう、君の気持ちはよく分かるよ。自分も同じような体験をした」と言っても、相手を理解したのではなく、投影され鏡に映っている自分を見て、理解したつもりになっているに過ぎない。ただし実際には、対人関係の中での心の動きはもっと錯綜したものであり、そこには後から述べる共感的要素も大なり小なり含まれているだろう。しかし、同情の本質は今述べた所にあるのではないか。その意味で同情はナルシスティックなものであり、同情する者から同情される者という一方向的な、自己閉塞的で相互関係に乏しいものだと言えるだろう。同情という言葉から受け取られる否定的なニュアンスは、ここから来ている面が大きいように思う。

 同情の起こるしくみを、ここで述べている「投影」という視点で説明している同情論は、ほとんど見当たらない。この「投影」という視点の欠落が同情の説明をかえって分り難くさせているように思う。ひとこと補足しておくと、「自分のつらくて悲しい体験」が未だ十分に消化・吸収されず、こだわりとして残っている人の場合、自分の積み残した課題を気が済むまで反復するように、とことん相手に尽くすという行動が生じやすいようだ。当の相手は最初はありがたがっていても、かえって負担に感じてしまう。こうしたことは、親子や友達、男女関係などにおいてしばしば見られるのではないだろうか。

共感の起こるしくみ

 「共感」をひとことで言うならば「相手の身になって感じること」である。新生児の前で大人が舌を出したり口をとがらせたりすると、高い確率で新生児も又、舌を出したり口をとがらせたりするという。これは、脳の中にすでにそのような模倣行動をする回路が出来上がっていると考えられる。現代の大脳生理学では、脳のそのような神経回路をミラーニューロンと呼んでいる。先に引用した山口氏の『子供の脳は肌にある』によると、「ボクシングの試合を観戦したときの被験者の体の筋肉の動きを測定する実験で、被験者はじっと試合を見ているだけのように見えても、実は対戦する選手がパンチを出す腕の動きに合わせるように、腕の同じ部位の筋肉を動かしていることがわかった」という。

 カウンセリングの技法に「ミラーリング」や「ペーシング」というのがあり、ミラーリングというのは、「カウンセラーがクライエントの姿勢やしぐさを意図的にまねること」である。そうしていると、カウンセラーがクライエントのことをより理解してくれているように感じ、ラポールが深まっていくとされる。ペーシングも同じ効果を狙ったもので「声や呼吸、話し方のリズムなどをクライエントに合わせる技法」である。これらの技法はクライエントの側のラポールを高めるだけでなく、カウンセラーの側の共感的理解を促進するのにも役立つ。

 ニーチェも又『曙光』の中で「共感」の基礎を「他人の眼や声や態度の表現を身体において模像することにより、われわれの内面に類似した感情が発生すること」に置いている。共感の生じる基礎的土台は「自分と他者との相互作用において身体における模倣を通して共鳴・共振現象が生じること」にあると思う。ロジャースのカウンセリング理論における共感の考え方は、認識論的な視点が強いため、この基礎的土台への言及が少なく、その点少し物足りなさを感じる。ただしこれはあくまでも共感の基礎的な土台であり、言語的相互作用を通して他者を共感的に理解する所までは行かない。例えば相手が悲しそうにしていることは相手の表情やしぐさからすぐに共感できても、何について悲しんでいるのか、それがどうして悲しいのか、どんな風に悲しいのかまでは分からない。我々にできることは、相手の身になって相手の状況を共有し、できるだけ相手の視点に立って(立ったつもりになって)、相手の気持ちを想像することでしかない。従ってそこには絶えず同情がまぎれ込んだり、理解のしそこないが生じたりする。しかし、相手の視点に立って理解したと思っていることを相互に交換し、様々な視点を交換し合うことで、他者理解が深まり、それを通して自己理解も深まっていく。更に自己理解の深まりを通して他者理解も一層深まることになる。そしてその場合にも相手の語調・リズム・表情・しぐさなどへの相互の共感がベースになって進められることになる。「お互いが自分の身体軸を脱中心化し相手の側に移し、相手の話を聞き相手の中で生じていることを理解しようとすること」が共感であり、それによって自分の外にある他者の視点が自分に取り入れられ、自己理解が深まると共に、今までの自分にない新たな意味体系が構築され、他者理解も深まっていく。単に黙ってひたすら相手の話を傾聴することが共感なのではなく、このように視点を交換し合う相互交流の中から共感が生まれるのだと思う。

 カウンセリングの場で共感的理解によってクライエントが成長していくのは、クライエントも又カウンセラーという外部の視点を取り入れ、新たな意味体系がクライエントの中に構築されていくからだと思う。カウンセリングを学んでいる人のために少し補足すると、日本のロジャリアンの多くはひたすら「受容・共感・傾聴」ばかりに注目しているが、ロジャースは後に「対決」ということを提唱している。クライエントがカウンセラーという外部の視点を取り入れるのは、この「対決」においてだと思う。

同情と共感の違い

 ここまで述べてくると、同情と共感の違いがはっきりしてくるだろう。同情が目指しているものは、真の他者ではなく投影された他者、すなわち「傷ついた不幸であわれな自分」であり、そうした自分を慰めることでしかない。それに対して共感が目指しているものは、自分の外にある他者である。自分の経験があって他者との経験があるのではなく、他者との経験を通して新たな自分が立ち上がるのである。阪神大震災以来、被災地にボランティアに行く者が増えているが、何も被災者に同情したり、被災者へ憐れみを施したりするためではあるまい。(中にはそうした人もいると思うが。)多くの人は被災地で自分なりにできることをして被災地の人と関わることで、今までの自分になかった新たな自分を経験したいと思って行っているのだと思う。共感はそうした対人的相互関係において重要な働きをしていると思う。

 

 最後に人工知能についてひとこと。人工知能はここで述べた共感のような、自分にはない新たな視点を自分で選択して取り入れるような機能は原理的に持てない。自分にはないものを外部から選択的に吸収し、それを消化することで自分の体に同化していくことは、生命の基本的な働きであり、人間において最も発達した知性の働きにおいても同じことが言えよう。技術が発展し優れた人工知能ができ、自ら学習していくような機能が開発されたとしても、無数にある外界からの情報を人工知能が自ら選択的に取り入れて、今までにない新たな意味体系を構築していくとは考えられない。今までにない新たな情報は人間が選んで人工知能にインプットしなければならない。なぜなら、人工知能は生きていないのだから。

<筆者 史章>