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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

ポリフォニーの世界(前編その2)

前回の記事はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

前回のおさらい

 

多くの人が想定してしまう意識の繭(まゆ)とはどのようなものだったか。それは外界と隔絶された、私に閉じられた意識であった。それは繭の外界にある物それ自体が表象する場所であった。意識の繭に生まれる表象は、外界の物それ自体とはどれだけ詳細に観察しようが原理的に完全に一致することはない。また、その表象は見間違えのように、物それ自体とは全く一致しないこともある。さらにそれは、幻覚や幻聴のように、外界にはないものを全くでっち上げてしまうことすらある。意識の繭とはそのようなものだった。
しかしこの意識の繭なるものは哲学的捏造物に過ぎない。それを前編で示そうとしているのだが、そのためにその2では有視点把握と無視点把握という二つの世界の把握の仕方について紹介しようと思う。

 

 


有視点把握と無視点把握


我々は二つの仕方で世界を把握する。それが有視点把握と無視点把握である。と書いても誤解を与えてしまうかもしれない。というのは、この書き方だと、ある時には世界を有視点的に把握し、またある時には無視点的に把握することがあるというふうに、あたかもスイッチを切り替えるかのような二つの把握の仕方だと捉えられかねないからである。そうではない。世界はいつでも有視点的にも無視点的にも把握されているのである。そして、有視点把握と無視点把握は相互依存的なのだ。つまり、有視点把握が成立していなければ無視点把握は成立し得ないし、逆に無視点把握が成立していなければ有視点把握は成立し得ない。具体例を挙げつつ説明しよう。

 

まずは有視点把握についてである。私の住む京都の玄関口である京都駅のメイン改札口を出れば、目の前には白い京都タワーが見える。観光客がよくそこから写真を撮っている。

 

 

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改札口前という特定の視点から撮られた写真に撮った主体は写り込んでいないが、しかしどこから撮られたのかという視点がどこにあるのかということは示されている(改札口の前である)。このように、主体の把握のあり方が示されているような把握の仕方を野矢氏は有視点把握と呼ぶ。


一方、無視点把握について説明する。同じく京都タワーを例にとって説明する。

 

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京都駅周辺の上の地図には京都タワー(赤い点)が描かれているが、そこには先ほどの改札前の写真とは違って、視点がどこにあるのかということが示されていない。主体の視点が無いのである。このように、主体のあり方を示唆することなしに成立しうる世界把握が無視点把握である。

今あげた例はあくまで視覚を例にとった把握に過ぎないが、世界把握の基礎には全て有視点把握と無視点把握が相互に働きつつ成立しているのである。私たちは有視点把握と無視点把握を共に携えて生活している。例えば、今私は、家の椅子に座って机の上にあるパソコンに文字を打っている。近い場所、例えば机の上に目をやれば、メガネケースや筆記用具などが雑然と散らばっているのを見る。そして振り返ってやや遠くに目をやれば、書棚やキッチンが見える。それらは今私が座った椅子から見られた有視点的な把握である。そして一方で私はメガネケース、筆記用具、書棚やキッチンを、私の視点によらず家のどの場所にあるのかを把握している。これが無視点把握である。このように私たちの世界把握は無視点的な様相と有視点的な様相を共に備えている。

 

 

さて、有視点把握と無視点把握は相互依存的であるということについても述べておきたい。

まず有視点把握が無視点把握に依存していることを示す。これは立体ということを例にして考えていきたい。

 

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上の図は一脚の椅子(のつもり)である。絵が下手なのはご容赦いただくとして、これを読む人はパソコンの画面、あるいはスマートフォンの画面にこの椅子の絵が写っているはずである。それがどうしたと思われるかもしれない。しかし、この絵が一脚の椅子であるというのはどのようにして成立しているのであろうか。画面に映っているのは、単なる線に過ぎない。それが椅子という意味を成立させているのは何であるか? それは、他の様々な方向から見られた眺望の了解である。一脚の椅子であるという意味が形成されるためには、他の複数の地点からの眺望が同一の対象のもとに関係付けられ、まとめあげられるということが必要なのである。断片的に一つのものだけを見ているだけでは、そこに意味を持ったものは形成されない。それは、この場合では単なる線という以上の意味を持たない。それが一脚の椅子であるという意味を持たせるには、他の視点からの、つまり私が今立ち会っていない別の場所からの眺望と関係づけられていなければならない。それを関係付け、まとめ上げられなければ一脚の椅子という意味は形成されない。このことは、有視点把握は無視点把握に依存しているということに他ならない。すなわち、今、上の絵を見る人は、画面の前から有視点的にこの絵を椅子という意味で把握しているが、それがそのこととして成立しているのは、画面の前のみならず、様々な複眼的な視点、一般的な視点からの、すなわち無視点的な了解があり、それによってまとめ上げられているからこそなのである。この意味で、有視点把握は無視点把握に依存していると言えるのである。これはあくまで視覚という特殊な例における説明に過ぎないが、本(『心という難問』)には一般的な解説が記述されている。

 

次に無視点把握も有視点把握に依存していることを示す。
これは、先ほど挙げたメガネケースを例にとって説明してみよう。
今、私がこれを書いている机の上にはメガネケースが置いてある。私はそれを椅子に座って、ある特定の視点から見る。有視点把握である。それと同時に、私はこの椅子に座った視点からだけでなく、視点によらず、そのメガネケースが家のこの机の上に置いてあることを把握している。無視点把握である。私はこの二つの世界把握を携えてこのメガネケースを把握している。しかし、メガネケースはいつも机の上に置いてある訳ではない。机に置いてあることがほとんどだが、カバンの中に入っていることもあれば、ベッドの横のテーブルに置いていることもある。ある時、私はかけているメガネを外してメガネケースに入れようとしたとする。しかし、机の上にあったと思っていたメガネケースは(私は習慣としてメガネケースを大抵机の上に置いているから)見当たらない。ベッドの横のテーブルを見る。そこにもない。カバンを探す。あった。すなわち、この例に置いて、無視点的に把握されたメガネケースの位置は机の上からカバンの中へと更新されたのである。日常では無視点的な眺望が極めて安定しているケースも多いが(京都タワーなど)、このメガネケースの例のように、無視点的な、つまりある特定の視点によらない位置の把握も更新(アップデート)されていく。この更新は、知覚による主体のある視点からの新たな情報の取り込みがなければ不可能である。この一例から、無視点把握は有視点把握に依存していることが理解されると思う。尚、野矢氏はこの更新ということの他に、細密化や忘却ということからも無視点把握が有視点把握に依存していることを説明している。

 


さて、私たちは意識の繭などないということを示そうとしているのだった。総括はまた後で行うが、今少しだけ述べておこう。意識の繭論者はおそらく、無視点把握されたあり方こそ世界の真のあり方だと思い込んでいるのだろう。そして、有視点把握は真なる無視点把握の表象であるかのように捉えているのだろう。しかしそうではない。知覚は意識の繭に生まれた表象などではない。従って、誤った知覚(例えば錯覚)とされるものは、誤った表象ではなく、それはそれで世界のあり方なのである。

 

(前編その3へ続く)


<筆者 murata>