対話空間_失われた他者を求めて

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ポリフォニーの世界(前編その1)

 

 

先日、『心という難問 空間・身体・意味』(野矢茂樹著)という昨年出版されたばかりの新しい本を読み終え、その内容に感銘を受けた。この感銘を動機としてこの記事を書いてみようと思う。


本記事の内容であるが、まず野矢氏の主張を紹介し(前編)、その後、その中でも特に相貌論における「物語」という概念について取り上げ、私自身の今抱いている考えを述べるつもりである(後編)。おそらく一つの投稿にしては読む方にしても長くなるだろうし、私も途中まで書いて何らかの理由で放棄して全部駄目にしてしまうかもしれないと思ったので、その日に書けたところまで分割して投稿していくことにする。今の極めていい加減な見立てでは前編と後編を合わせておそらく五つか六つぐらいの投稿になるだろうか。しかしそれよりも長くなるかもしれないし、挫折して数回で終わってしまうかもしれない。特に後編はあまりにお粗末でまとまりのつかない混乱状態を開陳することになるかもしれず、それなら恥をかきたくないからそのまま読者の前から逃亡してしまう恐れがある。

 

しかし、後編について、なぜとりわけ相貌論の物語について取り上げるのか? 本論に入る前にその理由を説明しておこう。この著作において野矢氏は素朴実在論を一貫してその正当性を主張しているのだが、私見によればそれは基本的にはハイデガーの世界内存在と同じ洞察をしている。つまり、野矢氏とハイデガーにとって、私とは身体を持ち、世界に開かれ、世界にじかに接し、まさにそこで生活している私である。決して伝統的な哲学が想定したような、客観を認識する意識主観なるものではない。世界内存在はハイデガー読書会で(あるいはそれ以前から)もう長く私の慣れ親しんだ考えであり、したがって野矢氏の素朴実在論そのものには特別な新鮮味は感じなかった。野矢氏がその素朴実在論の正当性を論理明晰に説明していくさまは見事ではあるけれど(実に見事である!)、その考えそのものに目新しさというものはない。しかし、内容のうち、相貌論において物語という概念を駆使して分析していた箇所は私には斬新であり、特に面白かった。ハイデガーの『存在と時間』では自己が立ち上がるありさまを時間性と絡めて分析しているが、物語(これも当然時間性と絡んでいる)という概念を用いて観察すれば、その事態は見えやすくなるかもしれない。物語は、自己の自己性を読み解く有効な概念だと感じたのである。このことについて今の分からないことも含めてこの機会に文字に残しておきたいと思った。

 

 

 

意識の繭(まゆ)とは

さて、まずこの前編では主にこの著作における野矢氏の主張、つまり素朴実在論への回帰について紹介しよう。それは極めて重要な指摘であるように思われるから、紹介する価値はあるだろう。野矢氏がこの著作で述べていることを大雑把に一言でまとめてしまえば以下のようになる。それは、「意識の繭などなく、我々はじかに生き生きとした世界を生き、心ある他者と出会っている」ということである。繭とは昆虫が作り出す、あの繭のことである。野矢氏はこの著作において、わたしの意識の繭という、世界ないし他者と隔絶された伝統的な哲学的虚構物をしりぞける。そして私は実生活において生き生きとした世界・心ある他者とじかに立ち会っているという常識的に考えられている素朴な事実へと回帰する。といってもまだうまく伝わらないかもしれない。詳しく述べていこう。


意識の繭というのは、つまり意識のことである。繭と表現しているのは、それが私に閉じられた意識であることを示す比喩であろう。意識の繭理論に従って具体例を挙げて考えてみよう。例えば、私の目の前にりんごがあるとする。意識の繭理論によればこのりんごは、私の意識に生じたりんごということになる。そして、それは私の意識の外部に真なるりんごというものがあって、私の意識の繭に映されたりんごは真なるりんごとは別物(完全に一致しない)だということを示唆している。
なんだかわかる気もするし、一方で奇妙な考えだと思われるかもしれない。私たちが普段日常生活をしているときにはりんごは意識に生じたりんごなどとは考えず、目に映っているこのりんごはそのままそのりんごであるから、この意識の繭理論は実感に基かない奇妙な考えだと感じられるだろう。けれども、生活から一歩退いて、いわばメタ的な視点でこの目の前のりんごのことを考えると、このような理屈も別にまずいところはなく成立しているように思われるだろう。
この意識なるものを想定するのが正当であることを実証するかのような日常的な例がある。それは見間違いである。例えば、山を歩いている時に道の先に蛇が見えたとする。驚いて足が止まる。しかしよく観察してみるとそれは蛇などではなく、単に打ち捨てられたロープにすぎなかった。この例において、驚いて足を止めたとき、意識にあったのは蛇であるが、本当にそこにあったのはロープである。このように私の意識に生じているものは外部にある真なるものと必ずしも一致しないというケースが少なからずある。また、本来そこにないものを見たり聞いたり(幻覚・幻聴)することもある。このような事実は、私が見ているものが素朴にそのままそれ自体であるという考えを覆すもののように思われる。従って私の意識と外部のそれ自体客体的なものという二つのものを想定することに別段不都合はないように考えられるのである。
実際、この意識(の繭)というものを哲学では当然のもののごとく考えられてきたのである。不勉強でもしかするといい加減なことを言っているかもしれないが、特に20世紀に入るまでの哲学は意識主観と客観の関係を説明することに奮闘してきた歴史があるようだ。もちろん今でも意識というものを想定して哲学している学者も少なくないだろうし(というよりそちらが主流?)、学者ではなくとも生活から一歩後退してメタ的に世界を観察することのある哲学的な人ならば、ごく普通にこのような考えを抱くことがあるのではないだろうか。
この意識というものを前提して哲学を始めてしまうと解決の糸口が見出せない様々な難問・擬似問題が生み出され袋小路に陥ることになったり、あるいは独我論のような実感に基かない極端な考えが生み出されることになる。なぜ袋小路に陥ったのであろうか? なぜ実感に基かない考えが導かれたのか? 問題が行き詰まった時、それを解くためには我々は問題が始ったその地点に引き返さねばならない。そしてその地点とは、意識の繭なるものを想定したその時である。

 
意識(の繭)なるものを想定するということは、私という意識の繭と繭の外部、つまり世界あるいは他者との間に原理的に絶対に越えることのできない壁を築くということである。私は意識の繭に閉じ込められていて、背後にある真の世界に触れることはできない。また、同じく繭に閉じ込められている他者と真に心ある交流を持つことはできない。
果たしてこの繭は破られるのだろうか?


(前編その2へ続く)


<筆者 murata>