清原和博氏の逮捕について
最近世間を賑わせた話題といえば、元プロ野球選手の清原和博氏が覚せい剤所持の現行犯で逮捕されたことである。
周知の通り、覚せい剤はその使用者の心身を蝕み、社会的な死をもたらす。人は悲惨な将来が待ち受けていることをおそらく頭では理解していながら、どうしてそれに手を染めてしまうのか。
ごく簡単に言ってしまえば、その理由は気持が良いからだろう。覚せい剤使用者は、快楽に抗うことができないのである。
そしてその快楽ということについてである。覚せい剤の快楽のみならず、快楽は一般的に言って、忘我(我を忘れること)と切り離すことができない。快楽がゆえに我を忘れるのではなく、また逆に、我を忘れるがゆえに快楽を得るわけでもない。快楽ということと忘我ということは不即不離の事態なのである。
我を忘れるということと、快楽ということが不可分な関係にあることは、セックス、睡眠、スポーツ、酔い等の例を挙げれば実感していただけるであろう。この中で覚せい剤だけがとりわけ社会的に悪いものだとみなされているのは、それが著しく心身を破壊すること、また、その依存性の強さから自らコントロールするのが困難なこと等の理由によるだろう。しかし、この快楽というものの忘我という性質に着目するならば、覚せい剤の快楽と、セックス、睡眠、スポーツ、酔いといった一般的な快楽とは、社会的に許容されないものと許容されるものという相違はあるものの、本質的には相違がない。
覚せい剤は社会的悪であるが、覚せい剤使用者も未使用者も、忘我という快楽を求めているという点では何ら違いがないのである。
ではまた、わたしたちがどうして忘我(即ち快楽)を求めるのか。これをわたしはこう考えたい。それは、わたしたちがもともと、個別的な自我である以前に、自我の成立していない存在、すなわち生物的集団としての存在、さらに言えば無機的なものまで含めた世界的な存在であることに由来するのではないだろうか。
人間は、第一次的には忘我(あるいは未我と表現したほうが適切であろう)的存在であり、それから二次的に自我を獲得しているのである。
人間以外の生物、あるいは石ころのような無機物には、人間のような個別的な自我は成立していない。人間でもそれが成立するのは、幼児の頃である。それ以前の物心のつかない時期には、漠然とした自他未分の漠然とした世界に人は生きていて、自分ではない存在(他我)を発見するのと厳密に同時的に自我を獲得するのである。
だから、もともとわたしたちにとって忘我(未我)は自然な事態であって、むしろ個別的な自我という事態は、むしろすぐれて人間的なことだと言えるだろう。
人間はもともと、忘我(未我)たる存在として生まれ、自我を成立させてきた。したがって、本当は、なぜ人間は忘我(未我)を求めるのかと問うよりも、まずは、いったい何が人間を忘我(未我)から自我を成立させているのかを問うほうが順として正当なのかもしれない。
そしてその問い対しては、わたしはこう答えておこうと思う。自我を成立させている最大の要因、われわれを世界の単独者として直面させるものは、「死の発見」ではないだろうかと。
死こそ、何事にもまして、他人事でなく、確実にやってくる自身の宿命である。死こそは、絶対に誰に代わってもらうことのできない、不可避な、おのれだけの大問題である。(ハイデガー『存在と時間』)
個別的な自我というものをもっとも明瞭にわれわれに意識させるのは、この自らの死への思いではないだろうか。死こそ、われわれを最も明瞭に他の誰でもない個別的な自我に直面させるように思われる。
人間は、常に、おのれの死と固く結びついた個別的な自我を、われわれの生れ出た姿である忘我(未我)へと、それをほとんど意識することなしに連れ戻そうとしているのではあるまいか。
<murata>