対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part4)

※part1~part3はこちら

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<第二章 心と有視点性 の続きから> 

(2)状況把握について

 ここまで見てきたように、質感的なものを含めた諸事物の相貌とは、その都度の状況から遊離した意識主観内部に現れる印象などではなく、その当人が今身を置いている状況のもとでの事物の様相である。一方このことは同時に、事物の相貌把握には、いつもその都度の状況のコンテクストについての了解が(たとえ非主題的にではあれ)含まれているということを示している。例えば、チェッカーシャドウの錯視図を見るとき、「チェス盤柄のタイルに影がかかっている」という状況についての了解が成立しているからこそ、錯視が起こりうるわけである。ということは、<その都度>的な世界把握には、「今どのような状況に身を置いているか」ということについての了解が含意されているのである。尤も、この了解はいつも主題的・明示的であるわけではない。とりわけ、習慣化され、滞りなく事が進捗する場合には、<その状況のもとでの>という契機は、その行為を為す上での前提的了解であり、ほとんど意識されることはないだろう。しかし思うに、<その状況のもとでの>という契機が明示的な状況把握として主題化されるような場面がない限り、一般に「心」と呼ばれる現象はおそらく成立し難いのではないだろうか。

 少し敷衍しよう。心と呼ばれるものの定義は実に不明瞭であるが、とはいえ一般に心的なものには、上でも述べたように、<その当人にとっての>という構造が含意されているように思われる。ではこの構造が浮き彫りになるのはどのような場合であろうか?少なくとも、今身を置いている状況が明示的に主題化されることなく、ただただその都度の状況に順応した円滑な行為が実現しているようなときには、おそらくこのような人称的構造は見出されえないだろう。というのも、そこでの事物の相貌は、ただ周囲世界が現にそのように在るということ以上のものではなく、どこまでも非人称的なものであり、したがって<その当人にとっての>ということを含意しえないからである。この構造が浮き彫りになり、心的なものが姿を現すのは、例えば典型的には、他の人々との円滑なやりとりが何らかの食い違い等によって阻害され、そのことによって改めて各人の相貌把握の在り方が問題になるような場面であろう。そこでさしあたっては、こうした他者理解が求められるような場面について詳しく考察したいと思う。尤も、他者理解の問題はそれ自体かなり重要なテーマであるため、ここではこのテーマをくまなく取り扱うことは到底出来ない。あくまで以下の考察においては、心という現象の存在性格を照明するところに力点を置くことにしたいと思う。

 

 (ⅰ)状況把握としての他者理解

 上で述べたように、<その状況のもとでの>という契機が主題化されない限り、<その当人にとっての>という構造は開示されえない。ということは、他者にとって立ち現れている世界の相貌が問題になるとき、その当人がどのような状況に身を置いているかということが主題化されることになる。すなわち他者理解が求められる場面においては、必然的に<その状況のもとでの>という契機が主題となるわけである。ところが、このことを十分に理解していないと、次のような疑問に惑わされることになるであろう。それは、「その当人にとって立ち現れている相貌を了解するとはいっても、他者に立ち現れている相貌を私が直接知ることは出来ないのだから、結局のところ、当人の振る舞い等の物理的機能の観察を通して、そこから間接的にその当人が把捉しているであろう事物の相貌を推測するしかないのではないか」、というような疑問である。ここではおそらく、諸事物の相貌は「クオリア」のような、各人の意識主観内部に完結したものというふうに想定されていると思われる。だがそうはいっても、各人の内面に閉ざされ完結した何ものかを当人以外の人間が一体いかにして推測するというのだろう?他者への通路は、"主観" ないしは "内面" なるものの定義によって初めから封鎖されてしまっているのではないか。(ここでは検討を省略するが、いわゆる「類推説」や「感情移入説」と呼ばれる説明もこうした疑問を全く解決しない。)こうなると、他者の心はその存在すら確証しえず、心脳問題以前に、もはやそもそも「心」なるものが果たして一つの概念として成立するかが問題になるだろう。ゾンビ論法における大前提である「我々は皆クオリアを持っている」ということが改めて証明されねばならない問題として浮上してくるのである。かくして、他者問題、ないしは他我問題という哲学上の難問が生じてくるわけだ。

 当然僕としては、この他者問題も心脳問題と同じく解決の見込みのない不毛な問題であり、問題の立て方そのものを見直すべきだと考える。すなわち、「客体的事物連関としての外的振る舞いの観察をもとにして、いかに他者の意識内部を推測するか?」という問題設定の構図そのものを見直すべきなのである。かといって機能主義的に、他者理解を単なる客体的事物連関としての物理的機能の観察的把握へと還元してしまうのもやはり不当である。あくまで他者理解の焦点は、「他者にとって立ち現れている相貌を私がいかにして了解するか」というところであろう。ところで上で述べたように、他者理解において必然的に主題となるのは、<その都度>的な世界把握の構成契機である<その状況のもとでの>ということについてである。さらに言えば、他者が身を置く状況のコンテクストを了解することが求められているのではないだろうか。ここで言う状況のコンテクストなるものは、客体的事物間の連関仕方では断じてない。状況のコンテクストとは、その都度、その当人が周囲世界とかかわることによって実現しうる何らかの世界把握の様式のことである。他者理解において求められるのは、正にその当人の世界把握の様式を私自身が獲得することなのであり、そのためには単に物理的機能としての他者の振る舞いの観察に徹しているだけではだめで、その振る舞いが纏っている状況のコンテクストを、おのれ自身何らかの仕方でなぞる必要があるのだ。

 上のような主張を分かりよいものにするための一つの手がかりとして、次のような例を見てみよう。

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 この絵はかなり有名なので既知の方も多いと思うが、実はここにはダルメシアンが描かれている。おそらく初見の方の中には、これがダルメシアンの絵だというのをすぐには理解できない方もいるだろう。さて、今仮に私にはこの絵がダルメシアンには見えないとしよう。こうした状態で、他の人がこの絵を見て「ダルメシアンが見える!」と発言したとしたら、私はどうすればその発言の趣旨を理解したことになるだろうか。この絵を見たときのその当人の振る舞いや脳状態を観察すればよいのか。しかしそれでは、私は他者にとって立ち現れている相貌をいつまでたっても了解できないであろう。いくら脳状態を仔細に観察したところで、ダルメシアンの相貌は出てこないのだから。こうした機能主義的アプローチでは、結局のところ他者への通路は塞がれたままなのである。ではダルメシアンの相貌はその発言者の意識主観内部に閉ざされた出来事で、私には原理的に接近できないのかといえば、勿論そんなことはない。ダルメシアンの相貌を把握するためには、単に振る舞いを観察しているだけではなく、私自身もその人と同じようなコンテクストのもとでこの絵を見なければならないのだ。当然、この絵を構成する物理的特性――例えば白と黒の部分の色の波長やそれらの配置等を精確に抽出したところで、やはりそこにはダルメシアンの相貌は存在しない。このただの染みのような絵をダルメシアンが描かれたものとして見るという一つの把握様式をこそ、私自身が会得しなければならないのである。そしてもし私がこの把握様式を身につけ、なるほど確かにダルメシアンが見えるということを納得できたのならば、そのとき初めて発言者の真意を了解したことになるであろう。

 してみれば他者理解とは、単なる客体的事物連関としてのその当人の振る舞いの観察的把握などではないし、また、振る舞いをもとにしてその当人の内的クオリアを推測することでもない。他者理解、すなわち他者にとって立ち現れている相貌を私が了解することとは、その当人が身を置く状況のコンテクストを私自身が何らかの仕方でなぞることによって、他者がそこで実現している一つの世界の把握様式を私自身も獲得することなのである。尤も、こうした試みがいつでも上手くいくとは限らない。上記のような単純化した例においてはさしたる困難はないかもしれないが、当然のことながら、実際に他者理解が求められる場面においてはそう一筋縄にはいかないことも多々あるだろう。私が他者の把握様式を獲得するためには、多くの場合他者との対話を積み重ねばならないだろうし、しかもたとえ対話を重ねたとしてもそれが成功する保証はどこにもない。我々は他者理解の可能性へと開かれてはいるが、同時にいつも誤解等、何らかの理解の仕損ないの可能性へとも開かれている。他者理解にはやはりそれなりの困難さが伴うのである。我々はしばしば「他人の心は分からない」と言うが、これは他者と状況のコンテクストを共有できず、世界把握の仕方に何らかのズレを感じたときに発せられる言葉であろう。誰一人として完全に同じ状況を生きることが出来ない以上、こうしたズレはどこまでも生き残り続けることになるのである。

 このような他者理解の可能性と、そこにいつも付き纏ってくるある種の困難さとは、我々の日常経験の教えるところでもあろう。だがもしも機能主義者の言うように、心というものが単に刺激と反応とを繋ぐ因果的機能でしかないのだとしたら、もはや他者理解にまつわるいかなる困難も生じえなくなるのではないだろうか。なぜなら、機能主義においては、どんな刺激が与えられたときにどんな反応を示すかという情報さえ収集すれば、その当人の心が完全に把握できると考えるのだから。ここには他者理解において要求される努力――すなわちその当人が身を置く状況のコンテクストを私自身がなぞることで、その当人にとって立ち現れている世界の相貌を了解しようとする努力が全く欠如している。機能主義は実のところ、その都度の状況のもとで実現している他者の振る舞いを、既にある程度一般化され類型化された心の概念に当てはめることだけで間に合わせようとしているのである。つまり、他者の振る舞いを観察し得られたデータをもとに、これは「痛み」だとか、これは「悲しみ」だとかいうふうに、その振る舞いを既に出来上がっている心的概念へと割り当てるわけだ。尤もこうしたことは、他者の行為を理解するときに実際我々が日常的に行っていることであり、その意味で機能主義の心の定義は全くの見当外れというわけでない。だがしかし、果たして他者理解なるものの本質は、その都度の心的事象に類型化された心の概念を適用することなのであろうか?「画鋲を踏むと痛い」だとか「最愛の人が死ぬと悲しい」だとか、またそのときに発現する典型的な振る舞い方だとかは、そもそもその都度求められる他者理解とは無関係に、既に一般的な心的事象として了解され、常識として定着しているところのものであろう。機能主義はこうした心についての通念を類型化してその物理的機能を分析的に取り出し、心的事象を統一的に把握しようとするわけだが、もしも心が完全に統一的に把握できるのであれば、そこではもはや<その当人にとっての>という人称的構造は成立しえず、他者理解など問題になりえぬであろう。心は物体の落下などと同じ物理現象となり、したがって他者理解なるものは単なる物理現象の観測にすぎないことになる。機能主義においては、上で見たような他者理解をめぐる固有の問題が全て解消してしまい、それを問題にすること自体が不可能になるのである。

 では、クオリアという概念を持ち出せば、他者理解の問題を正しく扱えるのかといえば、決してそういうわけではない。その当人の意識主観内部に完結したものなど、いかなる意味でも他者理解の対象にはなりえないのであって、もし他者理解なるものが他者のクオリアを把握することなのだとしたら、それは端的に不可能だと言わざるをえない。機能主義者が、心を物理的機能として完結させようとしたために、他者理解の問題を謂わば飛び越してしまっているのに対し、クオリア論者は、心を当人の意識主観内部に完結したものと解してしまうことによって、他者理解の問題にそもそも足を踏み入れることが出来ず、いつまでもこの問題の手前にとどまらざるをえないわけである。確かにクオリア論者の言うとおり、心的なものには、たとえ「痛み」や「悲しみ」などといった一般化された概念であっても、単なる物理的機能へとは還元できないようなある種の豊かさがある。だがこの豊かさとは、意識主観内部の豊かさではなく、実は状況のコンテクストの多様性なのであって、その都度の状況とかかわるところにおいてこそ、世界は汲み尽し難い豊かな相貌を呈するのである。してみれば、他者理解の難しさというのは、実は世界の相貌の汲み尽し難さを意味しているのであって、そうであればこそ、他者との交流においてしばしば、既に出来上がった世界の自明性に亀裂が入り、思いがけない異質なものが噴出してくるのに当惑させられるようなことも起こりうるのである。こうした世界の未完結性を見落として、一方で物理的機能として完結した世界を前提し、もう一方に意識主観内部に完結したクオリアを立ててしまうと、ここに両者の接合をめぐって、意識のハードプロブレムや他者問題といったアポリアが生じることになるわけである。

 

part5はこちら→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part5) - 対話空間_失われた他者を求めて

<筆者 kubo>