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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

電子書籍の物足りなさについて

 

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電子書籍端末を購入した>

 先日、初めて電子書籍専用リーダーを購入した。Amazon社が提供するkindleである。

 それまで僕は幾度か大型書店で並べられている電子書籍端末を、何気なく見たり触れたりしたことがあった。それからまた、眠れない寝床で、青空文庫スマートフォンで読んだことも幾たびかあった。そんなわけで、僕にとって電子書籍端末は全く購入を意識しない代物というわけではなかった。ただ安い物ではないようだし、買っても使わなければ甲斐がないということで、購入するところまでは至らなかったのである。

 しかし、いつものようにネットサイトを無為に徘徊していた折、ある会員は特典で通常よりも3000円も安値であるおよそ4000円でそれを購入できるという広告がふと目に止まった。そして僕はその会員なのであった。僕はにわかに欲しくなった。それから数日の間逡巡したが、特典の有効期限が切れる日も迫っており、ものは試しにという気持で注文してみたのだった。

 数日後、手元にそれが届いた。初期設定をし、森鴎外の訳したゲーテ作『ファウスト』を入れ、頭から読んでいった。

 

kindleの名状しがたい物足りなさ>

 当初は物珍しさから、あまり気にならなかった、というよりも、飽き易い性格なので、欠点があってもしばらくは見ないようにして、その欠点に慣れさせようとする意識が働いていたのだろうが、ふとどうしてもどこか名状しがたい物足りなさを否定できないようになった。その名状しがたい物足りなさは、青空文庫スマートフォンやPCで読んだ時に抱いたものと同一のものであった。僕は電子書籍端末を購入する以前から、この物足りなさが、たとえ電子書籍専用リーダーであっても払拭されえないのではないかという懸念を抱いていた。そして事実は案の定だったのである。

 電子書籍ではなく、紙の本で読んだらどんな相違が感じられるのだろうかと、比較の為に、家に所有する全く同一の、紙の鴎外訳『ファウスト』を手に取り、同一の箇所を読んでみた。そうすると、生き生きとした広大なファウストの世界が、より強く豊かに迫ってくるのが実感されるのだった。同一の文字を読んでいるのにも関わらず、受ける印象に大きな相違がある。

 

<ものはある状況においてのみ認識しうる>

 この事実は「同一の文字」というものだけに着目し、他の一切の状況を捨象するならば、説明がつかない。全く同じ文字を読み取っているならば、そこに受け取られる印象の相違はないはずだからである。雑然と盛りつけられたある料理は、綺麗な皿に美しく盛りつけられた同一の料理と全く同じように美味いということになってしまう。しかし事実はそれが偽りであることを教えている。

 同一の文字を読みとる際の状況を考慮に入れるのなら、この事実は当然のものとして説明されることになる。そして僕たちの経験が教えてくれるように、実際僕たちがある存在を認識する際、そこに置かれている状況から切り離し、それを全く純粋に認識することは、初めゲシュタルト心理学がいみじくも指摘した通り、原理的に不可能なのである。

 恋い焦がれほとんど死ぬかと思われるほどの苦悩をかつて与えたあの女は、もはや僕を苦しめない。家の窓から見えるあの山は、雨の日は陰鬱に沈んでいるし、晴れの日は爽やかに青空に映えている。コンサート会場で聴く生の演奏は、家で幾度も聴いたあの同じ曲とは明白に異なった真実感でこころに迫ってくる。幼少期に遊んだ公園の滑り台は今、異なった表情で僕に語りかけてくる。

 ある物理的、歴史的、文化的、心的、性的状況等において、僕たちはある物を認識している。完全に純粋な客観的認識は僕たちにはアプリオリに不可能である。

 

 

<この物足りなさは何であるか> 

 kindleで読んだ際、僕にある物足りなさを感じさせたのは、表示されている文字を取り巻く周辺の状況であり、それが紙の書籍に比して第一狭く、第二に貧弱な為である。

 

kindleは狭い>

 第一の狭さに関して述べると、紙の書籍は見開き2ページが視界に入るが、kindleは半分の1ページしか入らない。しかしより重大な狭さは、この視覚的な狭さではない。紙の書籍は印刷されたすべてのページを物理的に持つ。はじめから終わりまで、作品世界全体をいつも手に所有しているのだ。

 ある文学作品の世界に没入している時、僕たちは、それは微弱にしか意識されないことだが、作品全体のリズムを把握し、その全体のリズムに乗って現在の場面を鑑賞している。それがkindleの読書においては物理的に、全く不可能でないにしろ、困難なのである。kindleでも現在表示されているページが全体の何パーセントにあたるのかということは数字によって表示されている。それでもそこを見ないかぎりそれは把握されることがないのだし、のみならず、デジタル時計とアナログ時計を見た際の相違を振り返ってもらえば分かるように、デジタル数字による量的認識は訴えてくる力が弱いものである。(デジタル時計が予想外に普及せず、今でもアナログ時計が主流を占めているのは、直感に訴えかけてくる力の弱さが一因となっているのではあるまいか。※1)

 紙の書籍では、読む際には実際に手に触れ、その重みを感じ、ページをめくり、物的な書籍が全的に視界に収まっているのだから、その全体性は明確に意識されなくとも、いつも背後に感じられているのである。kindleの文字を取り巻く状況の狭さとは、この全的把握の困難の謂いである。kindleは作品を狭く閉じ込めている。

 

 

kindleは貧弱である>

 第二に、状況の貧弱というものについてである。全体のリズムというファクターを除去できるような場合においても、電子書籍端末に表示されている文字が訴えかけてくる力は貧弱である。例えば、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句が電子書籍に写されている場合を想像してみよ。そしてそれを紙の書籍に書かれた場合と比してみよ。前者の直感に訴えかけてくる力の小なりと後者の大なりをそこに見出すだろう。その理由は、おそらく詩の描く自然の豊かな情緒が、それとは調和しないこの近代的な機械によって損なわれている為に相違ない。kindleは豊かな詩精神が描かれた絵を見栄え損なわせる額縁である。

 

 つまるところ、kindleそのものが芸術作品の鑑賞において、ある物足りなさを僕に与えていたのであった。雨が山をもの悲しくさせたように、kindleはテキストを弱くする。

 

<芸術作品鑑賞以外の用途> 

 試していないが、詩や小説でなく、評論や論文、エッセーの類ならば、あるいは支障なく読めるかもしれない。同じ端末であるパソコンやスマートフォンで、これらのものを読んでも別段苦情はないからだ。けれども、それらのものでも、もし紙の書籍が格別高価格でなく手に入るのならば、そちらを選択するだろう。なぜならkindleでは、僕はいつもそうしているのだが、線を引き、書き込むことが不可能な為である。そしてまた、評論やエッセーといえども、そこには幾ばくかの詩が含まれている為である。詩は上に挙げた理由から紙で鑑賞したい。

 

 結局、届いたkindleはわずか数日の間弄ばれた末、飽きられた玩具のように、今押入の闇に保管されてある。

 

<筆者murata>

 

 

※1 『時間と自己』(木村敏)に詳しい