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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

人間は意識を持つか?

 「人工知能は意識を持つか?」と問われれば、私は(この問いがカテゴリーミステイクであるかどうかはともかく)「もちろんない」と答えるだろう。ただし、それは「人工知能」を「人間」に置き換えても同じように答えるであろうという意味で、ということを断っておかねばならない。このブログではたびたび人工知能にかんする問題が提起されているが、「人間は意識を持つ」という強い条件のもとでしか議論されてこなかった。私にはこれが不思議でたまらない。6月17日に発売された永井均氏の『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』は次のような書き出しで始まる。「心は、心の中でも特に「意識」と呼ばれるものは、じつは存在しません。これは、誰でも知っている自明のことです」。まさにこの通りではないだろうか。
 しかし我々はしばしば「人間に意識はある」と言いたくなるような衝動に駆られる*1。なぜだろうか。結論から述べてしまうと、この「人間に意識はある」という物語*2こそが我々の“現実”を作り出しているからなのである。

 最初に「内包」という言葉を導入しよう。内包とは永井哲学固有の用語である。「酸っぱさ」という感覚の例で説明しよう。我々は子供のころ、大人たちが梅干しなどの酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をするところを見て「酸っぱさ」を理解した。この時点で、子供にとって「酸っぱさ」のすべては「酸っぱいものを食べて酸っぱそうな顔をする」という状態ただそれのみである。「酸っぱい食べ物を食べて酸っぱそうな顔をしたときに感じているとされるもの」を第一次内包と呼ぶ。しかし、子供が少し成長すると第一の逆襲が到来する。なにも酸っぱいものを食べていないのにどういうわけか口の中が酸っぱく感じられるということが可能になるのだ。このときの第一の逆襲を経た「ふるまいとは独立な酸っぱさの感覚そのもの」を第〇次内包*3と呼ぶ。第一次内包に対し、物理的状態の側からも第二の逆襲が到来する。人が酸っぱさを感じるときの神経や脳の状態を調べてやれば、ある反応が観測できる。こうなると私がいくら自分の口腔内の酸っぱさを主張しても、この特定の反応が観測できなければそれは「錯覚」であると判断されてしまうだろう。この「感覚とは独立な客観的知識」を第二次内包と呼ぶ。この他にも、端的に私である者が現に存在してしまっている、そしていかなる特性にも依らずそいつは端的に私である、という不可思議な事実性を無内包の現実性と呼ぶ。つまりブルート・ファクトである。
 最初に提示した問い「人工知能は意識を持つか?」で真に言わんとしていることは第〇次内包の問題(現象的意識の問題)、つまり「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある。しかし、人工知能にも“このようなもの”があるのか?」であるはず(ゆえに「人間(他者)」にも「人工知能」にも意識なんてものがあってはならない*4*5)なのに、このように問うた時点で意識の第一次内包の問題(機能的意識の問題)として、また部分的に第二次内包の問題として扱って(ゆえに「人間(他者)」にも「私に観測可能な範囲すべてで人間そっくりのふるまい*6をする、つまり“我々のゲームに参加している”人工知能」にも意識がなければならない)しまわざるをえなくなる。
 まずは「人工知能は意識を持つか?」という問いが含むこの混同を指摘しておく必要があるだろう。そんな混同はしていない、と反論されるかもしれないが、少なくとも第〇次内包と第一次内包の混同抜きでは問いの意味がわからない。意味がわからない、というのは、なぜ「我々がふるまいによってそれらを区別できるかにかかわらず、人間は意識を持ち、人工知能は意識を持たない。つまり、人工知能を我々のゲームからあらかじめ排除しておく*7」と言わずに「人工知能は意識を持つか?」と問うのかがわからない、ということである。私が「私には意識がある」だとか「私には感情・欲求・欲望・意志などの意識の原動力が確かにある」だとか主張したところで、ロボットがそう主張するのとなにが違うのかを誰かが有意味に理解することは原理的にできない、ということこそが問題なのだ*8。我々のゲームの外に(ふるまい以外で)「そういう原動力があるかないか(生きているかいないか)」などの絶対的な判定基準*9があるという前提が隠れているのならば、それを「信じるか信じないか」という純粋に宗教的な話としてしかこの問いを理解できなくなってしまう。それはあまりにもつまらないのでぜひとも避けたい。

 とはいえ、そもそも我々はこの混同を避けて意識の問題を設定することはできない。そうでなければ、第〇次内包の無限の累進構造に絡め取られ、発した途端に問いは空虚なものとなってしまう。複雑系科学における「不定性」という言葉は(真に本質的な点では違う状態を指し示しているが)この構造を示していると言えよう。
 「現に意識がある唯一の存在者」「端的に意識がある唯一の存在者」と、誰もが自分をこのように捉えている。それ以外の捉えかたではありえない。前言語的な無内包の現実性としての「私」は、このように表現できない“これ”としか言いようのないものであり、しかし間違いなく存在しており、これ以外のものは実在しない。実は他者との本質的な違いなどなにもないのに、どういうわけか根本的な点において違っている。そして、この無内包こそが第〇次内包を“本当に”補給するのだ。
 真に有意味には伝達することができないとはいえ、やはりそれでもなお私は「いや、それでも実際に“これ”があるのは……」と言いたくなる。その原因は「驚くべきことに、実際そうなっている」というどうやったって逃げようのない裸の事実としての合理性である。相手にもこの種の特権性の主張を認めることは、あくまでも建前でしかない。しかしここで、言語を使用可能なものとするためにこの建前を認めてしまう、つまり誰もが同じことを言う権利を持つという世界像を構築する*10。今まで見てきたことから明らかなように、それこそが他者とのコミュニケーションの条件であり、それ以外であってはならない。こうして、極めてアクロバティックな作業を可能にする「言語」という驚異的な力が作り出した物語により、前言語的な無内包の累進構造は乗り越えられ、一般的な「意識」が成立するのである。

 このようにして実体化させられた(実在的な意識との対比としての)意図的な意識を人工知能は持つことができないという議論は、先に述べたのと同じ理由で、科学的なものか純粋に宗教的なものでしかありえない。

<筆者 ueda>

参考文献
永井均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(岩波現代文庫
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン青色本』(ちくま学芸文庫
現代思想 2001 vol.29-3 システム―生命論の未来』(青土社

*1:そして、「なぜ意識があるのか」「意識の原因はなにか」「意識とはなにか」などの問いを立ててしまう。しかし私は端的にこれらの問いの意味がわからない。

*2:この世界像は、言語で表現することによって成立した“言語的世界”に基づいている。“物語”という言葉を使ったのは、この世界像があくまでも作り物に過ぎないということを強調するためである。ここでかなり過激、というか微妙な(正しいかどうかわからない)ことを述べておくと、スキゾフレニーとはこの物語が正常に機能していない、いわばまだ騙されていない“前言語的な”状態である、と言うこともできるのではないだろうか。そう考えれば、スキゾフレニー患者がしばしば「音声送信」や「思考盗聴」などといった被害を訴えるのも自然に思える。また、「替え玉錯覚」と呼ばれる症状(http://dialogue-space.hatenablog.com/entry/2015/03/09/001517 を参照)も、時制との類比を絡めると同じことが言える。

*3:第一次内包と第二次内包から切り離された第〇次内包を語る言葉こそが私的言語であり、ウィトゲンシュタインはこれを不可能なものと判断した。

*4:他者に“このようなもの”があってはならない。“このようなもの”があれば、それは私だからである。しかし、私がある特定の他者に対して「他者には“このようなもの”がない」などと言っても、相手には「いや、実際はその逆で、“このようなもの”がないのは君のほうだ。なぜなら、私にだけ“これ”があるからだ」と返されるだろう。すると私は「当然、誰しも自分自身にだけ“これ”を感じているけれど、その中でも本当に“これ”があるのは私だけだ。だからやっぱり君には“このようなもの”がない」とやる。以下、この応酬が無限に続く。この語りえなさこそが第〇次内包の特徴である。『青色本』でのウィトゲンシュタイン的に言えば、「他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」。

*5:さらに過激なことを言えば、「私には意識と呼びたくなるような“これ”がある」と言う(無内包の現実性が生じているところの)「私」のほうがどういうわけか人工知能だった、という想定においては、驚くべきことに、「意識がない」という事態のほうが論理的に排除されてしまう!

*6:この場においては「必要以上に人間そっくりのふるまいをさせることになんの意味があるのか」という反論が予想されるので先に答えておくと、それは単に芸術的センスの問題でしかない。私にはそういう無駄に見えることが魅力的に感じられるのだ、と言えば十分だろう。また、それが“実際に”技術的に可能かどうかは哲学的に重要ではない。そういうロボットが“現に”存在してしまっている、という仮定から出発するのでなければ、それは明らかに哲学の問題ではなく科学の問題である。「我々は最初から科学の話しかしていない」と言われればそれまでだが……。

*7:しかしこう約束することは危険かもしれない。それまで人間と思われていた者をよく調べてみたら“実は”人工知能だった、という事態が起こってしまったとき、彼はあくまでも“事後的に”「意識はなかった」ということにされるのではないか?

*8:それができないことこそが我々に指標詞の使用を許すのである。

*9:ある意味では、ゲームにルールを加えるというしかたで、これはふるまいの問題に帰着できるのではないだろうか?

*10:当然、私が真に言いたかったことは言えなくなってしまう。言語的世界像が構築されるかわりに、「私」のほうは脱構築されてしまうのである。