対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

ポリフォニーの世界(前編その2)

前回の記事はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

前回のおさらい

 

多くの人が想定してしまう意識の繭(まゆ)とはどのようなものだったか。それは外界と隔絶された、私に閉じられた意識であった。それは繭の外界にある物それ自体が表象する場所であった。意識の繭に生まれる表象は、外界の物それ自体とはどれだけ詳細に観察しようが原理的に完全に一致することはない。また、その表象は見間違えのように、物それ自体とは全く一致しないこともある。さらにそれは、幻覚や幻聴のように、外界にはないものを全くでっち上げてしまうことすらある。意識の繭とはそのようなものだった。
しかしこの意識の繭なるものは哲学的捏造物に過ぎない。それを前編で示そうとしているのだが、そのためにその2では有視点把握と無視点把握という二つの世界の把握の仕方について紹介しようと思う。

 

 


有視点把握と無視点把握


我々は二つの仕方で世界を把握する。それが有視点把握と無視点把握である。と書いても誤解を与えてしまうかもしれない。というのは、この書き方だと、ある時には世界を有視点的に把握し、またある時には無視点的に把握することがあるというふうに、あたかもスイッチを切り替えるかのような二つの把握の仕方だと捉えられかねないからである。そうではない。世界はいつでも有視点的にも無視点的にも把握されているのである。そして、有視点把握と無視点把握は相互依存的なのだ。つまり、有視点把握が成立していなければ無視点把握は成立し得ないし、逆に無視点把握が成立していなければ有視点把握は成立し得ない。具体例を挙げつつ説明しよう。

 

まずは有視点把握についてである。私の住む京都の玄関口である京都駅のメイン改札口を出れば、目の前には白い京都タワーが見える。観光客がよくそこから写真を撮っている。

 

 

f:id:dialogue-space:20170301155342j:plain

 


改札口前という特定の視点から撮られた写真に撮った主体は写り込んでいないが、しかしどこから撮られたのかという視点がどこにあるのかということは示されている(改札口の前である)。このように、主体の把握のあり方が示されているような把握の仕方を野矢氏は有視点把握と呼ぶ。


一方、無視点把握について説明する。同じく京都タワーを例にとって説明する。

 

f:id:dialogue-space:20170301155325j:plain

 


京都駅周辺の上の地図には京都タワー(赤い点)が描かれているが、そこには先ほどの改札前の写真とは違って、視点がどこにあるのかということが示されていない。主体の視点が無いのである。このように、主体のあり方を示唆することなしに成立しうる世界把握が無視点把握である。

今あげた例はあくまで視覚を例にとった把握に過ぎないが、世界把握の基礎には全て有視点把握と無視点把握が相互に働きつつ成立しているのである。私たちは有視点把握と無視点把握を共に携えて生活している。例えば、今私は、家の椅子に座って机の上にあるパソコンに文字を打っている。近い場所、例えば机の上に目をやれば、メガネケースや筆記用具などが雑然と散らばっているのを見る。そして振り返ってやや遠くに目をやれば、書棚やキッチンが見える。それらは今私が座った椅子から見られた有視点的な把握である。そして一方で私はメガネケース、筆記用具、書棚やキッチンを、私の視点によらず家のどの場所にあるのかを把握している。これが無視点把握である。このように私たちの世界把握は無視点的な様相と有視点的な様相を共に備えている。

 

 

さて、有視点把握と無視点把握は相互依存的であるということについても述べておきたい。

まず有視点把握が無視点把握に依存していることを示す。これは立体ということを例にして考えていきたい。

 

f:id:dialogue-space:20170301155413j:plain


上の図は一脚の椅子(のつもり)である。絵が下手なのはご容赦いただくとして、これを読む人はパソコンの画面、あるいはスマートフォンの画面にこの椅子の絵が写っているはずである。それがどうしたと思われるかもしれない。しかし、この絵が一脚の椅子であるというのはどのようにして成立しているのであろうか。画面に映っているのは、単なる線に過ぎない。それが椅子という意味を成立させているのは何であるか? それは、他の様々な方向から見られた眺望の了解である。一脚の椅子であるという意味が形成されるためには、他の複数の地点からの眺望が同一の対象のもとに関係付けられ、まとめあげられるということが必要なのである。断片的に一つのものだけを見ているだけでは、そこに意味を持ったものは形成されない。それは、この場合では単なる線という以上の意味を持たない。それが一脚の椅子であるという意味を持たせるには、他の視点からの、つまり私が今立ち会っていない別の場所からの眺望と関係づけられていなければならない。それを関係付け、まとめ上げられなければ一脚の椅子という意味は形成されない。このことは、有視点把握は無視点把握に依存しているということに他ならない。すなわち、今、上の絵を見る人は、画面の前から有視点的にこの絵を椅子という意味で把握しているが、それがそのこととして成立しているのは、画面の前のみならず、様々な複眼的な視点、一般的な視点からの、すなわち無視点的な了解があり、それによってまとめ上げられているからこそなのである。この意味で、有視点把握は無視点把握に依存していると言えるのである。これはあくまで視覚という特殊な例における説明に過ぎないが、本(『心という難問』)には一般的な解説が記述されている。

 

次に無視点把握も有視点把握に依存していることを示す。
これは、先ほど挙げたメガネケースを例にとって説明してみよう。
今、私がこれを書いている机の上にはメガネケースが置いてある。私はそれを椅子に座って、ある特定の視点から見る。有視点把握である。それと同時に、私はこの椅子に座った視点からだけでなく、視点によらず、そのメガネケースが家のこの机の上に置いてあることを把握している。無視点把握である。私はこの二つの世界把握を携えてこのメガネケースを把握している。しかし、メガネケースはいつも机の上に置いてある訳ではない。机に置いてあることがほとんどだが、カバンの中に入っていることもあれば、ベッドの横のテーブルに置いていることもある。ある時、私はかけているメガネを外してメガネケースに入れようとしたとする。しかし、机の上にあったと思っていたメガネケースは(私は習慣としてメガネケースを大抵机の上に置いているから)見当たらない。ベッドの横のテーブルを見る。そこにもない。カバンを探す。あった。すなわち、この例に置いて、無視点的に把握されたメガネケースの位置は机の上からカバンの中へと更新されたのである。日常では無視点的な眺望が極めて安定しているケースも多いが(京都タワーなど)、このメガネケースの例のように、無視点的な、つまりある特定の視点によらない位置の把握も更新(アップデート)されていく。この更新は、知覚による主体のある視点からの新たな情報の取り込みがなければ不可能である。この一例から、無視点把握は有視点把握に依存していることが理解されると思う。尚、野矢氏はこの更新ということの他に、細密化や忘却ということからも無視点把握が有視点把握に依存していることを説明している。

 


さて、私たちは意識の繭などないということを示そうとしているのだった。総括はまた後で行うが、今少しだけ述べておこう。意識の繭論者はおそらく、無視点把握されたあり方こそ世界の真のあり方だと思い込んでいるのだろう。そして、有視点把握は真なる無視点把握の表象であるかのように捉えているのだろう。しかしそうではない。知覚は意識の繭に生まれた表象などではない。従って、誤った知覚(例えば錯覚)とされるものは、誤った表象ではなく、それはそれで世界のあり方なのである。

 

(前編その3へ続く)


<筆者 murata>

ポリフォニーの世界(前編その1)

 

 

先日、『心という難問 空間・身体・意味』(野矢茂樹著)という昨年出版されたばかりの新しい本を読み終え、その内容に感銘を受けた。この感銘を動機としてこの記事を書いてみようと思う。


本記事の内容であるが、まず野矢氏の主張を紹介し(前編)、その後、その中でも特に相貌論における「物語」という概念について取り上げ、私自身の今抱いている考えを述べるつもりである(後編)。おそらく一つの投稿にしては読む方にしても長くなるだろうし、私も途中まで書いて何らかの理由で放棄して全部駄目にしてしまうかもしれないと思ったので、その日に書けたところまで分割して投稿していくことにする。今の極めていい加減な見立てでは前編と後編を合わせておそらく五つか六つぐらいの投稿になるだろうか。しかしそれよりも長くなるかもしれないし、挫折して数回で終わってしまうかもしれない。特に後編はあまりにお粗末でまとまりのつかない混乱状態を開陳することになるかもしれず、それなら恥をかきたくないからそのまま読者の前から逃亡してしまう恐れがある。

 

しかし、後編について、なぜとりわけ相貌論の物語について取り上げるのか? 本論に入る前にその理由を説明しておこう。この著作において野矢氏は素朴実在論を一貫してその正当性を主張しているのだが、私見によればそれは基本的にはハイデガーの世界内存在と同じ洞察をしている。つまり、野矢氏とハイデガーにとって、私とは身体を持ち、世界に開かれ、世界にじかに接し、まさにそこで生活している私である。決して伝統的な哲学が想定したような、客観を認識する意識主観なるものではない。世界内存在はハイデガー読書会で(あるいはそれ以前から)もう長く私の慣れ親しんだ考えであり、したがって野矢氏の素朴実在論そのものには特別な新鮮味は感じなかった。野矢氏がその素朴実在論の正当性を論理明晰に説明していくさまは見事ではあるけれど(実に見事である!)、その考えそのものに目新しさというものはない。しかし、内容のうち、相貌論において物語という概念を駆使して分析していた箇所は私には斬新であり、特に面白かった。ハイデガーの『存在と時間』では自己が立ち上がるありさまを時間性と絡めて分析しているが、物語(これも当然時間性と絡んでいる)という概念を用いて観察すれば、その事態は見えやすくなるかもしれない。物語は、自己の自己性を読み解く有効な概念だと感じたのである。このことについて今の分からないことも含めてこの機会に文字に残しておきたいと思った。

 

 

 

意識の繭(まゆ)とは

さて、まずこの前編では主にこの著作における野矢氏の主張、つまり素朴実在論への回帰について紹介しよう。それは極めて重要な指摘であるように思われるから、紹介する価値はあるだろう。野矢氏がこの著作で述べていることを大雑把に一言でまとめてしまえば以下のようになる。それは、「意識の繭などなく、我々はじかに生き生きとした世界を生き、心ある他者と出会っている」ということである。繭とは昆虫が作り出す、あの繭のことである。野矢氏はこの著作において、わたしの意識の繭という、世界ないし他者と隔絶された伝統的な哲学的虚構物をしりぞける。そして私は実生活において生き生きとした世界・心ある他者とじかに立ち会っているという常識的に考えられている素朴な事実へと回帰する。といってもまだうまく伝わらないかもしれない。詳しく述べていこう。


意識の繭というのは、つまり意識のことである。繭と表現しているのは、それが私に閉じられた意識であることを示す比喩であろう。意識の繭理論に従って具体例を挙げて考えてみよう。例えば、私の目の前にりんごがあるとする。意識の繭理論によればこのりんごは、私の意識に生じたりんごということになる。そして、それは私の意識の外部に真なるりんごというものがあって、私の意識の繭に映されたりんごは真なるりんごとは別物(完全に一致しない)だということを示唆している。
なんだかわかる気もするし、一方で奇妙な考えだと思われるかもしれない。私たちが普段日常生活をしているときにはりんごは意識に生じたりんごなどとは考えず、目に映っているこのりんごはそのままそのりんごであるから、この意識の繭理論は実感に基かない奇妙な考えだと感じられるだろう。けれども、生活から一歩退いて、いわばメタ的な視点でこの目の前のりんごのことを考えると、このような理屈も別にまずいところはなく成立しているように思われるだろう。
この意識なるものを想定するのが正当であることを実証するかのような日常的な例がある。それは見間違いである。例えば、山を歩いている時に道の先に蛇が見えたとする。驚いて足が止まる。しかしよく観察してみるとそれは蛇などではなく、単に打ち捨てられたロープにすぎなかった。この例において、驚いて足を止めたとき、意識にあったのは蛇であるが、本当にそこにあったのはロープである。このように私の意識に生じているものは外部にある真なるものと必ずしも一致しないというケースが少なからずある。また、本来そこにないものを見たり聞いたり(幻覚・幻聴)することもある。このような事実は、私が見ているものが素朴にそのままそれ自体であるという考えを覆すもののように思われる。従って私の意識と外部のそれ自体客体的なものという二つのものを想定することに別段不都合はないように考えられるのである。
実際、この意識(の繭)というものを哲学では当然のもののごとく考えられてきたのである。不勉強でもしかするといい加減なことを言っているかもしれないが、特に20世紀に入るまでの哲学は意識主観と客観の関係を説明することに奮闘してきた歴史があるようだ。もちろん今でも意識というものを想定して哲学している学者も少なくないだろうし(というよりそちらが主流?)、学者ではなくとも生活から一歩後退してメタ的に世界を観察することのある哲学的な人ならば、ごく普通にこのような考えを抱くことがあるのではないだろうか。
この意識というものを前提して哲学を始めてしまうと解決の糸口が見出せない様々な難問・擬似問題が生み出され袋小路に陥ることになったり、あるいは独我論のような実感に基かない極端な考えが生み出されることになる。なぜ袋小路に陥ったのであろうか? なぜ実感に基かない考えが導かれたのか? 問題が行き詰まった時、それを解くためには我々は問題が始ったその地点に引き返さねばならない。そしてその地点とは、意識の繭なるものを想定したその時である。

 
意識(の繭)なるものを想定するということは、私という意識の繭と繭の外部、つまり世界あるいは他者との間に原理的に絶対に越えることのできない壁を築くということである。私は意識の繭に閉じ込められていて、背後にある真の世界に触れることはできない。また、同じく繭に閉じ込められている他者と真に心ある交流を持つことはできない。
果たしてこの繭は破られるのだろうか?


(前編その2へ続く)


<筆者 murata>

心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part2)

※part1はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

 

<第一章 自然科学と心 の続きから>

(2)機能主義

 (ⅰ)機能主義における心の定義について

 ところで、心的なものを脳の物理的機能へと還元するような発想法は、心の哲学(philosophy of mind)認知科学、またAI研究において主流となっている「機能主義」の立場にも顕著に現れていると思われる。機能主義とは、心的なものを、それがどのような因果的役割を果たしているかという観点から定義しようとする立場のことである。つまり、心がどのような原因によって引き起こされ、どのような結果を引き起こすかというところに注目するのである。例えば、腕を硬いものに強くぶつけたことの結果として生じ、ぶつけた腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的状態が「痛み」だというわけである。すなわち、次のような図式(a1)になるだろう。

 

腕をぶつける→「痛み」→腕を押さえる etc  ―(a1)

 

 あるいは前に挙げた例について言うと、映像から光刺激が到来したことの結果として生じ、「笑う」という一連の行動を発現させる原因となる心的状態が「面白い」という感情だということになるだろう。すなわち、次のような図式(a2)である。

 

映像からの光刺激→「面白い」→笑う  ―(a2)

 

 機能主義の心の定義でもやはり、「刺激→脳→反応」モデルが念頭に置かれていると思われる。心的なものは刺激と反応の間に、あるいはAI研究の文脈で言えばインプットとアウトプットの間に、両者を因果的に橋渡しをするものとして措定されているわけである。さてここで注目すべきなのは、ほとんどの機能主義者は物理主義の立場をとっているということである。ここでもやはり暗々裡に、上述したような物理的実在としての統一的な世界への還元が為されていると思われる。すなわち、心的活動の担っている機能的役割は、いつの間にか物質的過程そのものに予め含有されている客観的な諸性質・諸法則のように見做されてしまうのである。そしてたいていの機能主義者は、心的なものの機能的役割を脳の機能と同一視するわけだ。

 とはいえ機能主義の立場は、心を単なる脳の物質的状態に還元しようとしているわけではない。物質間の因果的な連関構造全体によって心的なものが実現すると考えるのである。その点では機能主義は、心脳の対応付けというところにはとどまらず、外界との関係における心や脳の機能的役割を積極的に見ようとしている。機能主義は、心的なものを単なる物質としての脳状態と同一視するような素朴な心脳同一説を克服しようとしているわけである。

 機能主義の立場については、僕としても、「外界との関係性」というところを視野に入れている点では一定の評価を受けるべきだと思う。おそらく機能主義者は、単なる客体的事物としての脳から心的なものを導出することが不可能であることに薄々気づいている。当然のことながら、単なる物質としての脳のみでは、そこに心的なものが実現する余地は全くない。そこで機能主義者は、その客体的に実在する物質の世界に、新たに「因果的役割」なる機能を付帯させ、そこに何とか心的なものを繋ぎ止めようとしているわけである。

 しかし機能主義の心の定義は、果たして心的なものを少しでも捉えたことになっているだろうか?多くの機能主義者は結局のところ、心を物理的因果関係へと還元しようとしているわけだが、そのような態度を貫く限り、やはり心的なものをそこに接合させることなど不可能なのではないだろうか。尤も上記の図式(a1)、(a2)を見る限りでは、物質的過程に巧く「痛み」の感覚や「面白い」という感情を接合できたように思えるかもしれない。しかし、次のような例と比較してみるとよい。

 いま(a1)や(a2)との対比として、「自動ドアの前に立つとドアが開いた」という場合について考えてみていただきたい。すなわち次の図式(b1)についてである。

 

自動ドアの前に立つ→自動ドアが開く  ―(b1)

 

 あるいは、もっとシンプルな例でもよい。「物体Aが静止している物体Bにぶつかり、物体Bが動き出す」というような場合、すなわち次の図式(b2)である。

 

物体Aが物体Bにぶつかる→物体Bが動き出す  ―(b2)

 

 (b1)や(b2)については普通、心的なものとは一切関係のない単なる物質的過程であると見做される。一方で(a1)、(a2)にあっては、物質的過程の間に「痛み」や「面白い」などの心的なものが差し挟まれている。しかし両者の差異とは一体何だろうか?それは果たして機能主義の心の定義に反映されているだろうか?少なくとも物理主義に徹する限りでは、(a1)、(a2)と(b1)、(b2)は共に単なる物質的過程に過ぎないだろう。しかしそうなれば、もはや(a1)、(a2)の中に心的なものを介在させる必然性が全くなくなるのではないだろうか。いくら「因果的役割」なるものを持ち出したとしても、それが物理的因果関係と見做される限りでは、両者の間にいかなる差異も見出せない。尤も、我々は現に、(a1)や(a2)に心的なものを自然に見出す。そして機能主義は、現に見出された心的なものを物理的実在としての世界の中で整合的に説明できればそれでよいと考えているのかもしれない。しかしそれで本当に心を定義したことになっているだろうか?機能主義の心の定義からは、一体何に基づいて(a1)や(a2)に心的なものが見出されうるのか、また、なぜ(b1)や(b2)は心的なものとは関係のない単なる物理的事象と見做されるのかがさっぱり分からない。してみれば実のところ、機能主義は心を定義しているのではなく、むしろ心的なものへの言及を巧みに回避しているにすぎないのではないだろうか。こうした疑念を以下でもう少し追及しておきたいと思う。

 

 (ⅱ)因果関係なるもの

 機能主義者は、心の「因果的役割」について注目するわけだが、多くの論者はそれを物理的因果関係の埒内に位置づけようとしている。例えば、上記の(a1)、(a2)においては、客体的な二つの事象間に「痛い」や「面白い」というような心的なものが差し挟まれ、それが因果的説明によってつなぎ止められている。そして機能主義者の多くは、物理主義の立場であり、心的なものをあくまで物理的記述の中だけで完結させようとしているわけである。すなわち、「腕をぶつける」や「腕を押さえる」というような事象は、客観的に観察できる物理的事象であって、「痛み」という心的なものは二つの物理的事象間の因果的な関係項として規定されるというわけだろう。

 しかしこの考え方にはどうにも看過できないごまかしがあるように感じられる。というのも、物理的な因果関係の記述に徹するのならば、(a1)や(a2)も(b1)や(b2)と同様の図式で記述すべきであろう。つまり、

 

腕をぶつける→腕を押さえる etc ―(a’1)

映像からの光刺激→笑う          ―(a’2)

 

というふうに記述すべきであり、そこには「痛い」や「面白い」という心的なものは登場してこない。そこでは単に二つの物理的事象が継起しているだけである。勿論、二つの事象間の生理学的過程を詳細に記述することはできる。そして、物理的な因果関係をそこに見出すこともできるだろう。しかし、この過程をどれだけ詳細に記述したところで、そこにあるのは物質間の連関にすぎず、「痛い」や「面白い」などは登場してこない。それらは物理的な因果関係の中には位置づけられないのである。

 とはいえ、日常生活において「痛みの原因」を見出すことがしばしばあることは確かだ。例えば、足の裏に激痛が走って、何事かと思って足元を確認すると画鋲を踏んでいたという場合、「画鋲を踏んだこと」が痛みの原因と見做されうるだろう。けれども、ここでの因果関係と、物理的な因果関係との間には原理的な区別を設けるべきだと思われる。上記の例のような場合、画鋲を踏んだときの痛みというのは、決して客体的な物理的事象間の因果的関係項として見出されるのではない。むしろその反対に、「足の裏に激痛が走る」という経験にもとづいて、その原因たる「画鋲を踏んだ」という事象が見出されるのである。つまり、痛みをその因果的役割によって規定するよりも前に、既に痛みを一つの経験として了解していなければならないわけである。「足の裏に激痛が走る」という経験なくしては、「画鋲を踏む」という事象をその原因として見出すことも不可能なはずである。

 ここで留意すべきは、痛みというのは有視点的に把握されるものであり、<その都度>的な世界把握に属するということである。痛みを、「腕をぶつけたことによって痛みが生じ、その痛みによって腕を押さえ、顔をしかめるといった行動が引き起こされる」と因果的に説明するとき、「痛み」という心的なものは、確かに因果的過程の中に組み込まれている。しかしこうした因果的説明は、<その都度>的に把握されうる「痛み」の感覚にもとづいて初めて可能になるのであって、客体的事物間の関係として規定することはできない。かくして、機能主義者は実のところ、物理的因果関係という統一的な世界記述の中に、そこから排除されるはずの<その都度>的な世界把握にもとづいた因果的記述を密輸入しているのだ。正にここに機能主義のごまかしがある。なるほど、痛みを感じているときに生じている物理的事象を因果的に記述することは確かに可能であろう。けれども、こうして記述された物理的因果関係の過程の中には、「痛み」は登場してこない。仮に「痛み」という感覚を知らなくとも、物理的因果関係を記述することは可能であろう。つまり物理的因果関係の記述は、心的なものの存在を一切無視しても成立するのである。(いや、むしろ心的なものを排除することで成立すると言ってもよいかもしれない。)してみれば、機能主義は心それ自体には何一つ定義を与えないまま、代わりに物理的因果関係として規定された事象へと心的なものをこっそりと潜り込ませ、心を定義しているつもりになっているにすぎないのである。こうしたごまかしによって、機能主義は心という厄介な事象を問題にすることを巧みに回避しているわけだ。

 

 (ⅲ)AI研究における心

 心へのアプローチの方法として機能主義という立場をとったとしても、根底のところで物理主義を固持する限りでは心にいかなる本質的規定を与えることもできない。「因果的役割」という苦し紛れの規定も、物理主義に徹するならば結局は単なる物質間の連関へと解消され、もはや「心」などという語をわざわざ持ち出す意味が失われてしまうのである。尤も、だからといって自然科学の記述方法自体に何か欠陥があるわけではない。機能主義についての上の検討を通して見えてくるように、科学はわざわざ心などという非実在的なものを問題にせずとも、それを素通りして世界に実在するあらゆる事象を科学的に記述することが可能であろう。それゆえ、「心などという非実在的な概念を科学の分野で問題にしても仕方がない」と主張するならば、それはある意味でけじめのある一貫した態度なのである。

 しかし現状として、こうしたけじめのきちんとついていない科学主義者をしばしば目にする。ここで少し余談にはなるが、その一例として最近何かと注目されているAI(人工知能)の分野において、「AIに心を持たせることは可能か?」という問題を取り上げておきたいと思う。実際、心を持ったAIの研究開発というのも行われているらしい。こうした研究においても、やはり機能主義的な心の捉え方をするのが主流だと思われる。すなわち心は、インプットとアウトプットの間の処理過程だと見做されるわけである。そして、心を発生させるためのプログラムをどう構成するかというのがしばしば議論されている。やはりここでも、「心は脳によって生み出される」という通念が素朴に信じられていると思われる。つまり、脳の機能をプログラミングによって実現できれば、心も実現できるはずだという推論がなされているのである。

 しかし既に見てきたように、心を物質間の因果的関係項として規定した途端に、もはや心は無用の長物になってしまう。この次元では「AIは心を持つか?」というような問題そのものが成立しないであろう。それというのも、ここでは心に何一つ有意味な規定を与えていないからである。してみれば、「AIに心を持たせる研究」というのも実のところ全く方向性の見えない不毛な営みなのである。実際、こうした研究者たちは一体何がしたいのだろう?心を持たせるとは言っても、そもそもその心なるものが一体何なのか分からない。それならば、さしあたってはAIを積んだロボットに人間的な振る舞いを模倣させたいのだろうか?しかし例えば、ロボットが腕を強くぶつけたときに顔をしかめたり、打った腕を押さえたりというような振る舞いをすれば、そこに「痛み」という心的なものが実現したとでも言うのだろうか?それは「痛み」の感覚を経験的に知っている人間が、その「痛み」を感じているときに生じる典型的な振る舞いを、単にロボットに模倣させているという以上のものではないだろう。部分的に振舞い方を人間のそれに模したところで、それだけでは所詮文字通りの模造品にすぎない。

 ではロボットが模造品とはいえないくらいにまで人間そっくりに振舞うようにプログラミングすることは可能だろうか?技術が進めばもしかしたら部分的には人間そっくりの振る舞いをするようにプログラミングすることはある程度可能かもしれないが、しかしそうはいっても、身体の機構が人間とロボットでは全く異なるため、あらゆる振る舞いを人間と全く区別がつかないようにするのは無理があるし、そもそも不毛だろう。特に生理学的・生物学的な次元のもの―食欲、排泄の欲求、疲労感、性的欲求などをロボットに持たせることなど馬鹿げたことであろう。しかしそうすると、「おいしそう」だとかいう感情も無意味になるし、疲れてミスをしたり、そのミスにイライラしたり、などということもなくなるのである。とりわけ人間の多様な気分的状態は、生理的なものと密接に結びついているのであって、そんなものまでわざわざロボットに持たせようとするのは無意味で不合理なことであろう。

 心を持ったロボットが仮にいたとして、そのロボットの生活スタイルはどのようになるのだろう?とても人間には想像もつかないようなものになるのではないか?というよりも、そもそも無生物のロボットに "生活" などという概念を持ち込むのは不適切なのではないか?AI研究は、こんな想像もつかない、というよりも想像するのも馬鹿げていることのために為されているわけではあるまい。AI研究は、あくまで人間の生活にとって有意味であり、かつその範疇において人間を凌ぐような処理能力をAIに持たせることが重要なのではないか。例えば最近、人工知能を癌の早期発見に活用する研究が進んでいるらしい。人間では見落としてしまうような癌の小さな兆候を人工知能は識別しうる。あるいは、自動車の自動運転なども有効な研究だろう。けれども、「心を持たせる研究」などというのに一体何の意味があるのか、僕にはさっぱり分からない。

 尤も、「AIは心を持つか?」という問題が関心を集める背景には、AIが勝手に意志を持ち出し暴走して、人間には制御不可能になってしまうというような事態への懸念があるのかもしれない。確かに、AIが人間に予測できないような事態を引き起こす可能性はないとは言えないだろう。そしてAIの暴走が人間に大きな被害をもたらすかもしれないと危惧するのも一応分かる。けれども、それはAIの意志なのだろうか?そもそも人間が造ったものが暴走し、人間が被害を受けるというような事態は今に始まったことではない。福島の原発事故もまさに予期せぬ事態であった。けれども、誰もそこに「原発の意志」などを介在させる者はいないだろう。それは紛れもなく人災なのだ。同様にして、もしAIが人間に何らかの被害をもたらしたとしても、それはやはり人災だと言うべきではないだろうか。そこに「AIの意志」などという心的なものを持ち出す必然性はどこにもない。それはAIを擬人化しているにすぎないのである。

 

part3はこちら→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part3訂正版) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>