対話空間_失われた他者を求めて

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こころと脳の問題

 こころとは何か、こころはどのようにして生まれてくるのか。これは哲学の諸問題の中でも、ひときわ多くの哲学者を悩ませ続けてきた難問であり、現在でも盛んに議論されているテーマだ。僕自身もこの問題に強く関心があり、一度記事を書いてみたいと思った次第である。とは言っても、この難問を真正面から論じるには、僕はあまりに勉強不足だし、僕にとって負担が大きすぎる。そこで、ここではかなり視点を搾って、「こころ」と「脳」の関係性について少し言及できればよいかと思う。とりわけ、多くの人が常識的に信じている、「心的なものは、脳のはたらきが原因で生み出される」という考え方が本当に妥当であるかを考えてみたいと思う。

こころは脳によって生み出されるのか?

 「こころは脳のはたらきに起因する」というのは、一般人のみならず脳科学者にもしばしば信じられている考え方だ。(ところで本文においては、「意識」、「感情」、「感覚」、「知覚」、「認識」などの心的現象・機能全般をひとくちに「こころ」という言葉で表している。)かなりの数の脳科学者は、この考え方をもとに、脳の状態を観察すれば、こころの状態を捉えることが出来ると信じていると思う。この考え方の根拠としては、ある脳の状態があるこころの状態とリンクしているという両者の相関関係を見出すことが出来るという点であろう。例えば、「悲しみ」という感情を抱いたときには脳はこれこれの反応を示すという具合に。だが果たして、そこから一足飛びに「脳がこころの原因である」などと結論付けられるだろうか。単に相関関係があるというだけならば、逆にこころの状態が脳の状態の原因であってもよいはずだし、また、脳の状態とこころの状態の両者が別の何かに起因すると言ってもよいはずだ。実際、ある種の心因性の病理において、脳にも何らかの影響が現れることがあるが、このときまさに、こころの状態が脳の状態の原因になっているとは言えないだろうか。また、ある人が失恋して悲しんでいるとき、この「悲しみ」の感情の原因は脳などではなく、もっと端的に、「失恋」という事実ではないだろうか。「失恋」によって、脳もこころも影響を被る、つまり、両者は「失恋」という事実に起因すると言ってもよいはずだ。にもかかわらず、多くの人がこのような側面を軽視し、脳を原因としたがるのは、その根底に科学的発想があるからではないだろうか。科学的方法においては、常に、物事を客観的に観察・分析することが求められる。このような観点では、「こころ」という客観的観察が困難な現象や、「失恋」という個人的な一経験などは軽視され、一方、「脳」という客観的に観察できる物質こそが重視されることになるであろう。そしてここから自然と、「脳」の観察・分析を起点として「こころ」という現象を説明しようとする発想が生まれてくる。

 ただ、今述べたことは、あくまで脳をこころの原因とすることの、つまり「因果関係」を見出すことの根拠の薄さを指摘しているだけだ。だがもし、脳とこころに、ひとつの「相関関係」があり、脳の状態とこころの状態がしっかりと結びつき対応しているのだとすれば、脳科学者たちの「脳の状態を観察すれば、こころの状態を捉えることが出来る」という主張はあながち間違いではないということになるだろう。しかし、彼らはそもそも脳とこころの「相関関係」をどのようにして見出しているのだろうか?ここにも、彼らの客観性願望が混入してはいないだろうか?このような点を、もう少し検討してみる必要がありそうだ。

脳からこころを捉えられるか?

 「悲しみを感じているとき、脳はこんな状態である」ということを観察できたとしよう。だが、そもそも「悲しみを感じる」とは一体どういうことなのだろうか。我々はなにもなしに、つまり一切の文脈なしに「悲しみ」を感じるわけではない。我々は様々な状況に巻き込まれる中で、こういった感情を抱くのである。失恋の悲しみ、友との別れの悲しみ、親の死の悲しみ、周囲の人に疎外されたときの悲しみ、あるいはしずむ夕日を見たときのあてどない悲しみ──このように「悲しみ」という一見単純な言葉にさえ、汲み尽くしがたい無限に多義的な意味が込められている。「こころ」というものは、人によって、さらには状況によって、きわめて多様な現れ方をするであろう。果たしてこのような様々なニュアンスに満たされた「こころ」という現象を、脳の観察・分析のみによって汲み尽くすことなど出来るだろうか?

 上のような疑問に対し、「こころが多様であるのは確かだが、それでも、各々のこころの状態に対応する脳の状態をひとつひとつ根気強く観察してゆけば、やがては脳の状態を観察するだけでこころの状態を捉えられるという目標に近づいてゆくだろう」と返答する方もいるかもしれない。だが、この答えは直観的にもかなり無理があるだろう。もう少し明確に問題点を指摘するならば、そもそもこの考え方は、こころというものを原子のように細かく要素に分解できると暗黙に想定しているのだ。だが、こころの問題に対してこんな想定が可能だろうか。ある人が「失恋の悲しみ」を感じたとき、悲しみという感情が成立するためには、その人が過去に経験してきた文脈がその悲しみの中に介入してこなければならないだろう。すなわち、どんな人に恋をしたか、どのような恋をしたか、その人との出会いはどのようにして訪れたのか、その恋によって自身にどんな転機が訪れたのか、そしてどのようにして失恋したのか、など様々な状況やその人の行動が複雑に絡み合いながら、ひとつの流れとなって構成された文脈を通じて、「失恋の悲しみ」という感情が湧き起こってくるものだろう。だとすれば、こころは全体的な文脈の中で捉えられるべきものであり、一部分だけを恣意的に切り離すことなど決して許されるものではない。こころとは、当人の経歴や性格、周囲の状況、あるいは文化、慣習といった社会的なものなどと密接に結びついており、それらなしには決して捉えようがなければ、成立することすらできないものなのである。結局、脳科学者たちが脳のはたらきに対応付けているこころとは、実際の心的現象からは大きく逸脱した、もはやこころとは呼べないものであると言わざるを得ないだろう。

 このことをより明確に理解するためには、「我々はこころの意味をいかにして知るのか」ということが問われなければならない。例えば、「悲しみ」とは一体いかなる感情だろう。我々はその感情の意味を、生きてゆくなかで経験的に知るのであり、決して脳を観察することによって知るわけではない。また我々は、悲しみという感情をあらかじめ赤ん坊のときから知っているというわけでもなく、様々な経験を通してその意味を徐々に捉えてゆくものだろう。だとすれば、「悲しみ」という感情は、それ自体で存在する感情などではなく、多様な経験から構成されたひとつの「概念」だということになる。我々は悲しみという感情をそれ自体で経験するのではなく、経験を振り返ってその感情を「悲しみ」と名付けるわけである。したがって、脳科学者たちが見出す脳とこころの相関関係とは、結局のところ、経験によって構成されたこころの「概念」を、脳の状態へと翻訳しているにすぎないのではないだろうか。脳を観ればこころが分かるというのは全く倒錯した考えであり、逆にこころというものを経験的に知っているからこそ、そこに脳の状態を対応付けることが出来るのであろう。しかも、ここで脳に対応付けられるのは、実際のなまの心的現象ではなく、その経験から二次的に構成されたこころの「概念」でしかない。あくまで、脳の状態という客観的事象にこころを還元するためには、どうしてもこころを概念化、ないしは抽象化し、実際のこころがもつ具体的で多様なニュアンスを捨象せざるを得ないのである。こうして、脳科学者たちが想定するような脳とこころの関係の背後に、その方法では捉えようのないあまりにも膨大で多様な心的現象が横たわっているということが分かってくるのである。

混迷するクオリア問題について

 見てきたように、こころを脳のはたらきへと還元する考え方は根本的に重大な問題を抱えている。そしてこの考え方の根底には、科学的発想があることも指摘した。だがその事情をもう少し詳しく書いておくことにしよう。例えば、我々が「ものを見る」とき、科学的に観察できるのは、外部から来る光のエネルギーによって視神経が刺激され、その刺激が大脳へと伝わり、大脳のある部分に興奮が起こる、といった客観的過程のみである。だが、これだけでは「ものを見る」というには何かが欠けている。なにしろどれだけこの過程を観察しても、その人が実際に見ている光景を知ることは出来ないのだから。こうして、我々が実際に受け取るありありとした視覚像はいったいどこから来るのか、というのが問題になる。そしてこの難しい問題に対して、「脳の何らかのはたらきによって刺激が主観的な感覚質(クオリア)に変形させられる」という仮説が生まれてくるわけだ。以下では、このような仮説の妥当性を検討してゆきたい。しかしそのためには、まずクオリアという概念について少し整理する必要がありそうだ。というのも、クオリアは非常に曖昧な概念であるがゆえに、その捉えられ方にかなりの混乱が見られると思うからだ。以下では、この混乱を整理しつつ、上の仮説の問題点と、また同時に、クオリアという概念の妥当な捉え方を考えてゆきたいと思う。

 クオリア問題は哲学者の間だけでなく、脳科学者の間でも盛んに議論されているようだ。この言葉によって彼らが表現したいのは、知覚における、客観的・第三者的には観察できないような、主観的・一人称的に直接体験される「感覚的な性質」の存在であろう。例えば、りんごを見たときのあの「赤い」という感覚、あるいは、それを齧ったときのあの「甘酸っぱい」という感覚などは、それを体験した本人のこころの中の出来事であり、科学的観察が困難な主観的なものだというわけだ。実際、知覚において、こういったありありとした質感が随伴することは確かであり、この現象がどのように生み出されるのかを納得がいくように説明するのは科学でも哲学でも難しいことだとは思う。だが僕がここで問題視したいのは、「クオリアを脳が生み出した主観的なものと考えること」、また、「クオリアをそれ自体で独立した実体的なものと考えること」という二点である。クオリアの概念の混乱はこうした発想から来るものだと思う。「知覚に伴うありありとした質感」が発生するためには、当然知覚すべき対象が外部の世界に存在していなければならない。つまり、クオリアは、あくまで我々が対象と接する中で意味を成してくる概念なのであって、クオリア自体が単独で脳によって生み出されるというわけではない。この点を十分に踏まえないと、クオリアを主観の中に実在している実体的なものというように捉えてしまう可能性があるのだ。クオリアはあくまで知覚体験に「随伴する」感覚のことであり、クオリアをそれ自体で取り出すことなど不可能なのである。

 だがそれにもかかわらず、よく「色彩のクオリア」などというものが取り上げられ云々されたりしている。ここにも、上でも述べた、原子論的な要素還元の問題性に無頓着なのを見て取れると思う。確かに一見、色彩感覚はそれだけで独立したものに思えるかもしれない。「赤い」というクオリアは他のクオリアから独立したものだと言いたくなるだろう。だが少し考えれば、赤い色紙、赤いセロファン、赤い布地はどれもそれぞれ質感が違う。ここで、「赤い」というクオリアがその他の「色紙」や「セロファン」や「布地」のクオリアと合成したのだと言いたくなるかもしれない。だが、こんな想定はクオリアの概念を考えると奇妙だ。クオリアを「知覚において直接的に受け取られるありありとした感覚の性質」と定義するならば、「色彩のクオリア」と「対象のクオリア」などという分割なしにひとまとまりの感覚として直接体験されたものをその知覚のクオリアと呼ぶべきだろう。我々は端的に、「赤い色紙」、「赤いセロファン」、「赤い布地」というふうに知覚するのであり、「赤い」という感覚とその色が映し出されている対象の感覚を別々のクオリアとして受け取るわけではない。さらに言えば、見えている色彩が異なっていても、同一の質感が維持されることもある。例えば、ある対象の一部分に陰が出来ていれば、目に映る色合いは陰の部分とその他の部分とでは異なる。だが、だからと言って、その対象が陰の部分のクオリアとその他の部分のクオリアに分断されるというわけではなく、ひとつの対象としてひとつづきの質感を維持しうるだろう。(以上のような議論はゲシュタルト心理学を知る方ならば常識的なものだと思う。)したがって、色彩の様態には、対象の存在仕方が深く関係しているのだ。陰によって色彩感覚が分断されず同一の色を保持しうるのは、色彩感覚が対象自体の同一性に支えられて存在しているからであろう。このような対象との関係性を人為的に切り離し、色彩感覚のみを扱うことは抽象的、ないしは観念的だとして糾弾されるべきである。さらに言えば、より厳密には知覚対象がどのような文脈、背景、状況によって知覚されているのかも考慮せねばなるまい。クオリアは、知覚者、知覚対象、知覚状況などの全体的な相互関係の中で生まれてくるものなのだ。ちなみにもう少し補足しておくと、クオリアの概念は、知覚における「質感的側面」を扱うのが主であろうが、本当は、知覚体験には「感情的側面」や「行動・反応的側面」なども一体となって含まれている。これについての検討は割愛するが、知覚における非常に重要な契機ではある。

 いずれにしても、クオリアをそれ自体で完結したものとして実体的に捉えることには大きな問題がある。尤もこのように考えてしまう背景のひとつには、「刺激が神経を通って脳へと達し、そこでその刺激に対応したクオリアへと変換される」という想定があるのだろう。だがこのような想定が、クオリアの概念を混乱させることになるのだ。このように考えてしまえば、ある刺激に対して脳が表象すべきクオリアをそれ自体で完結した意識内容として取り出さなければならなくなる。だが、上で検討したようにクオリアは知覚体験全体に関与するものであり、そこからクオリアだけを切り離すことなど出来ない。だがそれでも、むりに知覚体験からクオリアを取り出そうとするならば、色彩感覚のように抽象的、観念的な要素へと還元するか、それとも知覚体験そのものを総じてクオリアへと還元してしまわなくてはならなくなるだろう。このようにして、混乱が生じてゆく。前者のように要素に還元することは、上で見たように限界がある。そこで、もし後者のように考えるのであれば、我々の知覚体験そのものが脳によって生み出されることになるだろう。例えば、「りんご」を見たときのクオリアを「脳によって表象されたりんごという視覚像そのもの」というふうに実体的なものへと還元してしまわねばならなくなる。(このような混乱は、実際多くの論者に見られると思う。)そして同時に、クオリアは、脳によって表象された当人のこころの内部にあるものとして、必然的に、客観的・第三者的に観察できない、純粋に主観的・一人称的な現象であると結論付けられることにもなるであろう。(ちなみに、初めてクオリアという言葉を使ったとされるC・I・ルイスであっても、クオリアを主観的にしかアクセスできないものと考え、客観的な物体とは区別すべきだと考えているようだ。)

 けれども、「刺激に対応して脳が表象する主観的な知覚世界」などを想定するのは明らかに問題である。なぜなら、我々が経験しているこの世界が全て、「脳による表象の世界」になりかねないからである。こうなれば、知覚された世界は脳の中に閉じ込められてしまうだろう。これはまさに、「水槽の中の脳」と同等の世界観である。「水槽の中の脳」とは、「あなたが体験している世界は脳とそこに刺激を送るコンピュータのみによって作り出された世界なのではないか」と問う思考実験である。(知らない方はWikipediaを参照のこと→水槽の脳 - Wikipedia)けれども、この思考実験を提示したヒラリー・パトナム自身も言うように、身体をもたず、外界とのつながりを失った脳はまともに機能しえないだろう。例えば、身体の平衡感覚は、脳が単独で生み出すものではなく、身体を用いて、歩いたり、傾斜に立ったり、細い橋を渡ったりする行為の中で生まれてくるものであろう。脳はあくまでこのような行為に随伴してはたらくだけのことである。また同様のことが、対象の知覚においてもいえる。多くの人は「ものを知覚する」ことを、神経を通して視覚的刺激を脳まで運び、脳がそれを視覚像に変換することだと想定してはいないだろうか。しかしこれだけでは、「知覚する」というには不十分である。未知の対象を「知覚する」ためには、ただ漠然と見ているだけでなく、じかに触ってみたり、色々な角度から眺めてみたり、日にかざしてみたりと、自身の身体を用いて対象の多様な側面を把捉しにゆくような一連の「行為」を必要とするだろう。「水槽の中の脳」は身体をもたないため、この「行為」という側面を決定的に欠いている。だから、おそらくなにものをも知覚しえないだろうと思う。そして、「知覚に伴うありありとした質感」としての「クオリア」は、まさにこのような対象との直接的な触れ合いの中で生まれてくるものなのである。

 尤も、次のように思う方がいるかもしれない。知覚において直接的に受け取られるありありとした質感は、それが脳による表象かどうかなど関係なく、やはり純粋に主観的なものだろう、と。だが果たしてそうだろうか。例えば、りんごのありありとした質感は、「りんご」という対象との関わりに随伴するものとして可能になるものであり、別にこれが知覚者の主観へと還元される必要はない。むしろ逆に、その質感はりんご自体が持っている性質だと言ってもよいはずだ。したがってりんごの質感は、知覚者の主観によって付与されるものである一方で、りんご自体が持っている客観的な性質とも言えるような両義的存在なのである。(メルロ=ポンティはこのことを鋭く見抜き、知覚者と知覚対象の相互関係を「可逆性」と表現した。)すなわち換言すれば、りんごの質感は、知覚者の主観的意識にも、りんごの持つ客観的性質にも還元できず、「知覚者」と「りんご」とのいわば「あいだ」にあるものだと言わざるを得ないだろう。

 以上からわかるように、クオリアは純粋に主観的なものとはいえず、またそれ自体で実在しているものだともいえない。それにもかかわらず、クオリアを「脳によって表象された、当人の主観の中にのみ実在しているもの」として捉える傾向が強いのではないだろうか。そして多くの論者は、このように捉えたクオリアを「赤い」、「痛い」、「暑い」といった感覚要素に還元してしまう。だが必然的にそれには限界がある。例えば、「自転車で坂道を下っていくときの爽快感」などは単なる「爽快感のクオリア」とその他もろもろのクオリアの合成には還元できないひとつのありありとした体験であろう。こうして論者は、クオリアの意味を広げて、知覚体験そのものをクオリアと呼ぶようになってしまう。しかしこうなると、今度は「水槽の中の脳」へと接近してゆくことになるだろう。このようなアポリアの中で、クオリアという言葉は、いつもこの両者の間をふらふらと彷徨いながら用いられているのが現状ではないだろうか。僕は、クオリアの概念の混迷の本質はここにあると思う。このような混乱を解消するためには、クオリアをあくまで、「知覚対象やそのときの状況との関わりに随伴するもの」として捉え直す必要があるだろう。

こころは脳の中に閉塞しない

 クオリア問題に限らず、こころの問題を扱うとき、かなり多くの人たちはこころと脳との関係ばかりを見て、それ以外の側面を度外視しがちであると思う。これは一般人の常識にとどまらず、上で述べたように脳科学の分野にも見られることである。あるいは、精神医学の分野にもそれが見られ、「脳のある部分に問題があるから、それを投薬等で改善すれば、こころの問題も改善する」という発想法がかなりまで定着しているようだ。尤も、以上のようなこころの捉え方が全くのでたらめであるとは言わない。だが、明らかに視野狭窄に陥ってはいないだろうか。ここで哲学者、廣松渉がよく用いる比喩を借りれば、「脳」と「こころ」は、「水道の蛇口」と「水」に譬えられるだろう。蛇口をひねれば水が出ることは確かだ。そこに因果関係を見出すことは出来る。しかし、だからといって「水は蛇口によって生み出される」などと結論付けられはしないだろう。つまり、全体に広く行き渡った関係性から部分的な関係性のみを切り取って云々したところで、全く本質が見えてこないのである。同様にして、脳とこころもやはり、より広い文脈の中で捉え直されるべきなのだ。確かに、「こころの発生」の問題は難しい。どのようなアプローチをすればよいかは僕も正直見当がつかない。ただ、少なくとも確実に言えることは、こころは脳の中に閉塞しないし、純粋に主観的な領域のものでもない。こころの問題へと接近するためには、こころを脳の中から解放し、主観的領域と客観的領域との分断をのり超えるような視点が必要なのだと思う。

<筆者 kubo>