対話空間_失われた他者を求めて

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ネタバレを避ける者とそれに無頓着な者との相違について

 

 先の読書会において、作品のネタバレの話題が盛り上がった。ネタバレというのはネットで主に使われ、現在では日常でも使用されはじめた俗語であるが、物語のとりわけ核心的な筋を、これから観たり読んだりしようとしている者が何らかのきっかけで知るという事態をさす。一例を挙げれば、ある映画の結末でヒロインが死ぬことになっていて、そのことを週末にでも観ようかと楽しみに計画していた者が何気なくネットをみていたところ偶然知ってしまったというような状況である。特にネットではこのようなネタバレを避けるために、ネタバレの情報が含まれている場合は、「以下、ネタバレ注意」などと喚起されている場合が多く、これはネタバレを嫌がる者の多いことを物語っている。

 

 ネタバレについて、わたしたちの立場はふたつに分かれた。ひとつはネタバレを極力避けたいという立場であり、もうひとつは別段されても構わないという立場である。わたしは後者の立場にあった。わたしはネタバレを意図的に避けたり、また偶然それを見聞きしてくやしがったりするということはない。また、そのような人たちの気持にあまり共感することもない。

 

 このネタバレに対する態度の相違は、作品鑑賞の態度の相違をある程度反映しているように思われる。

 

 ネタバレを避けたがる者というのは、筋そのものを面白がっている。何が起きるのか分からないという未知の楽しみを覚えているようである。これは全く同様であるというわけではないけれど、日常生活における態度と通ずるところがある。というのは、日常生活においてもわれわれは何が起きるのか分からない未来のある目的をめざして生きているからである。この意味においては、ネタバレを避ける者は、日常生活と同様の態度で作品を鑑賞しているということができる。彼らの鑑賞の姿勢は、時間的に前のめりな、未来志向型なのである。しかしこれらのことについてはもう少し説明しなければまるで理解していただけないであろう。

 

 日常生活において、わたしたちはおよそたいていの場合、未来のある目的を志向して生きている。そしてそのとき、無限の豊かな「今」というものは見捨てられているのである。たとえば、ある取引先との商談を成功させようとしているとき、意識は商談の成功という未来の目的にほとんど釘づけになっていて、「今」そのもの、たとえばちょっとした身振りであったり、周囲の環境であったり、ということは見捨てられている。「鹿を追うものは山を見ず」という故事があるけれど、鹿という目的を追求し、それをつつみこんでいる山という「今」、世界の正に本来的な現場が忘れられているのが日常のわたしたちの意識のありかたなのである。

 

 ネタバレを避けたがる者は、そうではない者に比べて、作品を、日常生活のような目的志向の姿勢で鑑賞し、それを面白がる傾きにあるのではないだろうか。

 

 一方、ネタバレを気にしない者の作品の鑑賞態度は、ネタバレを避けたがる者よりも、今あるがままの世界に意識を向けるという傾向にあるように思われる。彼らは、日常の「鹿を追うものは山を見ず」という態度ではなく、「鹿を追いつつ山を見ている」態度で作品に向かい合うのである。ポーズは目的を追求するという形をとるけれど、その意識はというと、日常とは違い、目的に向けられているのではなく、周囲をとりかこむ世界、「今」という現場に向けられているのである。こんなふうに鑑賞することによって、読者、あるいは視聴者は、作品の「今」まさに開けてくる世界を追体験しているのである。

 

 芸術と日常生活を較べたとき、それはともに目的を目指すという同様の形をとるのだけれど、日常生活においては、意識はほどんどもっぱら来たる目的に釘づけされているのに対し、作品鑑賞においてはそれは免除されていて、「今」という世界が生成する現場を実体験するというところに決定的な相違が存する。日常生活において、わたしたちは生きるため、商談を成功させる必要に迫られているけれど、作品の世界ではそれは仮のポーズであって、その目的を達成する必要は免除されているのである。そして、商談を成功させるという目的が免除されているかわりに、商談を成功させようとしている「今」という現場、すなわち日常生活では目的を追求するために見捨てられることになる世界(山)を実体験し、その無限に豊かな世界(山)を再確認しているのである。

 

 けだし、ネタバレを避けたがる者と、それに無頓着な者との立場を分かつのは、この作品世界の「今」を重視する鑑賞態度と無関係ではないだろう。

 

 けれども、このふたつの異なる立場は、本当はそう簡単に割り切れるものではないのは勿論である。ネタバレを気にならないと述べたこのわたしも、実のところ筋に全く無頓着というわけではなく、それを多少なり面白がる気持が存在している。また筋は「今」という、日常で見捨てられる豊饒な世界の見え方に直接関係しているのだから、これをどうでもいいものと無下に扱うのは不当であるようにも思われる。しかし、わたしに深い感銘を与えるものは鹿を追うこと自体ではなく、それをつつみこむ周囲の山である。忙しない日常生活で見落とされる無限に充実した「今」という世界の現場である。

 

 あっという間に消費され忘れ去られるおびただしい数の作品の一方で、時代の審判を通過し、永遠の生命を得るきわめて少数の作品がある。前者と後者を分かつものは一体何であるか? わたしは、それは決して筋の面白さではないように思う。(とはいえ、それが完全に無関係であるとも思わないが。)それは、日常生活では見捨てられる「今」であり、「山」であり、本来的に生きられた豊富な世界を見事に開示させるものではないだろうか。

 

 一般的に言って、筋がただ面白いだけの作品というのは、発表された当初は熱い歓迎を受けるけれど、飽きられるのも早く、それというのも世界の内容に乏しいからなのだが、それに対し、豊かな「今」を開示させる作品というのは、幾たびもの鑑賞に耐え、時代を超えて遺ってゆくという傾向をもっている。いや、耐えるという表現は適当ではなく、そのような作品というのは、筋をあらかじめ知って鑑賞することによって、かえって目的の束縛、鹿を追う目的を免除されることになるのだから、複数回の鑑賞によって、かえって周囲の山、充実した世界を体験する余裕を得ることになり、噛めば噛むほど味がでるスルメのように鑑賞の味わいも深くなるという性質をもつ。

 

 思うに、大抵の者というのは、作品の筋を重要視して追っているようである。わたしはその態度を悪く言おうとしているのではない。先ほども述べたように、その気持はわたしにも存在している。そしてまた、筋を重要視しているかのような言動をとる者とて、実はそれ以上のものに多少なり感銘を受けているのである。二元論が大抵そうであるように、ネタバレを避ける者と無頓着な者という立場をふたつに分けることに、本当は多少の無理が存在するのである。

 

 しかし、わたしを動かすのは周囲の豊かなる山であって、決して鹿を追うことそれ自体ではないという実感だけは、ちょっとここで述べておきたかった。

 

 

 

 

<筆者 murata>

 

 

参考文献

『演技する精神』山崎正和