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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

「からだことば」と知覚の現象学

 「からだことば」とは、例えば「頭が痛いことだ」、「胸が張り裂けそう」、「腰を据えてかかる」、「消化できない」などといったように、身体の状態を語る言葉で心の状態を表現するものである。英語でもこうした表現はあると思うが、日本語には特に多い。その理由は、おそらく西洋の思想がデカルト以来「心身二元論」に基づくのに対して、日本の思想は「心身一如」という表現に見られるように「心身一元論」に基づいていることによると思う。上記の「からだことば」は、身体の一部の状態を指したものだが、身体全体を「身」という言語で表現したものとして「身が縮む」、「肩身が狭い」、「身持ちが悪い」などといった表現がある。哲学者の市川浩は『身の構造』という著書の中で、これが日本語独特の表現であることを述べて詳しく分析している。「からだことば」とか「身」で表現されている身体は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』の文脈で言えば、「客観的身体」に対する「現象的身体」ということになろう。

 私はずっと以前から心理療法の実践の中で「からだことば」に関心を持ってきた。一例を挙げよう。もう30年近く前のことだが、高校3年生の女子生徒が相談係をしている私に、「先生、催眠で腰痛を治してもらえませんか」と言ってきた。彼女は腰痛のため腰をコルセットで固定していた。階段を手すりを持ちながら何とか上れるくらいで、もちろん体育の授業は見学していた。高校1年生の時、スポーツテストの上体伏臥反らしで、無理をして腰が痛くなったのが再発したのかもしれないと思って、その時に行った整骨院で検査してもらった。しかし、それは関係なく、検査をしても腰痛の原因が分らないという。別の整骨院にも行ってみたが原因が分らず、治療法がないため、私の催眠療法を求めてきたわけだが、じっとしていても腰が痛むため、催眠にも誘導できない状態だった。そこで、腰痛が生じたきっかけのようなもので、何か思い浮かぶものがないか聞くと、付き合っている彼氏の家に電話をした時、電話を通して奥の方から女の声で「あんた誰から電話がかかっているのよ」という声が聞こえ、その頃から腰が痛くなってきたように思う、と答えた。その時私は、「彼女の腰痛は心因的なもので生じている。腰とは自分で自分の存在を支える最も大切な部分であり、誰かに依存したい、でも自立しなければならないという葛藤が腰の痛みとなって表現されているのではないか」と感じた。実際、それまでの彼氏との付き合い方を聞くと、独立した男女の付き合いというよりも、彼女のほうが彼氏に甘え、寄りかかるといった面が強かった。又、母子関係についても、上記の「依存と自立の葛藤」が感じられた。私はカウンセリングで彼女の話を共感的に聴きながら、この「依存と自立の葛藤」が感じられる所で、彼女にその場面を想像させ、「今腰の痛みはどうかな」と聞くことにした。そうした場面では腰の痛みが強くなり、彼女が泣きながら話し終えた後には腰の痛みが軽くなっていることを確認させた。このようなやり方でカウンセリングを行い、7回目の面接の時、彼女の方から「先生、腰の痛みって自分の気持ちの持ち方で変わってくるね」と私に言った。私は唯「そうだね」と答えた。それまで私は特に彼女に何かしたわけではないのに、これを機に彼女の腰の痛みは軽くなり、コルセットも取れて、体育の授業も受けられるようになった。なぜ彼女の腰痛がよくなっていったのか、はっきりしたことは分らないが、彼女の中で自分の心の在り方と腰痛とが結びつくという経験を通して、彼女の生き方の姿勢に変化が起こったのではないかと思っている。慢性的な腰痛の背景に、いつも「依存と自立の葛藤」があるとは思わないが、別の腰痛の事例でも私は同じような経験をしており、腰痛の心理的な背景を考える上で大切な視点だと思っている。

 「からだことば」は、フロイトが名づけた転換ヒステリー(現代では身体表現性障害)の中に最もよく見られる。例えば、ヒステリー性の歩行障害(どこも悪くないのに歩けない)であれば、「歩きたくないという気持ち」が抑圧されて、それが歩行障害として表現されている。又、ヒステリー性の失声症(身体的にどこも悪くないのに声が出ず、しゃべれない)であれば、「しゃべりたくない気持ち」が抑圧されて、それが失声症として表現されている等。心理療法の場では「身体に働きかけ、身体の変化を通して心の状態の変化を見る」とか逆に「心に働きかけて、心の状態の変化を通して身体の変化を見る」といった種々の技法がある。例えば、催眠療法、臨床動作法、フォーカシングなどがそうした技術の一種に入ると思う。(ここではこれらの技法の解説は、長くなるので省略したい。)心が身体に影響を与え、身体が心に影響を与えることを、哲学では心身相関とよんできた。それを日常言語によって表現したものが、「からだことば」であろう。デカルトも晩年、心身相関に関心を持ち、自分の心身二元論の哲学体系で整合的に説明するのに苦しんでいたようである。しかし、どのようなしくみで心が身体に働きかけたり、身体が心に働きかけたりするのであろう。心身一元論の立場をとって「心と身体は一つのものである」と言ったところで、このしくみが分かるものでもない。

 私がメルロー=ポンティの『知覚の現象学』を初めて読んだのは、先に述べた腰痛の事例の時の少し後である。当時私は「からだことば」に関心を持ち、相談係としての心理療法の場でも「からだことば」を参照していた。『知覚の現象学』を読んだ後、「ああ、からだことばはこのようにして生じるのだ。心身相関はこのようにして起こるのだ」と、全て納得できたような衝撃を受けた。本書の序論で述べられている「主知主義」と「経験主義」への批判にも納得できた。主知主義では、身体を素通りして純粋な精神を志向し、経験主義では、対象としての客観的身体しか見ていないのでは、心身相関のしくみは説明できないと思う。本書の中でメルロー=ポンティが主張している知覚とは「対象の中へと浸透し、身体を通じて主体が対象に巻き込まれ、主体が対象の中に散乱した意味を捉え直すといった交互作用、こうした主体と対象との対話を促す作用」といったものであろう。そしてそれを通して「身体はそのつど実存を表現し、実存が身体の中にこれを実現する」と主張しているのだと思う。「からだことば」において、身体の言葉で心の状態を表現しているのも、このような身体の働きによるものだと思う。

 20数年前に『知覚の現象学』を初めて読んだ時、この本は誰よりもカウンセラーや精神科医が読むべきではないかと思った。しかし残念ながら彼らの中のほとんどが読んでいないし、本の名前すら知らない人が多かった。確かに文章は難解で一度読んだくらいでは、何を言っているのか分からない所が多いが、たとえ訳本であっても繰り返し読んでいるうちに意味が分かり、味わいが深まって引き込まれていくという不思議な本である。当時私はこの本を教材とした読書会を企画したいと思ったが、人が集まらずそのままになっていた。その20数年後にこうして読書会ができたことを、本当に嬉しく思っている。

<筆者 史章>