対話空間_失われた他者を求めて

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清原和博氏のセカンドキャリアについて

私は野球にあまり関心がない。「清原」の名前も聞いたことはあったが詳しいことは何も知らなかった。しかし、覚せい剤所持の現行犯として逮捕されたのち、そのセカンドキャリアと薬物依存の関係をめぐるいくつかの報道に接するうちに、とても他人ごとではいられない気持ちになってしまった。

正直なところ、私は清原氏が苦手である。体格がよく、大柄で、大胆で、乱暴で、豪放磊落に「男道」を語り、目立ちたがりで、すべてを「結果」で挽回しようとする。これが、清原氏に対する私の偏見である。もちろん、その攻撃性は心理的な弱さ(気弱さ、気恥ずかしさ、孤独への弱さ、他人への依存)を乗り越えるためのものだった、という面はあるように思う。たしかに、私にも自分のコンプレックス(弱味、劣等感)を克服しようとして攻撃的になる瞬間はある。それによって人間的に成長することももちろんあると思うけれども、私は、そこに居直るほど「強さ」を(肉体的にも精神的にも)アピールできる人とは折が合わない。

もちろんこの記事のテーマは、清原氏の姿になじめない私の気持ちを吐き出すことではない。

清原氏は過去に一度覚せい剤疑惑が報道されたことがある。本人は薬物の使用を否定したが、そのときのNHKの取材で次のように語っていたという(元記事は現在閲覧できない)。*1

覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕された清原和博容疑者は、おととし週刊誌に薬物疑惑を報じられたあと表舞台から遠ざかっていました。
そうしたなか、去年3月NHKが復帰を目指していた清原容疑者に当時の心境やその後の活動について話を聞きたいと取材を申し込んだところ本人が応じました。
この中で清原容疑者は、「引退したあと、自分の気持ちをコントロールするのがすごく難しかった。9歳から30年以上ずっと野球のことばかり考えてきて、野球選手としての清原和博が終わった時に、俺はどうしたらいいのかと思うようになった。
最後は膝の故障で納得して辞めたが、引退後は1日をどう過ごしていいのかが分からなくなった。野球選手としては悔いがなかったが、引退後は心に穴が開いた感じだった」などと現役を退いたあとの喪失感などを語っていました。

さらに、現役時代のイメージから逃れられない苦しさも打ち明けていました。この中では、「僕自身は弱い人間です。高校1年の時に、野球を見るとおなかがいたくなったりとか、小さい時は人見知りが激しくてお母さんの後ろに隠れたりしているような感じだった。
それなのに、岸和田の清原が甲子園でいきなり全国区の清原になり戸惑いがあった。世間が清原を見るのは常に拳を振り上げているイメージ。だけど本当は、怖く見せてバリアを張るのに必死だった」と振り返りました。

そして「現役時代は、どんなにファンやマスコミから悪く言われようとホームランを1発打てばすべてが挽回できた。バット一振りでなんでもできる世界だったから。ただ、引退してしまうと、いろんなことでネガティブに見られても、それを挽回する方法がない。
清原和博という名前を恨んだこともあった。この名前がずっとついて回ってきて、何をやっても何か言われる。この名前を背負っていくことが嫌だった」と話していました。

苦しみから逃れたいと生活が乱れていったといい、「野球というものがなくなり何も戦うことがなくなって、大量にお酒を飲んでしまったり、家族に会う時間もないほど荒れていた。
今は、離婚して子どもともあまり会えなくなり、野球の仕事がなくなって、何もすることがない。この部屋にいて天井を見ているだけです」などと話していました。

一方で、みずからの薬物疑惑が報じられたことについては「薬物については、疑惑として報道されたがそれに対していちいち弁解するのも嫌だったし、言い訳と思われるのも嫌だったのでこらえるしかないと思っている。
事実ではないことが、たくさん報道されている」などと疑惑について当時は否定していました。そして、「もう一度胸を張ってみんなの前に立ちたい。自分を見つめ直して自分の心との葛藤に勝って生まれ変わりたい」と今後に向けての決意を語っていました。

長くなってしまったが、この記事に心を動かされる読者も多いのではないだろうか。(「現役時代のイメージから逃れられない苦しさ」が気になって、私はWikipediaの記事ものぞいてみた。清原和博 - Wikipedia

けれども、 ここであえて、「同情は有害である」というニーチェの言葉を紹介していた過去の記事を参照したい。

 例えば私の友人が、何らかのつらくて悲しい体験をし、私の前でそのことを泣きながら話しているとする。私も昔それとよく似たつらい悲しい体験をしていたとする。そうした時、私は友人の話を聞きながら、その時の自分の体験を思い出し、その時の情景を思い浮かべ、つらい悲しい気持ちが込み上げてくるのを感じたとする。するとそれを私の心から友人の心へと移し入れて重ね合わせようとする心の動きが生じるだろう。それが精神分析でいう「投影」に他ならない。そこで生じていることは「他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め受け取ること」ではなく、むしろ「自分の体験を、あたかも目の前で話をしているその人の体験であるかのように眺め受け取っている」のではないか。このように考えれば、同情の持つ「相手を目指した情動的な心の動きのしくみ」が説明できるだろう。

同情と共感 - 対話空間_失われた他者を求めて

この記事によれば、同情とは、自分のなかで処理しきれないつらい体験を相手に投影し、その「相手」を助けることで本質的には自分を救済しようとする、ナルシスティックな衝動であると考えられる。

清原氏は甲子園で活躍し、ドラフトの蹉跌を跳ね返して一躍スター選手となり、スランプや故障で最後は成績を残せなかったものの球界やファンからは祝福されて引退した。ところが、全てを野球に捧げてきた生活からの転身は難しく、WBCでは解説をつとめるものの「常にこぶしを振り上げる」芸能界の役回りを演じきれなくなっていった。最後には家族を失い、目指すものも頼るものもない孤独な生活に陥っていった。

これは、一度活躍しひのき舞台に立って、しかしその期待と自分の実力との差に苦しみ、そしてその後の失敗を受け止めきれずにいる人々の心をくすぐる物語である。私も、清原氏に共感はできないものの、同情してしまったことを告白したい。覚せい剤の使用を非難するメディアの渦中にあって、清原氏はある意味で自分に一番近い野球人のように想像された方も少なくないのではないだろうか。

しかし、清原氏が私たちの同情を誘うということは、私たちの社会にこうした同情物語を誘う基盤が存在しているからのように思う。私が注目したいのは、清原氏への「投射」に隠された私たち自身のコンプレックスである。

そもそも覚せい剤はその名の通り「覚醒」を引き起こす、感覚が研ぎ澄まされ、意識が鮮明になり、眠気が飛んでいくらでも集中し続けられるような作用を持つ薬物である。覚せい剤メタンフェタミン)は日本で開発され、旧日本軍がパイロットらに支給し、終戦直後は「ヒロポン」として広範に出回った過去がある。この名前は、もとは「ピロポノス」で次のような由来であるそうだ。

ピロポノスとは、愛する・好きになるを意味する、philo- という言葉(この言葉は、「愛する」という動詞 phileo の合成語を造る時の形です)と、ギリシア語の 労働・重労働・困難な仕事・苦痛を意味する ponos の合成語とされます。

ヒロポンの名前の由来 - 医療 解決済 | 教えて!goo

 フィロソフィphilosophy(愛知、希哲)と同じつくりであることにどこか皮肉を感じてしまうが、その名の通り疲労回復や向精神薬として用いられ、現在も厳格な管理のもと医療や軍隊では使用されているようである。

清原氏は、困難な目標を愛しそれに向かって惜しみない努力を捧げた現役時代を、覚せい剤によって取り戻そうとしたのではないだろうか。*2

清原さんは、強くあろうと最大限努力した努力家であり天才です。
その姿に、誰もが称賛を贈り、勇気を貰ったはずです。
そして、自分の心の空白に、誰よりも正直に向き合い、
敏感に感じる・・・いえ、感じてしまう人だったのだと思います。

断じて清原さんは、甘い気持ちで薬物に手を出したのではないと思っています。
自分に甘い人、甘やかせる人だったら、薬物には手を出しません。

自分に厳しく、そして敏感な人だったから、
薬物に手を出すしかなかったのだと思っています。

何故清原さんは薬物を使ったのか?ドラフトトラウマとの関係です

私たちはなぜ覚せい剤と縁が切れないのだろうか。それは、私たちが「覚せい剤的なもの」をいつも必要としているからではないだろうか。私たちの社会は日々「覚せい剤的なもの」に依存してはいないだろうか。一つの目標を目指してトレーニングに励み、檜舞台で緊張感と戦いながら運を引き寄せ、チームの結束を確認する、そして最後に待っている名声、人びとからの承認。こうしたプロセスはなにもスポーツばかりでなく、多くの仕事の現場で日々目指されていることではないだろうか。スポーツはある点で社会的活動の模範であり、だからこそ私たちはスポーツに期待し、選手を特別視するのではないか。

しかし、この社会のプロセスから外れてしまったとき、この社会のプロセスの中で成功しようと純粋に努力し、それが報われてきた人ほど、大きな挫折感を生じるだろう。それはコンプレックスとなって、「同情」というナルシスティックな欲望の源となるだろう。

清原氏のケースは決して例外ではない。阪神タイガースで華々しい活躍をとげたが、現役最後のメジャーリーグ挑戦に失敗して引退した江夏氏も、覚せい剤に手を出した過去を持っている。引退後は芸能界でスポーツ評論家やタレントとして活動したという経歴は、清原氏と共通している。

江夏は、都内のホテルでテレビの衛星中継に見入っていた。映し出されているのはサンフランシスコのキャンドルスティックパーク。ドジャース野茂英雄(のも・ひでお)(37)が先発のマウンドに立っていた。江夏は、6日前に仮釈放で静岡刑務所を出たばかりだった。

93年3月2日、江夏は覚せい剤所持の容疑で逮捕された。懲役2年4カ月の実刑判決が下された。野球を奪われた空洞を、彼は埋めきれなかった。

asahi.com:野球、海を渡る - ニッポン人脈記

  江夏氏は今は野球解説者・評論家として復帰しているようだ。しかし、これは江夏氏の「復活」をたたえるだけではおさまらない問題である。

このブログで清原氏の逮捕を扱った記事には、「覚せい剤はその使用者の心身を蝕み、社会的な死をもたらす。人は悲惨な将来が待ち受けていることをおそらく頭では理解していながら、どうしてそれに手を染めてしまうのか。」という疑問が掲げられていた。清原和博氏の逮捕について - 対話空間_失われた他者を求めて

 この答えは、私たちが、すでにその使用者の心身を蝕み、社会的な死を用意していたからだ、とは言えないだろうか。少なくとも、活躍したスポーツ選手が芸能界や政治界に引っぱられることの背景には私たちのスポーツに対する社会的な期待が反映している。清原氏の純粋さは、この期待を鵜呑みにしてしまうところにもあったはずである。社会が与えた「番長」「侠気(おとこぎ)」「マッチョ」といった役割をそのとおりに演じることができてしまったこと*3が、引退後の葛藤を深めていったのではないだろうか。

覚せい剤に頼るほどに崩れていった生活の責任はもちろん清原氏自身にあるとしても、引退後の清原氏の生きづらさをつくり出していった原因の一端は、私たちがスポーツ選手はこのようにあってほしいと願う「投射」にあったと考えることができるだろう。 とすれば、清原氏に社会的な復活を願うことも、また同情にもとづくエゴイスティックな「投射」ではないだろうか。もちろん清原氏自身は、社会復帰のために努力を続けていかれると思う。しかし、その方向が「汚れてしまったイメージの払拭」に向かうのであれば、問題は根本的なところで解決していないとは言えないだろうか。そして、それは再び覚せい剤へと手を伸ばすスリップにつながってしまうのではないだろうか。

清原氏が薬物依存症に陥っているのかどうかはよくわからない。しかし、このままでは実刑となるとしても、執行猶予がつくとしても、依存症への道が広がっているように思う。

覚せい剤を使用した後に芸能界に復帰することの難しさを物語っているのは、覚せい剤による五度の逮捕歴をもつ田代氏である。*4

やっぱりなんで再犯が多いのか皆さん不思議に思っています。あれだけ刑務所に入って、なぜ懲りないのかっていう言いますけども、日本の社会そのものが、ただ薬物は恐ろしい、「ダメ、ゼッタイ」だけの仕組みしか無いんですよ。薬物依存になった人たちのことを諦めちゃってる。

例えば学校で薬物の問題が起きた時に退学させる。公務員がやると懲戒免職。それから芸能人がやると解雇になりますね。そうやって全部放置して社会に戻しちゃうんですね。
つまり、これがうつ病だとか、その他の病気だとすぐ解雇しますか?しないでしょ?ちゃんと治療しなさい、その間待ってあげますよと。そして再雇用するか解雇するかってのはその後でしょう?

だけど日本にはそういうシステムが無いじゃないですか。学校も退学、会社からも放り出される。芸能界はもうすぐだめにしちゃう。だめだめだめばっかりじゃないですか。

犯罪だから当然解雇されてあたりまえですけど、しかし雇用者側もこの人たちをちゃんと治療して治す、回復させるという仕組みをなぜつくらないのか。そういう再犯のメカニズムが日本の社会に固定しちゃっているからなかなか変わっていかない。

そういう意味で、もう少しメディアの方が考えていただければ。病気だから再発するんだ。絶対もうしない、ということはないですよ。

【詳報】「自分の回復のためにも、苦しんでいる仲間たちの手助けをしたい」田代まさし氏が会見 (2/3)

清原氏の再犯を本当に防ごうと私たちが考えるなら、私たちが考えるべきはこの「再犯のメカニズム」であると思う。私たちの社会が薬物への依存者を生み出しつづけている背景には、私たちが目指す「成功」の中に、ひとたびそれを失えば覚せい剤に手を出さざるを得ないような、孤独への抵抗性のなさが隠れているからのように思われる。

回復したら芸能界戻りたいっていうのではなくて、さっきも言ったように、僕の本意じゃないというのは、芸能界に復帰したいという思いはなくなっていて、前のときは早く芸能界に戻ってみんなを安心させたい、自分を大きく見せたりよく見せようとしてたんですけで,今回は芸能界に戻りたいとかそういうことではなくて、やめ続ける姿を見せることが将来何かにつながればいいかなくらいにしか思っていないです。

【詳報】「自分の回復のためにも、苦しんでいる仲間たちの手助けをしたい」田代まさし氏が会見 (2/3)

 この言葉にも表れているように、芸能界への復活、「現役時代のイメージ」を目指している限り、清原氏の行く手は厳しいもののように思う。清原氏の「セカンドキャリア」は、中島氏の言葉を借りるなら、「人生を『半分』降りる」、人びとの期待に応えて活躍するのではなく、薬物治療を続ける仲間とつながりながら、他人の「投射」に引きずり込まれないで森毅氏の言葉だった気がするが)「孤独を飼い馴らす」ことになるのではないだろうか。

このことは、決して反社会的なものではないと思う。なぜなら、ただ「止め続ける姿を見せる」こと、人びとの期待の外側で生きることが認められる社会の方が、より成熟した社会であると考えるからである。薬物を取り締まることは重要であるが、薬物の濫用に対する厳罰化の方向は(罰というのは「更生」のためにあるものなのだから)間違っているだろう。それは、見たくないものを見ようとしていないだけではないのだろうか。

murakami

追記

別の視点からの記事があったので、比較されたい。

清原和博を縛った「男は強くなければならない」という呪い だから、日本の男は「生きづらい」 | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

 

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

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まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

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*1:なお、当時の清原氏が付けていたブログについての記事がある。

【清原容疑者逮捕】「1人ぼっちで部屋にいる」 孤独深めた“余生” 息子、母親へ募る思い 激高して血だらけ、奇行も(1/3ページ) - 産経ニュース

*2:覚せい剤がどうやって心の隙間に入るかというと、誰でも褒められて嬉しい経験ってありますよね。
――はい。
例えば、野球の練習を耐えて、注目される試合で結果を出して褒められる。人から認められたとき、頭の中にドーパミンがばーっとでて、快感や多幸感を味わう。
勉強も同じですね。頑張って、いい成績をとってほめられる。それを味わいたくて、私たちは何かを頑張る。覚せい剤というのは打ったり、あぶって吸ったりするだけで、これと同じような効果を得られるものなんです。
覚せい剤は脳の快感中枢に直接作用しますから、一度それが刻印されてしまうと、脳はこの快感を簡単に忘れないわけです。だからコントロールが難しいのです。

「ペットボトルの水を見るだけでクスリを思い出す」 覚せい剤依存症患者の日常と治療

*3:

『男道』(清原和博幻冬舎)は、男性原理のあれこれが横溢している書物だ。男の愚かさ、男の独善、男の虚栄、そして男の小心と男の弁解と男の自己愛。

 キヨハラのような男の欠点は、自分の欠点を自覚できないところにある。というよりも、男を自認している男の自意識は、自己と他者の双方に対して、おそろしいほどに無神経なのである。

「清原」に見える我らの痛ましさ (5ページ目):日経ビジネスオンライン

*4:清原氏の逮捕についてもコメントしている。

www.youtube.com

なぜ旅行したいか

 

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<モロッコのカスバ街道にて>

 

 

 

先月の4週間日本を離れスペイン、ポルトガル、モロッコを旅してきた。これを書いているのは帰国して一週間ほど経った頃だが日本の落ち着いた生活をしみじみと有り難く感じている。

 

行った所を時系列順に述べると、スペインはマドリード、トレド、ポルトガルに移りリスボン、シントラ地区、再びスペインに戻りバルセロナバルセロナからアフリカ北西部のモロッコに飛び古都フェズ、サハラ砂漠の玄関口メルズーガ、観光都市マラケシュ、モロッコ最大の経済都市カサブランカである。

スペイン、ポルトガルのヨーロッパに2週間、アフリカ大陸のモロッコに2週間滞在したことになる。



帰ってきた今、良くも悪くも印象に残っているのは何と言ってもモロッコである。

誰が言い出したのか知らないが「世界3大うざい国」という言葉があり、モロッコはインド、エジプトと共にその中に数えられている。確かにモロッコは「うざい」国であった。とくに観光地化された旧市街では声をかけられないで百歩も歩けないといった状況で、ヨーロッパのような落ち着いた観光など到底不可能であった。しつこく馴れ馴れしい客引き、勝手に案内をはじめていらないというのにべらべらと喋ってついてくる自称公認ガイド(後でガイド料を要求するのだ)、これといった打算がなくともただ異邦人である日本人に話しかけたい人々等がこころの静寂を許してくれない。

しかしモロッコ人は、特に観光地では金に汚く、また「うざい」と形容されても仕方のない人々だと思うが、全体的に言えば元来は親切なのだと思う。彼らは他者に対するよそよそしさとは無縁で、ありがた迷惑なぐらいおせっかいを焼いてくる。道に迷い地図を広げて立っていると大抵の場合すぐに誰かが助けようとしてくれる。

日本人は他国民に比べ特にこういった馴れ馴れしさには抵抗を強く感じるかもしれない。たとえば欧米ではモロッコほどではないにしろ見知らぬ他者と会話を楽しむという習慣がある。日本にはそんな習慣は存在しない。日本では例えば偶然バスで隣に座った見ず知らずの他人と日常会話をはじめるというようなことは全くないわけではないものの一般的には見られない光景である。日本の社会では二人称と三人称は明確に区別されているが、モロッコは二人称的な社会であり「彼」もまた「あなた」なのだ。だから僕ら日本人は特にこういった不慣れななれなれしさを悪く言えば「うざく」不快に感じていると思う。



さて、わたしは豊富な旅行の経験があるわけでもないが、やはり人並みに旅行は好きである。

一体どうして人々は旅行を求めるのであろうか? 一般的に旅行する動機として考えられているのは以下の様なことだろう。すなわち、知らない土地をめぐり見聞を広げるとか、未知なる文化や環境を体験すること、つまりおのれのすみかから離れた場所で或る刺激を求めるという動機である。たとえばカナダでオーロラを見たいとか、スペインでサッカーを観たいとか、パリの洒落た街並みを見物したいなどというのが旅行の動機として一般的に語られることである。

わたしは別にそのことを否定するつもりはない。けれどもそれは動機のうち半分しか語られていないように思われる。

というのは、旅行は確かに非日常の刺激を与えてくれるという一面はあるのだが、それだけでなく弛緩した日常生活に再び緊張を与え、充実した生活を取り戻させるという功徳がもう一面存在するからである。非日常の刺激を求めることによって、本来の活き活きとした生活をわたしたちは立て直すことができるのだ。カナダの圧倒的な大自然を体験することが、ややもすれば弛緩したリズム、単調なルーチンに陥りやすい日常生活に再び緊張した充実感を与えることになるのである。

 

日常と距離を置き非日常を経験することによって、そこにどっぷりと浸かっていてそのあまりの近さゆえに意識されなかった日常をわたしたちは見つめることになる。今回の私の旅行を例にとれば、わたしはモロッコの人びとの馴れ馴れしさを経験して、一体どれだけ強く日本人であるわたしとの相違を感じただろうか。ハエの飛び交うモロッコの食事風景、あるいは下水処理に欠陥があるのだろうかそれとも家畜のものだろうか分からないが糞尿の臭いが漂う街々、こういったものがどれだけ明瞭に日本の清潔文化をわたしに悟らせてくれただろうか。

あまりに当たり前すぎて見えない日常を、非日常は教えてくれる。そして距離を置いて日常を眺めることによって、わたしたちは日常を再び意識的に生きることができる。

わたしたち人間の生は両義的であって、それは木や石ころのように完全に世界に沈澱しているわけではなく、また自分自身を含めたあらゆるものを対象として意識的に操っているわけでもない。人間の存在様式は意識と無意識、世界であることと世界から引き離されてあることの両義性として成立している。この両義性を巧みにコントロールしてわたしたちは生を成立させている。

旅行は単調で弛緩したルーチンになりつつあった偏った日常、すなわち世界に埋没しつつあった日常を、距離を置いて眺めることによって本来の両義的な人間存在のバランスを回復させ、新鮮な緊張感のある充実した日常を取り戻す営みのひとつなのである。




<筆者murata>

 

アニメ『響け!ユーフォニアム』の魅力について―感想と考察

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 最近、ある友人からの薦めで、一年ほど前に放映されたTVアニメ『響け!ユーフォニアム』を観た。このアニメは、高校の吹奏楽部を題材にしたいわゆる部活ものなのだが、これが想像していた以上に新鮮で素晴らしく、色々と思うところのある作品だったので、今更だがこの作品について僕の考えたことを書いておきたい。ちなみに以下の考察は、基本的には既に本作を観ていることを想定の上で書くつもりであるが、一方で本作を知らない方にその魅力を紹介したいという思いもあるので、未見の方が読んでもそれなりに分かるようには配慮したいと思う。(ただし、ネタバレ等に関しては一切配慮しない。そもそも本作はネタバレを気にするようなタイプの作品ではないからだ。)なお、僕は原作の小説は未読のため、以下の考察は専らアニメ版に向けられたものであることを予め了解願いたい。

物語の複数

 まずは本作がどんなお話かというところから見てゆこう。ストーリー展開自体は至って単純明快であり、要は「並以下のレベルの吹奏楽部が全国大会出場を目指して奮闘する」という、はっきり言ってベタなものだ。ところが、見かけの分かり易さとは裏腹に、「一体どんな物語なのか?」、「何を描いているのか?」と考え出すと、実は明快な答えを出すのがなかなか難しい作品なのだ。実際、絶賛の声がある一方で、「物語性が薄い」、「特にドラマティックな事が起こるわけでもなく、退屈で何が面白いのか分からない」といった批判も結構見られる。また一部で「熱血スポ根もの」と評する声があるかと思えば、反対に「スポ根成分が薄くあまり感動できない」といった意見もある。

 ところで僕としては、少なくとも本作を「スポ根もの」と評するのは的外れだと思う。その理由として、主人公の久美子の性格が明らかにスポ根のタイプとは違うということが挙げられるが、それだけではない。そもそもスポ根ものの多くは、「主人公が不屈の根性と努力で困難を乗り越えてゆく」というような、主人公中心的な物語であろう。ところが本作の物語の中心軸は、必ずしも主人公久美子にあるのではない。確かに本作は、終始久美子の視点によって展開していくけれども、しかし一方でその視点からはこぼれ落ちる他の部員たちの様々な物語の存在も暗示されていて、それが作品全体に独特の奥行きをもたらしている。そして何よりも、最終回の演奏シーンを観れば分かるように、この作品はやはり吹奏楽部全体によって織り成される物語なのだ。そのため、スポ根もののように、特定の個人を中心軸にした物語として本作を捉えようとしても、消化不良の感を免れ得ないだろうと思う。

 それならば、本作の物語の中心軸は、特定の個人にあるのではなく、もっと全体的な吹奏楽部員という仲間との "一致団結" というところにあるのだろうか。確かにそういう側面がないわけではない。しかし本作においては、たとえ同じ部員であっても、吹奏楽に対する姿勢、取り組み方、またそこに懸ける思いなどが皆それぞれ異なっているのであって、その異質さはかなり際立った形で描写されていたと思う。しかもそれは最終話に至ってさえも、別に何らかの形で解消されるわけではなく依然として残り続けているのだ。とすれば本作は、仲間全体の物語だとも言い切れないわけである。

 『響け!ユーフォニアム』という作品は、特定の「個人」の物語だとも、団結した「仲間たち」の物語だとも言えない。実際、本作は、部員たちが皆それぞれの思いを抱えて吹奏楽に取り組んでいる様子をきわめて丁寧に描いている。そしてその際、それぞれの部員の小さな物語は、どれ一つとして絶対化されたり、物語全体の中心軸に据えられたりすることはないのである。すなわち本作は、何らかの単一の物語へと還元できるような構造を持たず、むしろ、物語の絶対的な中心軸を欠いたまま、複数の小さな物語が交錯し合う様を細緻に描写しているのだ。その描写の細やかさは目を見張るものがあり、各登場人物それぞれに人格的な奥行きを感じさせる。この点だけ見ても、凡庸な作品とは一線を画する出来栄えだと言ってよいだろう。

 けれども本作は、各部員のそれぞれの物語を単に並置しただけの作品ではない。本作において、それぞれの小さな物語たちはいかにしてつながりを持ちうるのだろうか。以下で詳しく見てゆこう。

合奏の象徴的意味

 本作の魅力は、その物語の複数性にある。しかし思えば、そこで描かれる個々の小さな物語たちが真に無類の輝きを放ちうるのは、"合奏" という行為を通してではないだろうか。最終回の演奏シーンを観る限り、僕にはそう感じられる。そこで、本作における合奏という行為の意味を、少し踏み込んで考察してみたいと思う。

 合奏とはいかなる行為だろう?それは秀一の言うとおり、「皆で音を合わせて演奏する」行為である。その際、奏でられる個々の音はバラバラであってはダメで、一つの統合された「音楽」へと昇華されねばならない。この意味では、確かに演奏者たちは "一致団結" する必要があると言えるだろう。それゆえ、本作は特定の個人の物語だとは言えないわけだ。けれどもこの "団結" は、「全国大会出場を目標に皆で一致団結する」というような意味での団結とはまた質が異なるように思われる。「音楽」は果たして、実際の合奏行為に先立って、皆が予め共有している目標と言えるだろうか。尤も、合奏に先立って「楽譜」という設計図は与えられている。したがって、楽譜はある意味で目標と呼んでも良いかもしれない。だが楽譜それ自体が音楽であるわけではない。音楽とは、その本質上、あくまで一回一回の演奏行為を通してのみ実現しうるような存在なのであり、正に、緑輝(さふぁいあ)の言うように、「一度奏でられると消え、二度と取り戻せない」という性格を持つのである。音楽とは、演奏者たちが目指す目標のようなものではなく、むしろ一回一回の演奏行為によって、その都度 "生成" しうるような出来事なのだ。

 ところで、音楽というのが「演奏者全体の目標」という形で予め存在しているわけではない以上、その成立可能性は当然、個々の演奏者それぞれの演奏行為に懸かっている。やや象徴的に換言すれば、音楽というある種の「メタ物語」は、全体が共有する物語として予め存在しているわけではなく、あくまで個々の演奏者の奏でる小さな物語が交じり合うことによって初めて生み出されるものなのである。実際、本作の演奏シーンでは、部員全体の団結よりも、むしろ個々の演奏者が懸命に自分のパートを演奏する姿が映し出されていたが、これはきわめて示唆的である。本作においては、ある意味で部員一人一人がこの物語を紡ぎ出す主人公なのだ。そして、このようにして紡ぎ出された音楽は、個々の小さな物語たちを包摂し、それらを一つの統合されたメタ物語へと昇華させうる。しかもそのメタ物語は、演奏者のみならず、オーディションに落ちて演奏できなかった葉月や夏紀たちをも包摂しうるのである。正に合奏というのは、個々の小さな物語の分断を乗り越えようとする行為なのだ。

 けれども、個々の小さな物語それ自体は合奏によって、何も単一的な全体の物語へと還元されたり、そこに解消されたりするわけではない。合奏によって輝かしい音楽というメタ物語が立ち上がるわけだが、そうして生み出されたメタ物語は、個を全体へと解消するどころか、かえってそれぞれの演奏者に固有の輝きを与え返すのである。これに関して、チューバの後藤のセリフがなんとも示唆的だ。

「チューバだけだと単調なフレーズが続くからなーんだ、と思ってた時があって。でも合奏で他のパートと音が合わさったらさ、音楽になった。ハーモニーが生まれた。支えてる実感もあった。その時から俺はずっとチューバだ。」

 本作において描き出されるそれぞれの小さな物語は、全体の物語へとは還元できないような、どこまでも異質な存在であろう。個々の部員たちは、「仲間」や「目標」といった全体の物語に完全に回収されてしまうわけではなく、あくまでそれぞれのパースペクティブ吹奏楽に取り組んでいるのであり、その異質さは別段音楽というメタ物語によって解消されるわけではない。けれども、このメタ物語は個々の小さな物語たちに固有の輝きを与え返し、部員それぞれが物語の主人公たることを可能にするのである。

集団への同質化と異質な他者からの触発

 本作は複数の小さな物語たちが、"合奏" という行為を通して、ある種のメタ物語を立ち上げてゆく様子を鮮やかに描いている。とはいえ、複数の人間が集まり関係を持ったからといって、必ずしもそこに輝かしい物語が立ち上がるわけではあるまい。むしろ集団というのはたいてい、"合奏" とは別の仕方でまとまろうとするものではないだろうか。それはすなわち、「皆が周囲に同調的に融けこむ」という仕方だ。これは合奏的調和とは異なり、周囲と「同質化」することによってまとまっていく傾向性を持つ。(ちなみに、いわゆる日常系・空気系アニメにおいてしばしば見られる、摩擦係数を極限まで減らした毛づくろい的なキャラ同士のやり取りも「同質化」の一つの様態であろう。)

 さて本作はと言えば、こうした集団の同質化的傾向性をもきちんと描いていた。その生々しい描写は実際に本作を見て確かめていただくとして、ここでは僕が印象に残ったセリフを一つ引用しておきたい。第2回の葵のセリフである。

「みんな何となく本音を見せないようにしながら、一番問題のない方向を探ってまとまっていく。学校も吹部も、先生も生徒も。」

「そうしないとぶつかっちゃうからだよ。ぶつかってみんな傷ついちゃう。」

 正に、傷つけたり傷つけられたりしないために、つまるところ、その集団内で居心地よく生活するために、周囲と同調的に関わろうとするのはある意味で普通の態度なのだろう。しかしそれにしても、「本音を見せない」という態度を存続するのは、きわめて困難なことだ。本作においてそれを為し得ていたのは、おそらく田中あすかくらいだろう。普通は、周囲と同調的に関わるうちに、自分の「本音」は集団の空気へと融かしこまれて、自分自身ですらその「本音」が見えなくなってゆくのではないだろうか。周囲の何となくの流れに追従することで、その集団の中に自分の居場所を確保しようとする。そしていつの間にか、その何となくの流れに逆らわないような当たり障りのない言動を繰り返しているものだ。このようにして、同調的同質化という傾向性が生じるわけだが、ここでは、個々の小さな物語は同質化した集団の空気の中に埋もれてしまっている。それでも多くの場合、それとひきかえに、その集団の一員としてそこに安住することを求めがちなのではないだろうか。

 けれどもその一方で、本作は同質化の傾向に逆らおうとするような人物をも描いている。それは高坂麗奈である。彼女は主人公の久美子に次のような独白をする。

「私、興味ない人とは無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんて、馬鹿げてる。当たり前に出来上がってる人の流れに抵抗したいの。全部は難しいけど。でも分かるでしょ、そういう意味不明な気持ち。」

 また麗奈は、久美子に「特別になりたい」という思いを告白する。この言葉はおそらく様々な解釈が可能だろうが、上の文脈で見るならば、正に彼女は、同質化され融解しそうになるおのれ自身の物語を何とか取り戻そうとして足掻いているのだ。周囲と同質化してしまえば、確かにそこに安住できるだろうが、それではおそらくきっと何者にもなれない。彼女はどこまでも自己存在の空洞化に抗して、何者かになろうとして足掻いているのだ。こうした自己存在の空虚さは、おそらく麗奈以外の者でもふとした瞬間に感じることがあるだろう。けれども多くの場合、周囲との馴れ合いや傷のなめ合いによって、その空虚さをやり過ごそうとするのではないか。さもなければ、他人を見下すことによって、自分が特別な存在になったかのような気分に浸ろうとする者もいる。けれども、麗奈はこうしたごまかしでは満足しない。彼女の「痛いのは嫌いじゃない」というセリフが示唆するように、周囲との軋轢を馴れ合いや見下しによってやり過ごすのではなく、その痛みを自分自身で引き受け、そこから自己を取り戻そうとしているのではないだろうか。

 一方で主人公の黄前久美子も、こうした麗奈の姿に感化されてゆく。思うに、久美子は本来、感受性豊かで、自分の思いに正直な人間だろう。けれども彼女は初め、どこかで自分の思いを抑圧して、周囲に気を使い同調的に振舞おうとしていたように思う。その原因の一つとして、中学時代の吹奏楽部での出来事が挙げられるだろう。中学時代、コンクールで演奏する者を決めるオーディションで、久美子は同じユーフォニアム奏者の先輩を蹴落としてそのオーディションに受かってしまう。そしてその先輩に、「あんたがいなければコンクールで吹けたのに!」と暴言を吐かれる。このシーンが何度もフラッシュバックすることから、おそらく久美子はこのことをずっと引き摺っているのだろう。彼女は、このときに受けた「痛み」から逃避するために、「自分自身がどう感じ、何を思うのか」ということを、何かと周囲に同調することでごまかそうとしているように思われる。だが久美子は、「特別になりたい」と言う麗奈の姿、またそれ以外にも、吹奏楽初心者の葉月が初めて音を出せて感激する姿、「チューバ、好きだから」と言う後藤、真剣にオーディションのための練習をする夏紀の姿、川べりで一人上手くいかない箇所を練習する秀一の姿など、周囲の人間のごまかしのない実直な姿に感化されてゆく。あるいは、吹奏楽をやめた葵や久美子の姉などもまた別の形で久美子を触発する。それらの姿は、久美子に同質化的同調を迫るものではなく、むしろ同質化の流れの中から突き抜けて、久美子に自分自身の在り方へと目を向けるように触発するのである。ここでもやはり、麗奈の場合と同様、「集団への同質化によって融解し見失いそうになる自己をいかに取り戻すか」というテーマが見え隠れしている。

 けれども久美子は、「取り戻すべき自己」を自分の内側に発見するわけでは決してない。いわゆる「自分探し」によって自己を見出すのではない。彼女を触発し、自己自身に連れ戻すのも、やはり周囲の他者たちなのである。ここでの他者は、同質化を迫る者ではなく、むしろそれを突き抜けたどこまでも異質な存在として自己を触発し、おのれ自身の存在に向き合わせる。思えば本作では、集団の同質化的傾向から浮き出た「異質な他者からの触発」が端々に暗示されている。長くなるので詳しくは書かないが、例えば久美子が夏紀に言った「みんなで合わせてみませんか?」という言葉は、夏紀を何らかの形で触発しただろう。それは夏紀にとって、異質な他者との出会いであったはずだ。他にも、トランペットのソロパート争いにおいて、香織は麗奈の存在を通して、トランペットやコンクールに懸ける自身の思いに向き合わされる。再オーディションの時の「ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」という香織の言葉は、単なる遠慮や部に波風を立てないための配慮によって発せられた言葉ではなく、香織自身のごまかしのない決意の表明だろう。一方麗奈は、香織のその決意によって、ソロパートという「特別」な役割を託される。この「特別」は、確かに麗奈自身が掴み取ったものであるが、しかし同時に、それは他者によって託されたものでもあるのだ。ここに見られるのは、立場や思いの違う他者たちが、その異質さゆえに相互に触発し合うような関係性である。そしておそらく、こうした他者からの触発の連鎖によってこそ、最終回のあの輝かしい演奏が実現し得たのだと思う。

『響け!ユーフォニアム』の魅力

 さて、以上の考察によって、本作における "合奏" という行為の象徴する意味がより鮮明に見えてきたように思う。合奏という行為は確かに一つの「調和」ではあるが、集団へと同質化することによって実現するものでは決してない。音楽経験者ならば分かると思うが、周囲の出方を探り探り演奏してもまともな音楽にはならない。.そんなことでは自分の演奏すべき音を見失ってしまうだろう。優れた音楽家のアンサンブルにおいて、しばしば各演奏者の厳しい競合の末に素晴らしい音楽が生み出されるということがあるが、そこでは各演奏者は癒合的に同質化しているのではなく、一人一人が音楽を生み出す主体として機能している。勿論、各々が各々の恣意で自分の音を鳴らしているわけではない。周囲の他者の奏でる音に触発され、おのれ自身の演奏が立ち上がり、さらに自身の奏でる音が一つの返答となって他者を触発する。こうした循環によって、音楽というメタ物語は紡ぎ出されてゆくのである。この意味で、本作は作品構造そのものが合奏的だと言えよう。そしてこの合奏こそが、複数の小さな物語たちの分断を乗り越え、それらをつなぎ留める契機となりうるのである。

 上でも述べたように、本作は「スポ根もの」のような特定の個人の物語でもなければ、仲間と共に何かを目指すような物語でもない。そもそも物語の機能そのものが衰弱しつつある現代にあっては、このような単数形の物語は成立し難いだろう。今や熱血スポ根的な「努力」、「根性」などというモチーフはどこかフィクションめいているし、また「全国大会出場」という目標もそれ自体では空虚な観念に過ぎない。実際本作では、この目標は集団の何となくの同調によって決定されてしまうのだ。ここにはもはや輝かしい物語は成立していない。しかしこうした中で、本作は "合奏" というモチーフによって、新たに物語を立ち上げてゆく可能性を提示している。僕はここに新鮮な感動を覚えるのだ。

 また本作には、「自己存在の寄る辺なさ」や「輝きを失った退屈な日常」という、いかにも今の時代を象徴するようなテーマがそれとなく取り入れられている。こうしたテーマは、ゼロ年代アニメにおける「セカイ系」や「日常系(空気系)」と呼ばれる作品群にも通底していると思われるが、本作はこれらの作品群とは一線を画する魅力を放っている。すなわち、こうしたテーマを、安易に周囲と癒合的に一体化することによって解消してしまうのではなく、登場人物各々が異質な他者からの触発を受けて物語を立ち上げてゆく様を描き出そうとしているのだ。そしてこうしたところに、あの輝かしい音楽が鳴り響くのである。



 なお、4月下旬にテレビシリーズを振り返る『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』が公開されるようだ。僕としては、本作は劇場版としてまとめるのが困難な作品だと思うので、正直あまり期待していないが、『ユーフォ』ファンとして一応観に行くつもりだ。願わくば、最終回の演奏シーンをノーカットで観たい。

<筆者 kubo>