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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

いじめの問題を考える

いじめの問題の変遷

 いじめという事象は昔からあった。おそらく人類の出現以来、世界のどこにでもあったのではないかと思う。しかしそれが社会問題として注目されるようになったのは、1980年代以後である。1985年にはいじめ自殺が相次ぎ、その年だけで14件もいじめで自殺したという。とりわけマスコミの注目をあびたのが、1986年に起きた中学二年生の鹿川裕文君の葬式ごっことして有名になったいじめであり、「このままじゃ生き地獄」と遺書を残して自殺した。それまでには自殺にまで追い込まれるいじめはほとんどなかったため、遺書を残して自殺したということが強い衝撃を与えた。その前までは、「いじめは昔からどこにでもあるものであり、大人などが口うるさく干渉しない方が良い」という見方の方が多かったと思うが、これを機に「いじめは人間としてあってはならないことであり、人間として許すことのできないことだ」といった受け止め方へと流れが変わっていった。その後いじめによる自殺は減少していったが、1994年の大河内清輝君の自殺を機に再びいじめの問題が社会問題としてクローズアップされた。この時もやはり遺書を残しており全文が新聞紙上でも掲載された。当時の文部省(現在の文部科学省)は、この事件を契機に「いじめはいずれの学校でも起こりうる現象である」という観点のもとに、学校の中でいじめられる側の保護や心のケアーを強調し、スクールカウンセラー制度の充実を図り、「いじめは絶対に許されない」という自覚を促す指導の徹底を学校現場に要求した。しかし2000年代に入ってもいじめ事件は後を絶たず、近くでは2011年に大津市立中学校の二年生の男子がいじめを苦に飛び降り自殺をするという「大津いじめ事件」が起こった。学校と市の教育委員会がいじめの事実を隠蔽したため、外部の有識者からなる異例の第三者調査委員会を立ち上げ、そこでの調査で隠蔽された事実が明らかになっていった。そこでは学校や教育委員会の組織の問題が注目されるようになった。

 いじめの問題の変遷に伴い、文部科学省(以下文科省とする)のいじめの定義の基準も変わっていった。最初の基準では、「いじめとは、自分より弱いものに対して一方的に身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされていたが、2006年に変更された新基準では「いじめとは、当該児童生徒が、一定の人間関係のあるものから、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより精神的な苦痛を感じているもの」とされることになった。この新基準にもとづいて、各学校でいじめの件数の調査が頻繁に行われるようになった。私も担任を持っていたころ、自分のクラスのいじめの件数を調べるのに一体どこまでをいじめと認定したらよいか当惑したことをよく覚えている。また新・旧どちらの基準にも「いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと」という指示が含まれている。文科省のこの基準の問題については、後でもっと詳しく論じたい。

いじめの心理

 いじめの現象を理解するためには、単なる個人心理学的な視点だけでは不十分である。いじめる―いじめられるという関係は一対一の関係はほとんどなく、ほとんどが一対多の関係であるため、社会心理学的な視点での検討が不可欠である。また今ではインターネットやライン上でのいじめが頻発しているが、これはお互い顔も知らずいじめる方も匿名である場合も多く、この場合は従来のいじめとは違った視点で見ていく必要があるだろう。

 顔見知りの集団内でいじめが生じる場合、その集団内で維持している規範や暗黙の合意から外れた行動をとったものがいじめられることが多いように思う。昔の軍隊でのいじめの多くがこのような形でのいじめではないかと思う。また現在でも学校の運動クラブで生じるいじめはこのような形のものだと思う。尤も今の若者の集団内では明確な規範や合意がない場合の方が多いと思うが、それでもその場の空気のような暗黙の合意に近いものがあり、その空気から外れた者がいじめの対象になりやすいと思う。規範とは違って空気は流動的ではっきりしないため、いじめの対象も恣意的なものになりやすいだろう。また、自分の仲間から一人をいじめの対象にすることは、いわゆるスケープゴート説で言っているように、いじめられる者を除外した仲間集団を、一人をいじめることで同調させ、一時的に安定化させる役割も果たしていると思う。その場その場の不安定な空気のようなものに同調しようとする今の若者は、それだけ一層安定化装置としてスケープゴートが必要なのかもしれない。

 このようにいじめには、集団的な力学が働くが、その集団の中の個人の心理を覗くと、そこには特に「いじめたくなるような心理」を持ちやすい者と「いじめを受けやすくさせるような心理」を持ちやすい者がいると思う。私はいじめの現象を理解し、いじめに関する指導を行うためには、こうした心理も検討する必要があると思う。以下にこうした心理について、主に精神分析理論を参考にして述べてみたいと思う。あくまで私が主題にしたいのは、いじめられた者が自殺したり、いじめる者が法規範を犯したりするような激しいいじめではなく、昔からある日常生活の場でのちょっとした軽いいじめについてである。ただしそうした軽いいじめであっても、仲裁者や外部からの介入がなければ、歯止めが効かなくなり段々とエスカレートをして自殺にまで発展することもあると思っている。最初にあげている事例は社会問題にまでエスカレートしていったいじめの事例である。

(1)いじめる子の心理

<事例>

 これは鹿川君がいじめで自殺したころに起こった事件である。大阪府のある公立中学校の二年生のクラスでお昼の給食のお茶の中に農薬を入れて、お茶を飲んだ多くの生徒が救急車で病院に運ばれた。幸い死者は出なかったが農薬を使って不特定多数の命を狙った事例として新聞でも大きく報道された。当初はその背景にいじめの問題がからんでいることは分からなかったが、殺人未遂事件として警察が学校に入り捜査した結果、背後にいじめの問題があることが分かった。当時はマスコミでいじめの問題として大きく取り上げられることはなかったが、その10年後に私は当時の校長から個人的に詳しく話を伺った。給食のときお茶に農薬を入れた犯人はその同じクラスの生徒の一人であり、警察の取り調べでその犯行動機を「自分がクラスの者からいじめられており、死にたいと思った。どうせ死ぬならそのクラスの者を道連れにしようと思って農薬を入れた」と話したという。クラスの中の誰がいじめたのかについては、学校で教師が調べても分からず、結局警察からの情報で、クラスで三名の生徒がいじめにかかわっていたことが分かった。三名とも真面目で成績もよく生徒会やクラブでも活躍している、教師にとって模範的な生徒であったという。それを聞いた時、担任を含めてその生徒を知っている教師は全く予想外でびっくりしたという。その三人の生徒は学校の勧めで外部でカウンセリングを受けることになり、それを担当していたカウンセラーにも私は直接話を聞いた。そのカウンセラーによると、「その三名の生徒は小学校時代三名とも長期間いじめられてきた。中学校に入ってこれ以上いじめられたくないと、クラブや勉強を頑張ってきたが、同じクラスの生徒の一人を見て自分の昔を見ているようでなぜかいじめたくなってきた」といった話をしたという。

 

 私自身も高校で相談係や担任としていじめの事象にたびたび関わってきて感じてきたことは、上記の事例のように今のいじめっ子は昔のいじめられっ子か親や兄弟から不当に叱られたり攻撃されたりしている者が多いということだ。そうした者がなぜある特定の生徒をいじめたくなるのか。そこには精神分析学でいう投影(投射ともいうが、精神分析学では投影と訳されることが多い)とか投影同一視の機制が働いていると思う。投影とは簡単に言うと「自己の心の一部を外界の容器に投げ入れること」である。その場合自分の心の中で受け入れ難いような内容が最も投影されやすくなる。そのほとんどは無意識下で行われる。例えば自分がある人に憎しみを持っている場合、そんな自分が受け入れ難いものであればそれを相手の方に投影しやすくなる。そのため自分が相手を憎んでいるとは感じなくなる。投影同一視とは、そのように投影した相手に対して交流することである。上の例で言えば、本当は自分が相手のことを憎んでいるのに、逆に相手が自分を憎んでいるように感じ、「お前がこちらのことを嫌っているので話したくても話ができない」などと言い訳したりする。

 いじめっ子は、かつていじめられたようなつらい受け入れ難い自分の心の一部をいじめられっ子となる相手の方に投影しやすい。そしてそうした相手を見て、放っておけないような気持ちになったり、なぜかじっとしていられないようなイライラした気持ちになって、その相手をいじりたくなる。更にはいじめっ子の立場に立ってその相手を、かつて自分がされたようにいじめてしまうということが起こりやすくなるのだと思う。だからこそかつてのいじめられっ子がいじめっ子になりやすいのだと思う。

(2)いじめられる子の心理

<事例>

 彼は高校に入学して早々にテニス部に入部した。テニス部の部員からしばしばいじめを受けた。そのことを顧問が発見し、担任と顧問の徹底した指導により彼に対するいじめ行為はなくなったが、なぜかその後彼は不登校になった。彼の母から担任に電話がかかり、「うちの子は中学の頃もいじめられ続けたが元気に学校へ行っていた。高校に入って学校が指導することでいじめられなくなったのが不登校の原因だ。かえって学校は余計なことをしてくれた」という。後日その担任が相談係の私に「じゃあ自分は担任としてどうすれば良かったのか」と話してきた。

 

 私はいじめられる子の心理をしばしば「道化の心理」と同じように考えてきた。私の言う「道化の心理」とは、「自分の中の心や身体の弱さ、醜さなど受け入れ難い内容を、投影するのではなく自ら人前にさらけ出し、皆と一緒に笑いものにし笑い飛ばす心理」のことである。そのため自分の身体の一部の欠陥をわざと誇張して見せたり、わざとへまをして周りの笑いを取り自分も一緒に笑い飛ばそうとしたりする。喜劇役者や漫才師が自分を売り出すためによく使っているのは誰でも分かると思う。彼等でなくても時として日常生活の中で笑いを買うためにわざとドジなことをすることはよくあると思う。「道化の心理」とは、一方では笑い飛ばす周囲の皆に自分を同一化させ、もう一方のみじめな受け入れ難い自分を笑い飛ばすことだと言える。

 いじめられる子の場合も、最初は自分の弱さや間抜けさを友達の前でわざとさらけ出し皆の笑いを買い、自分も一緒に笑い情緒的に一体化することで友達関係を作っている面がある。上の事例で紹介した生徒も中学時代いじめられることで友達関係を維持していたのだと思う。いじめの初期、いじめる子がいじめられる子に授業中わざと変なことを言わせたりするのも、いじめられる子の道化の心理を利用したものと言えるだろう。仲間づくりに道化の心理を演じやすいタイプは、いじめる子の投影の受け皿になりやすくなる。そのためこうしたタイプの子は別の場所に行ってもいじめられ役を引き受けやすくなるだろう。プロレスごっこでいじめられる子がみじめな負け役を演じるのも道化の心理が働いており、プロレスごっこをしている当人達も最初は楽しく遊んでいるつもりであることが多いと思う。まして周りから見れば、いじめではなく楽しく遊んでいるように見えるだろう。しかしそれは本当は遊びではなくいじめである場合が多い。遊びといじめをどこで分けるかは重要な問題であり、それについては後で述べることにする。遊びと思っているこのいじめの初期の状態が反復されるにつれていじめられる子の負担が大きくなり、自分のみじめさばかりが蓄積して、やがて自殺にまで追い込まれていく場合もあるのではないか。

 ここで述べてきたのは、いじめの個人心理学的視点にもとづいたものであるが、いじめ問題に取り組んできた私の経験から言うと、こうした視点はそこで何が起こっているかを理解する上で欠かせない重要な視点の一つだと思っている。

いじめの問題にどう向き合うか

 最初に述べたようにいじめの事象は昔からあった。それが日本で社会的問題としてクローズアップされるようになってきたのは、いじめられた子が自殺にまで追い込まれていくところにあると思う。なぜ1980年代に入ってからいじめられる子の自殺が増えていったのか。その重要な要因として、現代のいじめの場合小さないじめの段階で歯止めがかけられずそのためエスカレートし、いじめられた子が増々孤立し追い込まれていくというところがあると思う。いじめの研究でよく知られる森田洋司氏は「いじめ集団の四層構造モデル」を提唱している。四層構造というのは、いじめ集団を「被害者・加害者・観衆・傍観者」と区別したものである。観衆というのは、「いじめに直接加わらないがそれを積極的に見ている者」、傍観者は「消極的で無関心を装っている者」と言ってよいだろう。森田氏によると、観衆がいじめを煽り立てるのではなく、傍観者も含めて仲裁者としていじめにブレーキをかけることでいじめがエスカレートする前に歯止めがかけられていくと言う。いじめを抑止するのはいじめ集団の中の仲裁者と共に外部の大人(学校であれば教師)からの働きかけも必要となる。仲裁者が増えいじめ集団への外部からの働きかけが可能となるためには、どのような組織を構築する必要があるかという問題は、これからのいじめ問題を考えるための重要な視点だと思う。またインターネットやライン上でのいじめの問題を理解しそれを抑止するためには、今まで述べた視点とは違った新たな視点が必要であり新たな組織や制度を構築する必要があるだろう。しかしここではこのような問題には触れず、今までマスコミや有識者文科省がいじめの問題について提言してきた事項の中で私が疑問に思っていることを批判しながら、私の考えを述べていきたい。

(1)いじめの加害者にどう対処するか

 いじめ問題の変遷のところで述べたように当時の文部省は、1980年代いじめ自殺が相次いで発生したことを機に、「いじめは人間としてあってはならないことであり、許されないことである。」といった主張をし、1994年の大河内君の自殺の後では「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない。いじめの問題についてはまず誰よりもいじめる側が悪いのだという認識に立ち、毅然とした態度で臨むことが必要である」といった更に強い姿勢を打ち出した。その姿勢は現在の文科省まで一貫して継続している。そうした文科省の提言を受けて多くの学校ではいじめの事象が発覚した場合、まずいじめられる子の保護といじめる子に対しては「いじめは絶対に許されないこと」として強い態度で指導するという対応が行われてきたと思う。確かにいじめがエスカレートして深刻な事態に陥っている場合はこうした対応が必要となる。しかしそこまでエスカレートしていない初期の状態では、もっと違った対応が必要なのではないか。私の印象ではいじめの問題を考える時、自殺にまで追い込まれるような社会問題化されたいじめ事象をいじめ一般に拡張しすぎているような気がする。日常生活の中のちょっとしたいじめにどうアプローチするのかを考えるためには、もっと違った視点が必要だと思う。

 いじめ事象が発覚した場合、状況をある程度把握した上でそれが深刻な状態にまでなっていないのであれば私はまず可能な限りいじめの加害者の方に関わることにしている。それは「いじめは悪い、いじめは絶対に許されない」と指導するためではなく、いじめている相手に対して「どんな時いじめたくなるのか」そのいじめたくなる気持ちを聞くためである。「いじめは駄目だ」と言うためではなく、いじめたくなる気持ちを(相談係としてだけでなく担任の立場や生徒指導部長の立場であっても)共感的に聞くことにしている。勿論それはいじめを容認するためではない。例えば死にたいと言っている人に対してまず死にたくなっているその気持ちを相手の立場に立って聞くではないか。それと同じことだと思う。いじめたくなる気持ちを聞く時いじめの心理のところで私が述べたように、いじめの加害者もまた抑圧された受け入れ難い重荷を背負っている一人の弱い立場の人間として聞くようにしている。いじめの加害者の方が教師に対して心を開いて、いじめたいという自分の気持ちを語るようになると、状況はしばしば大きく変化しいじめがほとんど見られなくなることさえある。勿論そのためには教師と生徒との間に信頼関係がなければ難しいと思う。その教師に対して不信感があれば心を開いて語ろうとはしないであろう。いじめたくなる気持ちを語るとき、いじめの加害者が自分の中にある受け入れ難い自分の心に触れることで、かえっていじめたくなる気持ちから解放されていくのではないだろうか。いじめの加害者へのこうした関わりは、おそらく多くの教師が行っているのではないか。そしてこうした関わりを通してはっきり自覚しないままに、日常の小さないじめをめぐる生徒のトラブルが解消されているのではないだろうか。

(2)いじめの根絶ということ

 「いじめは悪だ、いじめる者は許されない」という観点を強調し過ぎると、いじめの加害者へのこうした関わりが難しくなってくる。いじめ問題をめぐってよく「いじめの根絶」という表現が使われる。私は日常の中の小さないじめは、人と人とが親密に関わっていく中では自然に生じるものだと思う。「ヤマアラシのジレンマ」という寓話を知っている方も多いと思う。元々哲学者のショーペンハウアーが作った寓話を、更にフロイトが心理学の中で取り上げて有名になったものだ。簡単に言うと、「二匹のヤマアラシが寒い小屋の中で体を暖めようとして近づくと、お互いの棘で傷つくため離れる。離れると寒いのでまた近づく。この近づいたり離れたりを繰り返すうちにお互いに傷つけ合うことなく暖めあう適切な距離を見出した。」という話である。この寓話で私が注目したいのは、この適切な距離を見出すまでは、二匹のヤマアラシはお互いの棘で傷つけたり傷ついたりを何回も繰り返さなければならないという点だ。「いじめは絶対に許さない、いじめを根絶しよう」ということは、ヤマアラシのジレンマに喩えると「自分の棘で相手を傷つけることは絶対あってはならないことだ」と言っているのに等しいと思う。これではヤマアラシは自分の棘で相手を傷つけるのを恐れて近づけなくなるではないか。人と人とが親密に関わろうとすれば、どうしても相手を傷つけたり相手から傷つけられたりすることは避けられないと思う。そこには小さないじめのような事象がいくらでも生じると思う。しかしそのようにして傷つけたり傷つけられたりすることで、相手の痛みが身にしみて分かるようになるのではないか。「人を傷つけるのは悪いことだ」といくら言葉で言って聞かせてもそれを経験しないと分からないと思う。お互いに傷ついたり傷つけられたりする中でこそ人間として成熟していくのだと思う。特に幼稚園や小学校のころは一緒に遊ぶ中で小さないじめはいくらでも生じ、傷ついたり傷つけられたりすることが頻繁に起こりうるが、そうした経験を通して適切な関わり方が身についていくのだと思う。そうした子供の集団に対して、幼稚園や小学校の先生が「いじめは許されないことだ。いじめがあったら大変だ」と神経質に介入することが増えれば、人間関係を適切に築く力を奪うことになるだろう。勿論自殺にまで追い込まれるようなエスカレートしたいじめは何としてでも防がなければならない。しかしそこで最も問題にすべきことは、「いじめの関係の中で子供たちの間で自浄作用が働かず、いじめがエスカレートしていくような現代の子供の人間関係の在り方」や「外部から介入していじめを抑止できない、あるいはいじめの事象そのものに気付かない組織の在り方」ではないか。このことは前にあげた森田氏の「いじめの四層構造」の中でも述べられていることだ。検討しなければならない本質的問題はそこにあると思う。しかしそれを、「いじめは悪だ、許されない。いじめは根絶しなければならない」ととらえるのは、明らかに論理の飛躍であり、こうした深刻ないじめの問題の本質を見失ってしまうことになると思う。「いじめを根絶しよう」という人間の観方、世界との関わり方に私はどこか不気味さを感じている。

(3)遊びといじめの違い

 既に述べたようにいじめの初期の段階では、周りから見るとふざけて遊んでいるのかいじめなのか、よく分からないことが多い。またいじめの加害者のほとんどが、いじめているという感覚が余りなく単に遊んでいると思っている者が多いように思う。いじめられる者も初期には遊んでいると思っている場合がある。このことについて私は時々生徒に、「テレビのトーク番組などで、ある特定のタレントが皆からいたずらされたり馬鹿にされたりしていじめられているように見えることがある。あれはいじめにあたるかどうか」と聞いてみることがある。生徒の中には、それもいじめだと答える者が多い。そこで私は生徒に、「タレントがテレビの出演時間帯に全体の合意の上でいじめもどきのショーをして見せるのであれば、それはいじめとは言えない。ところが楽屋裏でも同じことをくり広げるのであれば、それは明らかにいじめだ」と答えることにしている。かくれんぼや鬼ごっこ、特にかごめかごめの遊びには、ふんだんにいじめ的な要素があると思う。しかしそれが遊びでありいじめではないのは「特定の時間と場所で一定のルールを確認し、お互いが合意して行っている」からだ。その場合鬼ごっこを例にとると、鬼の役割はルールにもとづいて交代しなければならず、ルールを無視して特定の一人だけが鬼の役割に固定されると遊びではなくいじめの領域に入ってくるだろう。役割交代する中でいじめる側の気持ちやいじめられる側の気持ちも自然に経験することが出来るわけだが、こうした遊びの減少がいじめをエスカレートさせる要因の一つになっているのかもしれない。またプロレスごっこの場合であれば、特定の場所と時間において悪役や正義の味方役ややられ役といった役割を決め一定のルールのもとに役割交代して行うのであれば遊びである。しかしプロレスごっこではそうしたルールを決めるのが難しく、体力的に劣っているものがやられ役として固定されやすくなり、場所や時間も限定されずどこでも行われやすくなるため、すぐにいじめに発展しやすい。いくらプロレスごっこをしている当人たちが楽しく遊んでいると言っても、それは遊びではなくいじめであり、教師は指導する必要がある。私は遊びといじめの違いについて生徒にこうした話を何度かしたことがあるが大部分の生徒は話の内容が理解できるように思う。

文部科学省のいじめの定義の変更について

 これについては「いじめの問題の変遷」のところで述べておいた。ここではこのいじめの定義をめぐって私が疑問に感じていることを二点検討したい。

(1)いじめの事象の認定について

 文科省のいじめの基準には新・旧ともに「いじめられた児童生徒の立場に立って行うこととする」という項目がある。これはいじめかどうかを認定する場合、いじめられた生徒の立場で行うこと、つまりその生徒が自分はいじめを受けたと主張すれば、いじめの加害者がそうではないと主張してもいじめと認定することを意味している。このような考え方は現在増々強くなっているように思う。基本的な姿勢としては、いじめられた生徒の立場、つまり弱い方の立場に立って話を聞いていくというのが大切だと思うが、そうした面だけを強調していじめの事象を認定するのも問題だと思う。と言うのも、いじめの被害者の方が情緒的に不安定で対人関係に過敏になり被害者意識が強い場合、例えば友達どうしで談笑しているのにそれを自分の方に引き付けて、自分が友達から笑われたり馬鹿にされたりしているように感じることがあるからである。被害妄想までいかなくても、こうした感じ方をする者は少なくないように思う。私自身学校で相談係として何度もそのような相談を受けており、その中にはいじめ問題にまで発展しかねないようなケースもあった。そうした生徒が「私は誰それにいじめられている」と訴えてきた場合、その生徒の立場に立ちつつ、第三者として中立的な状況把握も必要であろう。最近「痴漢冤罪」ということが時々言われる。これは痴漢されたという女性の立場にばかり立ち客観的な状況把握を怠っていることから生じる場合が多いと思う。いじめ事象の認定に関する文科省の論調が強調されると「痴漢冤罪」以上に「いじめの冤罪」が増えるのではないかと心配している。

(2)いじめの基準の変更について

 文科省のいじめの基準の変更のポイントは、いじめを定義するのに旧基準が「一方的に身体的・心理的な攻撃を継続的に加え……」としているのに対して、新基準の方は「一定の人間関係のあるものから心理的、物理的な攻撃を受けたことにより……」としている点にある。おそらく旧基準ではいじめの事象を限定し過ぎているので、いじめを見逃すことのないようにもっと注意を細かく向けるべきだと考えて基準を変えたのであろう。しかし私は新基準ではかえっていじめの特徴がぼやけてしまい、少し乱暴な言動であってもそれを受けた者が傷つきいじめられたと感じれば、いじめになってしまうのではないかと心配する。人間関係にはいろいろなトラブルが起こって互いに傷つけ合うことは避けられないが、それをいじめと認定し「いじめは悪であり許されない」と考えていたら人との関わりができなくなるではないか。このことについては「いじめの問題にどう向き合うか」のところで詳しく書いたのでここでは繰り返さない。ただ以下のことをひとこと言っておきたい。新基準を作っていじめに細かく注意を払うように促しても消耗するだけであり何の効果もないと思う。こうした基準にもとづいていじめのアンケートを真面目にしようとすれば、現場の教師の仕事の負担が増えて精神的に疲れるだけだと思う。そんなことより教師が生徒と関わる時間をもっと大切にして欲しい。

<筆者 史章>