対話空間_失われた他者を求めて

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elewhon

コンピュータは人間の知性を超えるだろうか?

 

この不安は遠く産業革命のころから表明されており、思考プロセスの外部化に対する本能的な嫌悪に基づいているのではないかとさえ思われる。風刺小説『エレホン』のなかでサミュエル・バトラーは、機械文明を排除するに至った奇妙な国の政治思想を描いている。エレホン国で機械破壊運動の引き金となった本の著者はこう述べる。

現在機械類がほとんど意識をもっていないことが事実であっても、機械が結局はその意識を発達させることを否定する保証にはならない。機械類がここ数百年の間において達成した異例の発展を良く考え、そしてそれにくらべて動植物界の進化がいかに遅々たるものであるかに注目せよ。……そうであれば機械類は結局どんなものになるかわからないのではないか?だとすれば機械の及ぼす災いをつぼみのうちに摘み取り、機械がさらに進歩をするのを禁じた方が、安全ではないのか?

バトラーが直接の示唆を受けたのはダーウィンの進化論で、人間が意識を持つのは神の特権的な被造物だからではないとすれば、モノから進化によって意識が生じるのではないか、という発想ではないかとおもう(バトラーは機械の再生産を生殖になぞらえている)。機械の進化が人間を追い越せば、機械と人間の主従が逆転し、人間は機械の文明を維持するための生物的な装置になってしまうかもしれない。

人間は裏をかかれて機械の増加、倍加を招いている。……機会に働きかけて機会をつくってきたのは人間であるのと同じように、人間に働きかけ人間を人間足らしめるものは機械である。しかしわれわれは[機械を破壊することで]現在の多くの苦しみをなめるか、それともわれわれと機械とを比較して、野獣が占める地位と同程度にわれわれが落ちるまで、われわれが自分で作った機械によって次第に駆逐されるのを、腕をこまねいて見ているだけにとどまるか、この二者のうち一つを選ばなければならない。

エレホン国は前者を選択した結果、時計に至るまで機械を破壊した。バトラーは、不合理で変化を嫌うけれども、壮健で魅力ある人々としてエレホン人を描いている。

 

茂木健一郎がおもしろいスピーチをしていた。

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