対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part5)

※part1~part4はこちら

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<第二章 心と有視点性 の続きから>

(2)状況把握について

(ⅱ) 他者の感覚について

 以上の分析を踏まえ、ここで「感覚」という語の意味を検討しておくことにしよう。感覚というのは、一般には大体次のように解されていると思われる。すなわち、「外界からの刺激によって引き起こされ、その刺激の受容者の心の中に現れるもの」というような捉え方である。だが感覚なるものについてのこの通念は、明らかに意識のハードプロブレムや他我問題などと同類のアポリアを生じさせる火種となりうるであろう。注目すべきは、物理的なものとしての刺激という単なる客体的事物を感覚と呼ぶのではなく、その刺激によってもたらされる当人の主観的現れのことを感覚と呼んでいる点である。ここでの「主観的現れ」とは一体何を意味するのか、一般にはそこまで踏み込んで考えられることはないだろうが、それでもあえて問われれば、多くの人は、クオリア論者と同じように「その当人にしかアクセスできない現象」というほどの意味に解釈するのではないだろうか。実際しばしば、「私には私の感覚しか感じられない」――具体的に例えば痛みについてであれば、「私には私の痛みしか感じられない」というのは一つの疑いえない事実であると考えられている。しかしこの一見平凡に思える事実には、実は大きな問題が横たわっているのである。それは、「私は他者の痛みを一体どのように理解すればよいのか」という問題である。「私には私の痛みしか感じられない」という事実に鑑みて、痛みという語の意味するところが、私の主観的現れ、要するに痛みのクオリアなのだとすれば、もはや「他者の痛み」などという表現は全く意味不明であり、それは一種の形容矛盾に等しくなるのではないか。なぜなら、ここでは、「痛み」は常に「私の痛み」のことしか意味しえないのだから。感覚なるものを私の主観内部の現象と見做す以上、これは当然といえば当然の帰結なのである。

 尤も、この非常識な帰結に対して、常識的にはおそらく次のように反問される方も多いだろう。「確かに私には他者の痛みを直接感じることができない。しかし、私の痛みの経験から、他者の痛みを推測することは十分に可能ではないか」、と。これは、所謂類推説と結びつく。つまり、私が痛みを経験したときの、内的な痛みの感覚と外的な痛みの振る舞い方との関連性を、他者の場合にも適用し、他者が痛そうな振る舞いをしているとき、私と同じような痛みの感覚がおそらくその人にも生じているであろうと結論するというわけだ。しかし果たしてこのような説明で、他者の痛みの問題が解決するであろうか?私の痛みからの類推によって、他者の痛みを意味づけることなど本当に可能だろうか?そもそも一体どうすれば、私の痛みの感覚から他者の痛みの感覚が導出されうるというのか。私の身体に生じた痛みの感覚を他者の身体の位置に移動させれば、他者の痛みになるのか。いや、そんなことはない。それでは、他者の身体になぜか私の痛みが生じるという何とも奇妙な状況の想定にしかならないだろう。つまり、私の痛みをただ単純に他者の身体に移動させると、他者の身体が傷ついたとき、なぜかその他者の身体に私が痛みを感じるというおかしな事態にしかならないのである。(これはウィトゲンシュタインが『青色本』で巧みに論じていることである。)当然のことながら、「他者の痛み」なるものの意味するところはこんなものではない。「他者の痛み」とは、すなわちその当人にとっての痛みのことであろう。だが、この<その当人にとっての>という構造は私の痛みからの類推によって導出されるようなものでは決してない。なぜなら、<その当人にとっての>という構造の了解なくしては、「他者の痛み」ということの意味が分からないため、そもそも私の痛みから一体何を類推すればよいのかが分からなくなってしまうからである。類推説は、<その当人にとっての>という構造の了解があって初めて成立しうるものなのである。

 ではこの<その当人にとっての>という構造の了解は、「私には私の痛みしか感じられない」という事実を認めたとして、一体如何にして可能なのであろうか。「私には私の痛みしか感じられない」というのは、「この世界で現に痛みを感じるのは私しかいない」というように解釈できる。つまり、痛みとは常に私の感じる痛みのことでしかない。だがこのように解釈してしまうと、そこからどうして「他者の痛み」なるものを意味づけられようか。ここでは、例えば私と太郎がともに虫歯になったとき、太郎が「虫歯が痛い」と言ったのに対し、私は「自分も同じだ」と返答することができない。私と太郎が同じ「虫歯による歯痛」という状況のコンテクストに身を置いたとしても、あくまでそこに現に存在するのは私の痛みだけであり、状況のコンテクストを共有したところで、痛みの感覚を共有することには決してならないわけである。

 上の解釈において注目すべきなのは、痛みを虫歯等の状況把握の一契機として捉えることを拒否し、一切の状況のコンテクストから独立自存するものとして解しているという点である。だがこれまでも主張してきたように、このようななにものにも状況づけられない痛みそのものなどというのを想定するのは不毛なのである。見てきたように、この世界内に存在する私とは、あくまで身体的存在として、その都度身を置く周囲世界に状況づけられているのであって、私に立ち現れる相貌はいつも何らかの状況のもとでの相貌である。同様に、私は痛みという感覚をその都度の状況のもとで知るのであって、そこから切り離された痛みそのものなどというのは、もはやこの世界で生活している私の知るところのものではないであろう。例えば、道を歩いているときに、身動きもままならないほどの激しい腹痛に見舞われるという経験をしたとする。このとき私が経験した痛みとは、果たしてそのときの一切の状況から独立した痛みそのものを意味するだろうか。そうではなく、「まともに歩けなくなり、その場でうずくまってしまうほどの異常な痛み」というような、そのときの状況のもとでの私の身体の態勢そのものが、すなわちその痛みの経験なのではあるまいか。少なくとも、「うずくまってしまう」という身体の態勢を全く度外視して、純粋な痛みの感覚そのものを取り出すことなど不可能だろう。私の経験とは、私の身体がその都度の状況に巻き込まれつつ、応答するその仕方のことなのであって、それゆえなにものにも状況づけられない痛みなどというのは、そもそも私の経験の領域に位置づけることすらできないのである。

 とはいえ、「私には私の痛みしか感じられない」という命題は、やはり確かな経験的事実を表明したものであろう。世界には数多くの身体が存在するが、実際に痛みを感じる身体は、私のこの身体を措いて他にないではないか。このことは、端的な事実として受け入れざるをえないだろう。だがしかし、この事実を認めたとして、その帰結として上記のような、なにものにも状況づけられることのない痛みなどというものを本当に認めねばならないのだろうか?決してそんなことはないだろう。むしろこの「私には私の痛みしか感じられない」という命題は、私が身体的存在として世界に受肉し、世界に状況づけられているからこそ、私は痛みをこの身体でもってしか経験することができない、ということを意味するのではないだろうか。私は痛みという感覚を、その都度の状況のもとで有視点的にのみ経験しうるのであって、この身体を超脱した無視点的な痛みなどというものを感じることは決してできない。したがって、「痛みを感じる」という事態はまぎれもなく<その都度>的世界把握の一つであり、その都度身を置く世界に徹頭徹尾状況づけられたものとして成立しうるものなのである。

 それでは、「他者の痛み」という言葉の意味するところはどのようなものであろうか。類推説においては、私の痛みの経験を外的振る舞いと内的クオリアへと分離し、後者を痛みの感覚と見做すわけだが、ここから出発したのでは、どうあがいても「他者が痛みを感じる」ということの意味を理解することができない。これは既に上で述べておいたことである。ところで、機能主義に倣って、痛みを外的振る舞いによって定義すればどうだろうか。この場合、確かに「他者の痛み」という言葉にもきちんと意味を与えることができる。というのも、私であろうと他者であろうと、ある特定の振る舞いが現出すれば、その振る舞いのことを痛みと呼べばよいだけだからである。こうして機能主義は、「他者の痛み」の問題をあっさりと解消してしまう。思うに、常識的にはかなり不自然に思える機能主義の心の定義がそれなりに広く支持されている理由の一つは、このいかにも厄介な問題から解放されるというところにあるのではないだろうか。しかし、ここでかえって別の問題が発生するように思われる。すなわち、機能主義の埒内では痛みを無視点的な客体的事物のように扱うため、今度は「私には私の痛みしか感じられない」という経験的事実の意味を理解することができなくなってしまうのではないだろうか。機能主義は、痛みの機能を観察することと、私自身が痛みを感じることとの間にいかなる差異をも見出すことができない。というよりも、そもそも「痛みを感じる」というような有視点的表現の意味を理解することができないのである。したがって、「痛み」という語の意味を外的振る舞いと見做したとしても、あるいは内的クオリアと見做したとしても、どちらにしても問題が生じうるわけである。とすれば、外的振る舞いか、内的クオリアか、というような二者択一を求めること自体がそもそもの誤りなのではないか。

 私が「痛みを感じる」と言うとき、別に私は痛みの物理的機能について言及しているわけではないし、かといって、なにものにも状況づけられることなく独立自存する痛みそのものについて言及しているわけでもない。思うに、私が「痛みを感じる」と言うとき、私はそのとき身を置く状況のもとでの自分自身のある種の状態について言及しているのではないか。つまりここでは、周囲世界の呈する相貌よりも、むしろ私自身がいかなる状態にあるかということこそが主題になるのである。とすれば、「他者の痛み」なる語の意味は、その他者が身を置く状況のもとで彼自身がいかなる状態にあるか、というところにあるのではないだろうか。僕としては、ここにこそ(痛みに限らず)「感覚」という概念の本質があると考える。そして、この「感覚」というのは、実は「状況把握」の基礎的契機であり、したがって他者理解においてきわめて重要な意味をもつと考える。つまり、「他者がいかなる状況のもとに身を置いているか」ということの了解には、「その当人にとって立ち現れている世界の相貌の了解」と相即的に、「その世界に身を挺する主体の態勢の了解」ということが含意されており、「感覚」という概念は、実は後者が主題化されたものではないかと思うのである。この点については、次節で詳しく論じることにしたい。

 

part6→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part6) - 対話空間_失われた他者を求めて

<筆者 kubo>