対話空間_失われた他者を求めて

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「流れる時間」という壮大な錯覚

科学の発達した現代において、占い師や宗教家たちの予言を信じる者に対し冷ややかな目を向ける者は少なくないだろう。わたしもそのひとりである。

もっとも、予言を信じると言っても彼女たち(女に多いのでこの代名詞を用いる)がごく軽い気持ちで、例えば神社の初詣でおみくじを引くぐらいの気持ちで、ほとんどただ無邪気に楽しんでいるだけならばまだ馬鹿らしいという非難めいた気持をわたしに起こさせることはない。けれども彼女たちの迷信がもし大真面目に占い師や宗教家の予言を信じるという段階まで進んでいるようならば、安易に安心を求めるあまり真実を犠牲にしていると批判的な判断を下さざるを得ないだろう。ここまではこれを読む大部分の人が同意してくれるように思う。

 

 

しかし、私見ではほぼすべての場合、実のところ予言の盲信者を批判する者も流れる時間という巨大な錯覚に陥っているという意味では同一の立場に立っている。これは断じて科学史上主義者の鼻を折ってやろうという意図から屁理屈を言うのでもない。また、もちろん、安易に走る予言盲信者の人間的弱さを弁護しようというのでもない。ただ時間という現象を正しく見据えるためにこう述べるのである。では、流れる時間という錯覚とは一体いかなる意味であるか?



例えばある予言盲信者が「3年以内に運命のひと(恋人)が現れる」という予言を信じていたとしよう。これは彼女たちが大なり小なり未来のその出来事がその未来の時間に起きることが固定されていると思い込んでいるのである。言い方を変えると、世界をまるでビデオの動画のように、先送りすればある出来事が必ず起きるものと信じているのである。

また、彼女たちを否定をする者は彼女たちに対して例えばこんな風に反論するだろう「そんな予言はインチキだ。物理学で記述可能なシンプルな運動などは別として、未来のことは誰にも予測不可能である。もし本当にそんな予測ができる者がいたらそいつは占い師などといういかがわしい商売で小金を稼ぐかわりに宝くじでも買って億万長者として悠々自適な生活を送るはずだ」と。このような意見は一見何も間違っていないように思われる。しかし、わたしの見るところ、このように反対する者もやはり予言盲信者と同じく過去→現在→未来と時間が流れ、その各瞬間ごとに固定された出来事が生じるといういわば動画モデルの時間を前提しているように思われる。未来のことはまだ起きていないことだから出来事が絶対的に固定されていないと認める者も、過去についてはすでに起きたことなので固定された出来事が過去という時間に実在するとおそらく認めるのではあるまいか。

 

時間が流れ、その各瞬間ごとにある固定された出来事が起きているというモデルは、全く疑われることのない常識としてあまねく染み渡っている。あまりに深く公然の事実として浸透しているため、これを否定する意見は著しく常軌を逸したものと捉えられるだろう。



では時間という現象がそのようなものではないと言うのなら、一体それはどのように解釈されるのが正当なのであろうか。わたしの答えはこうである。

 

【我々は今を生きているのみで、過去や未来といったものは仮象という姿で我々にあるにすぎない】

 

わたしは未来や過去が無であると主張しているのではない。それは<ないというあり方である>のである。なんだかひどく矛盾めいた言い方だが、そのように言い表す他ない。

あらかじめ時間が直線的に過去→現在→未来へと流れ、我々がその流れに乗っているのではなく、今生きる我々が言葉を学ぶことによって世界に能動的に意味を固定させたからその時間モデルが成立しているのである。これを逆さまに解釈してしまうのは錯覚である。

 

この逆さまに解釈してしまう錯覚は時間という現象だけに当てはまらない。言葉を習得した我々人間は我々が能動的に意味を付与して意味のある世界が成立しているという事実を忘れ、世界にあらかじめその意味が絶対的に染み込んでいたと逆さまに解釈してしまう。科学的世界観はその典型である。

 

尚、注意して欲しいのだが、だからといって科学の有用性を否定しているわけではない。それは全然別の話なのである。ロケットが発射された後の軌跡の予測は計算可能である。また、予言も不可能ではないのだ。例えばものすごい美人なら運命と思える人が3年以内におそらく現れるだろう。

 

わたしが述べたいのは、今生きているだけの我々が言葉によって過去とか未来という<ないというあり方であるもの>を能動的に意味を付与することによって成立させているにも関わらず、あべこべに、あらかじめ世界に過去現在未来という時間が絶対的に流れていて、その各瞬間はある出来事が固定されて実現されていると錯覚してしまうという事である。



<murata>