対話空間_失われた他者を求めて

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解離―現代を読み解くキーワード

 私はずっと大阪府の公立高校の教師をし、退職後現在は高校の非常勤講師をしている。退職するまでは高校で主に教育相談係を担当し、相談室で生徒を対象にカウンセリングをしてきた。(今は一般の人を対象に時々病院でカウンセリングをしている。)そのため、臨床心理学の学習会に参加したり、それに関する本を読みあさったりしてきた。また、催眠療法にも関心を持ち、30数年前催眠の研究会を立ち上げてその研究を続け、高校の教育相談にも活用してきた。その関係で心身問題にも関心を持ち、色々な哲学書も読んできた。今回は「解離」をテーマに最近私が思っていることを書いてみたいと思う。

解離とは何か

 まず精神医学で使われている解離という言葉の意味について簡単に紹介したい。私なりに理解している解離という意味を大ざっぱに言うと、解離とは、「自分で受け入れられないショックな体験や嫌な体験を、普段の自分の心から切り離すこと」だと思う。それは本来、自分の心を守るために生じる脳の働きだと言えよう。それでは切り離された体験の一部はどうなるのか。それは、普段の自分の心とは違った脳の別のチャンネルの中に、別のシステムとして保存されていると言ってよいと思う。その中には解離性健忘症(心因性の記憶喪失)や、最も重いものとして解離性同一性障害(俗に言う多重人格)などがある。解離性障害以外でもPTSDなどでトラウマ体験が解離されている場合も多いと思う。フラッシュバックとは解離されたトラウマが、何かのきっかけで普段の心の中に侵入してくることだと思う。また、解離された体験の断片が別々の人格を備えているかのように独立して活動する場合が多重人格ということになるだろう。私は教育相談の中で摂食障害(おもに過食症)やリストカットをする女子生徒の話を、今までに何度か聞いている。その中では過食・嘔吐やリストカットの最中に自分のやっていることをはっきりと記憶していない者が多い。それは、解離によってそうした行為をしている自分が普段の心とは切り離された別の非日常的モードに入っており(これを解離状態という)そこで行動しているのだと思う。

抑圧と解離

 20世紀の初めごろ、心の働きを解離の視点で捉え心理治療を行ったのはフランスの精神科医、ピエール・ジャネだと思う。一方同じ時代にフロイトが「自分にとって受け入れられない観念や感情は、心の底に抑圧されてそれが無意識を形成する」と考えて、無意識の働きに注目していった。当時はこのフロイトの理論が注目され広まっていったこともあって、ジャネの方はフロイトの陰に隠された形で注目されなかったが、社会の変化もあって、20世紀後半になると、ジャネの理論が一躍注目されるようになった。従来、フロイトの抑圧のしくみは、分裂(スプリティング)のしくみと対比して論じられてきたが、ここでは話がややこしくなるのでこの点については省略して話を進めたい。

 抑圧と解離との大きな違いは、抑圧が「自分にとって受け入れられない観念や感情を同じ一つの自分の心の奥底に抑え込んで無意識を作る」のに対して、解離は「それを自分の普段の心から切り離す」ことにある。そして、抑圧によって形成された無意識は症状などの象徴的な別の形をとってしか復帰できないのに対して、解離されたものは普段の意識からスイッチが切り換えられれば、なまの形で復帰するというところに違いがあると言えよう。

 2000年代の初めごろ、「切れる若者」という言葉が流行した。普段はおとなしい真面目な青少年が、何かのはずみで切れて殺人を犯すという事件が何件か起きている。この場合の切れるということは、解離するということ、つまり「おとなしくて真面目という普段の意識からスイッチが切り換わり、別の心のモードに入っている」ということだと思う。彼らが殺人を犯した後警察に逮捕された時に、彼らは普段の真面目な自分の方に戻っており、その時の自分の行動を取り乱すこともなく冷静に淡々と話したりする。それを聞いて、取り調べた人がその落差の大きさにびっくりしたという感想を述べているのを何回か聞いたことがある。これは、普段の自分に彼らが戻った時、解離状態で行動した自分について記憶はしていても、感情が抜け落ちて自分がしたという実感がなく、まるで別人がしていたのを見ているような感じになっているからだと思う。だから淡々と話が出来るのだと思う。このことがピンとこない方は、宴会の場で酔っ払って恥ずかしいことや失礼な言動をした人が、翌朝目覚めて自分の昨夜の言動を振り返っている場面を想像するとよい。記憶までなくしている場合は別だが、記憶があって自分の言動は覚えているのだが、今一つ自分がやったという実感がわかないため恥ずかしさや後悔の念が湧いてこないという経験をすることがあると思う。お酒に酔ったことのある人なら、この感じが分かると思う。お酒を飲まない方は、自分の身近な酔っ払った人を思い出してもらうとよい。これはお酒の化学作用のために、解離と同じ状態になっているのだと思う。世間では「酒の席の話だから」と大目に見ることが多いが、これは「お酒で解離状態となっている非日常的な出来事を、昼間の日常的な意識にまで持ち込まない」という暗黙の前提があるからだろう。切れて殺人を犯した人が自分を振り返る場合もこれと共通した部分があると思う。なお、解離状態の時の記憶がなくなるのは、多重人格や解離性健忘のような、どちらかというと重篤な場合であり、記憶があっても実感がわかずまるで夢を見ているような非現実感が生じるのは少し軽い解離だと考えてよいと思う。後に述べるように現代の特に若者の中には、更に軽い解離が広まっているように思う。

 切れるということでもう少しつけ加えると、昔から言われている「堪忍袋の緒が切れる」という表現がある。この場合は怒りの感情を堪忍袋の中に抑え込み、それが充満しすぎて、地下のマグマが噴き出して火山が噴火するように堪忍袋を突き破って爆発することだと思う。この場合、切れるのは普段の自分ではなく、あくまで自分の中の堪忍袋である。そこには普段の自分と切れた自分との間に同じ自分という連続性がある。だから堪忍袋の緒が切れて殺人を犯したという場合、興奮が鎮まらず、またその後で自分を振り返って後悔の気持ちも起こるのだと思う。これは解離ではなく、古典的な抑圧の理論に関連する現象だと思う。

自我同一性と解離

 自我同一性とは、精神分析家のエリクソンによって提唱された用語である。以下ここではそれをアイデンティティと表記することにする。アイデンティティとは簡単に言うと、「過去の自分もどこにいる自分も一つの自分として連続しており、社会的自分として人から見られる自分と自分で思っている自分も連続し、一貫した自分であること」ということだと思う。以前学校でカウンセリングをしていた女子生徒が私にこんなことを話した。「学校での友達グループで話している私と学校外での別の友達グループで話している私、また彼氏の前での私がバラバラであり、本当の自分が何だか分からない。グループが違うごとに、それぞれのグループが私に期待しているキャラやその場の空気に自分を合わせようとする。どれも本当の自分ではない感じがして自分が空しい」彼女はそうした空しさや淋しさのため、自殺を考えたり、過食・嘔吐やリストカットに走ったりしていたという。上記のエリクソンアイデンティティの問題に関係していると思う。エリクソンは青年期のアイデンティティの危機として「アイデンティティの拡散」とか「対抗同一性」などの概念を用いて説明している。エリクソンによれば同一性拡散とは「偽装した見せかけの役割や強制された役割に次々に同一化し、本当のアイデンティティが失われてゆくこと」としている。

 彼女の事例は、この同一性拡散という視点である程度理解される。しかし何かが少し違うようにも感じる。その違和感は彼女の言う「空気」や「キャラ」という言葉から感じられる。そこには社会的な規範とか役割は余りない。そもそもアイデンティティは、幼少期からの発達課題を達成しながら、徐々に成熟していくものだと考えられる。同一性拡散という状態は、それまでに一応アイデンティティが形成され、青年期になって社会的役割への同一化という新たな局面で揺らいでいる状態だと言える。一方で今の若者の多くは、アイデンティティそのものが幼少期からあまり形成されてこなかったのではないかと私は思っている。その意味でアイデンティティという言葉が死語になるくらい「アイデンティティの希薄さ」が問題になってくると思う。勿論これには社会そのものの変化があり、「アイデンティティの希薄さ」は若者に限らず大人も含めて現代人全体の問題だろう。その場その場の空気に何の葛藤もなく同調し、その場その場の与えられたキャラを演じる。これが現代人に特徴的な行動パターンではないだろうか。そしてこのことが、これから述べるように解離と関係している。

 解離とは本来、自分の心を守るためにトカゲが尻尾を切り離すように、耐えられないショックな体験を自分の心から切り離して自分を守るという面がある。ところが現代の若者には、それほど耐えられないショックなことがなくても、ちょっとしたことで簡単に解離する人たちが増えているように思う。そこには私の言う「アイデンティティの希薄さ」とでもいうような状況があるからだと思う。その場その場の空気に同調し、スイッチを切り換えて別のモードの自分に変わっていくことが出来るのはもともとアイデンティティが希薄だからだろう。だからこそ軽い解離が簡単に起きるのだと思う。今多重人格が日本でも増えていると言われているが、私は、多重人格とまでは言えないが軽い"多重人格もどき"の人が増えているように思う。「あいつ分からないなあ、一体どんな奴なんだ」とよく言われるが、今ならこう答えよう。「分からなくて当たり前だ。元々分かるような人格がない人だから。」

大きな物語の終焉と対話空間

 リオタールが「大きな物語の終焉」と呼びポストモダン社会の到来を告げたのは、もう40年程前になるだろう。確かにそれ以後日本でも、社会のポストモダン化が更に進み、映画やテレビでも大きな物語をテーマにした作品は少なくなり、人々はそれぞれ自分の小さな物語の中に自閉し、思想や芸術の分野でもそれぞれの好みの問題として相対化されていっているように感じられる。今やグローバル化する世界の中で小さな物語が乱立しているような状況だと思う。大きな物語と言えば古くはキリスト教、近代に入ってヘーゲル哲学、マルクス主義が代表的なものだと思う。今唯一力を持ちつつある大きな物語は、不勉強なのではっきりとは言えないが、イスラム国の「自分たち以外の人類を破壊し自分たちの王国を樹立しよう」といった物語かもしれない。(これはかつてのオウム真理教の物語でもあったと思う。)以前北海道大学の学生がイスラム国の戦闘員を志願していたということが話題になったが、私はこれからもこうした人達が日本の中で増えていくのではないかと心配している。それは小さな物語の中で自閉的に生きる自分の存在の空しさや、社会に受け入れられない不満から、イスラム国のような「破壊的な大きな物語」へ憧れ、渇望するのではないかと思うからである。

 小さな物語が乱立するのは、私が今までに述べたアイデンティティの希薄さと解離の問題に関係していると思う。その場その場でスイッチを切り換えて別のモードの自分に変わっていくのでは、物語は断片化せざるを得ない。その場その場の仲間内の空気に同調するだけでは、自分というものはなく、もはや小さな物語すら持てないのではないか。そこにあるのは偶然寄り集まった集団の断片的なおしゃべり、戯れ合いや癒し合いでしかないように思う。何となくモードの合ったあるいはモードを合わせたナルシスティックな鏡像関係の寄り集まりでしかないように思う。彼らは自分の存在の空しさから逃れるために、何でもよいから人とつながっていたいという思いに動かされて、ネットやメール、SNSなどに駆り立てられるのではないか。

 私はあらゆる心理療法はそのやり方は違っても、心理療法の空間でクライエントがセラピストと共に自分の物語を吟味して、新たな物語を立ち上げていくことだと思う。時代に逆行して以前のような大きな物語を持とうとしても無理だし、かえって危険だと思う。しかし、せめて対話空間の中でお互いの小さな物語を相互に投げかけて吟味し合い、他者の視点を取り入れてお互いをつなぐメタ物語を新たに編み上げていくことは可能だと思う。仲間内の空気に同調するのではない対話空間を期待している。

<筆者 史章>