対話空間_失われた他者を求めて

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知覚の現象学と芸術への問い

<遅ればせながら、僕も読書会の総括文を投稿させて頂きます。>

 読書会にて一年以上親しんできたメルロー=ポンティの『知覚の現象学』を振り返ってみれば、僕がそこから受けた影響はあまりにも絶大であり、この著書によって世界の見方が変わってしまったと言っても過言ではない。その中でも特にこの著書は、僕の「芸術観」を一新するものであった。そこでこの記事では、芸術活動の意味を問うにあたって、如何にこの著書が重大な示唆を与えてくれるかを書き記しておきたいと思う。

 その前に少し私的な話をすると、僕は中学生の頃に始めた作曲を今でも続けており、そのためずっと以前から芸術活動というものへの強い関心があった。けれどもある時期から芸術とは何かが自分自身でもよく分からなくなってしまった。しばしば言われているように、現代は芸術という営みそのものが混迷し、あるいは衰退している時代だと思う。もはや芸術は、多様化の流れの中で細分化された挙句に、空中分解してしまう危機に瀕しているのではないだろうか。こうした状況にあって、「芸術とは何か?」という問いは僕にとってきわめて重大なものであり、この問題に少しでも何らかの光明を見出したいという思いが、『知覚の現象学』を読む主な動機となったのである。とはいえ、『知覚の現象学』は別に芸術を主題にした著書ではない。そのきっかけをもう少し説明しておけば、この著書を読む少し前に、父の勧めで山崎正和の著書『演技する精神』を読み、そこで展開されている芸術論にいたく感激した。そしてそのバックボーンにメルロー=ポンティの哲学が大きく関与していることを知り、この難解な哲学書を読む決意をしたのである。

 尤も、これらの著書を読んで、芸術とは何かが十分に分かったというわけでは決してない。むしろ、芸術の意味を考える上での出発点にようやく立てたに過ぎないのかも知れない。けれども、少なくともこれらの著書によって、今まで見えていなかったあまりにも豊かな世界が僕の目の前に広がってゆくような衝撃を受けたことは紛れもない事実である。特に『知覚の現象学』を読んで驚かされたのは、「知覚」の捉え方の斬新さである。それは、常識的な知覚の捉え方の狭さや貧困さを告発するものであり、またそれが、一見あまり関係無さそうに思える「芸術の意味」を考える上でも欠かせない視点だと感じた。そこで以下においては、本書の知覚の研究を参考にしつつ、「芸術とは何か?」という問いを深めてゆきたいと思う。

知覚に対する通念

 まず、知覚に対する通念を洗い出そう。常識的理解では、知覚とは外界にあるものを感覚器官によって受け取ることだと考えられているだろう。特に視知覚に関しては、廣松渉流に、「むこうに対象が在り、こちらの知覚機構の内部に写像が形成される」という "カメラモデルの知覚観" が通念となっていると言ってもよいかもしれない。こうした知覚観の詳細な批判はメルロー=ポンティや廣松渉に任せるとして、ここではこうした知覚観から出発したのでは、芸術活動の意味を問い得ないということを見てゆきたいと思う。

 まず明らかなのは、知覚というものを上のように捉えるのならば、少なくともその中では芸術における「表現」という行為に一切の意味を見出せないということだ。仮に上記のような知覚観に倣って、視覚的刺激を受容した結果として視知覚が我々の内部に形成されるのだと考えるのならば、画家が絵を描く意味は一体何なのだろう?画家は或る風景を描くとき、それこそカメラで写真を撮るかのように、外界からの刺激の受容によって形成された視覚像をキャンバスに模写しているに過ぎないのだろうか?おそらく誰もそんな主張はするまい。況してや音楽となると、もはや外界から受け取ったいくつかの聴覚的刺激の配列などには一切還元しようもない。だとすれば、芸術が表現するものは、当然のことながら外界からの諸刺激の直接的結果などではありえないわけである。では、一体芸術は何を表現するのだろうか?

芸術に対する通念

 こうした疑問に対しては次のように考える方が多いと思われる。「芸術とは単なる外的対象物の知覚とは異なり、人間の内面性を表現する行為である。画家は受容した視覚的刺激をただそのまま描くのではなく、その視覚的所与を材料として、自分の内的な精神世界をそこに描き出すのだ。というのも表現とは、自分の内面を何らかの媒体を通して外部へと表象する行為だからである」、と。確かにこの考え方は一見正論のように思える。(実際、僕自身も以前は芸術を漠然とこのようなものと想定していた気がする。)ところが、意外に思われるかもしれないが、実はこの芸術観はきわめて重大な問題を孕んでおり、根本的な見直しが必要なのである。その旨を順を追って検討してゆこう。

(1) 個別主義的芸術観

 まず、そもそも「内なる精神世界」とは、一体如何なるものなのだろう?おそらく西洋の個人主義の影響下にある現代人にあっては、この「内面的世界」を、個々人のそれぞれの経験によって、個々人それぞれの内部に蓄積され形成された観念だと考える者が多いだろう。だがこうした常識的理解についてはもう少し踏み込んだ検討を要する。仮に、この内面的世界なるものを、上記のカメラモデルの知覚観に倣って、外界の諸対象をそのまま写し撮った結果だと考えるのならば、我々の内面性とは単なる受容した外界の諸対象の堆積だということになり、もはや「内なる精神世界」などを想定する意味が無くなり、したがって表現活動そのものが意味を持ち得ないだろう。では、内面性とは一体何なのだろうか?そこで、次のように考える方もいるであろう。我々が内面性を持ち、多様な表現活動が可能なのは、すなわち各々が「自己意識」を持っているからである、と。我々は、各々が内面に自己意識なるひとつの精神を持つのであり、外界から受け取った諸刺激は、この内的精神によって意味づけられ、象られることによって、各々の内面的世界が形成されるというわけである。だが、この考え方であっても、さっきとは別の意味でやはり表現活動が困難になるのではないだろうか。なぜなら、各々の内面に完結した世界を、どのようして外部へと表現出来るのか、あるいは、どのようにして他者へとその内面の世界を伝達することが出来るのか、というような難問が生じ得るからである。この考え方に止まる限り、芸術作品の持つ意味は、根本的にはその意味の所有者たる作り手のみが知り得るものになるのであり、鑑賞者に出来ることと言えばその意味を推測することくらいであろう。いや、本当は推測が可能かすら疑わしい。各々が外界からの刺激を取り込み、それを各々が持つ内的精神によって意味づけるのだと考えるのならば、結局作品の意味は個別主観の内部でしか実現し得なくなるだろう。この次元では、作り手は作品に何ものをも表現することが出来なくなるのであり、それというのも、鑑賞者にとってみれば、作品それ自身は内面性を持たぬ無意味な外的諸対象の一つに過ぎず、そこに意味を与えるのはその鑑賞者の意識だということになるからである。

 だが、当然こんな滑稽な帰結に満足するわけにはゆかない。こんな考え方では、作品の意味や価値は、個別主観の中に自足してしまい、表現という行為の持つ周囲に開かれようとする姿勢のあり方を歪めてしまう。尤も、現代人にあっては、「価値観は人それぞれ」という言葉が象徴しているように、作品は個々人が自分の中で楽しむものであり、作品の価値は個々人の好みに過ぎない、と考える者も多いだろう。だがこうした考え方は、以前に書いた記事(「価値観は人それぞれ」という言葉について)でも述べたように、欺瞞的である。その詳細は上記の記事を読んでいただくとして、ここでは作品の鑑賞の問題へと引きつけて次のことを補足しておくに止めよう。

 良き鑑賞者ならば実感出来るであろうが、作品の意味や価値というものは、純粋に鑑賞者の内面的世界によって規定されるのではなく、その作品それ自身によって鑑賞者へともたらされるものである。また、芸術の感動は個々人の好みへとは決して還元できないのであって、それというのもこの感動は自分の内面的世界を超えたところからやってくるものだからである。良き作品というのは、自分が普段気にも留めないような世界の豊かさ、味わい深さを開示するものだ。鑑賞の努力とは、作品を自分の内面的世界に位置づけようとすることではなく、自分に先立ってその作品自身が開示する豊かな内包をじっくりと味わおうとすることなのである。だとすれば、鑑賞者は自身の内面的世界の中で作品を把捉するのではなく、むしろ逆に作品自身によってこそ鑑賞者の内面性が切り拓かれてゆくのでなければならない。

(2) イデア論的芸術観

 芸術というのは一つの表現活動であり、そうである限り、その意味や価値は、個別主観の内部で完結するわけにはゆかない。ではそれならば、芸術の表現するものは、ある種の「普遍的価値」といったものであるのだろうか?既述した芸術観では、芸術が表現するものは個別主観に委ねられるということであった。だが思えば一方で、「芸術とは普遍的テーマを作品へと昇華し、それを伝達する行為である」というような、上記の芸術観とは真っ向から対立する考えを持つ方も多いと思われる。この芸術観は、最近の「価値観は人それぞれ」という風潮が流行する以前には、今以上に一般的なものだったのではないだろうか。この考え方は実は、西洋において古くから長い間主流となっていたプラトンイデア論的な発想からくる芸術観と結びつく。以下では、こうした芸術観について少し検討を加えよう。

 プラトンの言う「イデア」とは、平たく言えば、ものごとの純粋な本質、理念といったものである。プラトンは、ものごとには肉眼によって捉えられる見かけの姿の背後に、理性という謂わば "心の眼" によって看取される普遍的で客観的な「真の姿」が存在すると考えた。こうした考えゆえに、プラトンは(解釈によって違いはあるが一般的解釈では)芸術活動を低俗なものだと見做していたようだ。こんな考え方をする限り、画家は対象物の理念を見ずに、単なるその感性的な見かけを模倣しているに過ぎないと考えられても仕方あるまい。けれどもその後、アリストテレスをはじめとして、イデア論をベースにしつつ芸術を擁護する立場の論者が多く現れ、西洋において最も主流の芸術観が形成されていった。この芸術観の主張するところを大雑把に言えば、芸術とはものごとを単純にそのまま模倣する行為などではなく、芸術もやはり理性に似て、ものごとを本質的な「あるべき姿」として模倣するのだ、というわけである。こうしたところから、芸術は自然を超えた美を表現するのだという西洋伝統の芸術思想も生まれるのであり、すなわち、造形芸術家は自然の中に、それが本来あるべき完全な姿を捉え、それを作品に仕上げるというわけだ。また、文学であれば、人間の本質的な姿を捉え、それを言語によって表現するということになるだろう。こうしたイデア論的芸術観にあっては、「内なる精神」に、アプリオリに普遍的な理念を看取する能力を設定することによって、芸術の表現するものに普遍的価値を与えようとしたと言える。

 だが果たして、芸術が表現するものは、その表現に先立って存在する普遍的な理念といったものなのだろうか?もし芸術の目的が普遍的理念の伝達にあるのだとすれば、芸術作品の持つ意味は理念を伝達するための単なる一機会、一手段ということにしかならないだろう──紙に描かれた三角形が、三角形の理念を伝達する一機会、一手段であるのと同じように。だがこんな考え方では、やはり表現という行為の持つ意味を歪めて解してしまう。表現行為がその十全な機能を果たし得るためには、作品の持つ意味はイデアという天空に住まうのではなく、むしろそれはその作品から離れることなく、その作品の中で実現されるのでなければならない。

一篇の小説、一篇の詩、一幅の絵画、一曲の音楽は、それぞれ不可分の個体であり、そこでは表現と表現されるものとを区別できないような存在、直接的な接触による以外にはその意味を手に入れることは出来ぬような存在、現に在るその時間的・空間的位置を離れないでその意味するところを放射するような存在である。(メルロー=ポンティ『知覚の現象学』)

 こうしたことは、芸術の中でも特に音楽において顕著に現れていると思う。明らかに、音楽の意味は、その音楽を超えた理念の中に在るわけではなく、その音楽そのものによって、さらに言えば、一回一回の演奏行為によって実現されるものである。イデア論的芸術観では、「表現という行為を通して何らかの意味が実現する」というような、表現活動の持つ生産性、創造性を全く捉えられないのであって、なぜなら表現に先立って表現されるものが既に理念として出来上がってしまっているからである。

 さて、こうして「個別主義的芸術観」と「イデア論的芸術観」という一見対立する二つの芸術の通念を検討してみると、双方とも共通した問題を抱えていることに気づくだろう。芸術によって表現されるものというのが個別的世界観であれ、普遍的理念世界であれ、そのどちらであってももはや表現という行為の持つ意味が失われてしまう。すなわち、一方では表現活動自体が成立せず、また他方では表現に先立って表現すべきものが既に出来上がってしまっているというわけだ。ではなぜこうしたアポリアに導かれてしまうのだろう?その原因はやはり、芸術の表現を「内なる精神世界」に求めたところにあるのではないだろうか。このように考えてしまえば、内面の世界は個別主観の中に引っ込められるか、またはそれが予め普遍的なものを所有していることを前提にするか、そのどちらかしかない。だが当然、こんな次元では芸術活動の意味など問い得ないのである。本当は、芸術における表現という行為は、ある意味で自身の内面的世界の認識に決定的に先立って為されるのであり、それというのも、表現者は表現に先立って表現するものを、自らの内面に設計図として所有しているわけではないからである。つまり、表現を通してのみ表現するものが浮かび上がってくるのであって、画家は見たものを描くのではなく、むしろ描くという表現行為を通して世界を見つめなおすのである。

世界との交流としての知覚、その表現としての芸術

 こうして再び、芸術における「表現」とは一体何なのかが大きな問題になる。既述したように、常識は、「知覚」というものに単なる外的対象物の受容という貧弱な機能しか見出さなかった。そしてそのために、一方で「精神」というものを人間の内面性へと帰属させることとなった。だが、これまで見てきたように、芸術の表現するものというのは、外的対象物の中にも内的精神世界の中にも求めることが出来ないのである。だとすれば、我々は今一度、「知覚」のはたらきと「精神」のはたらきに対する通念を根本的に見直す必要があるのではないだろうか。我々はついつい、知覚によって外的対象物を自分の内に取り込み、内的精神によってその取り込んだものに意味や価値を与えるというふうに考えがちだ。だがたとえば画家が或る風景を描くというとき、そこには外的対象物の受容としての "見る" というはたらきと、その一方でそれに意味を授与する内的精神のはたらきとが、それぞれ別箇に存在しているだろうか?むしろそれらは、「描く」という行為を媒介として、一体化していると言うべきであろう。ここでの "見る" というはたらきは、単なる視覚的刺激の受容でもなければ、かといって心の眼で理念を看取することでもない。描き手にとって「見ること」とは、描くことを通じて謂わばその風景と対話し、交流することなのである。実際、コリングウッドは、メルロー=ポンティも偏愛する画家セザンヌの作品についてこう語る。

…人は誰しも、絵画は「視覚藝術」だと考え、画家とは第一義的に眼を使う人であり、眼の使用が明らかにしたものをたんに記録するために手を使う人だと考えていた。そこへセザンヌがやってきて、あたかも盲目の人のように描くことを始めたのである。彼の天才の本質を内蔵している静物画のデッサンは、あたかも両の手で探りまわされた物体のようである。…彼の室内画も同様であって、鑑賞者は、自分がそれらの室内をぶつかり歩いているように感じ、威嚇的に角ばったあれらのテーブルの周りを用心深く回っているように感じ、あれらの椅子をあれほど重々しく占めている人物像に近づいて、手をあげて自分の身を守っているように感じるのである。またそれは、セザンヌがわれわれを外光のなかへつれ出す場合も同じである。彼の風景は、その視覚性の痕跡をほとんどすべて失ってしまっている。樹木というものはけっしてあのように目に見えるものではなかった。あれは人が目を閉じたままめぐりあい、盲滅法にぶつかったときに感じられる樹木の姿なのである。…それは突出と後退の錯雑した混合体であって、われわれは、あたかも子供がようやく這い始めたときに育児家具のあいだを手探りでたどるように…その混合体の上や周りを手探りでたどっているように感じるのである。(コリングウッド『藝術の原理』)

 

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ポール・セザンヌ『レ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山』

 

 我々は普通、風景を見るというとき、たとえば、むこうに山がありその手前にいくつかの民家があり、というふうに見るのであるが、こんな見方が出来るのは、そもそも「山」や「家」という対象が措定され、それらが概念化されているからである。こうした既成の意味のもとに風景を見る場合には、「向こうに外的対象物が在り、こちらの内的意識がその意味を所有している」という考えも妥当なものに思えるかもしれない。だが、生まれたばかりの幼児にとっての知覚を考えてみてほしい。幼児にとってみれば、内的意識と外的対象物などという区別は一切存在しないのであって、幼児にとって知覚することとは、まずは身体を媒介として周囲の世界と直接に接触、交流することに他ならない。そして、メルロー=ポンティの見出した知覚のはたらきとは、まさしくこうした始源的な「世界との交流」なのである。我々は自分の内面的世界の構築に先立って、まずはこの身を世界へと投げ出し、世界に巻き込まれ、その有様を文字通り "身をもって知る" のでなければならない。こうした知覚経験を通して、やがては外的対象物が明確に措定され、そこに意味を授与する内的精神なるものが見出されるのだとしても、それはあくまで知覚経験を土台にして実現されるのであって、先在する精神がおのれを表象するための一機会、一手段として知覚を利用するわけでは決してない。とすれば知覚とは、単なる外界からの刺激の受容には決して還元出来ないのであって、なぜなら、単に刺激を受容するだけでは、世界はいつまでも漠然としたものに止まり、我々に何の意味ももたらさないだろうからだ。本当は、知覚するとは世界に関心を向けること、あるいは世界を志向することなのであり、そうであればこそ世界は我々に何らかの意味を語りかけてくるのである。

 思えば、我々はこうした知覚経験の豊かさを見過ごしがちだ。というのも、知覚は我々が生活する上での前提であり、最も身近なものであるからこそ、かえって主題化されることがないのである。かといって、知覚経験は科学的認識の主題にすらなり得ないのであって、なぜなら科学とは、既に知覚された世界の規定、または説明でしかないからだ。けれどもその一方で、画家が既成の意味体系を洗い流した眼で、世界の相貌を謂わば見るために見るとき、この世界はもはや外的対象物の総和などではなくなり、我々にとって豊かな意味を湧出する源泉となる。セザンヌの絵画が示唆するように、画家が描く世界とは、既に知覚されたものによって構築した世界ではなく、知覚経験に改めて身をおきなおすことによって浮かび上がる世界なのだ。そこに描き出されるのは、いくつかの外的対象物の配列でもなければ、内的精神の構築物でもなく、未決定な開かれた世界から、存在と意味とが今まさに湧出するその現場なのである。その結果、我々が普段、既存の意味のもとに眺める当たり前の、取るに足りない、見向きもしなかったような風景が、新鮮な表情を帯びてそこに現れてくるのである。

芸術は皆に開かれた表現である

 さて、ここまで知覚のはたらきと関連づけて、専ら絵画作品について検討したが、これを他の芸術作品にどこまで適用できるかは疑問である。厳密な芸術論を展開するためには、本当は音楽や小説、詩などの芸術にも検討を加えるべきではあろうが、長くなるのでここでは割愛させていただきたい。さしあたっては、多少乱暴ではあるが、これまでの議論から芸術活動について見えてきたことを記述するに止めようと思う。

 絵画についての上の議論から察するに、芸術活動とは、自分の内面に出来上がった世界を表現する行為ではなく、自らがこの世界を改めて "生きなおす" ことによって、世界の豊かさを開示する行為であると言えよう。それは、普段の当たり前の生活の中に嵌まり込まず、改めて自分が生きているこの世界を見つめなおす行為であるが、それは科学のように、自分自身の経験を捨象して客観的にこの世界を分析する行為ではない。芸術が表現すべきこの生きられた世界の有様は、自分自身が身を乗り出して捉まえにゆかねばならないのであって、そのためには自分と世界とを切り離してはならず、この世界に身を浸すことによってこそ何らかの表現がその作品へと実現するのでなければならない。

 だとすれば、芸術が表現する世界とは当然、個別的世界観や普遍的理念世界といったものなどではない。むしろ芸術における表現は、我々が普通に生活しているこの世界にその身をおいているのである。尤も、このような主張は自意識の強い芸術家たちの反発にあうかもしれない。というのも、「オンリーワン」やら「自分らしさ」などという言葉が流行するこの現代日本にあっては、芸術家の中にも、やはり個性的な自分の世界観を作品に表現しようと躍起になっている者が少なからずいると思われるからだ。そして、その中にはおそらくこのようなことを言う者もいるだろう。「芸術は単に現実のこの世界を表現するのではなく、芸術家の内的精神によって生み出された "想像の世界" を表現するのだ」、と。確かに、芸術家にとってある種の想像力というものは重要であろう。だが、この想像の世界が、ひとりよがりの空想の世界となってしまわないためには、どうしても芸術家は、現実のこの生きられた世界へと立ち戻らざるを得ない。我々はなにも個別主観の内部に閉ざされた世界を生きているのではなく、皆にとって共同の生活の場であるこの世界の中で生きているのである。いかなる芸術家とて、この世界の存在を無視して表現活動を行うことなどできまい。むしろ、この生きられた世界へと密着することによってこそ、かえって芸術家の豊かな想像力も開花するのである。けれどもその一方で、芸術家は自身の個別性を捨て去った純粋で透明な普遍的世界を表現するわけでもない。なぜなら、我々は時間と空間への帰属から完全に逃れて不偏不党の精神となることなど出来ないのだから。世界の豊かさを知るためには、何よりもまず私自身がこの世界と交流せねばならないのであって、したがってその意味では、生きられた世界を表現することは、同時にこの世界で生きている自分自身の姿を表現することにもなると言えるだろう。そしてここにおいて、芸術活動はひとつの自己表現にもなり得るのである。但し、この自己表現とは、私の内面的世界の表現ではなく、私の外に広がるこの世界に身を挺するその姿勢、その振る舞いといったものなのであり、そうであるからこそ、芸術は皆へと開かれた表現となり得るのである。

<筆者 kubo>