対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

わかりにくさの陥穽

今、読書会ではメルロ=ポンティの『知覚の現象学』を読んでいます。この記事は私の現時点での、『知覚の現象学』の大まかな見通しです。やや挑発的な文章になってしまいましたが、これを機に本書について議論が深まれば幸いです。

 

『知覚の現象学』は「難解」であると言われる。この言葉で、私は『知覚の現象学』の性質を一つ挙げたつもりになっている。しかし、難解な性質とはどういうことだろうか?二つの可能性を考えてみよう。

第一の可能性:「難解である」ということは簡単に理解できる。

現象としての知覚は複雑であり、それを探究しようとする試みも試行錯誤の連続となる。手元にある選択肢は、知覚の複雑さに敢えて踏み込むか、難解さを拒否するかわりに知覚の探究を放棄するか、どちらかである。しかしこの場合、「難解」にはある含意がある。それは、試行錯誤の努力を繰り返すことによって、複雑なものを複雑なものなりに説明し理解することができるという含意である。そうでなければ、簡単にみてとれる難解さに敢えて踏み込むのは徒労であろう。

私は「難解」と「複雑」を同じ意味のように使ってしまったが、正確には、「複雑であり、それゆえ努力を要する」といったことを「難解」という言葉で表現したかったのである。

しかし読者は、『知覚の現象学』の「難解さ」そのものが、なかなか簡単にはわからないことが、わかってくるのではないだろうか。私が気がついたのは次の点である。

原注を見ればわかる通り『知覚の現象学』は多くの心理学の先行研究に依拠している。文中でよく例に挙げられるのはシュナイダーの症例だが、これも、ゲルプとゴールドシュタインの一症例研究を取り上げていると言った方が正しい。もし、「シュナイダーの別の研究によれば、以下の事例は観察されなかったようだ」などと言っても、『知覚の現象学』の論旨に大きく影響するかは疑問である。

先行研究に依拠して総論的に心理学全体を論評することが、誤りだとは言わない。しかし私たちは、歴史的な試行錯誤の過程を「上空飛行的」に見下ろしていないか、注意するべきである。例えば「疾病の意味の分析は、とどのつまり、象徴機能に立ち至るのであるが、そうだとすると、あらゆる疾病を同一視し、失語症、失行症、失認症を一様化する結果とな」る、という部分の注では、ケーラー、コフカというゲシュタルト学派、それに影響を与えたフッサール、それを批判したフィンクの、おそらく同一時期に発表されたわけではないであろう著作が典拠として挙げられ、具体的な個人ではなく「ゲシュタルト学説」が、先入見を「理解していない」価値ある記述を「忘れてしまう」という擬人的な表現によって批判される。

このような混乱(カテゴリー錯誤)が見られる原因の一つは、サルトルベルクソン、カント、デカルトといった哲学者の著作にも並行して言及が行われるところによると考えられる。哲学者の言葉は、人間そのものについて語る以上、具体的な一つ一つの研究内容よりも、研究の方針や目標と親和性が高い。そこで、研究を積み上げていく過程では表面化しないような問題を、哲学用語によって一絡げに扱うことも可能となるのである。

上述の傾向を最もよく表しているのが、緒論「古典的偏見と現象への復帰」である。そこでは、古典的先入見の代表として、経験主義と主知主義の二つが挙げられ、両者とも知覚的意識に直接踏み込むことに失敗していると述べられている。ということは、経験主義的あるいは主知主義的には、知覚という現象はある程度わかりやすく記述されているのだろう。研究の方針や目標の問題を持ちこむことで、メルロ=ポンティはむしろ議論を難解な方向に誘導していると言える。そこで、

第二の可能性:そもそも、いったい何がわからないのかもよくわからない。

例えばメルロ=ポンティが、難解さそのものに読者を直面させようと思い、一貫性ある記述を断念し、言葉をいくつもの意味で使い、問いえない問いを問い、答えなきところに答えを探し求めようとしているとしたらどうだろうか。そのような書き方をされれば当然、犯人のいない推理小説の犯人を見つけることができないように、私たちは立ち止まる。

『知覚の現象学』が知覚そのものについて扱おうとしたなら、診察した患者や自分自身の経験に基づくか、他の研究者のデータを信頼性を評価したうえで利用するかするであろう。そのような研究はおそらく臨床的な心理学研究で無数に存在するのだが、メルロ=ポンティが論じたいのはむしろ「知覚」という研究テーマについて、あるいは「知覚」を説明しようとする研究の伝統についてである。『知覚の現象学』は、「たしかに膨大な研究があるが、そのような研究はそもそも知覚についてどのように考えており、私たちはその研究から何を知りたいと思っているのか、両者の間にすれ違いはないのか、あるとすれば、それはどのような研究態度や研究方法に由来するのだろうか」と問うているように思われる。意地悪な読者は、きっとこう質問するだろう。

しかし、メルロ=ポンティ、あなたは態度や方法に拘泥するあまり、具体的な知覚の問題からかえって遠ざかってはいませんか。あなたは知覚に興味があるのか、それとも意見のすれ違いに興味があるのか、どちらですか。

ここで、今までの議論を振り返るために、私は言語習得のアナロジーを用いたい。

聞いたことのない言語を話す人々は「難解」である。一度聞いただけでは、それがランダムな雑音とは違うのか、そこに秩序があるのかを判断することはできないだろう。しかし、この音の連なりは言語であり、そこには秩序があり、人びとの発話が体系立てられている「かもしれない」と考えることはできる。このとき、その人は第二の可能性ではなく、第一の可能性を選んだのである。

それでは、この世界はどうだろうか。あたかも神々が、人智の及ばぬ知性によってこの世界を語り合い、私たちはその対話の中にあって(当然、私たちも神々の対話の内容の一部なのだが)思いがけず神々の意図を知るという、『省察』のデカルトのような物語は確かに魅力的である。しかし、私たちがいくらそれに熱狂したとしても、それ自体に根拠があるわけではない。

もちろん自然科学は、さかのぼれば古代ギリシア天文学以来、この世界が説明でき、理解できることの証拠を積み上げてきた。神の意図の存在を証明するには程遠くても、この世界が(洗練された言語によって)説明できるということに、私たちは納得する。私たちはやはり、どちらとも判断できないならばまずは第一の可能性を選ぶべきであり、それが成功につながることを経験的に知っている。

私は『知覚の現象学』についても、その難解さ(と膨大さ)に直面した時、ためらいなく第一の可能性を選んだ。この本の難解さは知覚の難解さに由来するのだから、この本を読み進めることによって、少しでも知覚という現象を理解することに努めよう。ところがその期待が揺らぎ、ついに私は第二の可能性へと手を伸ばした。私はこの裏切られた期待をもって『知覚の現象学』への非難に代えようとした。

しかし、第二の可能性は原理的に排除できるのだろうか。なるほど、私たちはこの世界を理解できるという知的な期待の中で生活している。しかし、「知覚」という身近でありふれた概念が、実はそもそも一体何がわからないのかさえよくわかっていないとしたらどうだろうか。

おそらくメルロ=ポンティは、私のようなへそ曲がりの読者に向かってこう答えるだろう。なるほど、『知覚の現象学』が「知覚」について、一義的に答えることもそれを与える問いを立てることにさえも失敗している。どこまで意図的かは別として、そのことは認めてもいいでしょう。しかし、そもそもあなたはこの世界が必ず理解できるものであると、なぜためらいなく信じることができるのですか?

<murakami>