対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

ぼくらはみんな生きてる。生きているから歌うんだ。

読書会の発端について

 このブログは、昨春に立ち上げられた読書会の参加者複数人によって運営されています。僕はその会の発起人のひとりです。発起人のひとりと述べたのは、この会は、もっぱら誰かひとりの意志によって立ち上げられたというわけではなく、三人の相互作用によって発足されたからです。その経緯は以下の通りです。
 僕と、僕の高校の後輩(K君)と、彼の父親(Kさん)の三人は、大阪京橋の串カツ屋で飲食していました。その会話のなかで、父Kさんがメルロー=ポンティの『知覚の現象学』を僕と息子K君に推薦しました。どんな会話の流れでそうなったのかは記憶が確かではありませんが、僕とK君は創作に関わる者として、主に芸術論的な観点から、山崎正和氏の『演技する精神』(中公文庫))という論文を当時、それぞれに読んで、非常に打たれていました。その論文もまた、父Kさんの推薦図書だったのです。ですから、おおかた、『演技する精神』の次なる推薦図書として、『知覚の現象学』の名が挙がったのではなかったでしょうか。
 後日、大学の図書館に足を運んだ折、『知覚の現象学』を探し、手に取って少し読んでみました。そしてそれが非常に難解かつ浩瀚な書であることが知れました。これを読むのは大骨折りだと思い、その時は本棚に戻しました。
 そしてまた次にK君と二人で会った際に、そのことを話しました。読むことを諦めたわけではなかったので、何気なくその場の思いつきで、分からない箇所は互いに教えあいながら、一緒に読んでいかないかと僕は彼に口任せの提案をしました。そんなことをそれまで真面目に考えていたわけではありません。その時は話だけで終わりました。
 しかしまた後日K君に会った際、彼が強く先日の僕の提案に乗ってくれたのでした。それなら彼の父Kさん、さらには関心を持ちそうな者をも誘い、毎月どこかに集まって、ひとつ本格的に読書会を開こうじゃないかという運びになりました。
 このような経緯で、去年の春、メルロー=ポンティ『知覚の現象学』を読む会が発足したのでした。それから、今年の7月までの一年以上にわたって、僕らはこれを読解し、全体のおよそ半分の第一部を読み終えたところでひとまずこの『知覚の現象学』の読解にひと区切りつけることにしました。そして、ハイデガーの『存在と時間』を次なる会の課題図書に選定し、今夏より同様に読み進めていく予定をしています。



 さて、先にmurakamiさんが『知覚の現象学』に関する記事(『知覚の現象学と無の存在論』)、それから史章さんが『「からだことば」と知覚の現象学』を掲載されました。これには所以があるのです。というのは、先の読書会において決めたことなのですが、折角一年以上にわたり四苦八苦読み解いてきたわけなのだから、大学のレポート課題ではないけれど、何かしら読んだ形を残すのが有益だろうということで、これに関わる記事をメンバーがそれぞれに執筆し、それをこのブログに掲載しようという運びとなったためです。ですからこの記事以降も、『知覚の現象学』に関わる記事がいくつか掲載されることになると思います。


本記事の意図

 前置きが長くなりましたが、本題に入ります。この記事はメルロー=ポンティ著『知覚の現象学』を通読する過程で学び、得たものの要諦を、哲学書や思想書にあまり馴染みのない者にも伝わるように、できる限り専門的な用語を使用しないで著述したものです。
 しかし、その内容は『知覚の現象学』を逸脱して、むしろ彼の晩年の著作『見えるものと見えないもの』で展開された存在論、あるいは廣末渉氏、山崎正和氏、木村敏氏等の論考を僕なりに咀嚼したものになっています。
 尚、この記事には歌『手のひらを太陽に』の歌詞から引いてきた『ぼくらはみんな生きている。生きているから歌うんだ。』というタイトルがつけられています。これは勿論僕のユーモアであります。けれどもそれは全く無意味なおちゃらけではありません。というのは、僕なりに解釈したメルロー=ポンティの考えの要諦は、抽象的な哲学的理屈より以前に、原初的には、僕たちがさまざまな意味において「生きている」という、その事実を切り捨てなかった、捨象しなかったというところにあると思うからです。このタイトルに込められた意味も論が進展するに従って次第に承知されてゆくはずです。


身体の両犠牲

 まず、メルロー=ポンティの鍵概念である、「身体」というものについて著述したいと思います。
 常識的な観点から述べてみましょう。ペンは物体です。本は物体です。机は物体です。僕らは、物体とは、空間をある形で占有している存在と意識しています。では、自己の身体(他者の身体についてはひとまず措いておくこととして)は物体でしょうか? これも、ペンや本と同じく、空間に存在するものとして、物体であると言うことができるでしょう。
 しかし、この自己の身体というものは、ペンが物体であるというのと完全に同じ意味において僕たちに意識されているのでしょうか? 自己の身体という存在は、ペンや机と全く同じ仕方で存在しているのでしょうか? 僕たちの経験を顧みれば明らかに分かるように、それは否です。身体は、確かにペンや机と同様に、物体として空間を占めて存在しています。けれども、自己の身体は、他の物体と違い、明らかにある特異な性質を有して僕等に意識されています。その特異性とは以下のようなものです。
 たとえば、右手で左手首を握ってみるとします。右手と左手首は、言うまでもなく共に身体です。このとき握られた左手首と、握る右手にはある差異が認められないでしょうか? 左手首は、握られた身体です。この時、左手首は、ペンが握られるように右手に握られています。一方で右手はどうでしょうか。この時、右手は、ペンや左手首のように、行為の対象物として、客観的事物として意識されているわけではありません。明らかにこの時右手は、客観的対象物ではなく、むしろそれに向かう主体として、能動的なものとして意識されています。
 この例からもわかるように、自己の身体とは、ペンや机とは違い、主体的なあり方をもしていると言うことができます。この意味で、自己の身体と他の客観的事物との決定的な相違・特異性ということが納得されると思います。メルロー=ポンティは、この身体の特異性に注目しました。身体は、客体として、また主体として、両義的なありかたをしているのです。



身体の拡大

 先ほども述べたように、常識的な意味での身体とは、皮膚面で区切られた客観的な物体としての身体です。そして、メルロー=ポンティに言わせれば、身体というものは、両義的なありかたをしているのでした。彼はさらに、この両義的な身体というものが皮膚面をこえて拡大しうることを主張します。
 たとえば、彼に言わせると、盲人の杖は彼の身体の一部です。長年の杖の使用で、盲人は敏感に周囲の物を知覚できるようになっています。こうなれば盲人にとって、彼の手足と杖との相違は、理性的判断を働かせ前の反省以前的場面においては、ないとメルロー=ポンティは主張します。
 さらに例を挙げると、自動車の運転手にとっての自動車も彼のいうところの身体ということになります。医者にとっての聴診器、近視者にとっての眼鏡なども彼の身体の概念に該当します。
 ここでおそらく次のような反論が予想されます。たとえば盲人の例でいうと、杖と彼の常識的な意味の身体は別物である、なぜなら、前者と後者は物質の成分に明白な相違があるから、と。確かに、前者は木などから作られたものであり、後者はDNAをもった細胞の構成物です。その意味では、確かにこの反論には一理があります。
 また、あるいはこのようにも反論されるでしょう。すなわち、杖や自動車、聴診器といった道具的なものは肉体から自由に引きつけたり切り離したりすることができるという意味で、明らかに身体とは別ものである、と。
 しかし、このふたつの反論にみられる区別は、反省後に得られた知見であることに留意しなくてはなりません。メルロー=ポンティが身体というものを捉える意識場面は、知解した反省後の場面ではないのです。彼が盲人の杖等を身体と捉えるのは、反省以前の認識の原初的な場面においてなのです。反省後の知見としてはもちろん、彼といえども盲人の杖と常識的な意味での物体としての身体を区別するでしょう。そうではなく、彼は原初的、第一次的な場面においては、杖は身体の拡張であり、その相違がなくなっているという事実を記述したのです。
 そんな原初的な意識、反省以前の意識などというものを考えることに何の意味があるのかと首をかしげる者もあるでしょう。というのは、考えられた後の理解は、考えられる前の認識よりもより正しいもの、真実に近づいたものだという考えがあるからです。真理に関していえば、反省以前的な不確かな認識に対する、理性的反省後の理解の優位性を常識は信じています。しかし、だからといって、その原初的意識の場面を考えないままでいれば、ついにその場面があったことをすっかり忘却してしまい、ついに全く転倒した考えに至る仕儀となってしまうのです。そして、とりわけこの転倒した錯誤にすっかりのみこまれてしまっているのが理性的発展をとげた僕たちの時代です。
 ひとはややもすれば、原初的、反省以前的な意識を忘却し、理性で得られた知見をあらかじめそれ自体で絶対的に存立していたものだと錯誤するようになってしまいます。この倒錯した考え自体は、おそらく人類が生まれた頃からあったはずです。
たとえば、神と呼ばれる超越者も、この転倒した考えによって生み出されたものでしょう。神と呼ばれる存在は、人間が世界との交流の場において成立したものです。しかし、人々はそのことを忘却し、これを私たちの経験に先だって(ア・プリオリに)成立していた絶対者だと見なしてしまいました。
 近代においても、この原初的意識の忘却による錯誤は継続しているばかりか、より強固になっているようです。たとえば、絶対的な空間や時間といったものがそうでしょう。絶対的な空間や時間というものも、反省以前的な世界との交流の経験を土台にし、理性的な反省を働かせることによって成立したものです。それなのに人はこれをついにあらかじめ絶対的に存在していたものであるとみなします。
 これには疑問を呈する方もおられるでしょう。というのは、絶対的な空間や時間があったからこそ我々がそれを発見したのだ、と言うことが出来るからです。けれども、その考えは虚心坦懐に反省以前的な原経験を忠実に記述したものではないのです。僕は、神や、あるいは客観的時空間が存在しないと述べているわけではありません。(またそれらが存在しないとも主張するわけでもありません。)それが一次的には世界との交流の場において成立したということを主張したいのです。虚心に世界との交流の場をみつめたとき、神や絶対的時空間のような客観的事物を経験に先立って絶対的に存在していたとみなすのは、そう思えるだけで、経験に忠実な記述ではありません。
 また、この倒錯した考えはたとえば後に述べるような他者理解のような様々な難問(アポリア)を解決されないままにします。解決を見いだせないのは、先ほどから述べている客観的事物の絶対性を誤って信仰していることに由来しているのです。このパラダイム(ものの見方)そのものを転換すること、すなわち、原初的世界を生きることにおいて客観と呼ばれる事物が成立したという事実を思い出さなくてはなりません。



身体は世界全体にまで拡大しうる

 さて、脱線しましたが、メルロー=ポンティの使用する身体の概念の話に戻ります。この身体というものは、先に挙げた杖のような皮膚に付随する道具的な物だけでなく、世界全体にまで拡大しうるものです。
 このことは『知覚の現象学』の内容を越え、メルロー=ポンティの遺稿『見えるものと見えないもの』、ないしは廣末渉氏『世界の共同主観的存在構造』をはじめとする著作で展開されている内容になります。
 われわれは反省以前の原初的な場面においては、知覚するもの(主体)でもあり知覚されるもの(対象)でもある両義的な身体というものを見いだしました。そして、その両義的な身体は杖や自動車のような道具的なものにまで拡大しうることをも確認しました。その身体が世界全体にまで拡大・伸長しうることをここで確認したいと思います。
 また例を挙げてみましょう。指に小さなトゲが刺さってチクチク痛んでいるとします。このとき、トゲは一般的な意味で身体のよって知覚されるもの(客観的事物)であり、指は一般的な意味での身体、知覚する当のものです。そのこと自体は否定されるものではありません。しかし、それは反省した後の理性的な判断としてはそのように峻別されるということです。では、反省以前の場面において、トゲと指はどのように我々に知覚されているでしょうか? 経験を忠実に眺めるならば、そのような原基的場面においては、「知覚する指」と「知覚されるトゲ」などというふたつの存在に分断されているわけでなく、「指にささっているトゲ」というひとつの状態として我々はそれを知覚しているはずです。この原初的場面においては、トゲと指とが、知覚するものであり、また知覚されるものという区別がついていない、渾然一体のもの、すなわち「知覚するもの=知覚されるもの」として両義的なひとつの指とトゲという形態が成立しています。このとき、トゲはメルロー=ポンティの使用する意味での身体に含まれることになります。
 このことを認めていただけるならば、物理的に皮膚から離れた物であっても、身体となり得ることが納得されると思います。
 たとえば、リンゴが目の前にあるとしましょう。このとき、常識的な考え方、理性を働かせた判断では、リンゴは知覚されるものであり、我々は身体、今は特に視覚でもってそれを知覚しているということになります。では、トゲの例と同様、反省以前の場面をみてみましょう。この場面では、我々は、「知覚されるリンゴ」と「知覚する一般的な意味の身体(目)」というふたつの物が区別されていません。「リンゴを身体で見ている」という、リンゴと一般的な意味の身体が渾然一体となったひとつの形態があるのみです。この時「リンゴの光→眼球→視神経→中枢を含む視覚の体系」というひとつ形態を成しているのです。原初的場面においては、「リンゴの光→眼球→視神経→中枢を含む視覚の体系」という認知は、その過程のどこかで分断されて成立しているわけではありません。この場面では、やはり、リンゴと一般的な意味での身体は、「知覚するもの=知覚されるもの」という未分化のひとつの状態で我々に現象しています。ですから、このときリンゴもやはりメルロー=ポンティの意味での身体に拡張されたものだと言うことができるのです。
 このように考えると、メルロー=ポンティの意味での身体というものは、世界のどこまでもアメーバのように拡大・伸長しうることが納得されるかと思います。
 これまでのところを要約すると、メルロー=ポンティの身体とは、決して反省後に見出された皮膚面で閉じられた客観的な系ではなく、知覚するものと知覚されるものの区別がない両義的な身体であり、それは世界のどこまででも拡大しうるオープンシステムだということです。



メルロー=ポンティの身体はリズム・振動系を形成している

 しかし、身体の概念をこんなに拡張することに違和感を覚えずにはいられません。常識的な意味の身体とは、皮膚面で閉じられた物体としての身体ですから、リンゴまで拡大された自己の身体というのはやはり妙な違和感を払拭できません。この混乱を避けるためには、あるいは別の用語を使用した方がいいのかもしれません。
 実際、私の知る限り、山崎正和氏は、メルロー=ポンティの身体を、リズムという言葉に置き換えています。なぜリズムなのかというと、山崎正和氏は、メルロー=ポンティの身体というものが、その両義性に加えて、振動系を形成していることに着目したからです。廣末渉氏もメルロー=ポンティが身体と呼んだ世界との原初的なオープンシステムを振動系として説明しています。

 廣松氏は生理的側面と心理的側面からそのことを例を挙げて説明します。まずは生理的側面からです。

 耳(聴覚器官)の刺激受容機構を思ってみるがよい。耳の内部機構は、なるほど、かつて一昔前に考えられていたような、単純な共鳴器ではない。空気(音波)の振動との共鳴振動がそのまま弾性振動のかたちで中枢にまで伝達されるわけではない。中枢への送達は電気パルスに変換したかたちでおこなわれる。とはいえ、刺激受容の直接的場面がどのような機制になっているのかを想い起こしていただきたい。有毛細胞が空気振動と共振する機制になっており、まさに受容装置と空気振動(音波)とが共振するのではなかったか。そして、この共振的な振動が、電気パルスという別種の振動に変換されてのことではあるが、ともかく、振動として中枢へ送達され、言うなれば中枢をも共振状態にもたらすのだということ、これは誰しもが承知している通りである。(廣松涉『表情』)


 それから次に、心理的側面について、身体が世界と共振的オープンシステムを形成していることの説明を引用します。

 発生論的にみて原初的・原基的な場面においては、表情感得・情動反応は殊に共振的引込現象の機制で共感的に成立するのではないか、と思う。
 顕著な表情的相貌・身振・態度は、例えば、ニコニコニコニコ、ワナワナワナワナ、ヒクヒクヒクヒク、ニヤニヤニヤニヤ、ピリピリピリピリ…というように、まさに振動的である。また、著しく情動的な発声は、例えば、キャキャキャキャ、ワッハハハハ、ウェーンウェーンウェーン…というように直接的に音写されるものばかりでなく、ガミガミガミ、ブツブツブツブツ、ブーブーブーブー、シクシクシクシク、…のようにリズム的に標記されるものも、振動的である。(同)


 廣末涉氏、山崎正和氏、メルロー=ポンティの共通点は、彼らが、皮膚面で区切られた自閉的な個体ではなく、生理的にも心理的にも世界へ開かれた個体を原初的場面において見出したということです。そして、メルロー=ポンティだけはそのことを強く主張しているわけではないようですが、その拡張された自己を世界の振動系と見なしていたということです。
 もちろん、我々は個々に、まさに世界を体験している特異な存在です。しかしその自己というものは、世界と、あるいは他者と断絶されて存立しているわけではありません。我々は世界という巨大な単一的な振動系の特異な一部分として生きているのです。我々は世界と共振していて、そのリズム構造の特異のパースペクティブが「わたし」という存在、すなわち常識的な意味の個体というわけです。
 発生論的には、我々は原初的に世界あるいは他者と孤立した存在ではなく、はじめから世界、他者と主にあるのです。重要な事実なので繰り返しますが、理性的な知解では、私は世界、他者とは断絶されたある別の存在のようにみなされますが(それが常識的理解です)、そもそも本源的に、我々は世界と単一の共振体ということです。それをメルロー=ポンティは身体という言葉で表現したのです。


ぼくらはみんな(で)生きている

 これを認めることは、自己と他者との通路の回復を見出すことに他なりません。
 常識は、我々の各々が分割された、閉じた系だとみなします。その個々の閉じた系(各個人)が集合して社会が作られているというわけです。
そしてまた、その分割された個人というものは、その肉体に精神が宿ったものだという想定がされています。すなわち、「私の肉体」と「私の精神」、「他者の肉体」と「他者の精神」という分割がなされています。そのような常識を前提として、我々は他者を理解する方法を、以下のように説明してしまいます。
 例えば、目の前で女が泣いているとします。彼女の精神が悲しみに沈んでいて、その悲しみの精神が、涙、赤い顔、嗚咽として彼女の肉体に表現されます。そして、その彼女の肉体の表現を、私は主に視覚や聴覚などによって肉体的に受信します。そして、私が肉体的に受信したシグナルが私の精神に作用し、私は彼女が悲しんでいることを理解する、というわけです。すなわち、

     彼女の精神→彼女の肉体→私の肉体→私の精神

 というプロセスで、私は彼女の悲しみを理解したというわけです。
 しかし、こんな説明は明らかに無理です。というのは、我々が実際に目の前で女が泣いているとして、彼女が悲しんでいることをいかにして知るかといえば、こんな間接的なプロセスを経ることなく、彼女の悲しみがそれ自体として直接に感じ取られているからです。ですから、先に示した常識的に信じられている他者理解の説明は、所詮現場を忘れた机上の空論ということ以上の意味をもちえません。
 彼女の悲しみは、直接に感じ取られています。その時何が起きているかというと、私と彼女が悲しみの共振動を起こしているのです。その共振は「彼女の悲しみ」とか「私の悲しみ」というふうに人称が区別された共振ではなく、「彼女の悲しみでもあり私の悲しみでもある」という単一の、非人称的な共振です。その共振を、私というパースペクティブで私は体験しているというわけです。
 もちろん、彼女の悲しみであって、私の悲しみではないということは私は理性のはたらきによってすぐに知解することができます。そして、この理性的判断、すなわち彼女の悲しみと私の悲しみを区別すること自体にもちろん私もその正当性を認めないわけではありません。しかし、それはあくまで反省後に知られた区別であることを忘却すべきではないのです。
 自己意識というものは、まず世界の巨大な単一振動系を基礎として成立したものです。もちろん、私はその巨大な単一振動系の特異な一部であるという特権はもっています。しかし、その私とは決して自閉したものでなく、世界あるいは他者へと開かれてある私なのです。
 自己意識がこの巨大な単一振動系、拡張・伸長した身体を基礎としているという事実は、我々の体験からもその正当性を確認することができます。
 例えば、幼児が自己意識を獲得する過程を見ればどうでしょうか。幼児は、はじめから自己意識というものを所有しているわけではなく、はじめ、生理的にも心理的にも世界の巨大な振動系のなかに成立し、そして成長の過程で自己意識というものを獲得します。
 それから、睡眠や死の例も我々の主張を正当化します。眠っている時、我々の自己意識はほとんど消滅しますが、それにも関わらず、心臓はドキドキと振動しています。すなわち、世界との共振は保たれているのです。また人が死に至る過程では、まず自己意識が消滅し、それからのちに身体運動が終息します。
 これらの例からも分かるように、我々は孤立した私ではなく、巨大な世界の単一振動系のなかの私であり、自己意識とか他者意識とかいう区別は、この経験の後の判断です。
 私ははじめから泣いている彼女と共に世界の振動系の一部なのであって、それを前提として私の意識とか彼女の意識とかいうものが成立するのです。
 以上の考えを認めて頂けるなら、他者理解の問題は、解決されるというよりもむしろ解消されることになります。なぜなら、そもそもはじめからわたしは他者と共にあるからです。はじめから共にある他者との関係のうえに自己意識とか他者意識とかいったものが成立するからです。他者理解の問題を考える際に前提されていた常識、すなわち孤立した島のようにそれぞれ断絶された自己意識と他者意識という考えは、そもそも我々が共にあることをまって成立したものであるゆえに、転倒しているのです。

 社会が個人の集合体であるという考えは、理性的判断としては正当で決して否定されるものではありません。しかし、その判断は、世界の巨大な振動系として、みんなつながったわたしたちというありかたが基礎にあります。ぼくらは、本源的には、みんなで生きているのです。



生きているから歌うんだ

 以前kubo君が「人工知能は意識をもつか」という記事をここに掲載しましたが、その前後の読書会で、機械と我々人間の相違ということは話題にあがっていたことです。
 デカルトは「我思うゆえに我あり」と述べました。これはすなわち、「私の思惟」というものをビッグバンの一点のようにすべての出発点とする立場です。しかしメルロー=ポンティの立場では、私は、私が思うよりも以前に、身体をもって世界を生きているという事実を認めるのです。(その身体は、ビッグバンの一点ではなくのようなものではありません。)彼は「我能うゆえに我あり」という表現をしています。彼は、身体でもって世界を生きているという事実を出発点とする立場を採るのです。『知覚の現象学』の一貫したテーマは「生命(life)」ということではないでしょうか。機械と人間の相違という問題も、そんな所以で話題にのぼったものでした。
 この記事の最後に、機械・ロボット・あるいは人工知能といったものと人間との相違について、愚見を申し述べておきましょう。
 僕は、本記事で、世界という巨大な単一振動系のなかの人間というものを説明しました。思うに、機械であっても人間あるいは生命体と同様に、振動・リズム構造を有していることに相違はないでしょう。しかし思うに、機械の振動・リズム構造というものは、人間、あるいは生命体のそれとは違って、ほとんど完全に凝固しています。工場の機械などは端的な例でしょう。人間、あるいは生命体にとっての振動・リズムというのは、はからずも彼ら自身がそれを生み出し、あるいはそれを消失させていくものです。機械やロボット、あるいは人工知能といったものは、決してそれら自身が世界との新たな振動・リズムを創造したり、また消失させたりすることはありません。
 それは一体何故であるか? 機械やロボット、人工知能といったものは、ほとんど直線型の単純な因果律に縛られています。しかし人間・あるいは生命体といったものはその単純な直線型の因果律を破って、天気予報のように確実な予測が不可能なカオス力学的なふるまいをします。このカオス的なありかたが、新たな振動・リズムを生み出し、また失うという人間・あるいは生命体のありかたと相即しているのではないでしょうか。
 振動・リズムの創造と消失、僕は人間と機械との相違に、この機制を挙げたいと思います。
 生きない機械は決してそれ自身が歌い出し、新たなリズムを創造することはないけれど、生きるぼくらは歌い出します。歌はぼくら生命体の特権なのです。


<筆者 murata>



主な参考文献
メルロー=ポンティ『知覚の現象学
同『見えるものと見えないもの』
廣松涉『世界の共同主観的存在構造』
同『表情』
山崎正和『演技する精神』
木村敏『関係としての自己』