対話空間_失われた他者を求めて

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死へ臨む不安

肺がんの告知を受けて

 僕が肺がんと診断されたのは昨年の10月8日であった。職場での胸部のX線検診で再検査を言われたのが3年程前である。そのときは異常なしであったが、その後何回か再検査をして胸部のCTも受け、昨年の9月に肺がんの疑いがあると言われた。9月30日に大阪鉄道病院で検査入院をし、内視鏡で肺の組織検査を受け、10月8日に肺がんと診断された。当時僕はある公立高校の非常勤講師をしていたのだが、その高校は二学期制で、後期の僕の最初の授業が翌日の10月9日だったので、その準備をするために、検査報告を受けたその足で昼過ぎに学校へ行った。肺がんの診断を受けるまでは、その可能性を心配してはいたとはいえ、「自分の体がこんなに元気で咳もなく自覚症状が全くないのに、まさか肺がんなんてあり得ない」という気持ちの方が強かった。肺がんという診断を受けても半分信じられない気持ちで学校へ行った。今後の迷惑も考えて、肺がんと診断されたことを教頭と自分の教科である理科の主任に知らせた。学校からの帰り、「煙草はもうやめるしかない」と、手元にある煙草とライターを捨て、禁煙することにした。さすがに、帰りの電車では本を読もうとしても集中できず、これから自分がどうなっていくのかと、不安で重たい気分に沈んでいった。その夜は夕食は残らず食べたが、あまり眠れなかった。

 がんの治療のため大阪鉄道病院に通院することになった。主治医から「10月19日にMRIの検査結果が分かり、今後の治療方針も話すので奥さんも同席してほしい」と言われた。その19日に妻と行くと、「臓器への転移はないが、鎖骨やリンパ節への転移の疑いがあるのでPET検査が必要だ。その上で治療方針を考えたい」と言われた。当時がんの知識が乏しく、PET検査もよく知らなかった僕は、先生の言い方から、「これは転移しているのではないか。PET検査をするのは、その診断をより確実なものにするためではないか」と感じた。妻の方も同じように感じていたと思う。PET検査は鉄道病院ではなく、別の病院に予約を取らなければならなかったこともあり、10月19日からPET検査の結果をもとにした11月5日の診察日まで、治療方針の決まらない中途半端な状態が続いた。この間、医者でがんにも詳しい僕の大学時代の友人に、がんについてあれこれ質問したり、また、がんに関する本を買って読みあさったりした。そしてその中で、肺がんが転移している場合はどんな治療を受けようが、余命は3年から5年くらいしかないことも知った。そのころ僕がどんなことを考えたり感じたりしたかを、以下に述べていきたい。

 なお、結論を先に書いておくと、11月5日のPET検査の結果、幸い転移はなかった。そしてその後、大阪府立成人病センターに転院して、今年の1月3日に入院し、4日に手術、無事手術も成功して現在に至っている。

重い気分の中で

 肺がんの告知を受けた10月8日の夜と9日の午前中、勤務先の高校の後期の最初の2限目の授業までの間、未来が暗くなり見通しがきかなくなった自分の存在そのものが重くのしかかり、自分を持て余し、重苦しい気分が自分を支配していた。しかし、午前中2時間授業をした後は何となく気分が軽くなり、お腹も減って昼食もおいしく食べることが出来た。午後も2時間授業をやって家に帰り、その夜と10日の夜、息子を相手に家で酒を飲んでしゃべっているうちに、気持ちが落ち着いてきた。しかし先に書いたように、10月19日に検査結果を聞き転移している可能性が高いと感じてから、再び息苦しい気分が自分を覆った。寝転んでテレビを見ていても気分が重くなって落ち込み、自分で自分の存在を持て余してしまう。肺がんが転移しておれば、どんな治療を受けても3年から5年の命でしかないと分かった時、「もし転移している場合、この限られた命をこれからどんな覚悟で生きていけば良いのか」という問題に向き合わざるを得なかった。もっともまだ転移が確定したわけではなく、PET検査の結果による11月5日の診察まで待たなければならない。先生の言い方だとかなり転移の可能性が高いように感じたが、どういう結果になるかはまだはっきりせず、その分かえって落ち着かず不安であった。見通しのつかない不安に包まれ、増々重苦しい気分が強くなっていった。そんな中で思ったのは、「未だ来ない先々のことを想像して思いわずらい、今生きている自分を消耗し、心を乱したり体調を崩したりして、今出来ることすら手につかなくなること。そんなことにだけはなりたくない」ということだった。そして「先々のことは先々のことにして、まずは1日1日を大切にしてそこで自分なりに出来ることをしていこう」と思った。ただし肺がんが転移している可能性が高いために、そのときに備えて「あと何年という命をどのように生きるのか」という問題を、自分の生き方の問題として見つめていたいと思った。「死へ臨む不安」というこの記事の表題は、僕たちの読書会で扱っているハイデガーの『存在と時間』の中に出てくる言葉である。それがそのまま当時の僕の心境でもあった。また転移している場合に、自分がどのような治療法を選べばよいか、ということも前もって自分なりに考えておきたかった。そのためにがんについての一般向けの本を取り寄せ、がんについてもっと知りたいと思った。当時僕が読んだ主な著書を参考までに以下に示しておきたい。

 

『がん幹細胞の謎にせまる』 山崎裕人著 ちくま新書

『がん 生と死の謎に挑む』 立花隆著 文春文庫

『ケトン体が人類を救う』 宗田哲男著 光文社新書

『がん治療の95%は間違い』 近藤誠著 幻冬舎新書

『がんと診断されたらANK免疫細胞療法』 石井光著 幻冬舎

がんの転移にどう対処するか

 皆さんの中には、がんになった者ががんに関する本をあれこれ読むとかえって混乱して不安が高まるのではないか、と思われる方も多いと思う。確かに中にはそういう人もいると思うが、僕の場合、がんの診察を受ける病院の待合室で一番落ち着いて読めたのが上記に挙げたようながんに関連する本だった。がんに関連する本を読んでいる間は、自分が自分から抜け出して自分を対象化して見ているような感じで、不安な気分が軽くなっていったような気がする。一般にがんが転移している場合は、手術や放射線治療は難しく、抗がん剤による治療を受けることになる。しかし抗がん剤を使うと正常な細胞まで破壊されてしまうため、体へのダメージが大きい。その上、抗がん剤で転移しているがん細胞が全て破壊されたとしても、すぐにまたがんが新たに転移して一気に広がってしまい、死に至る場合がほとんどだという。なぜそういうことになるのか。その一つの理由は、抗がん剤は分裂中の細胞にしか働かないのに対して、がんの元になると考えられているがん肝細胞は分裂しないためそこには効かない、というところにある。しかしそれ以上に重大な理由がある。皆さんは、害虫を駆除するために殺虫剤を続けて使っていると、やがてその害虫に効かなくなってしまうという話を聞いたことがないだろうか。それは突然変異により、その殺虫剤の化学作用に強いタイプの害虫が新たに現れ、それが増えてくるからである。それと同じことががん細胞にも言える。数十億から数百億個のがん細胞が分裂して増殖している中で、ほとんどは抗がん剤によって破壊されても、いくつかのがん細胞には抗がん剤の効かない新しい形質を持ったがん細胞が突然変異によって生じてくると考えられる。そしてそれが一挙に増殖する。抗がん剤を変えたとしても同じことである。まして抗がん剤の作用で正常な臓器が傷つくばかりでなく、免疫細胞まで破壊されるわけだから、がんの増殖力はいっそう高くなるはずだ。結論を一口で言うと、がんが転移した場合には、今のところ抗がん剤治療は効果がなく、それに替わる治療法もまだ見つかっていないということだ。もっとも、抗がん剤が全て効かないというわけではない。人それぞれDNAが違っているのだから、がん細胞も人によって皆少しずつ違っているはずだ。だから抗がん剤が効いて、転移したがんが治癒することもある。あるいは、サイモントン療法やいろいろな民間療法によって世界観が変わることで、末期がんから生還する人が時にはいるというのも本当だと思う。しかしどれも特殊なケースであり、そのようにして治癒する可能性は1%もないと思う。特に抗がん剤治療の場合はその副作用により健康を害し、普通の生活が難しくなるところに問題がある。また抗がん剤治療による延命効果については、治療を受けなかった場合の比較対照のデータがほとんどないためはっきりしたことは言えないが、何もしないほうが健康な細胞が傷つかず免疫力も下がらない分、逆に長生きするのではないかと僕には思われる。がんに関する本を読むようになってから、僕は肺がんが転移している場合、抗がん剤治療は医者に勧められてもはっきり断りたいと思うようになった。

 人はがんになろうがなるまいが必ず死ぬ。死が訪れるのが5年先か10年先か20年先かの違いはあっても必ず死ぬ。何年生きたという時間の長さよりも、どのように生きたかということの方が大切なのではないか。惰性でずるずると仕方なく10年生きるよりも、たとえ5年であっても毎日充実して生き生きと活動し、生きていて良かったと思って死ぬほうがずっとましだと思う。幸いがんの場合は抗がん剤治療などで体を傷つけなかったら、末期状態で死ぬ少し前までは比較的元気に活動できるように思う。がんが転移していてあと3年から5年の命だったとしても、抗がん剤治療を拒否して一日一日を大切に限られた命を充実して生きたほうが良い。しかし一日一日を大切にと言っても、「3年から5年でがんの転移のために死んでしまう」ということを平気で事実として受け入れて生きていけるだろうか。人間は自分の可能性を閉ざすのではなく、何らかの働きかけによりその可能性を広げようとする。そうしなければ生きていけないのではないか。例えば飛行機事故で自分の大切な人がその飛行機に乗っていたとする。生存が絶望的な状況だったとしても、安否がはっきりしなかったら、ほとんどの人はその人の無事を願って祈るのではないか。理屈で考えるなら、今更祈ったところでどう状況が変わるわけでもないはずだ。それでも祈るのは、その人が無事であるという万一の可能性を、祈りという自分の行為によって引き寄せたいからだ。転移がんに対して抗がん剤治療がほとんど無効だと医者が分かっていても、医者としてもう治療は無理だと患者に対してさじを投げるわけにもいかず、わずかな可能性にかけて抗がん剤治療を試すしかないだろう。また患者の方も医者にそう勧められれば、それに期待してほとんどの人は抗がん剤治療を受けることになるだろう。たとえそれを拒否したとしても、それに代わる何らかの治療法にすがりつくだろうと思う。僕の場合、もしがんが転移したら、抗がん剤治療は断っても、先に参考文献として記載した石井氏の「ANK免疫細胞療法」が転移がんに対してもっと効果的な方法だと思うので、保険が効かず金は高くつくが、まずこれを試してみたいと思っている。

 転移ということについて、もう少し説明を補足しておきたい。がんと言えばひたすら分裂と増殖を繰り返し、健康な臓器を破壊していくものというイメージが強いが、がんがその場にとどまっている限り、それを取り除けば、死に至ることはない。がんで死ぬのは「転移」が最大の理由だ。転移とは原発巣から分離したがん細胞が、血流やリンパ流に乗って離れた場所へ行きそこでがん病巣を作ることである。僕の場合、昨年の夏CTで発見されたがんの大きさはかなり大きく(直径5.1cmだった、早期に発見される場合の大きさは直径1cmくらいだという)、10月19日の診察のあと「これだけ肺がんが大きくなったら転移している可能性が高く、先生もそう思って治療を考えているのではないか」と思った。一般的にはがんが早期に発見された場合には転移の可能性が小さく、がんの発見が遅れているほど転移の可能性が大きいと思われている。それも正しいとは思うが、それ以上に、がん細胞が転移するかしないかは、主にそのがん細胞の性質によって決まっているという考え方が主流になっているように思う。ただ転移のしくみはまだ解明されておらず、病理検査でそのがん細胞が転移するかどうかをチェックすることは出来ない。がんの治療では確かに早期に発見して手術するほうがよい。しかし早期発見しても転移するタイプのがんであればもう既に転移している場合が多く、発見が遅くても転移しないタイプのがんであれば転移はしていない可能性が高いと考えられる。

限られた命をどのように生きるか

 がんという診断を受け、しかも転移の疑いが高いと思っていたころ、やはり死への恐れと暗い未来、それが僕の心に重くのしかかっていた。以前見た黒澤明監督の『生きる』という映画を思い出していた。末期がんで余命1年足らずの中で、平凡に生きて役場の仕事をしていた一人の男が、自分の人生に目覚め本当の自分を取り戻していく。「生きている間にこれだけのことはしておきたい」とか、芸術家のように「生きている間にこの作品だけは仕上げたい」と強く思いそれに没頭できるのであれば、死の恐怖を上回る生への歓喜があると思う。しかし実際にそれが出来るのは、選ばれた一部の稀な人だけでしかないように思う。僕の場合、自分自身に「今自分が一番やってみたいことは何か。これだけは死ぬまでにやっておきたいこと、それは何か」と問いかけてもはっきり見つからなかった。67歳まで教師として自分の可能性を求め、同時にカウンセリングや心理療法の世界に自分を置いて、やれるだけのことはやってみた。十分ではないが今までたいていやりたいことはやってきたと思う。今この歳で新たに何ができるというのか。そのころ読んだ新聞に、お笑い芸人が8年前から4回がんになり、どのように生きてきたのかという手記が載っていた。その人もずっと生きることや死ぬことの意味を考えるようになったという。その人の手記の中で特に印象に残ったのが、「何回かの手術後まだ自分が生きていて、そのときに食べたアイスクリームの味が忘れられない。そんな些細なことでも生きていて本当に良かったとしみじみ感じた」という部分である。生きることの意味は案外そういうところにあるのかもしれないと思った。

 がんの告知を受けると、がんとなった自分の身体が志向対象となる。さらにやがて失われていく自分の生命が志向対象となる。そして自分の生きている世界が暗く不安に満ちたものとなり、重い息苦しい気分が立ち込めてくる。自分の志向性が自分の外に向かわずに自分の内側へ向かっていくのは、種々のノイローゼやうつ病の人に多いように思う。(ノイローゼという言葉は今の精神障害の分類の中では使われなくなったが、ここでは昔の言い方で用いることにする。)例えば、パニック障害の人であれば、パニック障害が起ころうとしているこれからの自分を志向することでますます不安が高まり、電車に乗るなどの行動が出来なくなる。また心気症というノイローゼがある。自分の身体の内部のどこかの器官が悪くなっているのではないかと過度に心配する病気である。がんノイローゼはその典型的なものである。その場合、がんではないかと恐れ心配している自分の身体のその部分が志向対象となる。うつ病の場合でも、失われた過去の対象にしがみついたりこだわったりして、それが志向対象となって時間が過去に固着し、前に進まない人が多い。精神的に健康な人であっても、がんの告知を受けると自分の身体が志向対象となって上記の人たちと同じような症状が起こってくる。この状態から逃れるためには自分がまず自分の外に出て、外の世界に開かれて自然や他者と交流することだと思う。このころ僕は週3回ではあるが非常勤講師として授業をしていた。3日とも午前に2時間、午後に2時間の授業である。授業は学校独自で設定して自由に選択する科目で「こころの科学」を3講座担当していた。心理学やこころの問題に焦点を当てて、生徒に実習したり生徒との間で自由に意見を交換し合うこともあった。今から考えるとこうした授業を通しての生徒との交流が、重くなりがちな自分の気分を軽くし心を開放させていったように思う。また夜はよく友人と電話をしたり、時々は友人と会ってお酒を飲んだりしたことも良かったように思う。先々のことではっきりしないことを想像して心配するのではなく、一日一日を大切にして自分なりに出来ることをしていくこと。その中で自分を離れて人と気持ちを交流させること。そこに「ああ、生きているっていいなあ」という意味を感じること。それが大切だと思う。勿論若い間はこれから先が長いのだから、自分の人生に大きな物語を求めることは大切だと思う。しかし平凡な日常生活のささやかな交流の中で感じられる生きることの喜びや意味も大切にしたいと思う。ノンフィクション作家の柳田邦男氏が『壊れる日本人』という著書の中で、胃がんが転移していて余命2年くらいしかない校長の話を書いている。長くは生きられないと悟ったその校長は治療を放棄して、自分の勤める小学校の児童を相手に絵本を読みながら命の大切さを語り、「命の授業」を4年間死の直前まで続けたという。とてもこの校長のように生きることは出来ないと思うが、たとえがんで命が限られてもせめて死ぬまでは人間らしく生きていたいと思う。

 11月5日にPET検査の結果がんが転移していないと分かったが、大腸の方にもがんが発生している恐れがあると言われた。成人病センターに転院して大腸の検査もしてもらい、がんではなく内視鏡で取れる良性のポリープだと分かった。11月の末成人病センターで1月3日に入院、がんの手術を1月4日にお願いした。昨年の12月の中旬くらいからでも急げばベッドが空き次第入院できたと思うが、いつになるか分からずあまり急ぐのもかえって精神衛生上良くないと思った。もうこれだけがんが大きくなっていて転移していないというのであれば少しぐらい遅れても大丈夫だと半ば開き直っていた。12月いっぱい手術を受けるまでは体の方は十分元気なのだから、今まで通り普通の生活をしようと思った。実際12月22日まではずっと授業を続け、週1回は知人や息子と酒を飲んでいた。10月8日のがんの告知を受けた夜だけはあまり眠れなかったが、その翌日からがんの手術を受ける日まで普通にゆっくり眠ることができ、食欲も毎日あり体重もほとんど変化しなかった。何とか通常の精神状態を維持できたように思う。それができたのも職場の先生方や生徒たち、多くの友人や家族の支えがあったからだ。唯々感謝している。

<筆者 史章>