対話空間_失われた他者を求めて

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他者理解の問題を考える

他者理解のアポリア

 他者理解の問題を考えるときに、自己意識から出発してしまうと、「他者」は単なる私の意識による表象ということになる。こう考えれば、他者は私の思惟のなかに閉じ込められ、私の外部に存在しなくなってしまう。こういった独我論を避けようと思うならば、私の意識の外部に、私とは異なる他者の意識の存在を認めなければならないわけだが、そうなると今度は、異なる意識の交流がどのようにして可能になるのかが問題になってくる。ましてや、他者理解などということが可能だろうか?他者理解などといっても、結局は私の中で理解するしかないわけだ。こうして、また独我論にもどってしまうわけだが、それでも独我論を否定しようとするならば、他者はやはり永遠に理解できないものだと言わざるを得ない。でもこの結論は、やはりちょっとさびしい気がする。

 以上のような恐ろしく面倒な、しかし重大な問題をめぐって僕は思い悩むことがある。このように考えてしまったら、他者との意思疎通などほとんど希望のないものになってしまうだろう。出来ることと言えば、他者の意識内容に対して仮説や推論を立て、自分の中で解釈することくらいだ。だがそれにもかかわらず、我々は自然的には、他者との意思疎通はある程度可能なものだと素朴に信じ込んでいる。それどころか、他者との人間的な心の通じ合い、あるいは共感といったものを実感することが時々あるのである。これはどういうことなのだろうか。ただの思い込みだと断罪してもよいものだろうか。

他者理解としての言語

 上記のような問題に対し、それではどのようにして他者との意思疎通は可能なのかと問われたとき、まず多くの人が思い浮かべるであろうものに「言語」というものの存在がある。実際、我々は言語を用いて意思の伝達を行なおうとする。なるほど、我々が言語を持たぬ存在ならば、自分の意識内容から外には出られないだろうが、我々は言語という存在のおかげで自分の意識内容を客観化し、外部へと表象することができる、というわけだ。これは一見、他者理解の問題を解決へと向かわせる考えのようにも思える。ところが、事はそれほど単純ではないのだ。

 まず、言語による意思疎通とはいっても、当然言葉の使い方というものは人によって微妙に異なる。つまり、言葉の意味には一種の「ブレ」が必ず存在する。だがこのような主張に対しては、ブレがあるのは言葉の意味を十全に定義していないからで、対話する両者にとって同じ認識が共有できるような明確な言葉を積み重ねてゆけば意思疎通も可能になるだろう、と言うことも出来るだろう。だが、言語というのは、明確に定義しようとすればとたんに逃げて行ってしまうような、ある種の「ニュアンス」あるいは「表情」の地帯が存在する。言葉の意味のブレには、このニュアンスや表情といったものがひそかに宿っており、意味のブレを解消することは、すなわちこれらのものを捨象するということなのだ。

 このニュアンス、表情というものは想像以上に大切なもので、これを欠いてしまうと言語はいかなる意味も持ち得なくなるだろう。なぜなら、あるAという言葉を定義するためには、別の言葉(例えばB)が必要になり、ではBという言葉の意味はなにかを定義するために、今度はCという言葉が必要になり、というように言葉の数珠つなぎになって、いつまでたってもその意味へと到達しないからだ。つまり、言語によって言語自身に意味をあたえることなど原理的に不可能であるのだ。かと言って、言語の持つ意味は言語の外部に予め存在していて、それらをひとつひとつの言葉に対応させたというわけでもない。言語とは、我々が世界から受け取る始源的で曖昧なニュアンスや表情を分節化し、やがてそこから明瞭な意味を備えた対象を浮き上がらせてゆくものなのだ。だが、だからといって言語はそれ自体で明瞭であるということにはならない。その明瞭さの背後には、常に曖昧なニュアンスや表情(あるいは、色、香りと表現してもよい)が眠っており、それらの下支えのおかげで、言語は明瞭な意味を保持しうるのだ。すなわち我々は、言語"で"意味を与えるわけでも、言語"に"意味を与えるわけでもない。言語の意味は、我々のたゆまぬ世界との交流のなかでのみ息づいているのである。

 言語は言語自身によって意味を与えることは出来ない。これは勿論、厳密な言語(記号)を用いる数学に対してさえ言えることだ。数学的定義であっても、言語内部でのみ完結するわけにはゆかないのだから、その定義の意味の根源は結局我々の世界経験に求められることになるであろう。その証拠に、数学がいつも拠り所としている「自明性」や「公理」という観念には、絶対的な正しさの根拠が欠けている。(正しさの根拠が無いからこそ数学は発展する余地があるのだと思う。)この根拠なき根拠を我々に与えるものが、まさしく世界との交流に他ならない。だが、それにもかかわらず、数学言語が皆に等しく明瞭なものとして、ブレのないものとして現れてくるのはなぜなのだろうか。それは、言語の用い方に一定の基準を与え、個々人がそれを逸脱せぬように制御しているからである。言い換えれば、個々人が持つニュアンスや表情によって緊密な言語体系が揺るがされないように、そういった曖昧なものを言語体系から捨象しているのである。だが、それによって求められるものは、もはや自己や他者といった次元のものではなく、一切の個性が排斥された純粋に理念的なものであろう。ここではどうやら、他者理解の問題を飛び越えてしまったようである。やはり、他者理解を問題にしようと思えば、あの曖昧なニュアンスや表情の地帯へと戻らなければならないわけだ。そしてそのためには、言語の持つブレを排斥するのではなく逆に引き受け、そこに他者理解の困難と可能性を読み取るようにせねばなるまい。

ニュアンスや表情は<自我─他我>構造を超克する

 他者理解というものが、本源的にこのような曖昧なものの上に乗りかかっているとすれば、それはいつまでも完全なものになることはありえないだろう。だが、このニュアンスや表情といったものは、自己と他者との線引きを曖昧にし、他者理解とまではいかなくとも、人間的な心の通じ合いを可能にするような希望をも秘めているのだ。これは、自我─他我の二項対立を超えるものだ。というのも、ニュアンスや表情はある意味で自己意識に先立つものなのだ。私が感じ取った何らかのニュアンスや表情は、私の思惟によって全て自己意識に還元されてしまうようなものではなく、メルロ=ポンティの表現を借りれば、私は私自身に対して完全に透明になることはありえない。メルロ=ポンティが記述した「身体」は、私にとって常に不透明で未決定なものを保持しているが、ニュアンスや表情の知覚においては、これらは思惟によって築き上げた自己意識をすり抜け、まさに私の「身体」へと直接しみこんでくるものだ。この次元でのみ、他者への共感も可能になるのだろう。つまり、自己意識の担い手としての「私」が、他者を理解したと「惟う」のではなく、他者の言葉や振る舞いが、その状況にいる私に、はっきりとは言語化出来ない「何か」を直接訴えかけてきて、私の思惟はその「何か」に乗せられて、影響を与えられるわけだ。

 だから、他者との対話とは、お互いが自分の意識内容を、言語という客観化された媒体を用いて相手へと表象し合うことではない。だが、そうかと言って、安易に感情による融和を目指すものでもない。「善意ある人間は他人との一体化を急ぐのであるが、その結果として起こることは感傷的な一体化の錯覚にすぎず、感情的な共同忘我の状態にすぎないことが多い。」(山崎正和 『演技する精神』)対話とは、他者と言葉や振る舞いをつきあわせ、そのやり取りの中から浮かび上がってくる、まだ私の思惟にはなっていないニュアンスや表情といったものをじっくりと味わうことだ。そこには、何らかの「共鳴」や「摩擦」があり、そのときに私は、「他者」の存在と同時に「自己」の存在をも実感するのである。(ちなみに、最近主流の「空気を読んだコミュニケーション」は、摩擦係数を減らすことに腐心している。そこには摩擦もなければ共鳴もなく、他者も自己も介入する余地がない。)

 他者理解の問題を自我と他我とを前提として考えてしまうと、おそらくは袋小路に陥らざるを得ないだろう。そこには、永遠に交わることのない自己意識か、あるいははるか上空を飛翔する普遍的理念があるのみだ。これに対し、その根底にニュアンスや表情の存在を見出すことは、この硬直した自他関係に柔軟さや流動性をもたらし、完全ではないが、だからこそ、実り豊かな他者との関係を再認識する機会を我々に与えるものなのだ。

<筆者 kubo>