対話空間_失われた他者を求めて

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人間は意識を持つか?

 「人工知能は意識を持つか?」と問われれば、私は(この問いがカテゴリーミステイクであるかどうかはともかく)「もちろんない」と答えるだろう。ただし、それは「人工知能」を「人間」に置き換えても同じように答えるであろうという意味で、ということを断っておかねばならない。このブログではたびたび人工知能にかんする問題が提起されているが、「人間は意識を持つ」という強い条件のもとでしか議論されてこなかった。私にはこれが不思議でたまらない。6月17日に発売された永井均氏の『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』は次のような書き出しで始まる。「心は、心の中でも特に「意識」と呼ばれるものは、じつは存在しません。これは、誰でも知っている自明のことです」。まさにこの通りではないだろうか。
 しかし我々はしばしば「人間に意識はある」と言いたくなるような衝動に駆られる*1。なぜだろうか。結論から述べてしまうと、この「人間に意識はある」という物語*2こそが我々の“現実”を作り出しているからなのである。

 最初に「内包」という言葉を導入しよう。内包とは永井哲学固有の用語である。「酸っぱさ」という感覚の例で説明しよう。我々は子供のころ、大人たちが梅干しなどの酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をするところを見て「酸っぱさ」を理解した。この時点で、子供にとって「酸っぱさ」のすべては「酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をする」という状態ただそれのみである。「酸っぱい食べ物を食べて酸っぱそうな顔をしたときに感じているとされるもの」を第一次内包と呼ぶ。しかし、子供が少し成長すると第一の逆襲が到来する。なにも酸っぱいものを食べていないのにどういうわけか口の中が酸っぱく感じられるということが可能になるのだ。このときの第一の逆襲を経た「ふるまいとは独立な酸っぱさの感覚そのもの」を第〇次内包*3と呼ぶ。第一次内包に対し、物理的状態の側からも第二の逆襲が到来する。人が酸っぱさを感じるときの神経や脳の状態を調べてやれば、ある反応が観測できる。こうなると私がいくら自分の口腔内の酸っぱさを主張しても、この特定の反応が観測できなければそれは「錯覚」であると判断されてしまうだろう。この「感覚とは独立な客観的知識」を第二次内包と呼ぶ。この他にも、端的に私である者が現に存在してしまっている、そしていかなる特性にも依らずそいつは端的に私である、という不可思議な事実性を無内包の現実性と呼ぶ。つまりブルート・ファクトである。
 最初に提示した問い「人工知能は意識を持つか?」で真に言わんとしていることは第〇次内包の問題(現象的意識の問題)、つまり「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある。しかし、人工知能にも“このようなもの”があるのか?」であるはず(ゆえに「人間(他者)」にも「人工知能」にも意識なんてものがあってはならない*4*5)なのに、このように問うた時点で意識の第一次内包の問題(機能的意識の問題)として、また部分的に第二次内包の問題として扱って(ゆえに「人間(他者)」にも「私に観測可能な範囲すべてで人間そっくりのふるまい*6をする、つまり“我々のゲームに参加している”人工知能」にも意識がなければならない)しまわざるをえなくなる。
 まずは「人工知能は意識を持つか?」という問いが含むこの混同を指摘しておく必要があるだろう。そんな混同はしていない、と反論されるかもしれないが、少なくとも第〇次内包と第一次内包の混同抜きでは問いの意味がわからない。意味がわからない、というのは、なぜ「我々がふるまいによってそれらを区別できるかにかかわらず、人間は意識を持ち、人工知能は意識を持たない。つまり、人工知能を我々のゲームからあらかじめ排除しておく*7」と言わずに「人工知能は意識を持つか?」と問うのかがわからない、ということである。私が「私には意識がある」だとか「私には感情・欲求・欲望・意志などの意識の原動力が確かにある」だとか主張したところで、ロボットがそう主張するのとなにが違うのかを誰かが有意味に理解することは原理的にできない、ということこそが問題なのだ*8。我々のゲームの外に(ふるまい以外で)「そういう原動力があるかないか(生きているかいないか)」などの絶対的な判定基準*9があるという前提が隠れているのならば、それを「信じるか信じないか」という純粋に宗教的な話としてしかこの問いを理解できなくなってしまう。それはあまりにもつまらないのでぜひとも避けたい。

 とはいえ、そもそも我々はこの混同を避けて意識の問題を設定することはできない。そうでなければ、第〇次内包の無限の累進構造に絡め取られ、発した途端に問いは空虚なものとなってしまう。複雑系科学における「不定性」という言葉は(真に本質的な点では違う状態を指し示しているが)この構造を示していると言えよう。
 「現に意識がある唯一の存在者」「端的に意識がある唯一の存在者」と、誰もが自分をこのように捉えている。それ以外の捉えかたではありえない。前言語的な無内包の現実性としての「私」は、このように表現できない“これ”としか言いようのないものであり、しかし間違いなく存在しており、これ以外のものは実在しない。実は他者との本質的な違いなどなにもないのに、どういうわけか根本的な点において違っている。そして、この無内包こそが第〇次内包を“本当に”補給するのだ。
 真に有意味には伝達することができないとはいえ、やはりそれでもなお私は「いや、それでも実際に“これ”があるのは……」と言いたくなる。その原因は「驚くべきことに、実際そうなっている」というどうやったって逃げようのない裸の事実としての合理性である。相手にもこの種の特権性の主張を認めることは、あくまでも建前でしかない。しかしここで、言語を使用可能なものとするためにこの建前を認めてしまう、つまり誰もが同じことを言う権利を持つという世界像を構築する*10。今まで見てきたことから明らかなように、それこそが他者とのコミュニケーションの条件であり、それ以外であってはならない。こうして、極めてアクロバティックな作業を可能にする「言語」という驚異的な力が作り出した物語により、前言語的な無内包の累進構造は乗り越えられ、一般的な「意識」が成立するのである。

 このようにして実体化させられた(実在的な意識との対比としての)意図的な意識を人工知能は持つことができないという議論は、先に述べたのと同じ理由で、科学的なものか純粋に宗教的なものでしかありえない。

<筆者 ueda>

参考文献
永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(岩波現代文庫
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン青色本』(ちくま学芸文庫
現代思想 2001 vol.29-3 システム―生命論の未来』(青土社

*1:そして、「なぜ意識があるのか」「意識の原因はなにか」「意識とはなにか」などの問いを立ててしまう。しかし私は端的にこれらの問いの意味がわからない。

*2:この世界像は、言語で表現することによって成立した“言語的世界”に基づいている。“物語”という言葉を使ったのは、この世界像があくまでも作り物に過ぎないということを強調するためである。ここでかなり過激、というか微妙な(正しいかどうかわからない)ことを述べておくと、スキゾフレニーとはこの物語が正常に機能していない、いわばまだ騙されていない“前言語的な”状態である、と言うこともできるのではないだろうか。そう考えれば、スキゾフレニー患者がしばしば「音声送信」や「思考盗聴」などといった被害を訴えるのも自然に思える。また、「替え玉錯覚」と呼ばれる症状(http://dialogue-space.hatenablog.com/entry/2015/03/09/001517 を参照)も、時制との類比を絡めると同じことが言える。

*3:第一次内包と第二次内包から切り離された第〇次内包を語る言葉こそが私的言語であり、ウィトゲンシュタインはこれを不可能なものと判断した。

*4:他者に“このようなもの”があってはならない。“このようなもの”があれば、それは私だからである。しかし、私がある特定の他者に対して「他者には“このようなもの”がない」などと言っても、相手には「いや、実際はその逆で、“このようなもの”がないのは君のほうだ。なぜなら、私にだけ“これ”があるからだ」と返されるだろう。すると私は「当然、誰しも自分自身にだけ“これ”を感じているけれど、その中でも本当に“これ”があるのは私だけだ。だからやっぱり君には“このようなもの”がない」とやる。以下、この応酬が無限に続く。この語りえなさこそが第〇次内包の特徴である。『青色本』でのウィトゲンシュタイン的に言えば、「他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」。

*5:さらに過激なことを言えば、「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある」と言う(無内包の現実性が生じているところの)「私」のほうがどういうわけか人工知能だった、という想定においては、驚くべきことに、「意識がない」という事態のほうが論理的に排除されてしまう!

*6:この場においては「必要以上に人間そっくりのふるまいをさせることになんの意味があるのか」という反論が予想されるので先に答えておくと、それは単に芸術的センスの問題でしかない。私にはそういう無駄に見えることが魅力的に感じられるのだ、と言えば十分だろう。また、それが“実際に”技術的に可能かどうかは哲学的に重要ではない。そういうロボットが“現に”存在してしまっている、という仮定から出発するのでなければ、それは明らかに哲学の問題ではなく科学の問題である。「我々は最初から科学の話しかしていない」と言われればそれまでだが……。

*7:しかしこう約束することは危険かもしれない。それまで人間と思われていた者をよく調べてみたら“実は”人工知能だった、という事態が起こってしまったとき、彼はあくまでも“事後的に”「意識はなかった」ということにされるのではないか?

*8:それができないことこそが我々に指標詞の使用を許すのである。

*9:ある意味では、ゲームにルールを加えるというしかたで、これはふるまいの問題に帰着できるのではないだろうか?

*10:当然、私が真に言いたかったことは言えなくなってしまう。言語的世界像が構築されるかわりに、「私」のほうは脱構築されてしまうのである。

人間力という言葉に抱く嫌悪感について

人間力という言葉が嫌いだ。

何故ならこの言葉は独善的である。人間とはかくあらねばならぬという無神経な押し付けである。悪いことに、この言葉の使用者たちはそれと意識することなしにこの暴力的な押し付けを行なっている。無自覚な分タチが悪いといえる。

 

人間力という言葉の意味

 人間力という言葉は今きわめて多義的に使われている。

それ以前にも言葉としては存在していたようであるが、この言葉が一般的に普及しはじめたのは2000年頃だろう。2003年に発表された内閣府人間力戦略研究会の発表(ここで行政は人間力という言葉をはじめて使用した)にははじめに人間力という言葉をこう説明している。

 

 

文部科学省は、近年の教育改革の中で、自ら学び、自ら考える力などの「生きる力」という理念を提唱してきた。「人間力」とは、この理念をさらに発展させ、具体化したものとしてとらえることができる。すなわち、現実の社会に生き、社会をつくる人間をモデルとし、その資質・能力を「人間力」として考える。

 

 

 更には本論で人間力を以下のように定義している。

 

人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、本報告では、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」と定義したい。

 

 

 この定義に従うならば、例えばニートやひきこもりなどは人間力のない人物ということになるだろうか。


けれども、人間力という言葉がこのような意味で使用されることはむしろ稀であろう。通常この言葉がどんなふうに使われているかといえば、社会を力強く生きていく力というよりも、「魅力あふれる人」とか、「精神力の強い人」とか、「精神性の深い人」というのが人間力のある人というふうに呼ばれているようである。

 

サッカーアテネオリンピック代表監督、山本昌邦

「オリンピックでは人間力が試される」

 

読売ジャイアンツ監督、原辰徳

阿部はこの人間力という部分において、非常に強いものを持っているのです。ちょっとやそっとのことでは動じない、精神的な強さ、プレッシャーをプラスに変える強さがある」

 

人間力という言葉が成り立つほど人間は単純な存在ではない

いずれの意味で使われるにしろ、わたしはこの言葉は使われるべきではないと思う。

 

第一に行政機関が人間力という言葉を使うべきでない理由についてである。

行政が若者の現実社会を力強く生きていく力を涵養するという大きな方針を打ち立てることについては別段異論はない。けれども、行政が人間力という言葉を使うとき、彼らの定義する人間力の強い者こそ人間として肯定されるべきであり、逆にそうではない、社会を強く生きていけない者は人間としての価値が低いということが暗に主張されている。果たして人間の価値はそんな単純なものだろうか。

また、数年前に人間力を測る試験などというものが文部科学大臣によって提言されたが、そんなものは押し付けを通り越して社会的な暴力だと思う。

 

第二に公共性の高くない日常的な場面でもやはり人間力という言葉を使うべきではないと考える理由についてである。

魅力あふれる人物、精神力の強い人物、精神性の深い人物などが社会で歓迎されるのは当然である。けれども、そういった人物を人間力のある人というふうに言ってしまうと、そういった曖昧な気質こそが人間としての唯一の価値基準であるということを言外に表明していることになる。しかしそんな唯一の尺度というものが存在するであろうか。

 

いずれにせよ、人間力という言葉を使用する者に抜け落ちている視点は、人間の多面性である。人間は人間力などといって一面的に測ることができるほど単純な存在ではない。「力」という言葉を使うと、その前につく言葉は一元化されてしまう。けれども人間は本来一元的に語ることができない。人間のくみ尽くすことのできない無限の曖昧さを「力」という言葉を使うことによって、あたかも唯一の尺度があるかのように捉えたところに無理があった。また、その尺度を自分勝手に解釈して他人に押し付ける態度は独善的であると言わざるをえない。

 

 死語になることを願う

ネットで検索したところ、わたしと同様にこの言葉に不快感を表明している者が少数ながら存在していた。この言葉にぼんやりとした違和感を抱いている者は存外少なくないのではあるまいか。人間力という言葉が独善的な押し付けであることが広く洞見され、死語として世から葬り去られることを願う。




<筆者 murata>

 

清原和博氏のセカンドキャリアについて

私は野球にあまり関心がない。「清原」の名前も聞いたことはあったが詳しいことは何も知らなかった。しかし、覚せい剤所持の現行犯として逮捕されたのち、そのセカンドキャリアと薬物依存の関係をめぐるいくつかの報道に接するうちに、とても他人ごとではいられない気持ちになってしまった。

正直なところ、私は清原氏が苦手である。体格がよく、大柄で、大胆で、乱暴で、豪放磊落に「男道」を語り、目立ちたがりで、すべてを「結果」で挽回しようとする。これが、清原氏に対する私の偏見である。もちろん、その攻撃性は心理的な弱さ(気弱さ、気恥ずかしさ、孤独への弱さ、他人への依存)を乗り越えるためのものだった、という面はあるように思う。たしかに、私にも自分のコンプレックス(弱味、劣等感)を克服しようとして攻撃的になる瞬間はある。それによって人間的に成長することももちろんあると思うけれども、私は、そこに居直るほど「強さ」を(肉体的にも精神的にも)アピールできる人とは折が合わない。

もちろんこの記事のテーマは、清原氏の姿になじめない私の気持ちを吐き出すことではない。

清原氏は過去に一度覚せい剤疑惑が報道されたことがある。本人は薬物の使用を否定したが、そのときのNHKの取材で次のように語っていたという(元記事は現在閲覧できない)。*1

覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕された清原和博容疑者は、おととし週刊誌に薬物疑惑を報じられたあと表舞台から遠ざかっていました。
そうしたなか、去年3月NHKが復帰を目指していた清原容疑者に当時の心境やその後の活動について話を聞きたいと取材を申し込んだところ本人が応じました。
この中で清原容疑者は、「引退したあと、自分の気持ちをコントロールするのがすごく難しかった。9歳から30年以上ずっと野球のことばかり考えてきて、野球選手としての清原和博が終わった時に、俺はどうしたらいいのかと思うようになった。
最後は膝の故障で納得して辞めたが、引退後は1日をどう過ごしていいのかが分からなくなった。野球選手としては悔いがなかったが、引退後は心に穴が開いた感じだった」などと現役を退いたあとの喪失感などを語っていました。

さらに、現役時代のイメージから逃れられない苦しさも打ち明けていました。この中では、「僕自身は弱い人間です。高校1年の時に、野球を見るとおなかがいたくなったりとか、小さい時は人見知りが激しくてお母さんの後ろに隠れたりしているような感じだった。
それなのに、岸和田の清原が甲子園でいきなり全国区の清原になり戸惑いがあった。世間が清原を見るのは常に拳を振り上げているイメージ。だけど本当は、怖く見せてバリアを張るのに必死だった」と振り返りました。

そして「現役時代は、どんなにファンやマスコミから悪く言われようとホームランを1発打てばすべてが挽回できた。バット一振りでなんでもできる世界だったから。ただ、引退してしまうと、いろんなことでネガティブに見られても、それを挽回する方法がない。
清原和博という名前を恨んだこともあった。この名前がずっとついて回ってきて、何をやっても何か言われる。この名前を背負っていくことが嫌だった」と話していました。

苦しみから逃れたいと生活が乱れていったといい、「野球というものがなくなり何も戦うことがなくなって、大量にお酒を飲んでしまったり、家族に会う時間もないほど荒れていた。
今は、離婚して子どもともあまり会えなくなり、野球の仕事がなくなって、何もすることがない。この部屋にいて天井を見ているだけです」などと話していました。

一方で、みずからの薬物疑惑が報じられたことについては「薬物については、疑惑として報道されたがそれに対していちいち弁解するのも嫌だったし、言い訳と思われるのも嫌だったのでこらえるしかないと思っている。
事実ではないことが、たくさん報道されている」などと疑惑について当時は否定していました。そして、「もう一度胸を張ってみんなの前に立ちたい。自分を見つめ直して自分の心との葛藤に勝って生まれ変わりたい」と今後に向けての決意を語っていました。

長くなってしまったが、この記事に心を動かされる読者も多いのではないだろうか。(「現役時代のイメージから逃れられない苦しさ」が気になって、私はWikipediaの記事ものぞいてみた。清原和博 - Wikipedia

けれども、 ここであえて、「同情は有害である」というニーチェの言葉を紹介していた過去の記事を参照したい。

 例えば私の友人が、何らかのつらくて悲しい体験をし、私の前でそのことを泣きながら話しているとする。私も昔それとよく似たつらい悲しい体験をしていたとする。そうした時、私は友人の話を聞きながら、その時の自分の体験を思い出し、その時の情景を思い浮かべ、つらい悲しい気持ちが込み上げてくるのを感じたとする。するとそれを私の心から友人の心へと移し入れて重ね合わせようとする心の動きが生じるだろう。それが精神分析でいう「投影」に他ならない。そこで生じていることは「他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め受け取ること」ではなく、むしろ「自分の体験を、あたかも目の前で話をしているその人の体験であるかのように眺め受け取っている」のではないか。このように考えれば、同情の持つ「相手を目指した情動的な心の動きのしくみ」が説明できるだろう。

同情と共感 - 対話空間_失われた他者を求めて

この記事によれば、同情とは、自分のなかで処理しきれないつらい体験を相手に投影し、その「相手」を助けることで本質的には自分を救済しようとする、ナルシスティックな衝動であると考えられる。

清原氏は甲子園で活躍し、ドラフトの蹉跌を跳ね返して一躍スター選手となり、スランプや故障で最後は成績を残せなかったものの球界やファンからは祝福されて引退した。ところが、全てを野球に捧げてきた生活からの転身は難しく、WBCでは解説をつとめるものの「常にこぶしを振り上げる」芸能界の役回りを演じきれなくなっていった。最後には家族を失い、目指すものも頼るものもない孤独な生活に陥っていった。

これは、一度活躍しひのき舞台に立って、しかしその期待と自分の実力との差に苦しみ、そしてその後の失敗を受け止めきれずにいる人々の心をくすぐる物語である。私も、清原氏に共感はできないものの、同情してしまったことを告白したい。覚せい剤の使用を非難するメディアの渦中にあって、清原氏はある意味で自分に一番近い野球人のように想像された方も少なくないのではないだろうか。

しかし、清原氏が私たちの同情を誘うということは、私たちの社会にこうした同情物語を誘う基盤が存在しているからのように思う。私が注目したいのは、清原氏への「投射」に隠された私たち自身のコンプレックスである。

そもそも覚せい剤はその名の通り「覚醒」を引き起こす、感覚が研ぎ澄まされ、意識が鮮明になり、眠気が飛んでいくらでも集中し続けられるような作用を持つ薬物である。覚せい剤メタンフェタミン)は日本で開発され、旧日本軍がパイロットらに支給し、終戦直後は「ヒロポン」として広範に出回った過去がある。この名前は、もとは「ピロポノス」で次のような由来であるそうだ。

ピロポノスとは、愛する・好きになるを意味する、philo- という言葉(この言葉は、「愛する」という動詞 phileo の合成語を造る時の形です)と、ギリシア語の 労働・重労働・困難な仕事・苦痛を意味する ponos の合成語とされます。

ヒロポンの名前の由来 - 医療 解決済 | 教えて!goo

 フィロソフィphilosophy(愛知、希哲)と同じつくりであることにどこか皮肉を感じてしまうが、その名の通り疲労回復や向精神薬として用いられ、現在も厳格な管理のもと医療や軍隊では使用されているようである。

清原氏は、困難な目標を愛しそれに向かって惜しみない努力を捧げた現役時代を、覚せい剤によって取り戻そうとしたのではないだろうか。*2

清原さんは、強くあろうと最大限努力した努力家であり天才です。
その姿に、誰もが称賛を贈り、勇気を貰ったはずです。
そして、自分の心の空白に、誰よりも正直に向き合い、
敏感に感じる・・・いえ、感じてしまう人だったのだと思います。

断じて清原さんは、甘い気持ちで薬物に手を出したのではないと思っています。
自分に甘い人、甘やかせる人だったら、薬物には手を出しません。

自分に厳しく、そして敏感な人だったから、
薬物に手を出すしかなかったのだと思っています。

何故清原さんは薬物を使ったのか?ドラフトトラウマとの関係です

私たちはなぜ覚せい剤と縁が切れないのだろうか。それは、私たちが「覚せい剤的なもの」をいつも必要としているからではないだろうか。私たちの社会は日々「覚せい剤的なもの」に依存してはいないだろうか。一つの目標を目指してトレーニングに励み、檜舞台で緊張感と戦いながら運を引き寄せ、チームの結束を確認する、そして最後に待っている名声、人びとからの承認。こうしたプロセスはなにもスポーツばかりでなく、多くの仕事の現場で日々目指されていることではないだろうか。スポーツはある点で社会的活動の模範であり、だからこそ私たちはスポーツに期待し、選手を特別視するのではないか。

しかし、この社会のプロセスから外れてしまったとき、この社会のプロセスの中で成功しようと純粋に努力し、それが報われてきた人ほど、大きな挫折感を生じるだろう。それはコンプレックスとなって、「同情」というナルシスティックな欲望の源となるだろう。

清原氏のケースは決して例外ではない。阪神タイガースで華々しい活躍をとげたが、現役最後のメジャーリーグ挑戦に失敗して引退した江夏氏も、覚せい剤に手を出した過去を持っている。引退後は芸能界でスポーツ評論家やタレントとして活動したという経歴は、清原氏と共通している。

江夏は、都内のホテルでテレビの衛星中継に見入っていた。映し出されているのはサンフランシスコのキャンドルスティックパーク。ドジャース野茂英雄(のも・ひでお)(37)が先発のマウンドに立っていた。江夏は、6日前に仮釈放で静岡刑務所を出たばかりだった。

93年3月2日、江夏は覚せい剤所持の容疑で逮捕された。懲役2年4カ月の実刑判決が下された。野球を奪われた空洞を、彼は埋めきれなかった。

asahi.com:野球、海を渡る - ニッポン人脈記

  江夏氏は今は野球解説者・評論家として復帰しているようだ。しかし、これは江夏氏の「復活」をたたえるだけではおさまらない問題である。

このブログで清原氏の逮捕を扱った記事には、「覚せい剤はその使用者の心身を蝕み、社会的な死をもたらす。人は悲惨な将来が待ち受けていることをおそらく頭では理解していながら、どうしてそれに手を染めてしまうのか。」という疑問が掲げられていた。清原和博氏の逮捕について - 対話空間_失われた他者を求めて

 この答えは、私たちが、すでにその使用者の心身を蝕み、社会的な死を用意していたからだ、とは言えないだろうか。少なくとも、活躍したスポーツ選手が芸能界や政治界に引っぱられることの背景には私たちのスポーツに対する社会的な期待が反映している。清原氏の純粋さは、この期待を鵜呑みにしてしまうところにもあったはずである。社会が与えた「番長」「侠気(おとこぎ)」「マッチョ」といった役割をそのとおりに演じることができてしまったこと*3が、引退後の葛藤を深めていったのではないだろうか。

覚せい剤に頼るほどに崩れていった生活の責任はもちろん清原氏自身にあるとしても、引退後の清原氏の生きづらさをつくり出していった原因の一端は、私たちがスポーツ選手はこのようにあってほしいと願う「投射」にあったと考えることができるだろう。 とすれば、清原氏に社会的な復活を願うことも、また同情にもとづくエゴイスティックな「投射」ではないだろうか。もちろん清原氏自身は、社会復帰のために努力を続けていかれると思う。しかし、その方向が「汚れてしまったイメージの払拭」に向かうのであれば、問題は根本的なところで解決していないとは言えないだろうか。そして、それは再び覚せい剤へと手を伸ばすスリップにつながってしまうのではないだろうか。

清原氏が薬物依存症に陥っているのかどうかはよくわからない。しかし、このままでは実刑となるとしても、執行猶予がつくとしても、依存症への道が広がっているように思う。

覚せい剤を使用した後に芸能界に復帰することの難しさを物語っているのは、覚せい剤による五度の逮捕歴をもつ田代氏である。*4

やっぱりなんで再犯が多いのか皆さん不思議に思っています。あれだけ刑務所に入って、なぜ懲りないのかっていう言いますけども、日本の社会そのものが、ただ薬物は恐ろしい、「ダメ、ゼッタイ」だけの仕組みしか無いんですよ。薬物依存になった人たちのことを諦めちゃってる。

例えば学校で薬物の問題が起きた時に退学させる。公務員がやると懲戒免職。それから芸能人がやると解雇になりますね。そうやって全部放置して社会に戻しちゃうんですね。
つまり、これがうつ病だとか、その他の病気だとすぐ解雇しますか?しないでしょ?ちゃんと治療しなさい、その間待ってあげますよと。そして再雇用するか解雇するかってのはその後でしょう?

だけど日本にはそういうシステムが無いじゃないですか。学校も退学、会社からも放り出される。芸能界はもうすぐだめにしちゃう。だめだめだめばっかりじゃないですか。

犯罪だから当然解雇されてあたりまえですけど、しかし雇用者側もこの人たちをちゃんと治療して治す、回復させるという仕組みをなぜつくらないのか。そういう再犯のメカニズムが日本の社会に固定しちゃっているからなかなか変わっていかない。

そういう意味で、もう少しメディアの方が考えていただければ。病気だから再発するんだ。絶対もうしない、ということはないですよ。

【詳報】「自分の回復のためにも、苦しんでいる仲間たちの手助けをしたい」田代まさし氏が会見 (2/3)

清原氏の再犯を本当に防ごうと私たちが考えるなら、私たちが考えるべきはこの「再犯のメカニズム」であると思う。私たちの社会が薬物への依存者を生み出しつづけている背景には、私たちが目指す「成功」の中に、ひとたびそれを失えば覚せい剤に手を出さざるを得ないような、孤独への抵抗性のなさが隠れているからのように思われる。

回復したら芸能界戻りたいっていうのではなくて、さっきも言ったように、僕の本意じゃないというのは、芸能界に復帰したいという思いはなくなっていて、前のときは早く芸能界に戻ってみんなを安心させたい、自分を大きく見せたりよく見せようとしてたんですけで,今回は芸能界に戻りたいとかそういうことではなくて、やめ続ける姿を見せることが将来何かにつながればいいかなくらいにしか思っていないです。

【詳報】「自分の回復のためにも、苦しんでいる仲間たちの手助けをしたい」田代まさし氏が会見 (2/3)

 この言葉にも表れているように、芸能界への復活、「現役時代のイメージ」を目指している限り、清原氏の行く手は厳しいもののように思う。清原氏の「セカンドキャリア」は、中島氏の言葉を借りるなら、「人生を『半分』降りる」、人びとの期待に応えて活躍するのではなく、薬物治療を続ける仲間とつながりながら、他人の「投射」に引きずり込まれないで森毅氏の言葉だった気がするが)「孤独を飼い馴らす」ことになるのではないだろうか。

このことは、決して反社会的なものではないと思う。なぜなら、ただ「止め続ける姿を見せる」こと、人びとの期待の外側で生きることが認められる社会の方が、より成熟した社会であると考えるからである。薬物を取り締まることは重要であるが、薬物の濫用に対する厳罰化の方向は(罰というのは「更生」のためにあるものなのだから)間違っているだろう。それは、見たくないものを見ようとしていないだけではないのだろうか。

murakami

追記

別の視点からの記事があったので、比較されたい。

清原和博を縛った「男は強くなければならない」という呪い だから、日本の男は「生きづらい」 | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

 

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

 

 

 

まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

 

 

*1:なお、当時の清原氏が付けていたブログについての記事がある。

【清原容疑者逮捕】「1人ぼっちで部屋にいる」 孤独深めた“余生” 息子、母親へ募る思い 激高して血だらけ、奇行も(1/3ページ) - 産経ニュース

*2:覚せい剤がどうやって心の隙間に入るかというと、誰でも褒められて嬉しい経験ってありますよね。
――はい。
例えば、野球の練習を耐えて、注目される試合で結果を出して褒められる。人から認められたとき、頭の中にドーパミンがばーっとでて、快感や多幸感を味わう。
勉強も同じですね。頑張って、いい成績をとってほめられる。それを味わいたくて、私たちは何かを頑張る。覚せい剤というのは打ったり、あぶって吸ったりするだけで、これと同じような効果を得られるものなんです。
覚せい剤は脳の快感中枢に直接作用しますから、一度それが刻印されてしまうと、脳はこの快感を簡単に忘れないわけです。だからコントロールが難しいのです。

「ペットボトルの水を見るだけでクスリを思い出す」 覚せい剤依存症患者の日常と治療

*3:

『男道』(清原和博幻冬舎)は、男性原理のあれこれが横溢している書物だ。男の愚かさ、男の独善、男の虚栄、そして男の小心と男の弁解と男の自己愛。

 キヨハラのような男の欠点は、自分の欠点を自覚できないところにある。というよりも、男を自認している男の自意識は、自己と他者の双方に対して、おそろしいほどに無神経なのである。

「清原」に見える我らの痛ましさ (5ページ目):日経ビジネスオンライン

*4:清原氏の逮捕についてもコメントしている。

www.youtube.com