対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part3)

訂正版を再投稿しました。

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※part1,  part2はこちら

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第二章 心と<その都度>性

 科学的認識の努力は、客体的事物としての物質とその連関仕方とを発見するわけだが、そのように発見され規定された世界には、もはやどこにも「心」なるものは見当たらない。そこでは、「心」という語自体が意味を失ってしまうのである。尤もその意味では、「心など実在しない」という主張はそれなりの権利を持つであろう。僕自身もある意味においてはこの主張に同意するものである。しかし一方で、我々はつねにすでに心的なものの前提的了解にもとづいて様々な活動を営んでいるのであり、とりわけ上述したように脳生理学の所見は、経験的に知っている心の存在を前提にしなければ意味を失ってしまうだろう。こうして我々は、心を物理的実在としての世界の中に見出せず、かといってそれを完全に没概念にしてしまうことも出来ないでいるのである。正にここにこそ心脳問題の厄介さがある。

 心的なものを実在的事物のように扱えないとすれば、その存在を一体どのように規定すればよいのだろうか?それは物理的なものとは別に存在する存在者なのだろうか?確かに、心的なものを物理的実在世界の中に見出せない以上、心は物理的なものとは別箇に存在するなにものかだと考えたくなる。実際、常識では、物理現象が客観的に観察されるものである一方、心とは各人の内面によって把握される主観的な現象だと理解されている。それどころか心脳問題の中でもしばしば、主観的意識体験の質としての「クオリア」という概念が持ち出され、その存在を客観的な脳の物理的過程とどう結びつければよいかが問題視されているのである。つまり、物理的実在としての世界とは別に、そこからは抜け落ちてしまうクオリアなる心的なものの存在が持ち出され、両者のつながりをどう説明すればよいかが問題になっているわけである。

 ところで前章では、心的なものを、統一的な世界把握からは抜け落ちる<その都度>的な世界把握の契機として位置づけてきた。そしてこの<その都度>性を「有視点的」という在り方によって特徴づけておいた。けれども、「有視点的」というのはつまるところ「主観的」ということと同義なのだろうか。もしそうであれば、<その都度>的な世界把握というのは、クオリア論者の言うような「主観的意識体験」ということになるのではないか。

 確かに、ここまで述べてきたことは、心的なものの持つ、客体的事物間の連関としては捉えられないようなある種の主観性についてであろう。しかしそもそも「主観性」とは一体何を意味するのだろうか?クオリア論者たちは心の「主観性」だとか「一人称性」だとかいうところを強調するが、こうした言葉の意味をあまり踏み込んで考えようとしない。そこでまずは、クオリアという概念が一体何を意味するのか検討しておきたいと思う。

 

(1)クオリア問題

 心脳問題では、しばしば「クオリア」という概念が論者の間で取り沙汰されている。クオリアは、「感覚質」などと訳され、要はいかなる客観的観察の対象にもならない心の主観的な側面を言い表した概念のことである。腕を強くぶつけたとき、顔をしかめたり腕を押さえたりするような振る舞いは確かに第三者的に観察可能であるが、あの「痛い」というありありとした感じは当人の主観的・一人称的な体験であり、客観的観察からは抜け落ちてしまうというわけだ。これは正に機能主義の心の定義への反駁である。この概念を心脳問題の文脈で持ち出し注目された哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、これまでの科学はクオリアの存在を真剣に扱おうとしなかったとし、クオリアが如何に生じるのかという問題も科学の探究課題だと主張して、それを「意識のハードプロブレム」と名づけた。つまりは、「単なる物質間の連関にすぎない脳の働きから、一体どのようにして主観的な意識体験が実現しうるのか?」というような問題を立てたわけである。

 確かに、科学が記述する世界には、色や匂いや肌触りといったありありとした質感が欠如してしまっている。クオリア論者たちは、質感という単なる客体的に実在する物質間の連関には還元されえないような心の在り方に目を向けようとしているのであり、僕としてもこの点に関しては一応評価すべきだとは思う。しかし僕の考えでは、クオリアという概念も決して看過できない問題を抱えているのである。その問題点は、やはり主観性、あるいは一人称性という語をどのように解釈するかというところにあると思われる。論者たちが「クオリアは一人称的にしかアクセスできない」と主張するとき、質感なるものは、しばしば外界とのかかわりから切り離された、当人の意識内部の出来事であるかのように解されてしまいがちだ。だが以下で見てゆくように、質感なるものを客観的世界に還元しえないからといって、それを当人の主観的意識の内部に位置づけようとしても、結局のところそこにいかなる存在論的規定を与えることも不可能なのである。こんなふうに解されたクオリアという概念は心の存在を何一つ基礎付けるものではなく、むしろかえって心をどこまでも空疎な存在に仕立て上げてしまうものなのだ。

 

 (ⅰ)クオリアという概念の解釈について

 クオリア論者は、クオリアの存在を、知覚において直接的に経験される明白な事実のように考えている。確かに、自分自身の知覚経験を省みると、そこには様々な "質感的なもの" を見出すことができる。例えば、毛布のあのふかふかした感触、心地のよいピアノの音色、木々の鮮やかな緑色、吹き抜ける爽やかな風、あるいは、黒板を引っ掻いたときのあの嫌な音、風邪をひいたときのあの悪寒などなど、枚挙にいとまがない。このように質感的なものは本来、我々にとってきわめて身近な存在であるはずなのだが、それにもかかわらず、クオリアなるものがひとたび心脳問題の文脈に持ち込まれるや否や、途端に捉えどころのない概念へと変貌してしまうのである。日常生活において素朴に了解していることが、哲学的に解釈された途端にいびつなものになり果ててしまうというのは往々にして起こりうることだ。クオリア論者は素朴な実感に定位しているつもりで、その実、心脳問題の文脈においては、質感的なものの存在をきわめて抽象的、観念的に措定してはいないだろうか。

 ここで、チャーマーズクオリア問題を明確化するために持ち出した「哲学的ゾンビ」という概念を見てみよう。「哲学的ゾンビ」なるものは、機能主義の論駁のために持ち出された思考実験上の存在である。まずチャーマーズは、クオリアを端的に実在するものと見做す。つまり、我々人間は皆クオリアを持っていることを前提として認める。そしてここで、そのクオリアが全く欠如した「ゾンビ」の存在を考えてみる。但しこの際、ゾンビは機能的には普通の人間と相違はないものとする。すなわちゾンビは、いかなる観察によっても普通の人間と区別がつかないにもかかわらず、クオリアを一切もっていない存在だと想定するわけである。ゾンビは、腕を強くぶつければ、やはり普通の人間と同様、痛がる振る舞いをする。また、そのときの脳状態等も一切普通の人間と区別がつかないものとする。けれども、ゾンビはただ一点、「痛み」の感覚等、あらゆるクオリアを完全に欠いてしまっている点で人間とは決定的に異なる存在だというわけである。無論、このようなゾンビが現実に存在するかどうかはここでは問題ではない。あくまで論理上、このようなゾンビの存在が想定できさえすればよい。ところで、機能主義の埒内ではこうしたゾンビの想定可能性へと言及することができない。というのも、機能主義は外面的な機能だけを観察し、当人の内面的な経験(クオリアの経験)を全く無視しているからである。かくして、機能主義の心の定義は十分なものとは言えないというわけである。

 チャーマーズは物理的機能の観察では捉えられないような心の主観的な側面を浮き彫りにするために、ゾンビの想定可能性を持ち出す。このゾンビ論法を通して彼の言わんとすることは、僕としても分からなくはない。しかし一方で、ゾンビという概念、つまり、「物理的機能は人間と完全に同一だがクオリアを持たない存在」という想定にかなりの無理があるようにも感じるのである。それ以前にそもそも、ゾンビ論法においての「クオリア」という言葉は一体何を意味しているのだろうか?

 まず、チャーマーズは少なくともゾンビ論法を展開する時には、質感的体験を、その当人の振る舞い方(すなわちその都度身を置く状況とのかかわり方)とは別に、それ自体で切り取って扱えるもののように考えていると思われる。その当人の振る舞いにクオリアがくっついていれば人間であり、それが無ければゾンビだというわけだ。けれども果たして、当人の振る舞いとは別箇に自立して存在し、その振る舞いに任意に着脱可能な質感などというものが存在しうるだろうか?これについては後に詳しく検討するが、先に僕の考えを言っておけば、こんなふうに想定されたクオリアなど無意味なものでしかないと思う。加えて、クオリアを物理的実在としての世界とは別に、それ自体で自立して存在すると想定してしまうと、クオリアと物理的なものとの関係性を如何に規定するかという新たな問題が浮上する。クオリアは、物理的なものに付随するとか、物理的なものによって生み出されるとか言ったところで、全く満足のいく説明にはならない。いわゆる「説明のギャップ」がどうしても残る。このギャップが埋まりそうに無いとすれば、問題の立て方そのものを見直すべきなのではないだろうか。つまり、「物理的なもの」と「非物理的なクオリア」という二つの存在者を立てて、しかる後に両者の接合方法を問題にするということが、果たして適切なアプローチかどうかが問われるべきなのである。

 また、こうして一切の行動や振る舞いから切り離されたクオリアは、ほとんど必然的に当人の主観的意識の内部に現象するものと想定されてしまう。意識体験の質というのは、その意識主観の担い手だけが把握することのできるものであり、他の人々には原理的に接近しえないということになる。例えば、私が受け取る赤色のあの独特の色合いはいかなる言葉を尽くしても完全に客観的に記述することは出来ない。そこから受け取る "感じ" は各主観それぞれによってのみ接近可能なのであり、たとえ物理的には同一物であったとしても、皆がそこから同じような "感じ" を受け取っているという保証はどこにもない。こうした発想から、いわゆる「逆転クオリア」という思考実験もしばしば持ち出される。私は「赤」と名づけられた色から或るクオリアを受け取るが、もしかすると別の人はその「赤」から、私にとっての「青」に相当するクオリアを受け取っているかもしれないというわけである。つまりここでは、クオリアは純粋に私秘的な領域に属する存在として想定されているのである。

 とはいえチャーマーズは、クオリアが外界と文字通りに何のつながりも無いと考えているわけではないようだ。(もしもそんなふうに考えるとそもそも心身問題や心脳問題が成立しないだろう。)チャーマーズは、あくまでもクオリアは物理的なものに「付随する」と考えている。すなわち、適当な物理的状態が実現しているならば、そこにはそれに対応するクオリアが生じているはずだと考えるのである。しかし、クオリアは物理的なものに「自然的」には付随していても、「論理的」には付随するとはいえない(つまり、ゾンビが論理上想定可能である!)ため、クオリアはあくまでも物理的世界の中には位置づけられないような存在だというのである。

 チャーマーズの持ち出す「自然的付随」とか「論理的付随」とかいう概念の詳しい定義は、ここではあまり重要ではないので省くことにする。むしろここで強調すべきなのは、次の点である。すなわち、当人の振る舞いとか身体運動といったものは、あくまで機能主義と同様、「物理的機能」と考えられており、単なる客体的事物間の連関として解されているということである。そしてクオリアは、振る舞いという客体的事物連関に付随して、その当人の意識内部に生じるものだということになるわけだ。だがこうなると、質感的体験は、<その都度>的世界把握の契機、すなわち、その都度身を置く状況が提供するコンテクストの把握やそれへの応答の契機といったものではもはやなくなり、当人の意識内部に孤立した点的印象のようなものになってしまうだろう。クオリアは個々の物理的状態、特に脳状態に付随はするが、あくまでそれ自体としては周囲の状況から切り離すことが可能な、当人の意識に完結したものだということになる。

 だがこんな、何一つ世界に影響を及ぼさず、それ自体として完結した、ただ物理的なものにくっついて当人の意識内部に現れるだけの質感などというものを我々の経験から抽出することが果たしてできるだろうか?クオリアという概念は本当に我々の世界経験の実感に根ざし、そこから引き出されたものであろうか?確かに、事実として、我々は様々な質感的体験をする。知覚経験には、たいてい何かしら質感的なものが伴っている。そして、クオリア論者の主張するように、この質感なるものは、物理的な因果関係の中にはとても位置づけられそうにはない。というのも、ものの多様な質感はその都度の状況に身を置くことによって有視点的に把握されるある種の相貌なのであって、客体的事物とその連関として把握された統一的世界の中にはいかなる場所も持たないからである。だがクオリア論者たちは、質感的体験を周囲の状況から切り離し、当人の意識内部に完結した現象のように措定してしまっている。尤も、クオリア論者とても、クオリアが外界からの刺激によってもたらされることは認めるであろう。けれどもクオリア論者にとっての外界とのかかわりとは、機能主義者と同様、単なる物理的過程にすぎないのであって、それゆえ非物理的存在として措定されたクオリアは、その定義上、外界とのかかわりからは切り離されたものとならざるをえないのである。

 以上から察するに、クオリアなるものは、論者たちの想定するような第一次的・直接的な経験などではなく、むしろ物理的実在としての世界から零れ落ちるなにものかとして措定され、二次的・反省的に作り出されたものなのではないだろうか。たいていのクオリア論者は、物理的実在としての世界を素朴に受け入れ前提している。しかし既に見てきたように、それは<その都度>的に把捉される相貌を排することによって存立しうる世界であるため、そこからは必然的に心的なものの存在が抜け落ちてしまう。いくら脳の物質的過程を仔細に観察しても、どこにも心的なものは見当たらないことに気づくのである。そしてこうした中で、正にクオリアという概念が "要請" されるわけである。クオリアは、物理的実在としての世界から抜け落ちてしまった心的なものを、後になって何とか取り戻そうとして捻り出された概念なのであり、それゆえそれは実のところ我々の如実の経験から引き出されたものでは決してなく、むしろ客観的世界から零れ落ちる何かとして要請され、さらにはそれが誤って実体化されることによって成立したものなのではないだろうか。もしそうだとすれば、クオリアという概念はその成立の経緯上、物理的実在としての世界とは決して相容れない存在なのであり、それにもかかわらず両者を無理矢理に接合しようとしたときに、正にかの「ハードプロブレム」が生じうるわけである。だがこのハードプロブレムはクオリアの定義上、実は全く解決不可能になるように設定されてしまっているのであり、こんな次元ではいかなる議論も徒労に帰することは明白であろう。

 

 (ⅱ)クオリアの一人称的独立性という仮定について

 ここまで、クオリアという概念が、論者たちの想定に反して、実際の経験からあまりにも乖離してしまっていることを指摘しておいた。とはいえやや抽象的な議論になってしまったので、以下ではもう少し具体的な事例を参照しながら理解を深めてゆくことにしたい。以下の議論においても、やはり問題にすべきポイントは、上で述べたような、クオリアをその主観の担い手にしかアクセスできないような主観的意識内部に完結したもの想定すること、すなわちクオリアの「一人称的独立性」とでも言うべき仮定についてである。

 ここで、機能主義の立場の哲学者ダニエル・デネットが著書『スウィート・ドリームズ』において、クオリア批判のために持ち出している「変化盲」の事例について少し検討してみたいと思う。デネットは次のような実験を持ち出す。二枚のほとんど同じ写真を250ミリ秒ずつ、間に290ミリ秒間何も表示されないスクリーンを挟みながら、被験者に交互に提示する。デネットが挙げているのはキッチンの写真で、戸棚の扉の色が白から褐色へ、褐色から白へと切り替わるものである。被験者の多くは、二枚の写真の変化に気づくまでに20~30秒ほどかかるそうだ。

 さて、この変化盲の事例について、デネットは次のような問いかけをする。「二枚の写真の変化に気づく前、被験者のクオリアは変化していたか?」、と。クオリアを各人の主観的意識の内部に現象するものと考えるのならば、少なくとも被験者は二枚の写真の間にいかなる違いも見出せずにいたのだから、クオリアが変化していたと考えるのは奇妙だろう。ではクオリアは変化していなかったと解釈すべきだろうか?しかしこの場合でも、やはりクオリアの一人称的独立性という仮定に亀裂が入りはしないだろうか。というのも、例えば被験者は実験者から戸棚の扉に注目するように指示されたら、もう二枚の写真の違いを認めざるをえなくなるのであり、ここではまぎれもなく写真の見え方(すなわち戸棚の色クオリアの様態)は実験者の指示に従属的であることが示されているからである。すなわち、二枚の写真をただ漫然と眺めるのか、それとも特定の部分に注意して観察するのか、というような、ある種の状況とのかかわり方の変化が写真の相貌に変化をもたらすのであり、実験者が被験者に対して戸棚の部分に注目するように指示したとすれば、それは被験者に新たなコンテクストのもとで写真を見るように促したということにほかならない。したがって、二枚の写真の色クオリアというのも、それらの写真をどのような文脈において把握するのかということにもとづけられているわけである。

 してみれば、ものの質感というのは当人の意識主観内部に完結した現象などではなく、いつもその都度の外界とのかかわり方の一契機として意識されるものなのではないだろうか。その意味では、クオリアは私秘的なものではなく、他の人々との共有可能性を持つはずであり、実際、変化盲の事例において戸棚の部分に注目するように指示することは、被験者に写真を見る文脈を共有させることで、互いに写真の相貌を共有するための働きかけにほかならない。勿論、文脈を共有するとはいっても、二人の人間が完全に同じ時間と場所を共有し、完全に同一の世界経験を保有することは原理的に不可能である――というよりも、それでは完全に一体化してしまい「共有する」という語が無意味になるだろう。他の人々と質感的体験を共有するというのは、その人が身を置いている状況から、何らかの一つのコンテクストを世界把握の様式として切り出し、自らそのコンテクストのもとに身を置いてみるということなのである。以上のような考えのもとでは、一人称的独立的なクオリアなどというものは、いかにも宙に浮いた概念であることが理解されよう。

 とはいえ、次のような疑問を覚える方がいるかもしれない。「色はそれぞれ独特の質感を持っているが、その独特の "感じ" はとても完全に客観的には記述されえないように思われる。それならば、やはり色の質感は一人称的独立性を持っていると言わざるをえないのではないか?」、と。確かに僕としても、色の持つあの豊かな質感を、客観的・統一的記述に完全に還元することはほとんど不可能だとは思う。けれどもだからといって、各人の意識主観内部に現れる純粋質としてのクオリアなどというものを本当に仮定せねばならないだろうか?色の質感を完全に客観的に記述できない理由は、色クオリアの一人称的独立性というところにあると言うべきだろうか?僕はそうは思わない。僕の考えでは、色の質感というのはその都度の多様な文脈において把握されうるため、統一的な記述はこうした<その都度>的多様性を一挙に汲みつくすことが出来ないのである。実際、色彩というものは、その都度の状況によってきわめて多様な相貌を呈する。例えば、対象物の一部に影がかかっていて影の部分の色が他の部分の色と異なって見えていたとしても、いまそれが特定の対象物として知覚されているのであれば、影のあるなしに関わらず一つの対象物として同一の質感を維持しうる。けれども一方で、影絵劇の鑑賞などにおいては、むしろスクリーンに映し出される影の部分とそれ以外の部分とがくっきりと区別される。してみれば、色彩というのはその都度知覚される対象物に、またその時々の状況において何をどのようなものとして知覚するかということに依存しているわけである。

 あるいは色彩の状況可変性という点に関して、次の「チェッカーシャドウの錯視」と呼ばれる錯視図を少し検討しておきたい。

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 図のAとBのタイルの色を比較すると、明らかにAのタイルの色の方が濃く見えるだろう。けれども実際は、AとBは同色である。この錯視現象は、物理的には同一の色であっても異なった色として知覚されうることを示している。すなわち、色の客観的な波長には還元されえない特有の主観的な色彩体験の存在を示していると言えよう。けれどもこの錯視は同時に、感覚的性質をそれ自体で実体化し純粋に私秘的な領域に閉じ込めてしまうようなクオリア論者の考え方をも否定しているのではあるまいか。というのも、AとBが同色に見えるか否かは状況依存的であり、A、Bの色クオリアをそれ自体で自立したものとして取り出すことは不可能だろうからだ。実際、A、Bのタイル以外の背景を全て消してしまえば、AとBは同色にしか見えなくなるのであり、A、Bの色クオリアが同一であるか否かは、それらが置かれている全体のコンテクストによって変わってくるわけである。この錯視図のもつ、チェス盤柄のタイルに円柱状の物体の影がかかっているというような状況の意味を、おそらく我々は前述定的に了解しているのであり、その状況のもつ意味の了解にもとづいて、AとBが異なる色として弁別されうるのであろう。してみれば、AやBから受け取る色彩感覚は、当人の主観内部に完結した出来事などではなく、外界の状況の意味にもとづけられているわけだ。このことは何も色彩のみならず、あらゆる感覚的性質について言えることであろう。他の例として、「ピアノの音」のクオリアなどはどうだろう。ピアノの音と一口に言っても、演奏する曲によってその音から受け取る感じは様々に変容する。たとえ異なる曲の中で同一の和音が用いられたとしても、その和音から必ずしも同一のクオリアを受け取るわけではない。言うまでもなく、個々の音はその曲全体のコンテクストにおいて初めて意味づけられるのであり、それゆえピアノの音の感覚的性質をそれ自体で取り出すことなど当然不可能なのである。

 以上から察せられるであろうが、質感的体験とは<その都度>的世界把握の一つの契機であり、また、ものの質感とは、その都度の状況において見出される諸事物の呈する相貌なのである。そしてこの相貌を把握することというのは、意識主観内部に現象するクオリアを所有することなどでは決してなく、外界の事物の様相を有視点的に把握することにほかならない。尤もこうした主張は、改めて言明するまでもない至極当然のことなのかもしれないが、しかしこの当然のことを機能主義者もクオリア論者も見過ごしがちであるということについては強調されねばならない。すなわち機能主義者は、諸事物の有視点的把握という側面を度外視して、専ら無視点的に把握された客体的事物連関としての世界のみを主題にし、そこへと心的なものを還元しようとしている。一方クオリア論者は、機能主義では満足せず反駁を試みようとはしているが、しかし結局のところ、機能主義者と同様、客体的事物連関としての世界を前提として受け入れてしまっているのであり、その上で後になってそこにクオリアなる観念上の構築物を付加することで、心的なものを取り戻そうとしているにすぎない。

 質感的なものを含めた諸事物の多様な相貌は、事物の客体性を担保したところから出発するような思考法ではうまく捉えることが出来ないものである。したがって、批判の目は改めて機能主義へと向けられねばならない。ここでもう一度、デネットの変化盲の事例を振り返ってみよう。おそらく機能主義者のデネットならば、二枚の写真の違いに気づいた際の写真の相貌変化は、物理的機能として十分に記述されうると主張するだろう。けれども、少なくとも "機能" なるものが物理的因果関係、すなわち、客体的事物間の連関と解釈される限りにおいては、そこではいかなる相貌変化をも記述することが出来ないのである。機能主義が記述しうるのは、ただ外的諸条件と観察対象の振る舞い方の関連性についてのみである。そこでは、二枚の写真は単なる客体的事物と解され、統一的世界の中に位置づけられるわけだが、客体的事物として同一性を担保された写真にはいかなる相貌変化も存在しえないのであって、変化するのはやはり客体的事物と見做された被験者の振る舞い方だということになる。しかし今主題にすべきなのは、あくまでも被験者当人にとっての写真の相貌変化についてである。この<その当人にとっての>という構造こそが、「有視点性」を特徴付けているものであるわけだが、機能主義はこの構造を骨抜きにしてしまうのである。より分かりやすい例として、「太郎が道端の犬を見て怖がっている」という事態を考えてみよう。これを機能主義的に解釈すれば、太郎が犬の視覚的刺激を受容したことによって生じる太郎のある種の振る舞いが「恐ろしい」という感情であるということになるだろう。しかし、この「恐ろしさ」なるものは単に太郎の機能的振る舞いを意味するのではない。ここでの「恐ろしい」とは、すなわち「犬が恐ろしい」ということであろう。尤も、犬が恐ろしいとはいっても、客体的事物としての犬が客観的に「恐ろしい」という性質を所有しているわけではあるまい。そうではなく、ここでは「太郎にとって犬が恐ろしい相貌を呈している」ということを意味してるのである。すなわち、太郎にとってみれば、単なる客体的事物としての犬に対しての自身の機能的振る舞いが恐ろしいのではなく、端的にその犬が恐ろしいのだ。機能主義者は、この至極当然の含意に全く無頓着なのだが、しかし一般に、なにかしら心的なものが伴っていると見做される事象には、たいていその都度、その当人にとっての世界の相貌把握という契機が暗黙に含意されているのではないだろうか。機能主義は心的事象を記述する際、こうした暗黙の了解を主題化せぬままに前提し、この前提を統一的に記述された事象に無自覚のまま潜り込ませることによって、心を記述したつもりになっているだけのように思われる。

 

part4→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part4) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>

ポリフォニーの世界(前編その3)

その1とその2の記事はこちら

ポリフォニーの世界(前編その1) - 対話空間_失われた他者を求めて

ポリフォニーの世界(前編その2) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

 


前回のおさらい

 

私たちは、有視点把握と無視点把握という二つの世界把握の様態を携えて生きている。有視点把握とは主体のあり方と関わっている世界把握であり、無視点把握とは主体のあり方に関わらない世界把握であった。有視点把握は無視点把握なしでは有視点把握として成立しないし(無視点把握がなければそれは秩序なき混沌に過ぎない)、逆に無視点把握は有視点把握に依存しているということを述べた。

 

 

 


W=f(o,s,b,m)

 

さて、今回は初めに世界が秩序づけられる四つの要因について紹介しておこうと思う。それは後編に取り上げようと予定している相貌論の「物語」という概念にも関わってくる。
まず上の関数について説明しておこう。これは、世界を秩序づけるあり方を便宜的に多変数関数で表現したものである。
各文字は下記の意味である。

 

W:世界のあり方(Wはworldの頭文字か)
o:対象のあり方(oはobjectの頭文字か)
s:対象との位置関係(sはspaceの頭文字か)
b:身体に関わる要因(bはbodyの頭文字か)
m:意味に関わる要因(mはmeaningの頭文字か)

 

数学に苦手意識のある方は逃げ出してしまうかもしれないが、高度な数学的知識がなければ理解不可能なことを述べているわけでは無い。
y=f(x)という関数を高校の頃に学んだと思う。これは、yがxの関数であるといい、つまりyの値がxの値によって決まるという関数だ。
z=f(x,y)なら、zの値がxとyの値によって決定されるという関数である。
つまりこの関数は、世界のあり方(W)が、対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体の関わる要因(b)、意味に関わる要因(m)の四つの要因に依存していることを表現しているのである。
無論、この関数表現は物理学的記述のような対象と対象の関係を扱ったものではなく、便宜的な表現として理解すべきだろう。

 

時計という例で説明していこう。
第一に、対象のあり方(o)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これは詳しく説明する必要はないだろう。例えば時計の示す時間が違えば、違うように見えるという、ただそれだけのことである。
第二に、対象との位置関係(s)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これもそのままである。今の時計の例でいえば、ある人からは時計がよく見えるけれど、別の部屋にいる人からは時計が見えないという事実をあげておけばいいだろう。
第三、身体に関わる要因(b)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。例えば、視力の強弱に違いがあるために、同じ時刻、同じ場所にいるのに、ある人には時計の文字盤が見えるのに、ある人にはぼやけてよく見えないという場合がある。これは、身体のあり方が世界のあり方に影響するという事実の一例である。
最後第四に、意味が関わる要因(m)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。私たちは時計を時間を知るための道具としてその相貌を見るが、もし時計を知らない人(例えば原始人)が同じものを見たなら私たちが時計を見るのとは違った相貌でそれを見るだろう。

 

野矢氏は四つの要因のうち、対象との位置関係(s)と身体に関わる要因(b)に着目して世界のあり方を分析することを眺望論を呼び、当書でその完成をみたと宣言している。そして、四つの要因のうち、意味に関わる要因(m)に着目して世界のあり方を分析することを相貌論と呼び、以前の研究から前進させることができたと述べている。前進させることができたというのは、ネガティブな表現をすれば、まだ未完成であり不十分だということである。確かに、ここの分析は一筋縄でいかないところがある。対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体に関わる要因(b)は、外的なものを観察することが分析のヒントになるだろうが、最後の意味に関わる要因(m)だけはただ自分自身に問いかけるしか分析のよすががないからだ。しかし眺望論で掬いきれないこの相貌論の分析こそが、非常に重要な主題であるように思う。主観と客観の関係性、あるいは多くの哲学的アポリアも、実は問題ではないのだ。意識の繭などないのだから。


相貌論について詳しくは後編で扱う予定だか、今少し触れておこう。野矢氏は相貌論において、「物語」という概念を用いて分析を試みている。これはつまり、相貌はそこに開かれる物語によって決定される、ということに依拠した分析である。それぞれの開かれた物語に応じて、相貌は違ってくる。このことは、先ほどの時計の話が好例となっているだろう。


また、概念は典型的な物語を開くということを紹介しよう。例えば、「犬」という概念についてである。私たちがある対象を「犬」という概念で捉えた時、その対象は「犬」という概念が開く物語の中に位置付けられる。つまり、それは親から生まれ、毛に覆われていて、ワンと鳴き、四つ足で歩き、鼻がきき、眠ったり起きたりして、喜べば尻尾を振り、やがて死ぬ等という存在として了解する。無論、毛に覆われていない犬もいるし、鼻が利かない犬だってありうるだろう。しかし、それは問題ではない。私たちは「犬」という概念に対してそのような典型的な通念を了解している。ある対象を「犬」という対象の元にとらえるとき、私たちはその対象を典型的な物語の内に位置付け、そしてこの典型的な「犬」の物語がその対象の知覚に反映され、相貌をもたらす。


最後に、公共的な相貌と個人的な相貌について紹介しておこう。太郎と花子の前に一匹の(大きめの)犬がいるとする。太郎は幼少期に犬に噛まれ大怪我をした経験があり、それ以来犬を恐れているところがある。一方花子は長年愛犬家で犬には慣れている。この二人の相貌の違いについてである。二人は「犬」という共通の概念でこの対象を見ているだろう。この概念が、先ほど説明したように、典型的な物語を開く。この対象は、典型的な物語の内に位置付けられる。典型的な「犬」という相貌が二人にもたらされているのだ。このように複数の人に共有される相貌を公共的な相貌と呼ぶ。また、二人は同じ「犬」という概念でこの対象を見ているが、違っているところがある。太郎はその対象を「怖い」というふうに感じ、花子はその対象を「かわいい」と感じていたとしよう。二人の異なった個人的な経験によって、異なった物語が開かれているのである。開かれた物語によって相貌は決定されるのだから、二人のこの犬に対する相貌は異なって「も」いるのである。この場合のように、複数人に共有されていない相貌を個人的な相貌と呼ぶ。このように、私たちは他者と共有する公共的な相貌と、他者と共有しない個人的な相貌を有することになる。つまり、私たちは他者と相貌を共有していていることもあれば、共有していないこともあるのである。


さらに言えば、相貌はそこに開かれる物語によって決定されるのだから、相貌の公共性と個人性は、物語の公共性と個人性ということに他ならない。私たちは他者と物語を共有しつつ生き、それと同時に個人的な物語を生きている。他者と物語を共有しつつ生きているのだから、私は私一人の物語世界を生きているのではない。

 


(前編その4へ続く)

 


<筆者 murata>

ポリフォニーの世界(前編その2)

前回の記事はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

前回のおさらい

 

多くの人が想定してしまう意識の繭(まゆ)とはどのようなものだったか。それは外界と隔絶された、私に閉じられた意識であった。それは繭の外界にある物それ自体が表象する場所であった。意識の繭に生まれる表象は、外界の物それ自体とはどれだけ詳細に観察しようが原理的に完全に一致することはない。また、その表象は見間違えのように、物それ自体とは全く一致しないこともある。さらにそれは、幻覚や幻聴のように、外界にはないものを全くでっち上げてしまうことすらある。意識の繭とはそのようなものだった。
しかしこの意識の繭なるものは哲学的捏造物に過ぎない。それを前編で示そうとしているのだが、そのためにその2では有視点把握と無視点把握という二つの世界の把握の仕方について紹介しようと思う。

 

 


有視点把握と無視点把握


我々は二つの仕方で世界を把握する。それが有視点把握と無視点把握である。と書いても誤解を与えてしまうかもしれない。というのは、この書き方だと、ある時には世界を有視点的に把握し、またある時には無視点的に把握することがあるというふうに、あたかもスイッチを切り替えるかのような二つの把握の仕方だと捉えられかねないからである。そうではない。世界はいつでも有視点的にも無視点的にも把握されているのである。そして、有視点把握と無視点把握は相互依存的なのだ。つまり、有視点把握が成立していなければ無視点把握は成立し得ないし、逆に無視点把握が成立していなければ有視点把握は成立し得ない。具体例を挙げつつ説明しよう。

 

まずは有視点把握についてである。私の住む京都の玄関口である京都駅のメイン改札口を出れば、目の前には白い京都タワーが見える。観光客がよくそこから写真を撮っている。

 

 

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改札口前という特定の視点から撮られた写真に撮った主体は写り込んでいないが、しかしどこから撮られたのかという視点がどこにあるのかということは示されている(改札口の前である)。このように、主体の把握のあり方が示されているような把握の仕方を野矢氏は有視点把握と呼ぶ。


一方、無視点把握について説明する。同じく京都タワーを例にとって説明する。

 

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京都駅周辺の上の地図には京都タワー(赤い点)が描かれているが、そこには先ほどの改札前の写真とは違って、視点がどこにあるのかということが示されていない。主体の視点が無いのである。このように、主体のあり方を示唆することなしに成立しうる世界把握が無視点把握である。

今あげた例はあくまで視覚を例にとった把握に過ぎないが、世界把握の基礎には全て有視点把握と無視点把握が相互に働きつつ成立しているのである。私たちは有視点把握と無視点把握を共に携えて生活している。例えば、今私は、家の椅子に座って机の上にあるパソコンに文字を打っている。近い場所、例えば机の上に目をやれば、メガネケースや筆記用具などが雑然と散らばっているのを見る。そして振り返ってやや遠くに目をやれば、書棚やキッチンが見える。それらは今私が座った椅子から見られた有視点的な把握である。そして一方で私はメガネケース、筆記用具、書棚やキッチンを、私の視点によらず家のどの場所にあるのかを把握している。これが無視点把握である。このように私たちの世界把握は無視点的な様相と有視点的な様相を共に備えている。

 

 

さて、有視点把握と無視点把握は相互依存的であるということについても述べておきたい。

まず有視点把握が無視点把握に依存していることを示す。これは立体ということを例にして考えていきたい。

 

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上の図は一脚の椅子(のつもり)である。絵が下手なのはご容赦いただくとして、これを読む人はパソコンの画面、あるいはスマートフォンの画面にこの椅子の絵が写っているはずである。それがどうしたと思われるかもしれない。しかし、この絵が一脚の椅子であるというのはどのようにして成立しているのであろうか。画面に映っているのは、単なる線に過ぎない。それが椅子という意味を成立させているのは何であるか? それは、他の様々な方向から見られた眺望の了解である。一脚の椅子であるという意味が形成されるためには、他の複数の地点からの眺望が同一の対象のもとに関係付けられ、まとめあげられるということが必要なのである。断片的に一つのものだけを見ているだけでは、そこに意味を持ったものは形成されない。それは、この場合では単なる線という以上の意味を持たない。それが一脚の椅子であるという意味を持たせるには、他の視点からの、つまり私が今立ち会っていない別の場所からの眺望と関係づけられていなければならない。それを関係付け、まとめ上げられなければ一脚の椅子という意味は形成されない。このことは、有視点把握は無視点把握に依存しているということに他ならない。すなわち、今、上の絵を見る人は、画面の前から有視点的にこの絵を椅子という意味で把握しているが、それがそのこととして成立しているのは、画面の前のみならず、様々な複眼的な視点、一般的な視点からの、すなわち無視点的な了解があり、それによってまとめ上げられているからこそなのである。この意味で、有視点把握は無視点把握に依存していると言えるのである。これはあくまで視覚という特殊な例における説明に過ぎないが、本(『心という難問』)には一般的な解説が記述されている。

 

次に無視点把握も有視点把握に依存していることを示す。
これは、先ほど挙げたメガネケースを例にとって説明してみよう。
今、私がこれを書いている机の上にはメガネケースが置いてある。私はそれを椅子に座って、ある特定の視点から見る。有視点把握である。それと同時に、私はこの椅子に座った視点からだけでなく、視点によらず、そのメガネケースが家のこの机の上に置いてあることを把握している。無視点把握である。私はこの二つの世界把握を携えてこのメガネケースを把握している。しかし、メガネケースはいつも机の上に置いてある訳ではない。机に置いてあることがほとんどだが、カバンの中に入っていることもあれば、ベッドの横のテーブルに置いていることもある。ある時、私はかけているメガネを外してメガネケースに入れようとしたとする。しかし、机の上にあったと思っていたメガネケースは(私は習慣としてメガネケースを大抵机の上に置いているから)見当たらない。ベッドの横のテーブルを見る。そこにもない。カバンを探す。あった。すなわち、この例に置いて、無視点的に把握されたメガネケースの位置は机の上からカバンの中へと更新されたのである。日常では無視点的な眺望が極めて安定しているケースも多いが(京都タワーなど)、このメガネケースの例のように、無視点的な、つまりある特定の視点によらない位置の把握も更新(アップデート)されていく。この更新は、知覚による主体のある視点からの新たな情報の取り込みがなければ不可能である。この一例から、無視点把握は有視点把握に依存していることが理解されると思う。尚、野矢氏はこの更新ということの他に、細密化や忘却ということからも無視点把握が有視点把握に依存していることを説明している。

 


さて、私たちは意識の繭などないということを示そうとしているのだった。総括はまた後で行うが、今少しだけ述べておこう。意識の繭論者はおそらく、無視点把握されたあり方こそ世界の真のあり方だと思い込んでいるのだろう。そして、有視点把握は真なる無視点把握の表象であるかのように捉えているのだろう。しかしそうではない。知覚は意識の繭に生まれた表象などではない。従って、誤った知覚(例えば錯覚)とされるものは、誤った表象ではなく、それはそれで世界のあり方なのである。

 

(前編その3へ続く)


<筆者 murata>