対話空間_失われた他者を求めて

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アキレスは亀に追いつけない?〜無限と世界の解釈〜

 

今からおよそ2400年ほど前、南イタリアのエレアという古代ギリシアの植民市にゼノンという哲学者がいて、彼は義父であり、学問の師匠であり、また愛人でもあった(当時男色は珍しいことではなかった)パルメニデスの哲学上の論戦を擁護する際にいくつかの運動の例を提示した。それらはゼノンのパラドックスとして後世に伝わっているのだが、その話のひとつに『アキレスは亀に追いつけない』というものがある。これを紹介しよう。彼の挙げたパラドックスは(彼にそんな意図はなかっただろうが)われわれの無限、ひいては世界の一般的な捉え方に一石を投ずる議論であるように思われる。

 

アキレスは亀に追いつけない。いかなることか。アキレスと亀はそれぞれ速い存在と遅い存在の象徴である。亀が遅い存在というのはいいとして、アキレスである。いきなり議論の本筋から脱線するが、アキレスとはいかなる人物か、この逸話はちょっと面白いから紹介しておこう。アキレスというのは詩人ホメロス叙事詩にも描かれているギリシア神話の英雄である。作中、駿足のアキレウスとたびたび形容されるように、足が速かった。そしてまた不死身でもあった。死なないから戦において無敵なのである。無双の力を誇りひとりで敵勢をことごとく倒した。しかし勝利を前にして命を落とした。不死身のはずなのに死んだ。不死が完全ではなかったのである。身体のある部分を弓で射られ絶命した。その部分を現在われわれはアキレス腱と呼んでいる。アキレスを産んだ母は浸けると不死身になるという川に息子を浸したのだが、うかつにもそのとき宙吊りに持っていた赤子のかかとの部分だけが浸かっておらず、そこだけ不死身体ではなかったのである。本筋に戻ろう。とにかく、アキレスは速い存在である。その速いアキレスが遅い亀に追いつけないというのである。

 

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アキレスと亀がスタートの合図と同時に競争をする。しかしアキレスと亀がまともに競争しても力の差は明白である。そこでアキレスはハンデとして亀の後方からスタートすることにする。スタートの合図とともにアキレスは走り出し、亀はのそのそと懸命に地を這い出した。しばらくするとアキレスは亀のスタート地点(T1)に到着する。そのとき亀はいくらかアキレスの前方(T2)にいる。アキレスがアキレスのスタート地点から亀のスタート地点(T1)まで移動した間に亀は自身のスタート地点からいくらか前方(T2)に進んでいるからだ。さて、この時点からさらに時を進める。今アキレスは亀のスタート地点(T1)にいる。亀はT2にいる。しばらくするとアキレスはさらに先ほどの亀のいた位置(T2)に到達する。このとき亀はどこにいるか。やはりアキレスの前方(T3)にいる。アキレスがT1からT2に移動するまでの間に亀はT2からT3に移動したのである。この操作は無限に続けることができる。したがってアキレスは亀に追いつくことができない、というわけだ。


この議論の何が問題なのであろうか? 現実はアキレスはいつか亀に追いつき、追い抜くのであるから何かが間違っていることは確実である。この議論は詭弁なのであろうか? 詭弁なのだとしたら問題の所在はどこにあるのか?


話を簡単にするためにアキレスの速さを分速2m、亀の速さを分速1mだとしよう。この設定だとアキレスは駿足のアキレスどころか鈍足のアキレス、いや100kgの重りをつけて地を這うようなものだが、とにかく簡単のためだ。そしてスタート時のハンデの距離を1/2mだとしよう。
そうするとスタートしてから1/2分後にアキレスは亀のスタート地点(T1)に到着することになる。ここからさらに1/4分後にアキレスはT2に到着し、更に1/8分後にT3に到着するということになる。つまりアキレスが亀に追いつくまでの時間(Sとする)は

 

S=1/2+1/4+1/8+・・・

 

となるわけだ。この追いつくまでの時間Sはどんな値になるのだろうか。高校の数学IIIで無限級数(このような無限の項の足し算を無限級数という)を学習していなかったり、学習したとしてもてももう忘れてしまった人ならばこのSの値は無限大であると考えるかもしれない。というのは、このSは正の値が無限個足されたものであるからである。おそらく古代ギリシアの哲人たちもこのように考えたであろう。しかし直観的には無限の正の値を無限に足せば無限に大きくなるような気がするけれど、そうとも限らないのである。数IIIの無限級数の既習者は正の値の無限に足しても必ずしも無限大になるとは限らず、有限値(このような和を無限級数の和という)に収まることのあること知っているから、以下のような計算によってその無限級数の和Sの値を求めるであろう。

 

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より数学に明るい者ならば、上のような方法の危険性を察知して、それじゃダメだと(循環小数を分数で表すときに彼らと同じ手段を用いていたことは棚上げして)まず第n項までの和Sn(このような和を部分和という)を計算し、そのnを無限大∞に近づけてSの値を計算するのだろう。

 

 

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どちらにせよ、得られる値は1であり、つまり

 

1=1/2+1/4+1/8・・・

 

となるわけである。実際にこの運動を無限に分割せず、スタート時と追いつく時だけを考えると、スタートから1分後のアキレスと亀はともに亀のスタート地点T1から1/2m前方に位置しているので、これで問題はなさそうである。確かに1分後、アキレスは亀に追いつく。

 

 

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しかし、これでこのパラドックスは解決されたのであろうか? どれだけ時間が経過してもアキレスは亀に追いつけないのではなく、1分後という有限の時間の後に追いつくことができることが証明されたので問題は解決されたように思われる。思うに数学の世界に慣れた者ほどこれでパラドックスは解決されたと思い込んでしまうのではあるまいか。しかし、それは錯覚である。おそらくゼノンはこの説明に半分も納得しないであろう。というのも、この説明はパラドックスの根本的な謎については何も答えていないからである。この説明でゼノンが納得することは、正の値を無限に足し合わせても無限大になるのではなく有限値に収まるという計算過程にすぎない。しかし、そもそも、そんな高等な計算技術を駆使しなくてもアキレスが亀にいつか追いつくことは当たり前である。このパラドックスの謎の所在は本来そんなところにあるわけではない。有限の時間の後にアキレスが亀に追いついたとしても、尚本来の謎は残ったままである。その謎とは「アキレスがいかにして無限の行為を完了したのか」ということである。1分後という有限の時間の後にアキレスが亀に追いつくとしても、どうやってアキレスが無限の行為を完了できたのかその説明が未だつかないのである。この謎について上記の数学的説明は何も答えていない。まだ何が問題なのかはっきりしないかもしれない。このことこそがこのパラドックス本来の問題であったことをはっきりさせるため、このパラドックスにこんな設定を追加しよう。

 

 

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スタートしてアキレスが亀のスタート地点(T1)に到着したとき、アキレスは「1!」と叫ぶ。次にT2に到着したときに「2!」と叫ぶ。T3なら「3!」である。さて、1分後にアキレスは亀に追いつき、追い抜くのであるが、このときアキレスは高らかにこう宣言することができる、「俺は今すべての自然数をかぞえあげた!」と。何もそんなふうに叫んだり宣言しなくてもいいのではと思うかもしれないが、そうできることが肝心なのである。そうできるだろう、なぜならアキレスが亀に追いつくまでに無限の行為が含まれていたのだから。


まだ問題がはっきりしない者のためにより単純化したモデルを提示しておこう。登場人物はアキレスのみである。アキレスは1/2分後に「1!」と叫び、1/4分後に「2!」と叫ぶ。1/8分後には「3!」である。そして1分後にアキレスはこう宣言できることになる。「俺は今すべての自然数をかぞえあげた!」と。


これで仮に1分後にたとえ亀に追いつくことが説明できたとしてもなお「いかにしてアキレスが無限の行為を完了したのか」という謎が残っているということが明確になっただろう。
自然数をすべてかぞえあげるというのは自然数の定義から明らかに背理である。自然数とは1から始まり1を次々と加えて得られる数の総称であり、その上限は存在しない。それなのにアキレスはその上限がないはずの自然数を「すべてかぞえあげた!」と宣言できるわけだ。どう考えてもおかしい。すべてかぞえあげたのなら最後の自然数は偶数だったのか、奇数だったのか教えて欲しい。自然数をすべてかぞえあげることなどあり得ないのだから、前提に何らかの過誤が含まれていたわけであるが、一体その誤った前提が何であるのか、その辺がはっきりしない。それがこのパラドックスのモヤモヤである。そして予めその誤った前提が何であったか私見を述べさせてもらうと、それは一般的な無限の捉え方であるように思う。

 


無限の捉え方は大きく二つに分類できる。ひとつは一般的な無限観であり、それは無限をすでに完結したひとつの存在と捉える見方であり、このような無限は「実無限」と呼ばれる。それに対し無限を時間的にある規則によって限りなく展開されていく可能性と捉えた場合それは「可能無限」と呼ばれる。つまり、可能無限の無限は未完としての無限である。ちょっと分かりにくいかもしれない。例を挙げよう。例えば円周率πをそれぞれの無限観はどのように解釈するか見てみることにする。実無限の考えを採る者は円周率3.141592・・をその全ての桁の値が自然数2や3と同じように絶対的に確定された値だと捉えるだろう。それに対し可能無限の考えを採る者は円周率とは絶対的に既に確定された値ではなく、その値がさまざまな規則によって(例えば半径1の円に外接する正n角形の面積として)時間的に次々と新たな桁が作り出されていく可能的な存在にすぎない。


もうひとつ、直線を実無限と可能無限の見方はそれぞれどのように解釈するか見てみよう。実無限を採る者は直線とは無限の点が既に集まって実在しているものだと捉える。このように直線が無限の点の寄せ集めであるという解釈はほどんど常識になっているように思われる。それに対し、可能無限を採る者は直線を際限なくその部分を切り取れる可能性として捉える。点を寄せ集めて直線が形成されているのでなく(これは実無限)、むしろ逆に直線から点が作られるのである。実無限を採る者にとって直線とは無限のつぶつぶの砂(点)が既に敷き詰められているのに対し、可能無限を採る者にとって直線とはのっぺりツルツルしたあの直線である(しかしその直線からは際限なくつぶつぶの砂(点)を拾い上げることができる)。後者にとって、つぶつぶの砂(点)は直線上に既に実在しているのでなく、拾い上げることのできる可能性としてのみ存するのである。

 


話をアキレスと亀パラドックスに戻そう。このパラドックスはなんであったか。それは無限を実無限として捉えることが無理だという背理法であったとわたしは言いたい。アキレスと亀の競争した直線を既に無限に分割されたものだと捉えたから自然数をすべて数えあげたなどいう背理が生じたのである。思うに、このパラドックスの謎であった「アキレスはいかにして無限の行為を完了したのか」という疑問に対し、実無限の立場を固持する限り有効な解答を与えることはできないだろう。一方で可能無限の立場からはこのパラドックスに対してあっけらかんとした顔でこんな解答が提出できる。
「うん、そんなふうにずっと語り続けることができるよね」、以上である。
可能無限の立場ではこのパラドックスにそもそも謎はない。つまりこのパラドックスの謎は解決されるというよりも、解消されるのである。可能無限は実無限のように直線を無限のつぶつぶの砂(点)が敷き詰まったものだと捉えず、のっぺりツルツルした、しかし際限なく部分(砂)を拾い上げることのできる可能性として捉えるのだった。それならば、もともとこのアキレスと亀の運動に謎はないではないか。というのも、アキレスが亀に追いつくまでの運動が際限なく語れるということは、その運動が不可能になることを意味しないのだから。可能無限の立場はまず全体があって、そこから部分を際限なく切り取ることができるということである。だからいくらでも部分を切り取れるからといって全体(このパラドックスの場合、アキレスが亀に追いつくということ)が不可能にならないのである。それを納得するには、わたしたちがわたしたちの運動を際限なく語ることができるからといってわたしたちの運動が不可能になっているわけではないというごく平凡な事実を指摘すればそれで充分だろう。われわれはいつもまず全体を経験し、その後、部分を語り出すのである。無限の部分(語り)が集まって運動の全体を経験しているわけではない。したがってこのパラドックスにはそもそも謎はなかったのである。わたしはこのパラドックスに対する答えはこれで良いと考える。

 

 

余談になるが、無限が実無限としてはありえず、可能無限としてしかありえないのと同様に、世界も予め完結した実在としてあるのではなく、わたしがそこで生きるなかで開示されていく未完の可能的あり方としてしかありえないだろう。わたしにはこの数学的無限観と世界観には単なる比喩を超えた同型性を有するように思われる。われわれの常識は主観に対し完結した客観的実在を信じるが(このような物の見方を実在論という)、そのように定まった客観的対象ががまず予め実在し、それがわたしたちの世界を構成しているのでなく、むしろ逆に、まずつねにすでにそれぞれの関心に従って世界を生活し、その中で対象を見出している(つまり固定化している)のが実際である。初めから世界は完全に秩序づけられているのではない。わたしたちはノイズだらけの全く混沌とした世界に産み落とされる。そしてその混沌の世界に意味を見出し世界を秩序づける。世界を秩序づけるのは言葉によってである。そもそもわたしたちはまず存在の当初、世界を生活する中で言葉によって世界を対象化、固定化したはずである。それなのにわたしたちはその固定化の由来を忘却し、対象化された世界をわたしたちとは無関係に完結して実在する原初的なものだと見傚し、その客観的実在の側からわたしたちの世界の生き方を二次的なものとして説明するという倒錯した考えに陥る。アキレスと亀パラドックスはこの倒錯に気づかせるひとつのトピックであった。

 

 

参考文献『無限論の教室』(講談社現代新書

 

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