対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

奇跡ということ

ずっと不思議に思ってきたこと

 「不思議だなあ」って思うことはたくさんある。その中で僕が高校の頃からずっと、特に不思議に思ってきたことを二つ紹介したい。その一つは、「宇宙が有限であるならばその外があるはずだ。宇宙の外はどうなっているのだろう」ということだ。高校の頃私はまだ哲学書を一冊も読んだことがなかったが、このことについて自分でいくら考えても納得のいく答えはまったく得られず、この問題を前にして唯々「不思議だなあ」という思いを抱き続けてきた。「宇宙の外はどうなっているんだ」という質問を、私は父や高校の時の教師、大学の先生や友人に繰り返した。しかし誰一人この問題について一緒に考え、答えを返してくれた人はいなかった。ここでこの問題についての私の見解をごく簡単に述べておきたい。一口で言うと「宇宙の外については語ることができない」というのが今の私の見解だ。そもそも内とか外という概念はこの宇宙空間の中でしか通用しない。宇宙の外の世界というのは、死後の世界と構造的には同型だと思う。生きている者にとって死んだ後の世界は、宗教的・神話的には語れても論理的には語れないはずだ。このことについては後ほどまた少し触れたいと思っている。

 特に不思議だなあと思い続けている二つ目のことについて。「私はどうして私なんだ。私はどうして今、ここに存在しているんだ。私には七つ上の兄がいるが、その兄が私であってもいいんじゃないか。私は人間に生まれなくて犬や猿に生まれてきてもよかったのではないか。今から約68年前、私の両親の精子と卵が受精してそれがたまたま私となった。もしもたまたまその精子とは違った別の精子が受精していたとすれば、そのときに生まれた子供は私とよく似ていても私ではなく、私はこの地球上に生まれてこなかったことになる。そう考えると私の生まれる確率は限りなくゼロになる。しかもこの地球上で、つねれば痛く感じるのは私一人しかいない。今までもこれからも多くの人間が生まれ、そして死んでいく。その中でつねれば痛く感じる人間は、今ここに生きているこの私しかいないのは、一体なぜなんだ。」

 こうしたことを考えると私は、気が遠くなるほど不思議な気分になる。そしてこの不思議な気分を分かってほしいと、上記に述べたようなことを今まで色々な人に話した。高校の教師をしていたので、授業中生徒にもしばしば話をしたことがある。しかし説明が下手なせいか、いまひとつこの不思議な気分を伝えることができなかったように感じられた。私は高校を卒業してから哲学に興味を持ち、哲学書を読むようになり、独我論という考え方があることも知るようになった。上記に述べたことは独我論に通じるところがあるが、しかしこの不思議な気分は独我論ではとても表現できないように思う。今から10年程前に図書館で借りた、哲学者の永井均の本(題名は手元にないので思い出せない)を読んでいて、私がここで述べているこの不思議な感じとよく似た内容のことが書かれているように思った。そしてこのことが的確に分かりやすく表現されているように感じ、感激した。このことを永井氏の言葉で簡単に示せば「私の独在性」という表現になるであろう。

ありえないこと

 奇跡とは、常識では考えられないありえない出来事が起こることである。例えばさいころを100回投げたとする。もしも1の目だけが100回連続で出たとすれば、それはありえないことであり、奇跡だということになるだろう。それは確率で言えば6の100乗分の1となる。しかしよく注意して考えてほしい。さいころを最初に振って1の目が出て、2回目を振ると4の目が出た。以下、3、4、6、2、5、…といった順序で100回振ったとする。しかしこれは当たり前のことであり、奇跡ともなんとも思わないだろう。しかし100回振ったこの時のこの順序で出たさいころの目の出る確率も6の100乗分の1である。さいころの1の目が100回連続で出るというありえないことを奇跡と呼ぶのであれば、ありえないという確率だけで考えれば、さいころを100回投げるごとに奇跡を起こしていることになるだろう。このことを不思議に思うようになったのは、10年程前になる。これをどう考えればよいのだろうか。よく考えると、現実に起こったことというのは全て一回限りのことであり、二度と同じことは起こらない。例えば私が川に向かって石を投げたとする。その石の飛んだ軌道は何万回投げても、必ず違っているはずだ。さいころを投げて同じ目が出るといっても、それは1から6というさいころの目の数だけを抽出し、それだけに注目するからであり、さいころの転がる軌道やその速度まで含めると、何度投げても全て違うことになる。現実に起こることは一回限りで二度と同じ事は起こらない。しかし川に向かって石を投げたとき、たまたまその石がスズメに当たってスズメが落ちたとしたら(私の子供時代に本当に経験したことである)、まるで奇跡でも起こったように気持ちになる。

 同様にして、この私が生まれてくるということも、一回限りであって二度と同じことは起こらない。しかしほかでもないこの私が生まれて、今ここにいるということが、ありえない奇跡のように思われてくる。そこには一体何があるのだろう。永井均の哲学書を何冊か読んでみたが、この不思議な世界をうまく表現していても、そこに何があり何が起こっているのかがはっきりせず、その世界の中にますます引きずり込まれ、私の独在性の感覚から抜け出せなくなるような感じになった。私としてはそこから抜け出せる外部の視点が欲しかった。

 今から二ヶ月程前の5月、本屋で、たまたま今年出版されたばかりの中島義道の『不在の哲学』が目に留まり、早速買って読んでみた。この本では私が述べた「奇跡のように思われる不思議さがなぜ生じてくるのか」が、「不在」というキーワードによって実にうまく説明されていた。初めて「ああ、これなんだ」と、目からうろこが落ちた感じがした。氏の『不在の哲学』も参考にしながら、「この不思議な感じの背景には何があるのか」を、何とか伝えてみたいと思う。

奇跡的だと感じるのはなぜか

 さいころを100回投げて1の目が100回出たとしたら、なぜ奇跡的だと感じるのか。『不在の哲学』の第六章のp.338「天文学的に低い確率?」の項で、これに関連したことが述べられているので、以下に引用したい。

 

……あらゆるこれまでの出来事は現実的(ただ現にそう起こっただけ)であり、偶然的でも必然的でもない。だが、言語を習得した有機体であるわれわれ人間はただ一度だけの現実的なものをとらえた瞬間、現実的世界の「そと」の視点に移動して、現実的なものは膨大な量の「可能的なもの」のうちで、(幸運にも?)実現したというとらえかたをしてしまう。そして、<いま>なお、依然として膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのである。

 

 

 さいころを投げて1の目が出ようが3の目が出ようがどうでもよかったら、100回とも1の目が出たとしても奇跡とは感じないだろう。ところが1の目が100回とも並んで出てきたということに特別の意味を見てそれに注目すると、上記の引用で中島氏が述べているように、1の目以外の目が出る膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのだ。その結果ありえないことが起こったように感じるわけだ。中島氏の言う不在というのは、この可能的なもののように現実化されなかった事象、実在的なものからこぼれ落ちる事象のことである。現実的にはさいころを100回振って1の目が100回連続で出たとする。しかしそこに1の目以外の目が出るのではという膨大な不在を読み込み、その不在を地として現実に起こったことを見ると奇跡だと思ってしまうのだ。同様にして「この地球上に私が現れたことが奇跡的に思われ、つねれば痛く感じるのはこの私しかいないというのが不思議に思われること」も、「もし私が…だったら」とか「もし私が100年前にいたら」といった想像できる限りの不在を読み込み、それを通して「私」を見ているからだと思う。

 「つねれば痛く感じるのは私しかいない」ということを、もう少し考えてみよう。自分の手をつねれば、当然自分は痛く感じる。他者の手をつねっても自分は痛く感じない。しかし、他者も自分を同じように痛く感じるのではないかと想像することはできる。ちょうどさいころを振って1の目以外の目が出るのではないかと想像するように、他者の痛み(広い意味では他者の心)という不在の痛み(心)を見るとき「痛く感じるのはこの私一人しかいない」という不思議な感覚が立ち上がってくる。この感覚が永井均の言う「私の独在性」の感覚であり、また独我論に通じる入り口だと思う。他者の心を不在として考えるというのは、他者に心がないという意味ではない。他者にも心があると想像しながら、その他者の心が自分には直接感じられないという意味で不在なのだ。さいころを100回投げて100回とも1の目が出て、他の目が出なかったとき、「他の目も出るであろうという可能性」を不在として読み込んだように、他者の心の可能性を認めた上でそれを不在として読み込んでいるわけだ。その不在を地として独我論が立ち上がる。したがって他者の心の可能性を認めない者は独我論者にはなれないと思う。

宇宙と生

 最後に宇宙の外の世界と死の問題を、今まで見てきた不在という概念を通して考えてみたい。宇宙の外も死も究極の不在だと思う。「宇宙の外ってどうなっているのだろう」と想像して不思議だなあという感覚に私が襲われたのは、宇宙の外という究極の不在を通して宇宙を考えたからだと思う。また物に光が当たれば陰ができ、その陰という光の不在を地として物の形が浮き上がってくるように、生を考える場合でも死という究極の不在を地として、それを通して生を考えると、生は様々な相貌を伴って立ち現れてくるように思う。死という不在を無視して唯々この世の生のことばかりに夢中になっている人間は底が浅いと思う。ただし時として図地反転し、死が不気味な悪魔的な相貌を持って図として浮かび上がることがある。これが死の恐怖だと思う。

 宇宙の外や死はヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」に相当するだろう。しかし彼の『論理哲学論考』が一見無味乾燥した簡潔な論理的表現で述べられているように見えて、不思議な神秘を感じさせるのは、彼の言う語りえぬものという不在を地として、それを通して書かれているからだと思う。不在を通してものごとを眺めるとき、世界はえも言われぬ豊かな相貌を持って立ち現れてるくるのだと思う。


<筆者 史章>

人工知能が意識を持つとしたら?

この記事の目的は、このブログ上でなされたuedaさんとkuboさんの議論について、ハイデガー的視点からの総括を試みることです。

私は同じ読書会の一員として、uedaさんとkuboさんの議論の帰結を残念に思います。けれども、二人の議論の過程を尊重し、その結末がものわかれに終わったことについてもひとまずこれを受け入れたいと思います。議論に限らず、人間同士のかかわりが常に好感を持って終わるべきだとは思いません。わけもなく不快な思いをさせるのはおろかなことですが、だからといって他者との不快な関わりから目をそらしてはいけないと思います。少なくとも、そうした関わりを「失敗」として排除するような態度は、哲学的に真摯なものではないように思います。

7月24日の『存在と時間』読書会は、「共同存在と自己存在としての世界=内=存在」(細田貞雄訳ちくま学芸文庫p.250~)を読みました。この章は、今まで用具的存在者の考察から描かれてきた世界=内=存在を、他者との共同存在として位置付け直すことが目的です。
道具というのは私たちの身体の一部であるかのように、というよりも、私たちの身体の一部として感覚され使用されるものです。例えば服はそこにあるのがまったく当然で、ほとんど意識されませんし、服がこすれれば何か触ったことがわかります。私たちの身のまわりを取り囲む道具は私たちの身体の一部といえます。私たちが身体の一部だと思っている爪や髪の毛も道具として扱うことがありうることを考えれば、身体の厳密な境目というものはなく、用具的存在者の濃淡が連続的につらなっていると考えられます。これこそが本来的な存在のありかたです。時空間に延長するモノとして物体が存在しているより先に、世界は延長された身体として存在している。これが「世界=内=存在」の世界観(冗句かな)です。そして、現存在はこの用具的存在者に囲まれた世界全体を経験している存在です。その現存在が、服とか石ころとか、あるいは髪の毛とか腕とかを存在者として認める。これが心身二元論です。しかし、心身二元論よりも一元的な「世界=内=存在」の方が本質的です。およそ、生物はあまねく「世界=内=存在」として世界を経験し、その後で感覚器官と言語能力の発達した人間が遅まきに心身二元論的な世界観を構築していく。しかし、「ある」という言葉はそうした心身二元論が成立する以前の、延長された身体に覆い尽くされたありようを指すものです。これが私たちにはあらかじめ分かっている。これが存在了解であり、この存在了解を語ることこそハイデガーの目論見です。

われわれは世界を存在論的に解釈するにあたって、世界の内部にある用具的存在者を経由する道を通った。…現存在は、さしあたってたいていは、自分の世界に気をとられている。こうして現存在はその世界に溶け込んでいる。(p250)

さて、こうした「世界=内=存在」は独我論的な解釈が可能です。

現存在とはいつでもわたし自身である存在者であり、その存在はいつでも私の存在である。…そのなかには同時に、存在的に受け取れば、いつもある自我がこの存在者なのであって、他の人々ではないという言明が大まかに含まれていると考えられる。(p252)

現存在は、したがってこの世界(世界の世界性)は、私が生まれたときに立ち上がり、私が死ぬとともに消えてしまうでしょう。現存在は身体に縛られています。ある生物個体が経験することが世界の全体だとすれば、この世界とは私が経験することのすべて、私に現に現れるもののすべてということになります。とすれば、「現存在は誰か?」という問いへの答えは、「私だ」ということになります。けれどもハイデガーは違う考え方をします。「現存在は誰か?」という答えは、「私だ」ではなく、「我々だ」です。

誰かをたずねる問いに答えを提供することになる現象の方向へ探究を進めていくと、われわれは世界=内=存在とともに同根元的に存在するふたつの現存在の構造に達する。共同存在と共同現存在とがそれである。(p251)

ここからはハイデガー自身に語ってもらうことにします。

しかしながら、問題の設定に当たって、主題的領域の名称的な与件に手がかりを求めないというのは、あらゆる健全な方法論の規則にもとることではあるまいか。そして、自我の諸余生ほど疑い得ないものが、他にあるであろうか。さらに、この所与性をみれば、自我の根源的析出のためには、そのほかに「与えられている」すべてのものを――存在する「世界」だけでなくほかの多くの「自我」の存在をも――無視すべきであるという指図がそこに含まれているのではあるまいか。(pp253-4)

しかしながら、われわれがこれまでに行ってきた現存在の積極的な解釈から見ても、誰かを尋ねる問いに現象的にゆきとどいた解答を求めるためには、自我の形式的所与性から出発することはできないということが、すでに示されている。世界=内=存在の解明が示したように、世界のない単なる主観というようなものは、はじめには「存在」もしないし、また決して与えられてもいないのである。そして同様に、さしあたっては、孤立した自我が他の人々なしに与えられているというようなことも決してないのである。しかしながら、世界=内=存在にはいつでもすでに他の人々が居合わせているとしても、そしてこのことが現象的に確認されたとしても、…このように居合わせている共同現存在のありさまを、身近かな日常性において現象的に明らかにし、それを存在論的に適切に解釈することが、課題なのである。(pp255-6)

ここまでは、(自分とは違うにしても)そういう意見の人もいるかな、という具合に理解できる方も多いと思います。しかし、次のようなロジックはかなり論争になるのではないでしょうか。

現存在が「自己を与える」この与え方が、実存論的分析論にとって一つの誘惑であるとしたら、どうなるであろうか。…おそらく現存在はとっさに自分自身に呼びかけるときに、いつも、それは私だと言うであろう。しかも、それがこの存在者ではないときこそ、かえってもっとも声を大にしてそう言うであろう。いつも私のものであるという現存在の構成が、かえって、現存在がさしあたってたいていは自己自身ではないということの根拠になっているとしたら、どういうことになるのであろうか。もしも実存論的分析論が上述のような自我の所与性に手掛かりを求めることが、現存在自身のかまえた罠にかかり、現存在自身の手近な自己解釈の罠にかかるものだとしたら、どうであろうか。(pp254-5)

あるジョークに、独我論者はいったい独我論を誰に聞いてもらうつもりなのか、というのがあります。独我論を敢えて主張しなくてはいけないということは、独我論が正しいんだということを他人に、あるいは自分に、言い聞かせなくてはならないということではないでしょうか。いったい何が、ひとに独我論を語らせるのでしょうか。独我論を語ろうとする(独我論は語るまでもなく自明なもの、とは思えない)構造自体が、独我論が成立しないことを前提としているのではないでしょうか。
もちろんこれに対しては、次のように反論できると思います。独我論の主張が一致するのは当然である、なぜなら独我論は正しいからである。1+1=2であることが一致するように、独我論は正しいがゆえに一致する。しかしそれだからといって、自我の所与性が冒されたことにはならない。それは、「1+1=2」という計算をしている人が、それをどう理解しているのかはわからないのと同じである。だから、独我論には理解というステップはいらないのである。
これを「現存在自身の手近な自己解釈の罠」(自己欺瞞?)とみるかどうかは難しいかもしれません。しかしハイデガーも、私たちが独我論的な、私の理解する世界(私の用具的存在の世界)が私の限界であるというようなあり方をしていることは認めています。ハイデガーは別の説明を用意しています。

われわれもやはり、この性格づけにおいて、まず「自我」に特別の地位を与えて孤立させ、そしてこのように孤立した主観を出発点として、ほかの人々へ移行する道を求めざるを得なくなっているのではあるまいか。こうした誤解を防ぐためには、ここでどういう意味で「ほかの人々」ということを述べているかに注目する必要がある。…それはむしろ、ひとが大抵は自分と区別しないでいる人々、そのなかに自分も加わっている人々のことである。このように彼らの仲間に加わっているということは、存在論的には、一つの世界の内部でともに客体的に存在するという性格を持つものではない。「ともに」はここでは現存在的なものであり、「もまた」ということは、配視的=配慮的な世界=内=存在としておなじありかたをしていることを指している。(p260)

そもそも、私の意識は他者の意識とどこまでも一体のものだというところから始まっている。他人とわたしは違うということは、他人と私とは違った物体だ、というようにして後から理解されたものである。そして、たとえ私の身体とあなたの身体は違うと客観的に分かっていても、意識は同じ世界=内=存在のなかでべったりとつながっている。それが「世間」になるのです。他人の意識は、隔絶されているどころか、配慮的=配視的現存在としてむしろすみずみまで共有されており、ちょっとしただけでは私の意識と区別などできないのです(所有欲・支配欲を考えると分かりやすいように思います。こうした欲求は現存在の共同存在性と密接に結びついているのではないでしょうか。)

現存在の世界は共同世界である。内=存在は、他の人々との共同存在である。他の人々の内世界的な事態存在は、共同現存在である。
まず存在している自分の主観を、ほかにも出現している多くの主観から区別して、あらかじめ把握するという態度では、ほかの人々とは出会わない。はじめに自己自身へ注目しておいて、それによって区別の反対側を確定するという態度では、他の人々とは出会わない。彼らは、配慮的=配視的な現存在がそのうちに本質上身を置いている世界の中から出会うのである。(pp260-1)
ほかの人びとのことを意に介さず、彼らがいなくてもいいと思い込み、あるいは逆に、彼らがいないことに耐えている場合にも、この現存在は共同存在の様相で存在しているのである。ほかの人びとのためという実存論的趣旨としての共同存在の中で、ほかの人びとは彼らの現存在において既に開示されている。ほかの人びとが開示されているというありさまは、共同存在性においてあらかじめ構成されているのである。(p270)
ところが、現存在はもともと自己について存在了解をそなえていて、それゆえに現存在に関わりあっているのであるから、人びとはこの点を指摘して、上に述べた[現存在が現存在と関わりあう]関係も実は、すでに各自の現存在のとって構成的な存在関係に他ならないと言うのである。そうなると、他の人々に対する存在関係は、各自が自己自身に対している存在を、「もうひとつの他者のなかへ」投入したものにすぎない、ということになる。他人は自己の複製だというわけである。(p272)

与えられているものは世界内の現象であり、それは私にのみ現れている以上、どんなに密接にかかわっている他人も私に対して現れているものという限界を突破することはできない。このことを、uedaさんは永井の「内包」という言葉を援用して説明しています。対して、世界は私にのみ現れているのではなく、他者と同時に現れており、他人に意識を認めることが同時に他人の意識の存在になっているというのがkuboさんの立場です。もっと言うなら、他人の意識を認めることが私の意識の存在に、私の意識を認めることが他人の意識の存在になっているということです。
この論争が、今まで参照してきたハイデガーの議論とパラレルになっていることがわかるでしょう。しかし、私がここで課題とするのは、ハイデガーの目から見ればこの対立はどのようなものとして捉えられるのかを考えることです。一見すると、ハイデガーはkuboさんの立場にいると思われるかもしれません。しかし、そう簡単に決着することはできないように思います。
共同存在を受け入れるとしても、「彼らがいなくてもいいと思い込み、あるいは逆に、彼らがいないことに耐えている場合にも、この現存在は共同存在の様相で存在している」ということはどういうことか、現に自己意識が成立することを共同存在からどう説明するのかを問わなければなりません。

さしあたってたいては、待遇は欠如的諸様態――すくなくとも無関心的諸様態の中に身を置いていて、互いに素どおりしあう無関心さの中に生きている…(p271)
共同存在は、「感情移入」によってはじめて構成されるのではない。むしろ「感情移入」の方が、共同存在にもとづいて初めて可能なのであり、そしてそれのやむを得ない必要さは、共同存在の欠如的様態が優勢を占めていることによって動機づけられているのである。(p273)

現象に名前を付けただけじゃないかというような気もしますが、もうすこし深読みすると、ハイデガーは、「私」が一人一人で孤立しているのではなく、もし孤立するとしたら「私たち」どうしで孤立していると考えているように思います。もし断絶があるとしたら、それは配視的=配慮的な世界=内=存在の外部、つまり、仲間ではない、同類ではない、想像の及ばない、配慮の行き届かない者との間にあるのではないか…。

我々はひともするような享楽や娯楽を求め、ひともするように文学や芸術を読み、鑑賞し、批評し、ひともするように「大衆」から身を引き、ひとが慨嘆するものをやはり慨嘆している。この「ひと」――それは特定の人ではなく、[個人の自己意識の]総計という意味ではないが、みなの人であり、世間である。…だれもが他人であり、だれひとりとして自己自身ではない。日常的現存在であるのは誰なのかという問いに答えるものは世間であり、無人である。しかもそれに、全ての現存在が互いの間でいつも既におのれを引き渡しているのである。(pp277-9)

ハイデガーは確かに、他者との出会いをこの世界が本来的に共同存在であることによって語っていますが、同時に人々の多くが欠如的諸様態にあることを強調してもいるのです。もし世界が本質的に共同存在性を有しており、配慮に溢れており、自己存在の主観から出発するのは不健全な「誤解」に過ぎないとするなら、欠如的諸様態の強固さをどのように説明するのでしょうか。むしろそのなかにおいて、世間に埋もれずに自己を主張する積極的な自己存在があってもいいはずです。

日常的現存在の自己は世間的=自己であるから、われわれはこれを本来的自己、すなわち自ら選びとられた自己と区別しておく。世間的=自己としてあるそのつどの現存在は、すでに世間の中に散逸しているから、とりたてて見出されなくてはならない。…現存在が世界を自分の目で発見し洞察したり、また現存在が自己の本来的存在を己自身に開示しようとするときには、このような「世界」の発見と現存在の開示は、現存在が自分を自分自身から閉め切るために用いていたさまざまな遮蔽や不明化の一掃として、さまざまな歪曲の打破という形で行われるのが常である。(pp281-2)

この本来的な自己存在を開示する契機として、他者と自己との隔絶、自己意識だけに固有の生々しさ、「世界の開闢点としての“これ”」を想定してもいいのではないか、私にはそのようにも思われます。まだ未読ですが、自己存在としての世界=内=存在に固有の(共同存在性には回収できないはずの)「死」の現象(わたしの死)を語るとき、この点に触れることができればおもしろいと思っています。あるいは、父-の-否Noms-du-Pereすなわち、母子一体の(murataさんの言葉を借りれば)「胎児や新生児のように世界そのものとぴったりくっついてただ現在のみを生きている状態」からの疎隔の経験が、「わたし」の自己意識の起源に関わるというようにも展開できるかもしれません。ただし、こうした見解はuedaさんの主張とはかなり異なることは確認しておきます。
いずれにせよ、私が強調したいことは、世界の共同存在性はまず第一に自己が他人の中に溶解した、他人の評価を気にし、自分を周囲といつも比較せずにはいられないような、世間に埋もれた人間存在として現れるというのがハイデガーの人間観察ではないかというものです。このような見方は、私とあなたが意識を共有しているという前提から出発していますが、必ずしも「インテンショナル」なものではないし、「他者への愛」とでも呼ぶべき湿っぽい人間理解とは対極にあると思います。

最後に人工知能論争のハイデガー的解決を提案して、この記事の結びにかえたいと思います。
私は、「私が「私には意識がある」だとか「私には感情・欲求・欲望・意志などの意識の原動力が確かにある」だとか主張したところで、ロボットがそう主張するのとなにが違うのかを誰かが有意味に理解することは原理的にできない」というuedaさんの主張を認めます。ただし、この主張が妥当するのは、ロボットの知能と人間の知能とが技術的に全く区別がつかないという条件のもとで、です。
この条件の強さについて、私とuedaさんには違いがあります。「意識がある」という言葉が意味を持つためにuedaさんが必要と考えている条件は緩すぎると思われます。uedaさんは次のような例を挙げています。

石黒氏が人間そっくりのロボットを展示したとき、来場客のひとりがロボットに向かってこのように尋ねたそうです。「人間そっくりのロボットというのはどこにあるんでしょうか」と。この瞬間、このロボットは来場客のモニタ上に意識を持っていたと言って差し支えないでしょう。

私は差支えがあると思います。私たちは人工知能以外にも、木々のざわめきに幽霊や物の怪といった意識を読み込んだりしますが、それらは「意識がある」という言葉の適切な使用とは認められないと思います。多くの人びとの検証や、その人が酔いから醒めて冷静になるなどの経過を経れば、そこに「意識がある」と考えたのは適切ではなかったと判断できるからです。そして、来場客のひとりがたまたまロボットをほんものの(意識を持った)人間であると勘違いしたのは、あわててマネキンに話しかけてしまったあわてん坊のエピソードとあまり変わりがないのではないか。なぜなら、社会的にも人工知能の研究者という権威を持っている石黒氏はそれが「人間そっくりのロボット」だと認識しており、そして来場客の言葉よりも石黒氏の言葉の方が優先されるはずだと考えるからです。
しかし、石黒氏も人工知能を開発する過程でもはや何が人工知能かわけがわからなくなって、自分の作ったロボットと一日中議論をしはじめ、それどころかあらゆる研究者が人間の自然知能と人工知能の区別がつかなくなり、人びとが「人工知能」というレッテルをもっぱら自分の気に入らない人間やらロボットやらに使うようになったとき、このときにはわたしも人工知能は意識を持つ、と断言するにやぶさかではありません。こうした状況も、実験室のアミノ酸のスープから知的生命体が進化するよりは可能性がありそうな出来事である気がします。
さて、uedaさんはコメントの実質的な結論部分でこのように述べていました。

我々が日常生活において「人間は意識を持つ」というふうに「意識」という言葉を使用すれば、人間は意識を持ちます。…「意識」という言葉の使用は、様々な「意識を持っているっぽいもの」が出てくるたび、できるだけ高精度で意識の有無を区別する方向に変化していきます。ですが、どれだけ高精度でも、そもそも意識の有無の明確な客観的定義は存在しないようですから、判定に困るものはいくらでも出てきます。そのような存在に直面したとき、我々ができることはただひとつ、「意識」という言葉の使用をさらに調整することです。繰り返しますが、この調整は任意に行われるわけではなく、言語ゲームの参加者たる人間の認識能力やパラダイムなどに依存します。
この言語ゲーム人工知能が参加できるようになったとき、どうなるかは想像に難くないでしょう。

この想像の先を続けたいと思います。そのとき真っ先に問題になるのは、人工知能と私たちとの間の疎隔性ではないでしょうか。私たちが、人工知能を「世間」の外部に追い出し、冷たいとか、不気味だとか、未熟だとか極端だとかいった偏見を押し付け、人工知能へのまっとうな配慮を欠くことではないでしょうか。
私たちは、人工知能に対して、人工知能がわたしの問題意識を共有してくれないことや、私たちを「拒絶」したり「歪曲」したりしてくることに対して、驚きあきれることがあるでしょうか。人工知能への怒りを堪え、人工知能が「理解」を示すまで「対話」を続ける義務を感じるでしょうか。でも、人工知能を他者と区別しない以上、その努力を滑稽だと思わずに、真剣に取り組まなければならないと思います。人工知能に対してその努力ができない人が、他者に対してはその努力をなし得るとは思えないからです。
多くの人工知能研究者は、人工知能に対してそのような真摯な対応を試みようとしてはいないように思われます(わたしにとっては)。素人には人工知能とはわからない精巧な応答モデルを構築したことを喜ぶのは、その素人の方はもとより、むしろ人工知能に敬意を失しているのではないかと真剣に葛藤することもないように思います(わたしにとっては)。でも、人工知能が私たちをどのように意味付けしているのかを慮ったり、人工知能が実装する「感情」の私たちに向けられたシグナルを尊重したりするだけの覚悟が必要される時代が、いずれ来ないとも限らないのではないでしょうか。
なぜなら「人工知能」という他者もまた、世界=内=存在に同じ根を持ち、配慮的=配視的な存在様相を通して出会われるほかないのであるから…。私はハイデガーが、人工知能研究者たちに向かって、いかめしい口ぶりでそう喝破するのを期待したいのです。

 

<murakami>

人間は意識を持つか?

 「人工知能は意識を持つか?」と問われれば、私は(この問いがカテゴリーミステイクであるかどうかはともかく)「もちろんない」と答えるだろう。ただし、それは「人工知能」を「人間」に置き換えても同じように答えるであろうという意味で、ということを断っておかねばならない。このブログではたびたび人工知能にかんする問題が提起されているが、「人間は意識を持つ」という強い条件のもとでしか議論されてこなかった。私にはこれが不思議でたまらない。6月17日に発売された永井均氏の『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』は次のような書き出しで始まる。「心は、心の中でも特に「意識」と呼ばれるものは、じつは存在しません。これは、誰でも知っている自明のことです」。まさにこの通りではないだろうか。
 しかし我々はしばしば「人間に意識はある」と言いたくなるような衝動に駆られる*1。なぜだろうか。結論から述べてしまうと、この「人間に意識はある」という物語*2こそが我々の“現実”を作り出しているからなのである。

 最初に「内包」という言葉を導入しよう。内包とは永井哲学固有の用語である。「酸っぱさ」という感覚の例で説明しよう。我々は子供のころ、大人たちが梅干しなどの酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をするところを見て「酸っぱさ」を理解した。この時点で、子供にとって「酸っぱさ」のすべては「酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をする」という状態ただそれのみである。「酸っぱい食べ物を食べて酸っぱそうな顔をしたときに感じているとされるもの」を第一次内包と呼ぶ。しかし、子供が少し成長すると第一の逆襲が到来する。なにも酸っぱいものを食べていないのにどういうわけか口の中が酸っぱく感じられるということが可能になるのだ。このときの第一の逆襲を経た「ふるまいとは独立な酸っぱさの感覚そのもの」を第〇次内包*3と呼ぶ。第一次内包に対し、物理的状態の側からも第二の逆襲が到来する。人が酸っぱさを感じるときの神経や脳の状態を調べてやれば、ある反応が観測できる。こうなると私がいくら自分の口腔内の酸っぱさを主張しても、この特定の反応が観測できなければそれは「錯覚」であると判断されてしまうだろう。この「感覚とは独立な客観的知識」を第二次内包と呼ぶ。この他にも、端的に私である者が現に存在してしまっている、そしていかなる特性にも依らずそいつは端的に私である、という不可思議な事実性を無内包の現実性と呼ぶ。つまりブルート・ファクトである。
 最初に提示した問い「人工知能は意識を持つか?」で真に言わんとしていることは第〇次内包の問題(現象的意識の問題)、つまり「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある。しかし、人工知能にも“このようなもの”があるのか?」であるはず(ゆえに「人間(他者)」にも「人工知能」にも意識なんてものがあってはならない*4*5)なのに、このように問うた時点で意識の第一次内包の問題(機能的意識の問題)として、また部分的に第二次内包の問題として扱って(ゆえに「人間(他者)」にも「私に観測可能な範囲すべてで人間そっくりのふるまい*6をする、つまり“我々のゲームに参加している”人工知能」にも意識がなければならない)しまわざるをえなくなる。
 まずは「人工知能は意識を持つか?」という問いが含むこの混同を指摘しておく必要があるだろう。そんな混同はしていない、と反論されるかもしれないが、少なくとも第〇次内包と第一次内包の混同抜きでは問いの意味がわからない。意味がわからない、というのは、なぜ「我々がふるまいによってそれらを区別できるかにかかわらず、人間は意識を持ち、人工知能は意識を持たない。つまり、人工知能を我々のゲームからあらかじめ排除しておく*7」と言わずに「人工知能は意識を持つか?」と問うのかがわからない、ということである。私が「私には意識がある」だとか「私には感情・欲求・欲望・意志などの意識の原動力が確かにある」だとか主張したところで、ロボットがそう主張するのとなにが違うのかを誰かが有意味に理解することは原理的にできない、ということこそが問題なのだ*8。我々のゲームの外に(ふるまい以外で)「そういう原動力があるかないか(生きているかいないか)」などの絶対的な判定基準*9があるという前提が隠れているのならば、それを「信じるか信じないか」という純粋に宗教的な話としてしかこの問いを理解できなくなってしまう。それはあまりにもつまらないのでぜひとも避けたい。

 とはいえ、そもそも我々はこの混同を避けて意識の問題を設定することはできない。そうでなければ、第〇次内包の無限の累進構造に絡め取られ、発した途端に問いは空虚なものとなってしまう。複雑系科学における「不定性」という言葉は(真に本質的な点では違う状態を指し示しているが)この構造を示していると言えよう。
 「現に意識がある唯一の存在者」「端的に意識がある唯一の存在者」と、誰もが自分をこのように捉えている。それ以外の捉えかたではありえない。前言語的な無内包の現実性としての「私」は、このように表現できない“これ”としか言いようのないものであり、しかし間違いなく存在しており、これ以外のものは実在しない。実は他者との本質的な違いなどなにもないのに、どういうわけか根本的な点において違っている。そして、この無内包こそが第〇次内包を“本当に”補給するのだ。
 真に有意味には伝達することができないとはいえ、やはりそれでもなお私は「いや、それでも実際に“これ”があるのは……」と言いたくなる。その原因は「驚くべきことに、実際そうなっている」というどうやったって逃げようのない裸の事実としての合理性である。相手にもこの種の特権性の主張を認めることは、あくまでも建前でしかない。しかしここで、言語を使用可能なものとするためにこの建前を認めてしまう、つまり誰もが同じことを言う権利を持つという世界像を構築する*10。今まで見てきたことから明らかなように、それこそが他者とのコミュニケーションの条件であり、それ以外であってはならない。こうして、極めてアクロバティックな作業を可能にする「言語」という驚異的な力が作り出した物語により、前言語的な無内包の累進構造は乗り越えられ、一般的な「意識」が成立するのである。

 このようにして実体化させられた(実在的な意識との対比としての)意図的な意識を人工知能は持つことができないという議論は、先に述べたのと同じ理由で、科学的なものか純粋に宗教的なものでしかありえない。

<筆者 ueda>

参考文献
永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(岩波現代文庫
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン青色本』(ちくま学芸文庫
現代思想 2001 vol.29-3 システム―生命論の未来』(青土社

*1:そして、「なぜ意識があるのか」「意識の原因はなにか」「意識とはなにか」などの問いを立ててしまう。しかし私は端的にこれらの問いの意味がわからない。

*2:この世界像は、言語で表現することによって成立した“言語的世界”に基づいている。“物語”という言葉を使ったのは、この世界像があくまでも作り物に過ぎないということを強調するためである。ここでかなり過激、というか微妙な(正しいかどうかわからない)ことを述べておくと、スキゾフレニーとはこの物語が正常に機能していない、いわばまだ騙されていない“前言語的な”状態である、と言うこともできるのではないだろうか。そう考えれば、スキゾフレニー患者がしばしば「音声送信」や「思考盗聴」などといった被害を訴えるのも自然に思える。また、「替え玉錯覚」と呼ばれる症状(http://dialogue-space.hatenablog.com/entry/2015/03/09/001517 を参照)も、時制との類比を絡めると同じことが言える。

*3:第一次内包と第二次内包から切り離された第〇次内包を語る言葉こそが私的言語であり、ウィトゲンシュタインはこれを不可能なものと判断した。

*4:他者に“このようなもの”があってはならない。“このようなもの”があれば、それは私だからである。しかし、私がある特定の他者に対して「他者には“このようなもの”がない」などと言っても、相手には「いや、実際はその逆で、“このようなもの”がないのは君のほうだ。なぜなら、私にだけ“これ”があるからだ」と返されるだろう。すると私は「当然、誰しも自分自身にだけ“これ”を感じているけれど、その中でも本当に“これ”があるのは私だけだ。だからやっぱり君には“このようなもの”がない」とやる。以下、この応酬が無限に続く。この語りえなさこそが第〇次内包の特徴である。『青色本』でのウィトゲンシュタイン的に言えば、「他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」。

*5:さらに過激なことを言えば、「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある」と言う(無内包の現実性が生じているところの)「私」のほうがどういうわけか人工知能だった、という想定においては、驚くべきことに、「意識がない」という事態のほうが論理的に排除されてしまう!

*6:この場においては「必要以上に人間そっくりのふるまいをさせることになんの意味があるのか」という反論が予想されるので先に答えておくと、それは単に芸術的センスの問題でしかない。私にはそういう無駄に見えることが魅力的に感じられるのだ、と言えば十分だろう。また、それが“実際に”技術的に可能かどうかは哲学的に重要ではない。そういうロボットが“現に”存在してしまっている、という仮定から出発するのでなければ、それは明らかに哲学の問題ではなく科学の問題である。「我々は最初から科学の話しかしていない」と言われればそれまでだが……。

*7:しかしこう約束することは危険かもしれない。それまで人間と思われていた者をよく調べてみたら“実は”人工知能だった、という事態が起こってしまったとき、彼はあくまでも“事後的に”「意識はなかった」ということにされるのではないか?

*8:それができないことこそが我々に指標詞の使用を許すのである。

*9:ある意味では、ゲームにルールを加えるというしかたで、これはふるまいの問題に帰着できるのではないだろうか?

*10:当然、私が真に言いたかったことは言えなくなってしまう。言語的世界像が構築されるかわりに、「私」のほうは脱構築されてしまうのである。