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対話空間_失われた他者を求めて

このブログは、思想・哲学に興味を持ち、読書会活動をしている者たちが運営しています。各々が自由に記事を投稿し、自由に対話をすることを目的としたブログです。どなたでも思いのままにご意見下さい。【読書会の参加者随時募集中。詳しくは募集記事をご覧ください】

「価値観は人それぞれ」という言葉について

 「価値観は人それぞれ」という言葉をよく耳にする。人それぞれに個性があり、様々な考え方があるのだから、それをお互いに尊重し合いましょう、というような意味で正論めいて使われることがある。確かに僕も、この言葉自体が間違っているとは思わない。だが、一方で形容し難い気味の悪さをも感じるのだ。というのも、この言葉は一見、価値観の多様性を重視するもののように思えるが、その実、人の価値観に冷淡で、逆に多様性を消し去り、個性をフラット化してしまうもののように思えてならないからだ。実際、Googleで「人それぞれ」と検索すると、この言葉に嫌悪感や問題意識を示しているブログやウェブサイトが結構見受けられる(勿論肯定的な意見の方が多いと思うが)。これは一体どういうことなのか。僕なりに少し突っ込んで考えてみたいと思う。

 まず僕が思うに、この「価値観は人それぞれ」という言葉は、価値のぶつかり合いを極端に避けようとする側面を持っている。「価値観の違いの尊重」は、多くの場合、「他人の価値観にあまり干渉すべきでない」、あるいは、「自分の価値観を強く主張すべきでない、それは他人の感性を否定したり、傷つけたりすることに繋がるからだ」などというように読み替えられているのが現状だろう。(ひどい場合には、自分が批判されるのを恐れて、「人それぞれ」という言葉を逃げ口上にしている輩も見受けられる。)だが、こういった考え方は、人との対話や議論を無効化してしまうという危険性を持っているのだ。「まあ価値観は人それぞれだから」と言ってしまえばもうそこまでで、互いに議論を闘わせることなど不可能になってしまうだろう。相手の意見をおかしいと思った時でも、その思いを表明するまでもなく、「人それぞれ」という言葉で片付けられてしまう。

 尤もこういう主張に対しては、「価値観は皆違うのだからわざわざ他人とぶつかり合っても仕方がないだろう、各々が自分の良いと思うものを自分で見出せばいいだけの話だろう」と言いたくなる人もいるかもしれない。確かに、この考えにはなかなか反論できない。一見正論のようにも思える。だが、「価値観」というものを改めて検討してゆけば、この考えはある種の欺瞞の上に立脚していることが次第に見えてくるであろう。

「私の価値観」の形成について

 「価値観は人それぞれ」という言葉によって、人とのぶつかり合いが忌避されるとき、自分の価値観は他者へ向かって投げかけられることはほとんどなくなり、個々人の「好み」へと還元され、自身の中で完結させねばならなくなる。ここでは、「価値観」というものを、それ自体で独立したものとして個々人が所有しているのだと暗黙に想定しているわけだが、果たして、このような自分自身の中で完結した価値などというものが、価値観たり得るだろうか。

 当然のことながら、私の価値観は、赤ん坊のころから予め私の中に宿っていたというわけではない。価値観は、私が生きていく中で徐々に形成され、やがて私のものとなっていったはずである。従って私の価値観は、私自身の「生きる」という行為に常に密着していなければならない。つまり、私は生きている中で、あるいは生きるためにこそ、何らかの価値を当てにしているのであり、私の生に英気を与えねばならないからこそ、価値観は私の「生きる」という行為によって意味付けされてゆかねばならない。そしてこの「生きる」ことと言えば、常に自分の身の周りの状況や慣習、文化、常識、あるいは他人の価値観など、自分の外部にある世界に巻き込まれていることであり、我々はそうした中で自分なりの価値観を形成してゆかなければならないのである。とすれば、私の価値観が私とともにあるというのが正しいとしても、その価値観は決して自分の内部だけで完結出来るわけはなく、むしろ私の外部からやってくるのでなければならない。だがそうかと言って、私の価値観は、単に私に外面的にくっつけられたものというわけではない。我々は、何らかの価値観を任意に選択して、それを自分自身に溶接するなどということはできない。尤も子供の頃は皆、恣意的に周囲の大人の価値観を取り込んでいるものだが、発達に応じて自我を形成しなければならなくなったとき、自分の取り込んだ価値観をもう一度「私の価値観」として改めて形成し直さねばならなくなる。こうして、私は自分の取り込んだ価値観と合体し、「私の価値観」を保持するに至るのである。

 以上のようにして形成された私の価値観は、周囲との関係にその端を発しているという事実によって、決して自分の中で完結することはない。しかも、一旦自分の価値観を形成したからと言って、そこで価値観は完全なものとなるわけではなく、私が生きている限り、常に周囲との関係にさらされ続けるわけだ。私は今を生きることによって、その状況の中で、絶えず私の保持する価値観を、改めて意味づけたり問い直したりする。こういった行為によってこそ、価値観は私の中で生き続けてゆけるのである。「価値観は人それぞれ」と言う言葉によって無視され、疎外されているのは、こういった「生きた価値観」の概念である。このことから目を背け、自分の中に価値観を閉じ込めてしまったら、もはや価値観は私の中で朽ち果ててしまい、私になにものをももたらさなくなり、単なる抽象的な観念に過ぎなくなってしまうだろう。

「私の個別性」と「価値観」について

 見てきたように、「価値観は人それぞれ」という言葉は、「価値」の概念を疎外するものである。だがこの言葉は、「価値」のみならず、同時に「個人」という概念をも疎外してしまうのだ。この言葉は一見個人を尊重するものに見えて、本当は「個人」の概念の上に胡坐をかいているに過ぎない。私が個人的であるためには、他者から独立した自身の個別性を獲得しなければならないわけだが、こういった私の個別性は私の中だけで自閉して作り出されるのではない。私が他者から完全に切り離され孤立してしまったら、もはや私は自分の個別性を持つ必要などなくなるだろう。真に人が個別的で多様な存在であるためには、個は他と関係づけられなければならない。個別性はこういった逆説の中に存在しているのであり、つまり私は他者に対して独立した自己を形成するために、かえって他者との関係を求めねばならず、他者のいる世界で他者とともに生きてゆかねばならないのだ。そして、「価値観」とはこういった矛盾の中を生きることによって生み出されてゆくものだというのは、今までの議論から十分に解ることだろう。価値観は個人の中に自閉してしまってはならず、他者へ向かって開かれてゆかねばならない。とすれば、価値観は個人によって作られるものではなく、他者と共同で編み上げてゆくものだということになるだろう。

 結局「価値観は人それぞれ」という言葉が含有する偏見は、価値をそれ自体で完結したものとして、個人というこれまた完結したものの上に立脚させているという点である。私という個人が既に出来上がっていて、そこにいくつかの価値を付与してゆくのであれば、確かに「人それぞれ」と言うだけで十分だ。だが、見てきたように、価値観も個人もそれ自体では完結出来ず、決して他者の存在から切り離すことが出来ないのであれば、どうして「人それぞれ」などという一言で済ませられよう。

「価値」と「価値観」、「普遍」と「個別」

 ところで、本文においては「価値」という言葉と、「価値観」という言葉に明確な区別をつけていなかった。そこで、Wikipediaで「価値」という言葉を調べてみるとこんなことが書いてあった。

 

価値(かち、value)とは、或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。(中略)何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。

 

 「価値」の細かい説明は置いておこう。「価値」と「価値観」の意味の違いに注目すると、「価値」とは普遍性を持った客観的なもの、「価値観」とは各々が持っている個別的で主観的なもの、というニュアンスで捉えられている。確かにこれは一般的な捉え方であろう。だが本当は両者を明確に線引きすることなど出来ない。「価値観」は個別の主観の中で構成されるのではなく、複数の主観が交流することによって、つまり、間主観的な相互作用によって構成されてゆくものだ。そして、このようにして構成された価値観が皆に定着し共同性を持ち出したとき、それは普遍性を帯びた「価値」となるのだ。価値観がこうした主観の相互作用によって生み出される以上、価値観はその生成の段階で既に、特定の個人の中だけに収まるものではなく、周囲に開かれたものたろうとし、すなわちそこには普遍性の萌芽、あるいは普遍をめざす意志が含まれているのでなければならない。勿論、人と対話すれば全てが分かり合え、完全に共同の価値観を持てるなどということはあり得ない。我々は人とぶつかり合った末に、結局決裂してしまうこともある。しかし、だからこそ「個別性」という概念がここで意味を持ってくるのであり、それは普遍性や共同性を求める行為と切り離すことが出来ないのだ。従って、「普遍」と「個別」とは、それ自体で存在している概念ではなく、両者とも他者と関係することによってのみ可能となる概念なのである。

 以上のような「価値」あるいは「価値観」の検討によって求められるのは、「普遍」と「個別」の弁証法である。我々は、個別的な価値観の中に普遍的な価値を求める運動を、逆に普遍的な価値が個々人の価値観として息づいている様子を見出さねばならない。普遍と個別、そのどちらに偏り過ぎても、価値(あるいは価値観)の概念は歪められてしまうことだろう。

日本の現状

 最後に日本の現状について少し述べておくことにしよう。一昔前、全共闘によって求められたものは、おそらく社会の在り方に対する行き過ぎた普遍的価値だったのだと思う。こういったものが失墜し、普遍性を求めることが馬鹿馬鹿しくなったとき、「価値観は人それぞれ」という言葉がリアリティを持ち出し、「普遍」から「個別」へ舵が切られていったのではないだろうか。そして「多様性」という言葉によって、普遍的価値はほとんど淘汰され、個人的価値観が重んじられるようになったのだろう。しかし、それによって生み出されたのは、皮肉にも、個人が個人の中に自閉し、他者との関係が希薄になっているという現状であろう。こうした事態の加速によって、多様性は希薄になり、価値観や個別性もその本来の意味を失いつつある。この行き詰まりの中にあって、我々は今一度、周囲へと開かれた真の意味での「価値観」を他者とともに編み上げ、その共同性の中から各々の個別性をも浮かび上がらせるという類の「多様性」を取り戻してゆかねばならない時期を迎えているように思う。

<筆者 kubo>