対話空間_失われた他者を求めて

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好きの反対は嫌いか?それとも無関心か?

 

 常識的に言って、好きの反対は嫌いである。しかし、それを否定するような、ある広く知られた格言がある。



The opposite of love is not hate, it’s indifference.

(訳:愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです。)



 これは、日本ではマザー・テレサの語った言葉だと信じられているが、それは事実ではなく、本当は、エリ・ヴィーゼルというアメリカのノーベル平和賞を受賞した作家が残した言葉のようである。しかしその取り違えはともかく、この格言をはじめて耳にした者は、どこか、ふと目を開かされたような思いになるのではないだろうか。いかにもなるほどという言葉だ。

 

 しかし、この格言は確かにそうだと納得させるだけの説得力をもつけれど、それはうがった考えで、反面、やはり単純に考えて、好きの反対は嫌いであるというのが本当のようにも思える。はたして、好きの反対は嫌いなのか? それとも無関心なのか?

 

 わたしの意見はこうである。それは、好きの反対は<~である>という、性質としての観点から言えば嫌いであり、<~がある>という存在の有無という観点から言えば無関心であるということである。言い換えれば、<いかに存在しているか>という次元では好きの反対は嫌いであり、<存在しているか否か>という次元では好きの嫌いは無関心ということである。さらに感覚的な表現になるが、好きの反対は、水平の次元では嫌いであり、垂直の次元では無関心ということである。どういうことであるか。

 

 わたしは今、存在という用語を使った。この存在という語は、通俗的に使用されるよりも広い意味で解釈されたい。たとえば、わたしたちは日常で、<机の上にペンが存在する>といった意味、すなわち、物体が空間を占めているという意味でのみ存在という語を使用する。しかしわたしが上で述べた存在という語は、それよりも広い意味を持たせている。それは英語でいえばbe動詞に相当するものである。たとえば、「I am happy.」も、happyという状態が私に存在するのである。そしてこれは、ハイデガーが使用している意味での存在(being)である。

 

 ハイデガーは、存在的という語と、存在論的という語に区別をつける。存在的という語は、<いかにあるか>という次元で使用され、一方、存在論的という語は<いかにあるかという以前に、あるとはそもそもどういうことか>という次元で使用される。

 

 今、好きの反対は嫌いであるか、または無関心であるか、ということをわたしは問うているわけだが、これは存在的な、水平の次元の話としては嫌いが好きに対置されるけれど、存在論的な、垂直な次元の話としては無関心が好きに対置されることになるわけである。

 

 ふつう、わたしたちはあるものの対となるものは存在的な、すなわち、<いかにあるか>という水平の次元で考えるのが習慣になっている。いや、対になるものを考える場合ばかりでなく、あるものをある観点から見るとき、それは水平の<いかにあるか>という次元で分析される。たとえば、リンゴは、甘いというありかたをしていれば、赤くもあり、丸くもある。あらゆる学問も、この次元であるものを分析している。わたしたちは、水平の<いかにあるか>という次元でのみ考えることに慣れている。そして、すべてのものを水平の次元でのみ解釈しうると信じている。

 

 わたしは、単に好きの反対は、ある観点から言えば嫌いであり、また別の観点から言えば無関心であるというようなことを指摘したいのではない。それはそうなのだけれど、その観点の違いというのが、水平の次元での相違ではなく、垂直と水平の次元の相違であるということを指摘したいのである。具体的に言い換えれば、単に、「リンゴはある観点から言えば赤いし、別の観点から言えば甘いものである」ということを言いたいのではない。「リンゴが甘い」ということと「リンゴが赤い」ということの区別は、「リンゴが甘い」ということと「リンゴがある」という区別と決定的な相違があるということを指摘したいのである。あるということと、<~である>ということとの決定的な違いを指摘したかったのである。

 

 関心によって、「好き」がある。無関心というのは、「好き」がない事態をいう。この好きがない、無関心という垂直の次元の出来事を、「嫌い」と同様に水平の次元のものだと錯誤すれば、この「好きの反対は嫌いか?それとも無関心か?」という問いに回答を与えることはできない。なぜなら、その場合、「好き」の反対の椅子はひとつしかないと思い込み、そのひとつの椅子をめぐって、「嫌い」と「無関心」が争うことになるからである。しかし、実際のところ、反対の椅子は、水平の次元だけでなく、垂直の次元にもあって、それぞれの椅子に「嫌い」と「無関心」が座っている。

 

 わたしはこれらのことを、今読書会で扱っているハイデガー著『存在と時間』から着想を得た。





<筆者 murata>