対話空間_失われた他者を求めて

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『知覚の現象学』の概括──生きられた世界の開示

本文は初め、murakamiさんの記事、「わかりにくさの陥穽」へのコメント返信として書かれたものです。ですが、少々長くなってしまったので、ひとつの記事にすることにしました。これを読む前に「わかりにくさの陥穽」、また出来ればそのコメント欄も含めて参照していただければ、議論の流れを掴めるかと思います。

『知覚の現象学』の力点

 見当違いかもしれないが、もしかしてmurakamiさんは本書を心理学や生理学の研究書のような観点で読まれているのではないだろうか。僕が思うに、『知覚の現象学』という著書は、心理学や生理学の諸学説を参照しているにもかかわらず、それらをもとに自身の学説を展開する「研究論文」といったようには書かれておらず、もっと別のところに力点が置かれている。確かに、心理学や生理学に関する自身の学説を展開しようと思えば、murakamiさんの言われるように、メルロ=ポンティのような引用の仕方は糾弾されるべきであり、「その学説が形成されていく試行錯誤の過程をできるだけ克明に再構成する」必要があるだろう。しかしながら、本書には学説を提唱するような意志はほとんど見られない。長々と分析されている「シュナイダーの症例」であっても、その分析を「病理学の学説として、心理学や生理学などの諸学説をもとに構成する」などというところまでは至っておらず、あくまで、ゲルプ・ゴルトシュタインを主とした研究資料を参照する中で浮かび上がってくるシュナイダーの実存の様態を記述する、というところで止められている。

 それでは、一体本書は何を目的として書かれたのだろう。それは端的に言えば、彼が幾度となく繰り返す「生きられた世界の開示」、さらに憚らずに言えば、「生の豊かさとは何か」、あるいは「私がこの世界で生きるとはどういうことか」といった問題に言及するというところであると思う。彼がやたらと病理現象を取り上げるのも、病理者の変容を被った存在仕方を分析することによって、逆に正常人があまりにも自明であるために無自覚な自身の生の様態、自身の存在仕方等を浮き彫りにするという意図があるのだろう。尤も、このようなところに力点を置いた読み方は、おそらくmurakamiさんの読み方とはかなりズレているだろう。けれども僕は、『知覚の現象学』という著書は今述べたような観点から読まれなければ、その真価を見出せないのではないかと考えている。そこで以下においては、「生きられた世界」という、このテーマの重要性を少しばかり見てゆくことにしたいと思う。

生きられた世界と実存的分析

 既述したように本書では、シュナイダーの症例を長々と分析しながらも、それに対する学説を唱えることをせず、あくまでもシュナイダーの実存の有様を記述するというところで止まっている。(ところで、一応確認しておくが、メルロ=ポンティの使用する「実存」という言葉は、サルトル的な実存とは別のものである。メルロ=ポンティは、サルトルとは違い、無意識レベルまで含めた生き方の姿勢、存在の様態、といったものを端的に「実存」という言葉で表していると思われる。)では、そこに留まるのは何故かといえば、学説を提唱するよりも前のところで、シュナイダーがどのような世界を生きているのか、そして、彼の症状は彼にとってどのような意味を持っているのか、というようなことを「了解する」というところに力点が置かれているからであろう。そして、「了解する」ためには、彼の症状を客観的に観察するだけでは不十分であり、そこから進んで、彼の生きる姿勢全体を捉えるよう努める必要があるわけだ。

 このような態度で精神病理の分析をしている研究者はおそらく僅かだろうが、全く見られないというわけではないようだ。ここでその一例をあげておこう。精神病理学者、木村敏は、精神医学界が、主観的な多義性を学問の営みから消去したいという客観性願望によって、「こころ」の問題をなおざりにしているという現状への危惧をいくつかの著書で述べている。彼は多くの著書において統合失調症(分裂病)の分析を行っているが、この病理の分析のためには、どうしても客観的なものの観方には留まれず、その患者がどのようにして生きようとしているかを了解する必要がある。少し彼の著書を見てみよう。『偶然性の精神病理』の中の一節で、彼は統合失調症の思考障害に言及し、その中でも「替え玉錯覚」という症状を取り上げている。「替え玉錯覚」とは、"自分の目の前に現れる他者、自分自身、自分の経歴、自分の使用する物品などの自同性が疑問に付され、「外見はそっくりだが実は別のもの」という判断が下される"、という妄想のことである。例えば木村敏が報告している患者では、「自分が自分であって自分でない」とか「母親は母親であって母親でない」などということが語り出されているそうだ。さて、こういった事態を正常人が観た場合、なんと非合理的な発言だろう、と思うのが普通だろう。だが、こういった正常人の常識を暗黙のままに前提し、患者の病理を(メルロ=ポンティに言わせれば主知主義的に)理性の障害や、衰弱などに還元したところでその病理の本質はつかめないだろう。確かに患者の思考は、論理原則(自同律、矛盾律排中律)を大きく踏み破るものである。しかし、そもそも正常人にとっては、何故このような論理原則が確かなものたりえているのだろうか。木村敏は次のように主張する。"古典論理学のこの三大原則(自同律、矛盾律排中律)は、実にわたしたちがただひとつの身体、したがってただ一回の生命しか与えられていないことの──言い換えれば、わたしがただわたし自身としてしか生きられないことの──論理面への反映である。この論理原則の真理性を否定することは、そのままわたしたちの(中略)個別的生存の事実を否定することにつながるだろう。" 木村敏は、正常人が暗黙の前提としているこの「自己の自己性」とでも言うべきものの獲得が、統合失調症患者の場合はうまく機能していないのではないか、という観点から多くの著書において統合失調症の詳しい分析を行っている。(具体的な分析内容はここでは割愛する。)

 さて、以上の例からも解るように、病理が患者の存在仕方そのものを大きく変容させてしまっているようなケースにおいて、その病理を本質的に理解するために要求される態度は、「自らがその患者の生きる姿勢のなかにすべりこみ、その患者の症状がもつ意味を了解するように努めること」であろう。そして、そのためには主客二元論的発想を停止する必要がある。メルロ=ポンティが言う「実存的分析」とは、まさにこのような、患者によって「生きられた世界」の様態を観ようとする分析態度のことなのである。

ものを観る態度について

 ここまで書けば、何故メルロ=ポンティが、自身の学説を展開せず、あくまで「態度」の問題に留まっているのかが見えてくるだろう。上でも述べたように、とかく人は、知的にものを理解しようとするとき、それが客観的なものたろうとすることを求め、自身の主観的な視点を排除したがるものだ。ところがメルロ=ポンティはこの主客が分化する以前のところに、世界との交流としての「知覚」、あるいはその媒質としての「身体」を見出してゆき、これらの支えのおかげで様々な知的営みがその十全な機能を果たしうるのだと主張するわけだ。この下支えの存在が主題化されなければ、どれだけ緻密な観察をしても、精密な思惟を働かせても、ある種の病理は了解不可能であろうし、さらに言えば「精神」や「身体」の本質など決して捉えられないだろう。

 こうした事情があって、メルロ=ポンティは「態度」の問題を重視する。そして、「現象学」とはまさに、ものを観る態度の根本を主題とした哲学なのだと思う。ところで、フッサールの場合は、現象学が「厳密学」たることを希求し、現象学的な「方法論」を確立しようとしていたようだ。だがそれに対し、メルロ=ポンティの場合はそれを半ば諦めているところがあると思う。(尤も、フッサールであっても「厳密な学としての哲学という夢は見果てた」と発言しているが。)メルロ=ポンティにとっての現象学的還元は、いつまでも完全なものになることはなく、その還元に終わりはない。だが、それこそが彼の求める哲学的態度なのであって、"哲学とは己れ自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である"、というわけである。また次のようにも述べている。"現象学的世界とは、何か純粋存在といったようなものではなくて、私の諸経験の交叉点で、また私の経験と他者の経験との交叉点で、それら諸経験のからみ合いによってあらわれてくる意味なのである。" 彼にとって、哲学的営みの基底は、「私がこの世界で生きている」という現実なのであり、絶えずそこからものを考え始めねばならないということなのだ。

 したがって、murakamiさんがコメントされているような、メルロ=ポンティは「懐疑論者」、あるいは「相対主義者」である、などという位置づけには決してならないと思う。なぜなら、懐疑論者ならば疑いを向け、相対主義者ならば軽視するであろう「私自身のありありとした経験」というものを、彼は最も重視し、哲学の出発点にしているわけだから。よって、彼は懐疑論者や相対主義者とは、むしろ真っ向から対立する哲学者なのだ。だが一方で、彼は「絶対的真理」なるものを求めようとしているわけではない。なぜなら、「私」とは、絶対的真理を見据える「不偏不党のコギト」などではなく、つねに世界に巻き込まれ交流する、世界内存在としての「私」だからであり、よって彼が求める真理とは、謂わば、この「私」によって「生きられた真理」なのである。

『知覚の現象学』の強引さ         

 以上のようなことを了解したとしても、確かに本書の論の進め方には一種の「強引さ」があるとは思う。murakamiさんが指摘するように、学説史をフラットな目線で読み解いているとは言えないだろう。けれども、この「強引さ」は、その読みにメルロ=ポンティ自身の視点が強く介入していることの証拠であり、すなわち、これは彼が相対主義者などではない所以ではないだろうか。確かに、murakamiさんが求めているであろう「学説史のリアリズム」を本書の中に見ようとしても、あまりにもメルロ=ポンティの色に染め上げられ過ぎているだろう。だがこういった欠点は同時に、上空飛行を排し、つねに自分自身の問題から出発しようとした、メルロ=ポンティ流の哲学の、一種の魅力とも言えるのではないだろうか。

<kubo>