対話空間_失われた他者を求めて

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人工知能は意識を持つか?

 「2045年問題」というものをご存じだろうか。コンピュータの知能が人間を超える時点(これを「技術的特異点」と呼ぶ)が2045年くらいには訪れるだろうという問題であり、カーツワイルをはじめとする一部の技術者、研究者の間では十分に予測される事態だと考えられている。実際、アメリカでは政府やNASAGoogleなどのバックアップのもと真剣にこの問題の対策が議論されているらしい。近年の人工知能技術の目覚ましい発展によって、SFの世界だと思われていたことが真実味を帯び出しているということなのだろう。

 しかし、そもそも何をもってコンピュータが人間を「超える」とされているのだろう?既に四則演算の能力は人間よりコンピュータの方がはるかに高いし、あるいはチェスや将棋などの実力も人間を上回りつつある。けれどもこれだけで人間を「超えた」とは誰も言わないだろう。人工知能の開発に携わる研究者の中には、近いうちにコンピュータがこれ以上の何かを持ち出すのではないかと危惧している者がいるようだ。それはすなわち、コンピュータが人間と同様に「意識」を備え、生物の中で最も高等だとされる人間をはるかに超える知性的存在者になるかもしれないということだ。仮にこのようなことになれば、AIを積んだロボットが人間による制御を逃れて、独立して行動し始めるということが起こってもおかしくないだろう。そしてロボットたちは自分の仲間を(生殖によってではないにしても自前の技術によって)増やし、人間を支配するような時代が到来するという事態が想定されて然るべきであろう。実際、このような懸念を抱く者たちは少なくなく、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士や、実業家のイーロン・マスクビル・ゲイツなどが、「人工知能は人類を滅ぼすのではないか」という懸念を相次いで表明したそうだ。松田卓也著『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』にも、このまま技術が進んでゆけばこのような事態が十分想定され得るとの旨が述べられている。

 だが、本当にコンピュータが意識を持つことなど可能だろうか?さらに言えば、そもそも意識を持つというのは一体どういうことだろうか?本記事ではこのような点を出来る限り根本的な視点から問い直したいと思う。したがって以下において論じるべきことは、あくまで、人工知能開発の技術的問題ではなく、原理的問題であろう。つまり、技術の発展如何にかかわらず、「コンピュータが意識を持つ」というような事態がそもそも原理的に可能かどうかを問いたいのである。

人工知能は人間を征服できるか?

 2012年の6月、Google人工知能に関する研究発表において、その驚くべき内容が世間の注目を集めた。それは、コンピュータが自身の学習によって「猫」を識別できるようになったという研究発表である。そのコンピュータには、現在人工知能開発において注目されているディープラーニングという手法が用いられており、これは、対象物の識別等において人間がその対象の特徴を抽出せずとも、コンピュータが自動でそれを行うという画期的なものである。つまり、猫の特徴を人間がコンピュータに教えずとも、いくつもの猫の画像をコンピュータに入力するだけで、コンピュータが勝手に学習し、その結果高い精度で猫の画像を識別できるようになったということだ。この事実はきわめて驚くべきことであり、人工知能開発の新たな展望を期待させる。けれどもそんな中、こうした人工知能の飛躍的発展を目にして、人工知能も人間と同様に「意識」なるものを持ち出すのではないかという想像を膨らませる人々もいるようだ。そして、人間よりも優れた知能でもって人間を征服するのではないかと懸念する者もいる。だがこのような人々は、そもそも「意識」を如何なるものとして捉えているのだろう?僕が思うに、おそらく意識を単なる情報処理システムのようにしか考えていないのではないだろうか。意識をこのようなものとして想定してしまえば、確かに、計算ミスもすれば錯覚も起こす人間に比べて、コンピュータの方が圧倒的に優れているということになるだろう。

 だがそれにしても、意識を情報処理システムに還元するというのは、明らかに発想が貧困過ぎやしないだろうか。情報処理というのは、意識の持つ一側面でしかないというに止まらず、それは決して意識の構成要素というわけでもなく、意識現象全体から人為的に切り離された一契機に過ぎない。意識は他に、感情や欲求、欲望、意志など様々な契機を持つわけであり、これらを単なる情報処理における副産物といったふうに捉えるわけにはゆかない。これらの諸契機が分割不可能なままに統合されて初めて意識と呼べるものになり得るのである。

 さて、「意識」なるものの捉え直しはおいおい行ってゆくとして、まず人工知能が人間を征服するようなことが起こり得るかを検討しよう。こうした懸念に対して、人工知能開発者である松尾豊は夢物語だと否定している。彼は『人工知能は人間を超えるか』の中で、次のように述べている。

いまディープラーニングで起こりつつあることは、「世界の特徴量を見つけ特徴表現を学習する」ことであり、これ自体は予測能力を上げる上できわめて重要である。ところが、このことと、人工知能が自らの意思を持ったり、人工知能を設計し直したりすることとは、天と地ほど距離が離れている。

 確かにそのとおりであり、人工知能がどれだけ優れた情報処理能力を持ったからといって、そこから人間を支配しようという思いが芽生えるなどと考えるのはあまりに飛躍しすぎている。そして、この落差の理由として彼は、「人間=知能+生命」であるからだと主張する。知能をつくることができたとしても、それは生命であることの十分条件ではないし、またそれは生命であることの必要条件ですらないだろう。

自らを維持し、複製できるような生命ができて初めて、自らを保存したいという欲求、自らの複製を増やしたいという欲求が出てくる。それが「征服したい」というような意思につながる。生命の話を抜きにして、人工知能が勝手に意思を持ち始めるかもと危惧するのは滑稽である。

 松尾の考えは非常に地に足の着いた説得力のあるものであり、人工知能をめぐって広まっている無分別な空想を諌めるものであろう。けれどもここでは、もう少し突っ込んで考えてみたい。松尾は人間を知能的側面と生命的側面に分け、「人間の知能は原理的にはすべてコンピュータで実現できるはずだ」と主張している。だがこの時考えておくべきなのは、知能とは何か、あるいは生命とは何か、という点である。また、人工知能における知能と、人間の知能は同じものなのか、あるいはそもそも人間を知能と生命とに完全に切り離すことができるのか?こうしたことが問われるべきであろう。

知能と生命

(1) 概念理解について

 人工知能開発者における知能の扱いは、まさしく「情報処理能力」といったものであろう。つまり、入力された情報からその特徴を取り出し、正しく識別したり、何らかの判断をしたりという、入力に対する正確な出力を行うことを「知能」と呼んでいるように思われる。但し、ここで重要になってくるのが、情報の特徴抽出を人間が逐一プログラミングしなくとも、コンピュータ自身が自動抽出し、またプログラミングの自動修正を行えるかという点である。つまり、人工知能が自分で情報の識別や判断の仕方を学習できるかという問題であり、これは長年、人工知能開発における難点であった。そしてこの難点の解決が、ディープラーニングによって可能になるのではないかと今注目されているというわけである。

 ここで、このような点と関連する人工知能の難問として、「フレーム問題」を挙げておこう。このフレーム問題に関しては、哲学者ダニエル・デネットの挙げる例がなんとも痛快で面白い。少し長いがWikipediaに載っている文章を引用しよう。

 状況として洞窟の中に、ロボットを動かすバッテリーがあり、その上に時限爆弾が仕掛けられている。このままでは爆弾が爆発し、ロボットは動かなくなってしまうので、洞窟の中からバッテリーを取り出してこなくてはならない。ロボットは、「洞窟からバッテリーを取り出してくること」を指示された。

人工知能ロボット1号機R1は、うまくプログラムされていたため、洞窟に入って無事にバッテリーを取り出すことができた。しかし、1号機はバッテリーの上に爆弾が載っていることには気づいていたが、バッテリーを運ぶと爆弾も一緒に運び出してしまうことに気づかなかったため、洞窟から出た後に爆弾が爆発してしまった。これは、1号機が、バッテリーを取り出すという目的については理解していたが、それによって副次的に発生する事項(バッテリーを取り出すと爆弾も同時に運んでしまうこと)について理解していなかったのが原因である。

そこで、目的を遂行するにあたって副次的に発生する事項も考慮する人工知能ロボット2号機R1-D1 (D = deduce (演繹) ) を開発した。しかし、このロボットは、洞窟に入ってバッテリーの前に来たところで動作しなくなり、そのまま時限爆弾が作動してロボットは吹っ飛んでしまった。2号機は、バッテリーの前で「このバッテリーを動かすと上にのった爆弾は爆発しないかどうか」「バッテリーを動かす前に爆弾を移動させないといけないか」「爆弾を動かそうとすると、天井が落ちてきたりしないか」「爆弾に近づくと壁の色が変わったりしないか」などなど、副次的に発生しうるあらゆる事項を考え始めてしまい、無限に思考し続けてしまったのである。これは、副次的に発生しうる事項というのが無限にあり、それら全てを考慮するには無限の計算時間を必要とするからである。ただ、副次的に発生する事項といっても、「壁の色がかわったりしないか」などというのは、通常、考慮する必要がない。

そこで、目的を遂行するにあたって無関係な事項は考慮しないように改良した人工知能ロボット3号機R2-D1を開発した。しかし、このロボットは、洞窟に入る前に動作しなくなった。3号機は、洞窟に入る前に、目的と無関係な事項を全て洗い出そうとして、無限に思考し続けてしまったのである。これは、目的と無関係な事項というのも無限にあるため、それら全てを考慮するには無限の計算時間を必要とするからである。事程左様に、人間のように判断することができるロボットR2-D2を作るのは難しい。

 つまり、フレーム問題とは、起こりうるあらゆる出来事の中から、今処理すべき仕事に関連する情報だけをふるい分けて抽出し、それ以外の事柄に関しては当面無視して思考するという、人間には当たり前の行為を人工知能が行うのは困難だとするものである。この問題は現在でも解決されていないものであるが、松尾豊はこれに対し、ディープラーニングの発展によって解決され得ると考えているようだ。松尾によれば、人工知能が、入力された情報を「概念化」して捉えることができれば、必要な情報を選び出すのに無限に考えてしまうことなどなくなるだろうということだ。なるほど、概念化ができるということは、与えられた情報の意味を理解できるということであり、為すべき仕事のために意味のある情報だけを扱い、意味のない情報は無視するということができそうに思える。そして、ディープラーニングの技術が進みコンピュータが自分で情報からその特徴を取り出すことができれば、その特徴を用いて概念化が可能になるだろうと松尾は主張している。

 だが、対象物の特徴を抽出できれば、その対象の概念が捉えられるというのは少し飛躍しすぎてはいないだろうか。確かに、コンピュータは猫の特徴を抽出し、識別できるようになった。そして、この事実に対して世間では「コンピュータが猫の概念を理解した」と騒がれたが、それはあまりにも軽率すぎやしないだろうか。まず疑問なのが、猫を識別できたからといって、それで猫の概念が分かったということになるのかという点である。猫を識別できることと、猫とはどのようなものかという意味が分かることとには何か決定的な差異がないだろうか。この疑問をより強くするのは、例えば「爆弾」の概念である。果たして爆弾を識別できることと、爆弾とはどういうものかが分かることとは同じだろうか。我々にとって、爆弾は危険物であり、生命を脅かすものであり、端的になるべく近寄るべきではないものである。さらに言えばそれは同時に、戦争においては敵国を攻撃するための兵器になり、また一方で、建築物を解体するための道具にもなり得る。こうした爆弾の機能性やそれに付随する意味や価値をコンピュータが果たしてどこまで学習できるだろうか?たとえコンピュータが、「爆弾は周囲のものを破壊するという機能を持つ」ということ学習したとしても、そこから「危険なのでなるべく近づくべきでない」などというような意味性、価値性は一切生成しないだろう。コンピュータにとって、「爆弾は破壊という機能を持つ」という事実認識はそれ以上の意味や価値を何も持つものではなく、そこから何らかの為すべき行動が誘発されるというようなこともあり得ない。(尤も本当は、「爆弾は破壊という機能を持つ」ということ自体がコンピュータには解らないだろう。なぜなら、では「破壊」という概念とは何かと問い出せば、無限遡行に陥り、いつまでたっても爆弾の概念に行きつかないであろうから。)

 したがって、もしもコンピュータに爆弾の概念を教えようとするならば、あらゆる状況を想定し、その状況内では爆弾に対してどのような対処をするべきかを逐一インプットしてゆかねばならないであろうが、これには当然限界があるだろう。本当は概念を理解するというのは、その対象の持つ諸特徴の総和という以上のある種の意味性、価値性を捉えるということであり、これらの支えがなければ、結局フレーム問題の本質的な解決は不可能なのである。

(2) 意味性、価値性の生成について

 ところで、この意味性や価値性なるものはどこから発生するのだろう?それは、個々の対象物が所有している性質なのだろうか、それとも人間の意識が付与した性質なのだろうか。例えば、爆弾それ自体が「危険」という性質を持っているのだろうか、それとも我々の意識が爆弾に「危険」という性質を付与しているだろうか?おそらくどちらとも言えない。それは、我々と周囲の対象物との関係性から生成すると言うべきだろう。より本源的には、この意味性や価値性は、我々が生命体としてこの世界に生き、周囲の環境と相互関係を持つことで生成してくるものなのである。

 こうしたことに言及するために、ここでJ・J・ギブソンの提唱した生態学的心理学におけるアフォーダンスという概念を導入するのが良いかと思う。アフォーダンスとは、動物にとって自分の生活に密接に関わる意味や価値を持った環境中の特性のことである。意味や価値はしばしば人間が環境に付与する主観的なものだと考えられがちだが、アフォーダンスはむしろ、環境の側の持つ客観的な意味や価値なのである。尤もこの言い方は正確ではない。「実際には、アフォーダンスは客観的特性でも主観的特性でもない。あるいはそう考えたければその両方であるのかもしれない。アフォーダンスは、主観的―客観的の二分法の範囲を越えており、二分法の不適切さを我々に理解させる助けとなる。それは環境の事実であり、同様に行動の事実でもある。それは物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもないのである。」(ギブソン著『生態学的視覚論』)少しアフォーダンスの実例を挙げておこう。例えば、水平で凹凸がなく、硬い材質の面は、「支える」ことをアフォードする。それは、その上に立つことのできるものであり、またそれが十分な広がりを持っていれば、歩いたり、走ったりすることもできる。あるいは、垂直に立ち上がった面は、移動の妨害をアフォードする。また、その面の材質や形状によっては、よじ登ることをアフォードする。あるいは、面が膝の高さほどに高ければ、その面はその上に腰掛けることをアフォードする。これは岩棚のような自然物でもあり得るし、椅子のような人工物でもあり得るだろう。他にもまだまだ実例が思い浮かぶ。握れる大きさの物体は投げることをアフォードする。丸い物体は地面に転がすことをアフォードする。餌や食物となる物体は栄養補給をアフォードする。毒や腐敗物は、病気をアフォードする。

 このように、アフォーダンスとは、環境が動物に提供する特性のことであり、それは何らかの意味性や価値性を帯びている。但し、ここで留意すべきなのは、この意味や価値なるものは環境の持つ特性だと言っても、環境の中に独立自存しているというわけではなく、あくまで動物との関係性によって、つまり生態学的世界の中で成立し得るものだという点である。アフォーダンスは、環境の物理的特性や動物の身体的特性を含有しつつもその範疇に収まるものではなく、その動物がその環境内で生きてゆく上での様々な行動において生起してくるのである。

 したがって、コンピュータが対象物の特徴をどれだけ緻密に抽出できたとしても、そこにはアフォーダンスによってもたらされる意味や価値は全く付随しない。「椅子」の特徴を抽出したとしても、そこからアフォードされるものは何もなく、その特徴の中に「座るためのもの」というような機能性を見出すことはないであろう。なぜならこうした椅子の機能性は、椅子という物体そのものが持つ特徴ではなく、行為者との関係性において成立するものだからである。同様にして、「ナイフはものを切るという機能がある」というのも、本当はナイフ自体が「ものを切る」という性質を持っているのではなく、やはりナイフを実際に使用する行為者がいなければ成立しないものである。先に述べた概念理解であっても結局、こうしたアフォーダンスがもたらす意味や価値を支えにしなければ到底不可能なのであって、コンピュータが概念を理解できない理由は、つまるところ、コンピュータは無生物であるがゆえに、環境との間にアフォーダンスを形成できないというところにあるといえるだろう。

 コンピュータとは違い、我々人間は知能的存在であるよりも前に、まず生命的存在であるのであって、それゆえ生命維持をせねばならず、そのためには周囲の環境と密接な関係を築かねばならない。知能と呼ばれるものであっても、根源的にはこうしたところを基底として発展したものであり、したがって、人間から知能的側面のみを切り離して人工知能をつくっても、それはもはや実際の人間の知能と呼べるものではなくなるであろう。況してや、「人工知能が意識を持つ」などという発想はきわめて幼稚であり、馬鹿げたものである。ギブソンに言わせれば、知性とはアフォーダンスを柔軟に見出すことであり、つまり換言すれば、環境との関わりにおいてその物理的・身体的制約の中で許容される「可能的なこと」を行為主体として把捉するというところにある。こうした「可能的なこと」の把捉をベースとして、様々な選択や判断をめぐって思考するというような高次の知的活動も可能となるのである。

 ところで、行為者が環境と直接的に関係、接触することによって知られ得る意味や価値というものには、アフォーダンスのような「可能的なこと」のみに止まらず、感情の興発性や何らかの行動・反応の誘発性といった契機も不可分に介入してくる。例えば、断崖絶壁はそこから落下することをアフォードするが、それだけに止まらず、恐怖感といった感情や立ちすくむといった反応も同時的に発生させる。これはある種の動物においては、本能的、生得的行動として発現するということが動物実験によって観察されているそうだ。こうした情動的反応であっても、やはり環境との関わりから直接的に発生するものであり、既にこの段階で意味性や価値性を帯びている。(哲学者廣松渉はこれら直接的に受け取られる意味や価値を端的に「表情」という言葉で表現している。)思えば、感覚刺激ですら、単に化学的、電気的な刺激というだけでなく、「痛い」とか「気持ちいい」といったような、快不快を伴った意味や価値を持ち、不快なものであれば、即応的に回避行動をとるであろう。これは場合によっては反射的行動であるかもしれないが、ここで留意すべきは、反射的行動であっても決して無意味な自動運動などではなく、そこには意味や価値の萌芽が見られるという点である。

 したがって、我々が周囲から受け取る情報は、受け取るその時点で既に、解釈に先立って何らかの意味や価値を備えており、また判断に先立って何らかの行動を動機づける情動性をも随伴していると言えるだろう。然らば、しばしば想定されている「外界からの刺激の受容→脳による解釈→為すべきことの判断→行動」というような意識観、あるいはコンピュータになぞらえた「情報のインプット→情報処理→処理結果のアウトプット」というような意識観は根本的に見直されるべきである。例えば画鋲を裸足で踏んだときの痛みというのは、何の解釈もなく、即座に足のその箇所の苦痛として知覚される。これを上のような意識観に倣うと、画鋲を踏んだ際の刺激が脳へと伝達され、脳がその刺激を「痛み」だと解釈しているということになるだろう。だが脳が痛みであると解釈しただけでは、単に抽象的な「痛みの観念」に過ぎないはずだ。では、さらに脳がその「痛みの観念」を足の特定の箇所へと投射して、「足の痛み」として知覚するとでも言うのだろうか?こんな不自然で不可解な帰結を受け入れねばならない必然性はどこにもないだろう。画鋲を踏んだときの「足の痛み」は、まぎれもなくまさに「足の痛み」そのものとして、解釈に先立って直接的に受け取られるのであり、すなわち、痛みとは解釈された観念でもなければ、単なる無意味な化学反応でもなく、生命体としてこの世界で生きてゆかねばならないというところにおいて成立するひとつの生物的意味なのである。

(3) 行動と動機づけについて

 これまでの議論からも察せられるであろうが、人間の知能であっても、それを人工知能における「インプット―処理―アウトプット」システムとしての知能と同一視するわけにはゆかない。人間にあっては情報処理と言っても、(体系化された機械的な作業としての情報処理はさておくとして)大抵の場合においては、その都度の多様な状況に応じて自ら意図や目的を見出し、それに見合った情報の取捨選択、またそれに見合った行動決定などを同時に行わねばならないわけだ。こうした複雑な事態をコンピュータが「インプット―処理―アウトプット」システムによって処理しようとすれば、必然的に先に挙げたフレーム問題を生じ得る。では、人間の場合はいかにしてこのフレーム問題を回避しているのだろうか?

 人間がフレーム問題をほとんど起こさない理由として、人間は「概念」を理解できるからだと考える人もいるかもしれない。人工知能開発者の松尾豊もこのように考えていると思われる。すなわち、周囲から受け取る情報を概念化して捉えることができれば、目的に応じて必要な情報と不必要な情報をふるい分けることができ、今為すべきことを決定できるというわけだ。しかしそうは言っても、外界にはあまりに多くの情報があふれていて、そこにはあまりに多くの行為可能性が書き込まれている。それらを今必要な情報と不必要な情報へといちいち分別し、またそれに対してどのような行為が可能かをいちいち考えていたらいつまでたっても行動を決定できず、いかなる行動も発現してこないのではないだろうか。やはりここでも、「行動」を情報処理後の最終帰結といったふうに捉えているわけであるが、そもそもこの前提が問題なのだ。この前提に立脚する限り、いくら「概念」なるものを持ち出してきても人間の柔軟な行動を十分に説明することはできない。

 さらに言えば、フレーム問題を解消するのに、本当は概念を理解する必要すらないのではないだろうか。思えば、動物における捕食行動ひとつをとっても、動物たちはその時々の状況に応じてきわめて柔軟な行動を示す。そこには、フレーム問題など一切存在しないだろう。だがこの時、動物たちは概念を理解することによって捕食行動を遂行しているわけではあるまい。すなわち、捕食という目的を自認し、周囲からその目的遂行に必要な情報、例えばその場の地形、またその場での自分と獲物との位置関係、自分の身体的特性、獲物の身体的特性等を概念化して取り出し、そこから今為すべきことを決定して捕食行動を開始するなどというわけではない。そうではなく、多くの人は捕食行動を動物の持つ本能的な行動だと解することだろう。但しこの時、本能的行動を単なる機械的な自動運動だとは解さないように注意せねばならない。捕食行動とは、環境を舞台に繰り広げる動物同士の一種の駆け引きなのであり、相手の出方によって自分の出方も変えねばならないがゆえに、それは決して機械的な反復行動の埒内に収まるものではない。捕食行動を遂行するためには、その時々で一回一回異なる環境や状況に適切に対応するために、自身の行動をそれに合わせて調整しなければならないだろう。動物であっても、こうした意味でまさに適切な情報処理を(フレーム問題を起こさずに)行っているとも言えるのであり、概念を理解せずとも、さりとて盲目的に行動しているというわけでは決してないのである。だとすれば、概念理解の手前のところで、受け取る情報それ自体が意味性や価値性を有しており、そして同時にその情報自体が為すべき行動を予料し、それを動機づけていなければならないと言えよう。

 以上の議論を踏まえるに、人間を含めた動物は諸々の情報処理後の最終帰結として行動するわけではなく、むしろ逆に、人間も動物もまず初めに行動する存在であるとさえ言うべきなのではないだろうか。目的や意図、またそれに見合った情報の取捨選択、そこからの情報の解釈や判断等は、なにも行動全体を牛耳っているものではなく、むしろ行動の中の一契機に過ぎず、行動なくしては実現しえないものなのではないだろうか。尤も、人間の場合は、目的を見据え、熟考してから行動に移るということも確かにある。けれどもこのような場合であっても、その目的は何の脈絡もなく唐突に出現したというわけではなく、その都度の状況に巻き込まれ行動する中で、それに応じて生起してきたものであろう。だとすれば、行動は情報処理の後に置かれるべきものではなく、むしろ行動は様々な情報処理のベースになるものなのである。

 しかし情報処理を通過して行動するのではないとすれば、なぜ行動というものは、てんでバラバラの無意味なものではなく、分節化されたまとまりを持っていて、だがそれにもかかわらず、様々な状況に応じて柔軟に変容することができるのであろうか?ここにおいて、今まで検討してきた意味性や価値性、そして動機づけといったものが重要になってくる。我々は行動することでこの世界と直接に交流し、これまでに見てきたように、この交流によってこそ意味や価値は生成する。そしてさらに、この意味や価値によって行動は直接に制御され得るのであり、行動は有意味的な分節化、形態化を施されてゆくのだと考えられる。(それこそ捕食行動も分節化されたひとつの有意味的な行動だといえるだろう。)けれどもここで重要なのは、この意味や価値なるものは「概念」のような述定的次元のものではないというところである。それは、定式化され固定化された意味や価値などでは決してなく、もっと流動的なものであり、その都度の多様な状況に応じて、背後から何らかの行動を動機づけ、またそれを有意味的、生産的な行為へと生気づけてゆくものでなければならない。こうした動機づけとしての意味や価値を持つことによってこそ、我々は様々な状況の中で、それに適応した行動を生起させることができるのであり、ここにおいてはフレーム問題ももはや問題にはならないだろう。結局、コンピュータにおいてフレーム問題が生じてしまうのは、目的や意図、情報の取捨選択、情報の解釈や判断等の諸契機を継ぎ接ぎにして行動を決定せねばならないからなのであり、一方人間にあっては、受け取る情報それ自体に動機づけられることによって、これらの諸契機は一連の行動へと統合され、まとまった有意味的な行為として一挙に成し遂げられてしまうのである。

人工知能は意識を持てない

 動物であっても人間であっても、その本質は「行動する」というところにあるのであり、この行動によってこそ、我々は周囲の環境との有機的な接触を保っている。意識という高次のはたらきであっても、結局こうしたところを支えにして生成するものなのだとすれば、人工知能が意識を持つことなど原理的にあり得ないだろう。無論、人工知能を搭載したロボットをつくったところでこの事実が変わるわけではない。なぜなら、人工知能が感知できる環境は抽象的な物理的空間でしかないからだ。一方で、生命体にとっての環境というのは、単なる物理的空間ではなく、生命体によって生きられ、住み込まれた有機的な生活空間なのであり、その意味において、コンピュータは人間どころかアメーバのような下等生物をも超えることはないであろう。というよりも本当は、そもそもコンピュータが人間を超えるだの超えないだのを云々すること自体がナンセンスなのであり、それというのも、両者は存在のカテゴリーが根本的に違うのである。コンピュータはどこまでいっても、やはり生物ではなくコンピュータなのであり、一方で人間は、どれだけ優れた知能を持ったとしても、あくまで生命的存在であるのであって、生物の存在仕方を完全に超脱することはできないのだ。この至極当然の結論を、もし技術者や研究者が十分に自覚していないのならば、況してや人工知能が意識を持つなどと本気で信じている者がいるのならば、それは知能に対して、また人間に対して、そして生命に対しての大きな無知であり、自分自身の在り方に対する欺瞞なのである。勿論僕としても、人工知能開発自体を非難するつもりは毛頭ない。けれども人工知能の有効性や可能性を見据えるためには、同時にその限界をも見極めておく必要があるのではないだろうか。

<筆者 kubo>

 

主な参考文献を挙げておきます:松尾豊『人工知能は人間を超えるか』、廣松渉『表情』、河野哲也『意識は実在しない』、松田卓也『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』、J・J・ギブソン生態学的視覚論』、今西錦司『生物の世界』