対話空間_失われた他者を求めて

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アキレスは亀に追いつけない?〜無限と世界の解釈〜

 

今からおよそ2400年ほど前、南イタリアのエレアという古代ギリシアの植民市にゼノンという哲学者がいて、彼は義父であり、学問の師匠であり、また愛人でもあった(当時男色は珍しいことではなかった)パルメニデスの哲学上の論戦を擁護する際にいくつかの運動の例を提示した。それらはゼノンのパラドックスとして後世に伝わっているのだが、その話のひとつに『アキレスは亀に追いつけない』というものがある。これを紹介しよう。彼の挙げたパラドックスは(彼にそんな意図はなかっただろうが)われわれの無限、ひいては世界の一般的な捉え方に一石を投ずる議論であるように思われる。

 

アキレスは亀に追いつけない。いかなることか。アキレスと亀はそれぞれ速い存在と遅い存在の象徴である。亀が遅い存在というのはいいとして、アキレスである。いきなり議論の本筋から脱線するが、アキレスとはいかなる人物か、この逸話はちょっと面白いから紹介しておこう。アキレスというのは詩人ホメロス叙事詩にも描かれているギリシア神話の英雄である。作中、駿足のアキレウスとたびたび形容されるように、足が速かった。そしてまた不死身でもあった。死なないから戦において無敵なのである。無双の力を誇りひとりで敵勢をことごとく倒した。しかし勝利を前にして命を落とした。不死身のはずなのに死んだ。不死が完全ではなかったのである。身体のある部分を弓で射られ絶命した。その部分を現在われわれはアキレス腱と呼んでいる。アキレスを産んだ母は浸けると不死身になるという川に息子を浸したのだが、うかつにもそのとき宙吊りに持っていた赤子のかかとの部分だけが浸かっておらず、そこだけ不死身体ではなかったのである。本筋に戻ろう。とにかく、アキレスは速い存在である。その速いアキレスが遅い亀に追いつけないというのである。

 

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アキレスと亀がスタートの合図と同時に競争をする。しかしアキレスと亀がまともに競争しても力の差は明白である。そこでアキレスはハンデとして亀の後方からスタートすることにする。スタートの合図とともにアキレスは走り出し、亀はのそのそと懸命に地を這い出した。しばらくするとアキレスは亀のスタート地点(T1)に到着する。そのとき亀はいくらかアキレスの前方(T2)にいる。アキレスがアキレスのスタート地点から亀のスタート地点(T1)まで移動した間に亀は自身のスタート地点からいくらか前方(T2)に進んでいるからだ。さて、この時点からさらに時を進める。今アキレスは亀のスタート地点(T1)にいる。亀はT2にいる。しばらくするとアキレスはさらに先ほどの亀のいた位置(T2)に到達する。このとき亀はどこにいるか。やはりアキレスの前方(T3)にいる。アキレスがT1からT2に移動するまでの間に亀はT2からT3に移動したのである。この操作は無限に続けることができる。したがってアキレスは亀に追いつくことができない、というわけだ。


この議論の何が問題なのであろうか? 現実はアキレスはいつか亀に追いつき、追い抜くのであるから何かが間違っていることは確実である。この議論は詭弁なのであろうか? 詭弁なのだとしたら問題の所在はどこにあるのか?


話を簡単にするためにアキレスの速さを分速2m、亀の速さを分速1mだとしよう。この設定だとアキレスは駿足のアキレスどころか鈍足のアキレス、いや100kgの重りをつけて地を這うようなものだが、とにかく簡単のためだ。そしてスタート時のハンデの距離を1/2mだとしよう。
そうするとスタートしてから1/2分後にアキレスは亀のスタート地点(T1)に到着することになる。ここからさらに1/4分後にアキレスはT2に到着し、更に1/8分後にT3に到着するということになる。つまりアキレスが亀に追いつくまでの時間(Sとする)は

 

S=1/2+1/4+1/8+・・・

 

となるわけだ。この追いつくまでの時間Sはどんな値になるのだろうか。高校の数学IIIで無限級数(このような無限の項の足し算を無限級数という)を学習していなかったり、学習したとしてもてももう忘れてしまった人ならばこのSの値は無限大であると考えるかもしれない。というのは、このSは正の値が無限個足されたものであるからである。おそらく古代ギリシアの哲人たちもこのように考えたであろう。しかし直観的には無限の正の値を無限に足せば無限に大きくなるような気がするけれど、そうとも限らないのである。数IIIの無限級数の既習者は正の値の無限に足しても必ずしも無限大になるとは限らず、有限値(このような和を無限級数の和という)に収まることのあること知っているから、以下のような計算によってその無限級数の和Sの値を求めるであろう。

 

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より数学に明るい者ならば、上のような方法の危険性を察知して、それじゃダメだと(循環小数を分数で表すときに彼らと同じ手段を用いていたことは棚上げして)まず第n項までの和Sn(このような和を部分和という)を計算し、そのnを無限大∞に近づけてSの値を計算するのだろう。

 

 

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どちらにせよ、得られる値は1であり、つまり

 

1=1/2+1/4+1/8・・・

 

となるわけである。実際にこの運動を無限に分割せず、スタート時と追いつく時だけを考えると、スタートから1分後のアキレスと亀はともに亀のスタート地点T1から1/2m前方に位置しているので、これで問題はなさそうである。確かに1分後、アキレスは亀に追いつく。

 

 

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しかし、これでこのパラドックスは解決されたのであろうか? どれだけ時間が経過してもアキレスは亀に追いつけないのではなく、1分後という有限の時間の後に追いつくことができることが証明されたので問題は解決されたように思われる。思うに数学の世界に慣れた者ほどこれでパラドックスは解決されたと思い込んでしまうのではあるまいか。しかし、それは錯覚である。おそらくゼノンはこの説明に半分も納得しないであろう。というのも、この説明はパラドックスの根本的な謎については何も答えていないからである。この説明でゼノンが納得することは、正の値を無限に足し合わせても無限大になるのではなく有限値に収まるという計算過程にすぎない。しかし、そもそも、そんな高等な計算技術を駆使しなくてもアキレスが亀にいつか追いつくことは当たり前である。このパラドックスの謎の所在は本来そんなところにあるわけではない。有限の時間の後にアキレスが亀に追いついたとしても、尚本来の謎は残ったままである。その謎とは「アキレスがいかにして無限の行為を完了したのか」ということである。1分後という有限の時間の後にアキレスが亀に追いつくとしても、どうやってアキレスが無限の行為を完了できたのかその説明が未だつかないのである。この謎について上記の数学的説明は何も答えていない。まだ何が問題なのかはっきりしないかもしれない。このことこそがこのパラドックス本来の問題であったことをはっきりさせるため、このパラドックスにこんな設定を追加しよう。

 

 

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スタートしてアキレスが亀のスタート地点(T1)に到着したとき、アキレスは「1!」と叫ぶ。次にT2に到着したときに「2!」と叫ぶ。T3なら「3!」である。さて、1分後にアキレスは亀に追いつき、追い抜くのであるが、このときアキレスは高らかにこう宣言することができる、「俺は今すべての自然数をかぞえあげた!」と。何もそんなふうに叫んだり宣言しなくてもいいのではと思うかもしれないが、そうできることが肝心なのである。そうできるだろう、なぜならアキレスが亀に追いつくまでに無限の行為が含まれていたのだから。


まだ問題がはっきりしない者のためにより単純化したモデルを提示しておこう。登場人物はアキレスのみである。アキレスは1/2分後に「1!」と叫び、1/4分後に「2!」と叫ぶ。1/8分後には「3!」である。そして1分後にアキレスはこう宣言できることになる。「俺は今すべての自然数をかぞえあげた!」と。


これで仮に1分後にたとえ亀に追いつくことが説明できたとしてもなお「いかにしてアキレスが無限の行為を完了したのか」という謎が残っているということが明確になっただろう。
自然数をすべてかぞえあげるというのは自然数の定義から明らかに背理である。自然数とは1から始まり1を次々と加えて得られる数の総称であり、その上限は存在しない。それなのにアキレスはその上限がないはずの自然数を「すべてかぞえあげた!」と宣言できるわけだ。どう考えてもおかしい。すべてかぞえあげたのなら最後の自然数は偶数だったのか、奇数だったのか教えて欲しい。自然数をすべてかぞえあげることなどあり得ないのだから、前提に何らかの過誤が含まれていたわけであるが、一体その誤った前提が何であるのか、その辺がはっきりしない。それがこのパラドックスのモヤモヤである。そして予めその誤った前提が何であったか私見を述べさせてもらうと、それは一般的な無限の捉え方であるように思う。

 


無限の捉え方は大きく二つに分類できる。ひとつは一般的な無限観であり、それは無限をすでに完結したひとつの存在と捉える見方であり、このような無限は「実無限」と呼ばれる。それに対し無限を時間的にある規則によって限りなく展開されていく可能性と捉えた場合それは「可能無限」と呼ばれる。つまり、可能無限の無限は未完としての無限である。ちょっと分かりにくいかもしれない。例を挙げよう。例えば円周率πをそれぞれの無限観はどのように解釈するか見てみることにする。実無限の考えを採る者は円周率3.141592・・をその全ての桁の値が自然数2や3と同じように絶対的に確定された値だと捉えるだろう。それに対し可能無限の考えを採る者は円周率とは絶対的に既に確定された値ではなく、その値がさまざまな規則によって(例えば半径1の円に外接する正n角形の面積として)時間的に次々と新たな桁が作り出されていく可能的な存在にすぎない。


もうひとつ、直線を実無限と可能無限の見方はそれぞれどのように解釈するか見てみよう。実無限を採る者は直線とは無限の点が既に集まって実在しているものだと捉える。このように直線が無限の点の寄せ集めであるという解釈はほどんど常識になっているように思われる。それに対し、可能無限を採る者は直線を際限なくその部分を切り取れる可能性として捉える。点を寄せ集めて直線が形成されているのでなく(これは実無限)、むしろ逆に直線から点が作られるのである。実無限を採る者にとって直線とは無限のつぶつぶの砂(点)が既に敷き詰められているのに対し、可能無限を採る者にとって直線とはのっぺりツルツルしたあの直線である(しかしその直線からは際限なくつぶつぶの砂(点)を拾い上げることができる)。後者にとって、つぶつぶの砂(点)は直線上に既に実在しているのでなく、拾い上げることのできる可能性としてのみ存するのである。

 


話をアキレスと亀パラドックスに戻そう。このパラドックスはなんであったか。それは無限を実無限として捉えることが無理だという背理法であったとわたしは言いたい。アキレスと亀の競争した直線を既に無限に分割されたものだと捉えたから自然数をすべて数えあげたなどいう背理が生じたのである。思うに、このパラドックスの謎であった「アキレスはいかにして無限の行為を完了したのか」という疑問に対し、実無限の立場を固持する限り有効な解答を与えることはできないだろう。一方で可能無限の立場からはこのパラドックスに対してあっけらかんとした顔でこんな解答が提出できる。
「うん、そんなふうにずっと語り続けることができるよね」、以上である。
可能無限の立場ではこのパラドックスにそもそも謎はない。つまりこのパラドックスの謎は解決されるというよりも、解消されるのである。可能無限は実無限のように直線を無限のつぶつぶの砂(点)が敷き詰まったものだと捉えず、のっぺりツルツルした、しかし際限なく部分(砂)を拾い上げることのできる可能性として捉えるのだった。それならば、もともとこのアキレスと亀の運動に謎はないではないか。というのも、アキレスが亀に追いつくまでの運動が際限なく語れるということは、その運動が不可能になることを意味しないのだから。可能無限の立場はまず全体があって、そこから部分を際限なく切り取ることができるということである。だからいくらでも部分を切り取れるからといって全体(このパラドックスの場合、アキレスが亀に追いつくということ)が不可能にならないのである。それを納得するには、わたしたちがわたしたちの運動を際限なく語ることができるからといってわたしたちの運動が不可能になっているわけではないというごく平凡な事実を指摘すればそれで充分だろう。われわれはいつもまず全体を経験し、その後、部分を語り出すのである。無限の部分(語り)が集まって運動の全体を経験しているわけではない。したがってこのパラドックスにはそもそも謎はなかったのである。わたしはこのパラドックスに対する答えはこれで良いと考える。

 

 

余談になるが、無限が実無限としてはありえず、可能無限としてしかありえないのと同様に、世界も予め完結した実在としてあるのではなく、わたしがそこで生きるなかで開示されていく未完の可能的あり方としてしかありえないだろう。わたしにはこの数学的無限観と世界観には単なる比喩を超えた同型性を有するように思われる。われわれの常識は主観に対し完結した客観的実在を信じるが(このような物の見方を実在論という)、そのように定まった客観的対象ががまず予め実在し、それがわたしたちの世界を構成しているのでなく、むしろ逆に、まずつねにすでにそれぞれの関心に従って世界を生活し、その中で対象を見出している(つまり固定化している)のが実際である。初めから世界は完全に秩序づけられているのではない。わたしたちはノイズだらけの全く混沌とした世界に産み落とされる。そしてその混沌の世界に意味を見出し世界を秩序づける。世界を秩序づけるのは言葉によってである。そもそもわたしたちはまず存在の当初、世界を生活する中で言葉によって世界を対象化、固定化したはずである。それなのにわたしたちはその固定化の由来を忘却し、対象化された世界をわたしたちとは無関係に完結して実在する原初的なものだと見傚し、その客観的実在の側からわたしたちの世界の生き方を二次的なものとして説明するという倒錯した考えに陥る。アキレスと亀パラドックスはこの倒錯に気づかせるひとつのトピックであった。

 

 

参考文献『無限論の教室』(講談社現代新書

 

<murata>

 

心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part3)

訂正版を再投稿しました。

dialogue-space.hatenablog.com

※part1,  part2はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

dialogue-space.hatenablog.com

 

第二章 心と<その都度>性

 科学的認識の努力は、客体的事物としての物質とその連関仕方とを発見するわけだが、そのように発見され規定された世界には、もはやどこにも「心」なるものは見当たらない。そこでは、「心」という語自体が意味を失ってしまうのである。尤もその意味では、「心など実在しない」という主張はそれなりの権利を持つであろう。僕自身もある意味においてはこの主張に同意するものである。しかし一方で、我々はつねにすでに心的なものの前提的了解にもとづいて様々な活動を営んでいるのであり、とりわけ上述したように脳生理学の所見は、経験的に知っている心の存在を前提にしなければ意味を失ってしまうだろう。こうして我々は、心を物理的実在としての世界の中に見出せず、かといってそれを完全に没概念にしてしまうことも出来ないでいるのである。正にここにこそ心脳問題の厄介さがある。

 心的なものを実在的事物のように扱えないとすれば、その存在を一体どのように規定すればよいのだろうか?それは物理的なものとは別に存在する存在者なのだろうか?確かに、心的なものを物理的実在世界の中に見出せない以上、心は物理的なものとは別箇に存在するなにものかだと考えたくなる。実際、常識では、物理現象が客観的に観察されるものである一方、心とは各人の内面によって把握される主観的な現象だと理解されている。それどころか心脳問題の中でもしばしば、主観的意識体験の質としての「クオリア」という概念が持ち出され、その存在を客観的な脳の物理的過程とどう結びつければよいかが問題視されているのである。つまり、物理的実在としての世界とは別に、そこからは抜け落ちてしまうクオリアなる心的なものの存在が持ち出され、両者のつながりをどう説明すればよいかが問題になっているわけである。

 ところで前章では、心的なものを、統一的な世界把握からは抜け落ちる<その都度>的な世界把握の契機として位置づけてきた。そしてこの<その都度>性を「有視点的」という在り方によって特徴づけておいた。けれども、「有視点的」というのはつまるところ「主観的」ということと同義なのだろうか。もしそうであれば、<その都度>的な世界把握というのは、クオリア論者の言うような「主観的意識体験」ということになるのではないか。

 確かに、ここまで述べてきたことは、心的なものの持つ、客体的事物間の連関としては捉えられないようなある種の主観性についてであろう。しかしそもそも「主観性」とは一体何を意味するのだろうか?クオリア論者たちは心の「主観性」だとか「一人称性」だとかいうところを強調するが、こうした言葉の意味をあまり踏み込んで考えようとしない。そこでまずは、クオリアという概念が一体何を意味するのか検討しておきたいと思う。

 

(1)クオリア問題

 心脳問題では、しばしば「クオリア」という概念が論者の間で取り沙汰されている。クオリアは、「感覚質」などと訳され、要はいかなる客観的観察の対象にもならない心の主観的な側面を言い表した概念のことである。腕を強くぶつけたとき、顔をしかめたり腕を押さえたりするような振る舞いは確かに第三者的に観察可能であるが、あの「痛い」というありありとした感じは当人の主観的・一人称的な体験であり、客観的観察からは抜け落ちてしまうというわけだ。これは正に機能主義の心の定義への反駁である。この概念を心脳問題の文脈で持ち出し注目された哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、これまでの科学はクオリアの存在を真剣に扱おうとしなかったとし、クオリアが如何に生じるのかという問題も科学の探究課題だと主張して、それを「意識のハードプロブレム」と名づけた。つまりは、「単なる物質間の連関にすぎない脳の働きから、一体どのようにして主観的な意識体験が実現しうるのか?」というような問題を立てたわけである。

 確かに、科学が記述する世界には、色や匂いや肌触りといったありありとした質感が欠如してしまっている。クオリア論者たちは、質感という単なる客体的に実在する物質間の連関には還元されえないような心の在り方に目を向けようとしているのであり、僕としてもこの点に関しては一応評価すべきだとは思う。しかし僕の考えでは、クオリアという概念も決して看過できない問題を抱えているのである。その問題点は、やはり主観性、あるいは一人称性という語をどのように解釈するかというところにあると思われる。論者たちが「クオリアは一人称的にしかアクセスできない」と主張するとき、質感なるものは、しばしば外界とのかかわりから切り離された、当人の意識内部の出来事であるかのように解されてしまいがちだ。だが以下で見てゆくように、質感なるものを客観的世界に還元しえないからといって、それを当人の主観的意識の内部に位置づけようとしても、結局のところそこにいかなる存在論的規定を与えることも不可能なのである。こんなふうに解されたクオリアという概念は心の存在を何一つ基礎付けるものではなく、むしろかえって心をどこまでも空疎な存在に仕立て上げてしまうものなのだ。

 

 (ⅰ)クオリアという概念の解釈について

 クオリア論者は、クオリアの存在を、知覚において直接的に経験される明白な事実のように考えている。確かに、自分自身の知覚経験を省みると、そこには様々な "質感的なもの" を見出すことができる。例えば、毛布のあのふかふかした感触、心地のよいピアノの音色、木々の鮮やかな緑色、吹き抜ける爽やかな風、あるいは、黒板を引っ掻いたときのあの嫌な音、風邪をひいたときのあの悪寒などなど、枚挙にいとまがない。このように質感的なものは本来、我々にとってきわめて身近な存在であるはずなのだが、それにもかかわらず、クオリアなるものがひとたび心脳問題の文脈に持ち込まれるや否や、途端に捉えどころのない概念へと変貌してしまうのである。日常生活において素朴に了解していることが、哲学的に解釈された途端にいびつなものになり果ててしまうというのは往々にして起こりうることだ。クオリア論者は素朴な実感に定位しているつもりで、その実、心脳問題の文脈においては、質感的なものの存在をきわめて抽象的、観念的に措定してはいないだろうか。

 ここで、チャーマーズクオリア問題を明確化するために持ち出した「哲学的ゾンビ」という概念を見てみよう。「哲学的ゾンビ」なるものは、機能主義の論駁のために持ち出された思考実験上の存在である。まずチャーマーズは、クオリアを端的に実在するものと見做す。つまり、我々人間は皆クオリアを持っていることを前提として認める。そしてここで、そのクオリアが全く欠如した「ゾンビ」の存在を考えてみる。但しこの際、ゾンビは機能的には普通の人間と相違はないものとする。すなわちゾンビは、いかなる観察によっても普通の人間と区別がつかないにもかかわらず、クオリアを一切もっていない存在だと想定するわけである。ゾンビは、腕を強くぶつければ、やはり普通の人間と同様、痛がる振る舞いをする。また、そのときの脳状態等も一切普通の人間と区別がつかないものとする。けれども、ゾンビはただ一点、「痛み」の感覚等、あらゆるクオリアを完全に欠いてしまっている点で人間とは決定的に異なる存在だというわけである。無論、このようなゾンビが現実に存在するかどうかはここでは問題ではない。あくまで論理上、このようなゾンビの存在が想定できさえすればよい。ところで、機能主義の埒内ではこうしたゾンビの想定可能性へと言及することができない。というのも、機能主義は外面的な機能だけを観察し、当人の内面的な経験(クオリアの経験)を全く無視しているからである。かくして、機能主義の心の定義は十分なものとは言えないというわけである。

 チャーマーズは物理的機能の観察では捉えられないような心の主観的な側面を浮き彫りにするために、ゾンビの想定可能性を持ち出す。このゾンビ論法を通して彼の言わんとすることは、僕としても分からなくはない。しかし一方で、ゾンビという概念、つまり、「物理的機能は人間と完全に同一だがクオリアを持たない存在」という想定にかなりの無理があるようにも感じるのである。それ以前にそもそも、ゾンビ論法においての「クオリア」という言葉は一体何を意味しているのだろうか?

 まず、チャーマーズは少なくともゾンビ論法を展開する時には、質感的体験を、その当人の振る舞い方(すなわちその都度身を置く状況とのかかわり方)とは別に、それ自体で切り取って扱えるもののように考えていると思われる。その当人の振る舞いにクオリアがくっついていれば人間であり、それが無ければゾンビだというわけだ。けれども果たして、当人の振る舞いとは別箇に自立して存在し、その振る舞いに任意に着脱可能な質感などというものが存在しうるだろうか?これについては後に詳しく検討するが、先に僕の考えを言っておけば、こんなふうに想定されたクオリアなど無意味なものでしかないと思う。加えて、クオリアを物理的実在としての世界とは別に、それ自体で自立して存在すると想定してしまうと、クオリアと物理的なものとの関係性を如何に規定するかという新たな問題が浮上する。クオリアは、物理的なものに付随するとか、物理的なものによって生み出されるとか言ったところで、全く満足のいく説明にはならない。いわゆる「説明のギャップ」がどうしても残る。このギャップが埋まりそうに無いとすれば、問題の立て方そのものを見直すべきなのではないだろうか。つまり、「物理的なもの」と「非物理的なクオリア」という二つの存在者を立てて、しかる後に両者の接合方法を問題にするということが、果たして適切なアプローチかどうかが問われるべきなのである。

 また、こうして一切の行動や振る舞いから切り離されたクオリアは、ほとんど必然的に当人の主観的意識の内部に現象するものと想定されてしまう。意識体験の質というのは、その意識主観の担い手だけが把握することのできるものであり、他の人々には原理的に接近しえないということになる。例えば、私が受け取る赤色のあの独特の色合いはいかなる言葉を尽くしても完全に客観的に記述することは出来ない。そこから受け取る "感じ" は各主観それぞれによってのみ接近可能なのであり、たとえ物理的には同一物であったとしても、皆がそこから同じような "感じ" を受け取っているという保証はどこにもない。こうした発想から、いわゆる「逆転クオリア」という思考実験もしばしば持ち出される。私は「赤」と名づけられた色から或るクオリアを受け取るが、もしかすると別の人はその「赤」から、私にとっての「青」に相当するクオリアを受け取っているかもしれないというわけである。つまりここでは、クオリアは純粋に私秘的な領域に属する存在として想定されているのである。

 とはいえチャーマーズは、クオリアが外界と文字通りに何のつながりも無いと考えているわけではないようだ。(もしもそんなふうに考えるとそもそも心身問題や心脳問題が成立しないだろう。)チャーマーズは、あくまでもクオリアは物理的なものに「付随する」と考えている。すなわち、適当な物理的状態が実現しているならば、そこにはそれに対応するクオリアが生じているはずだと考えるのである。しかし、クオリアは物理的なものに「自然的」には付随していても、「論理的」には付随するとはいえない(つまり、ゾンビが論理上想定可能である!)ため、クオリアはあくまでも物理的世界の中には位置づけられないような存在だというのである。

 チャーマーズの持ち出す「自然的付随」とか「論理的付随」とかいう概念の詳しい定義は、ここではあまり重要ではないので省くことにする。むしろここで強調すべきなのは、次の点である。すなわち、当人の振る舞いとか身体運動といったものは、あくまで機能主義と同様、「物理的機能」と考えられており、単なる客体的事物間の連関として解されているということである。そしてクオリアは、振る舞いという客体的事物連関に付随して、その当人の意識内部に生じるものだということになるわけだ。だがこうなると、質感的体験は、<その都度>的世界把握の契機、すなわち、その都度身を置く状況が提供するコンテクストの把握やそれへの応答の契機といったものではもはやなくなり、当人の意識内部に孤立した点的印象のようなものになってしまうだろう。クオリアは個々の物理的状態、特に脳状態に付随はするが、あくまでそれ自体としては周囲の状況から切り離すことが可能な、当人の意識に完結したものだということになる。

 だがこんな、何一つ世界に影響を及ぼさず、それ自体として完結した、ただ物理的なものにくっついて当人の意識内部に現れるだけの質感などというものを我々の経験から抽出することが果たしてできるだろうか?クオリアという概念は本当に我々の世界経験の実感に根ざし、そこから引き出されたものであろうか?確かに、事実として、我々は様々な質感的体験をする。知覚経験には、たいてい何かしら質感的なものが伴っている。そして、クオリア論者の主張するように、この質感なるものは、物理的な因果関係の中にはとても位置づけられそうにはない。というのも、ものの多様な質感はその都度の状況に身を置くことによって有視点的に把握されるある種の相貌なのであって、客体的事物とその連関として把握された統一的世界の中にはいかなる場所も持たないからである。だがクオリア論者たちは、質感的体験を周囲の状況から切り離し、当人の意識内部に完結した現象のように措定してしまっている。尤も、クオリア論者とても、クオリアが外界からの刺激によってもたらされることは認めるであろう。けれどもクオリア論者にとっての外界とのかかわりとは、機能主義者と同様、単なる物理的過程にすぎないのであって、それゆえ非物理的存在として措定されたクオリアは、その定義上、外界とのかかわりからは切り離されたものとならざるをえないのである。

 以上から察するに、クオリアなるものは、論者たちの想定するような第一次的・直接的な経験などではなく、むしろ物理的実在としての世界から零れ落ちるなにものかとして措定され、二次的・反省的に作り出されたものなのではないだろうか。たいていのクオリア論者は、物理的実在としての世界を素朴に受け入れ前提している。しかし既に見てきたように、それは<その都度>的に把捉される相貌を排することによって存立しうる世界であるため、そこからは必然的に心的なものの存在が抜け落ちてしまう。いくら脳の物質的過程を仔細に観察しても、どこにも心的なものは見当たらないことに気づくのである。そしてこうした中で、正にクオリアという概念が "要請" されるわけである。クオリアは、物理的実在としての世界から抜け落ちてしまった心的なものを、後になって何とか取り戻そうとして捻り出された概念なのであり、それゆえそれは実のところ我々の如実の経験から引き出されたものでは決してなく、むしろ客観的世界から零れ落ちる何かとして要請され、さらにはそれが誤って実体化されることによって成立したものなのではないだろうか。もしそうだとすれば、クオリアという概念はその成立の経緯上、物理的実在としての世界とは決して相容れない存在なのであり、それにもかかわらず両者を無理矢理に接合しようとしたときに、正にかの「ハードプロブレム」が生じうるわけである。だがこのハードプロブレムはクオリアの定義上、実は全く解決不可能になるように設定されてしまっているのであり、こんな次元ではいかなる議論も徒労に帰することは明白であろう。

 

 (ⅱ)クオリアの一人称的独立性という仮定について

 ここまで、クオリアという概念が、論者たちの想定に反して、実際の経験からあまりにも乖離してしまっていることを指摘しておいた。とはいえやや抽象的な議論になってしまったので、以下ではもう少し具体的な事例を参照しながら理解を深めてゆくことにしたい。以下の議論においても、やはり問題にすべきポイントは、上で述べたような、クオリアをその主観の担い手にしかアクセスできないような主観的意識内部に完結したもの想定すること、すなわちクオリアの「一人称的独立性」とでも言うべき仮定についてである。

 ここで、機能主義の立場の哲学者ダニエル・デネットが著書『スウィート・ドリームズ』において、クオリア批判のために持ち出している「変化盲」の事例について少し検討してみたいと思う。デネットは次のような実験を持ち出す。二枚のほとんど同じ写真を250ミリ秒ずつ、間に290ミリ秒間何も表示されないスクリーンを挟みながら、被験者に交互に提示する。デネットが挙げているのはキッチンの写真で、戸棚の扉の色が白から褐色へ、褐色から白へと切り替わるものである。被験者の多くは、二枚の写真の変化に気づくまでに20~30秒ほどかかるそうだ。

 さて、この変化盲の事例について、デネットは次のような問いかけをする。「二枚の写真の変化に気づく前、被験者のクオリアは変化していたか?」、と。クオリアを各人の主観的意識の内部に現象するものと考えるのならば、少なくとも被験者は二枚の写真の間にいかなる違いも見出せずにいたのだから、クオリアが変化していたと考えるのは奇妙だろう。ではクオリアは変化していなかったと解釈すべきだろうか?しかしこの場合でも、やはりクオリアの一人称的独立性という仮定に亀裂が入りはしないだろうか。というのも、例えば被験者は実験者から戸棚の扉に注目するように指示されたら、もう二枚の写真の違いを認めざるをえなくなるのであり、ここではまぎれもなく写真の見え方(すなわち戸棚の色クオリアの様態)は実験者の指示に従属的であることが示されているからである。すなわち、二枚の写真をただ漫然と眺めるのか、それとも特定の部分に注意して観察するのか、というような、ある種の状況とのかかわり方の変化が写真の相貌に変化をもたらすのであり、実験者が被験者に対して戸棚の部分に注目するように指示したとすれば、それは被験者に新たなコンテクストのもとで写真を見るように促したということにほかならない。したがって、二枚の写真の色クオリアというのも、それらの写真をどのような文脈において把握するのかということにもとづけられているわけである。

 してみれば、ものの質感というのは当人の意識主観内部に完結した現象などではなく、いつもその都度の外界とのかかわり方の一契機として意識されるものなのではないだろうか。その意味では、クオリアは私秘的なものではなく、他の人々との共有可能性を持つはずであり、実際、変化盲の事例において戸棚の部分に注目するように指示することは、被験者に写真を見る文脈を共有させることで、互いに写真の相貌を共有するための働きかけにほかならない。勿論、文脈を共有するとはいっても、二人の人間が完全に同じ時間と場所を共有し、完全に同一の世界経験を保有することは原理的に不可能である――というよりも、それでは完全に一体化してしまい「共有する」という語が無意味になるだろう。他の人々と質感的体験を共有するというのは、その人が身を置いている状況から、何らかの一つのコンテクストを世界把握の様式として切り出し、自らそのコンテクストのもとに身を置いてみるということなのである。以上のような考えのもとでは、一人称的独立的なクオリアなどというものは、いかにも宙に浮いた概念であることが理解されよう。

 とはいえ、次のような疑問を覚える方がいるかもしれない。「色はそれぞれ独特の質感を持っているが、その独特の "感じ" はとても完全に客観的には記述されえないように思われる。それならば、やはり色の質感は一人称的独立性を持っていると言わざるをえないのではないか?」、と。確かに僕としても、色の持つあの豊かな質感を、客観的・統一的記述に完全に還元することはほとんど不可能だとは思う。けれどもだからといって、各人の意識主観内部に現れる純粋質としてのクオリアなどというものを本当に仮定せねばならないだろうか?色の質感を完全に客観的に記述できない理由は、色クオリアの一人称的独立性というところにあると言うべきだろうか?僕はそうは思わない。僕の考えでは、色の質感というのはその都度の多様な文脈において把握されうるため、統一的な記述はこうした<その都度>的多様性を一挙に汲みつくすことが出来ないのである。実際、色彩というものは、その都度の状況によってきわめて多様な相貌を呈する。例えば、対象物の一部に影がかかっていて影の部分の色が他の部分の色と異なって見えていたとしても、いまそれが特定の対象物として知覚されているのであれば、影のあるなしに関わらず一つの対象物として同一の質感を維持しうる。けれども一方で、影絵劇の鑑賞などにおいては、むしろスクリーンに映し出される影の部分とそれ以外の部分とがくっきりと区別される。してみれば、色彩というのはその都度知覚される対象物に、またその時々の状況において何をどのようなものとして知覚するかということに依存しているわけである。

 あるいは色彩の状況可変性という点に関して、次の「チェッカーシャドウの錯視」と呼ばれる錯視図を少し検討しておきたい。

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 図のAとBのタイルの色を比較すると、明らかにAのタイルの色の方が濃く見えるだろう。けれども実際は、AとBは同色である。この錯視現象は、物理的には同一の色であっても異なった色として知覚されうることを示している。すなわち、色の客観的な波長には還元されえない特有の主観的な色彩体験の存在を示していると言えよう。けれどもこの錯視は同時に、感覚的性質をそれ自体で実体化し純粋に私秘的な領域に閉じ込めてしまうようなクオリア論者の考え方をも否定しているのではあるまいか。というのも、AとBが同色に見えるか否かは状況依存的であり、A、Bの色クオリアをそれ自体で自立したものとして取り出すことは不可能だろうからだ。実際、A、Bのタイル以外の背景を全て消してしまえば、AとBは同色にしか見えなくなるのであり、A、Bの色クオリアが同一であるか否かは、それらが置かれている全体のコンテクストによって変わってくるわけである。この錯視図のもつ、チェス盤柄のタイルに円柱状の物体の影がかかっているというような状況の意味を、おそらく我々は前述定的に了解しているのであり、その状況のもつ意味の了解にもとづいて、AとBが異なる色として弁別されうるのであろう。してみれば、AやBから受け取る色彩感覚は、当人の主観内部に完結した出来事などではなく、外界の状況の意味にもとづけられているわけだ。このことは何も色彩のみならず、あらゆる感覚的性質について言えることであろう。他の例として、「ピアノの音」のクオリアなどはどうだろう。ピアノの音と一口に言っても、演奏する曲によってその音から受け取る感じは様々に変容する。たとえ異なる曲の中で同一の和音が用いられたとしても、その和音から必ずしも同一のクオリアを受け取るわけではない。言うまでもなく、個々の音はその曲全体のコンテクストにおいて初めて意味づけられるのであり、それゆえピアノの音の感覚的性質をそれ自体で取り出すことなど当然不可能なのである。

 以上から察せられるであろうが、質感的体験とは<その都度>的世界把握の一つの契機であり、また、ものの質感とは、その都度の状況において見出される諸事物の呈する相貌なのである。そしてこの相貌を把握することというのは、意識主観内部に現象するクオリアを所有することなどでは決してなく、外界の事物の様相を有視点的に把握することにほかならない。尤もこうした主張は、改めて言明するまでもない至極当然のことなのかもしれないが、しかしこの当然のことを機能主義者もクオリア論者も見過ごしがちであるということについては強調されねばならない。すなわち機能主義者は、諸事物の有視点的把握という側面を度外視して、専ら無視点的に把握された客体的事物連関としての世界のみを主題にし、そこへと心的なものを還元しようとしている。一方クオリア論者は、機能主義では満足せず反駁を試みようとはしているが、しかし結局のところ、機能主義者と同様、客体的事物連関としての世界を前提として受け入れてしまっているのであり、その上で後になってそこにクオリアなる観念上の構築物を付加することで、心的なものを取り戻そうとしているにすぎない。

 質感的なものを含めた諸事物の多様な相貌は、事物の客体性を担保したところから出発するような思考法ではうまく捉えることが出来ないものである。したがって、批判の目は改めて機能主義へと向けられねばならない。ここでもう一度、デネットの変化盲の事例を振り返ってみよう。おそらく機能主義者のデネットならば、二枚の写真の違いに気づいた際の写真の相貌変化は、物理的機能として十分に記述されうると主張するだろう。けれども、少なくとも "機能" なるものが物理的因果関係、すなわち、客体的事物間の連関と解釈される限りにおいては、そこではいかなる相貌変化をも記述することが出来ないのである。機能主義が記述しうるのは、ただ外的諸条件と観察対象の振る舞い方の関連性についてのみである。そこでは、二枚の写真は単なる客体的事物と解され、統一的世界の中に位置づけられるわけだが、客体的事物として同一性を担保された写真にはいかなる相貌変化も存在しえないのであって、変化するのはやはり客体的事物と見做された被験者の振る舞い方だということになる。しかし今主題にすべきなのは、あくまでも被験者当人にとっての写真の相貌変化についてである。この<その当人にとっての>という構造こそが、「有視点性」を特徴付けているものであるわけだが、機能主義はこの構造を骨抜きにしてしまうのである。より分かりやすい例として、「太郎が道端の犬を見て怖がっている」という事態を考えてみよう。これを機能主義的に解釈すれば、太郎が犬の視覚的刺激を受容したことによって生じる太郎のある種の振る舞いが「恐ろしい」という感情であるということになるだろう。しかし、この「恐ろしさ」なるものは単に太郎の機能的振る舞いを意味するのではない。ここでの「恐ろしい」とは、すなわち「犬が恐ろしい」ということであろう。尤も、犬が恐ろしいとはいっても、客体的事物としての犬が客観的に「恐ろしい」という性質を所有しているわけではあるまい。そうではなく、ここでは「太郎にとって犬が恐ろしい相貌を呈している」ということを意味してるのである。すなわち、太郎にとってみれば、単なる客体的事物としての犬に対しての自身の機能的振る舞いが恐ろしいのではなく、端的にその犬が恐ろしいのだ。機能主義者は、この至極当然の含意に全く無頓着なのだが、しかし一般に、なにかしら心的なものが伴っていると見做される事象には、たいていその都度、その当人にとっての世界の相貌把握という契機が暗黙に含意されているのではないだろうか。機能主義は心的事象を記述する際、こうした暗黙の了解を主題化せぬままに前提し、この前提を統一的に記述された事象に無自覚のまま潜り込ませることによって、心を記述したつもりになっているだけのように思われる。

 

part4→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part4) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>

ポリフォニーの世界(前編その3)

その1とその2の記事はこちら

ポリフォニーの世界(前編その1) - 対話空間_失われた他者を求めて

ポリフォニーの世界(前編その2) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

 


前回のおさらい

 

私たちは、有視点把握と無視点把握という二つの世界把握の様態を携えて生きている。有視点把握とは主体のあり方と関わっている世界把握であり、無視点把握とは主体のあり方に関わらない世界把握であった。有視点把握は無視点把握なしでは有視点把握として成立しないし(無視点把握がなければそれは秩序なき混沌に過ぎない)、逆に無視点把握は有視点把握に依存しているということを述べた。

 

 

 


W=f(o,s,b,m)

 

さて、今回は初めに世界が秩序づけられる四つの要因について紹介しておこうと思う。それは後編に取り上げようと予定している相貌論の「物語」という概念にも関わってくる。
まず上の関数について説明しておこう。これは、世界を秩序づけるあり方を便宜的に多変数関数で表現したものである。
各文字は下記の意味である。

 

W:世界のあり方(Wはworldの頭文字か)
o:対象のあり方(oはobjectの頭文字か)
s:対象との位置関係(sはspaceの頭文字か)
b:身体に関わる要因(bはbodyの頭文字か)
m:意味に関わる要因(mはmeaningの頭文字か)

 

数学に苦手意識のある方は逃げ出してしまうかもしれないが、高度な数学的知識がなければ理解不可能なことを述べているわけでは無い。
y=f(x)という関数を高校の頃に学んだと思う。これは、yがxの関数であるといい、つまりyの値がxの値によって決まるという関数だ。
z=f(x,y)なら、zの値がxとyの値によって決定されるという関数である。
つまりこの関数は、世界のあり方(W)が、対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体の関わる要因(b)、意味に関わる要因(m)の四つの要因に依存していることを表現しているのである。
無論、この関数表現は物理学的記述のような対象と対象の関係を扱ったものではなく、便宜的な表現として理解すべきだろう。

 

時計という例で説明していこう。
第一に、対象のあり方(o)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これは詳しく説明する必要はないだろう。例えば時計の示す時間が違えば、違うように見えるという、ただそれだけのことである。
第二に、対象との位置関係(s)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これもそのままである。今の時計の例でいえば、ある人からは時計がよく見えるけれど、別の部屋にいる人からは時計が見えないという事実をあげておけばいいだろう。
第三、身体に関わる要因(b)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。例えば、視力の強弱に違いがあるために、同じ時刻、同じ場所にいるのに、ある人には時計の文字盤が見えるのに、ある人にはぼやけてよく見えないという場合がある。これは、身体のあり方が世界のあり方に影響するという事実の一例である。
最後第四に、意味が関わる要因(m)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。私たちは時計を時間を知るための道具としてその相貌を見るが、もし時計を知らない人(例えば原始人)が同じものを見たなら私たちが時計を見るのとは違った相貌でそれを見るだろう。

 

野矢氏は四つの要因のうち、対象との位置関係(s)と身体に関わる要因(b)に着目して世界のあり方を分析することを眺望論を呼び、当書でその完成をみたと宣言している。そして、四つの要因のうち、意味に関わる要因(m)に着目して世界のあり方を分析することを相貌論と呼び、以前の研究から前進させることができたと述べている。前進させることができたというのは、ネガティブな表現をすれば、まだ未完成であり不十分だということである。確かに、ここの分析は一筋縄でいかないところがある。対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体に関わる要因(b)は、外的なものを観察することが分析のヒントになるだろうが、最後の意味に関わる要因(m)だけはただ自分自身に問いかけるしか分析のよすががないからだ。しかし眺望論で掬いきれないこの相貌論の分析こそが、非常に重要な主題であるように思う。主観と客観の関係性、あるいは多くの哲学的アポリアも、実は問題ではないのだ。意識の繭などないのだから。


相貌論について詳しくは後編で扱う予定だか、今少し触れておこう。野矢氏は相貌論において、「物語」という概念を用いて分析を試みている。これはつまり、相貌はそこに開かれる物語によって決定される、ということに依拠した分析である。それぞれの開かれた物語に応じて、相貌は違ってくる。このことは、先ほどの時計の話が好例となっているだろう。


また、概念は典型的な物語を開くということを紹介しよう。例えば、「犬」という概念についてである。私たちがある対象を「犬」という概念で捉えた時、その対象は「犬」という概念が開く物語の中に位置付けられる。つまり、それは親から生まれ、毛に覆われていて、ワンと鳴き、四つ足で歩き、鼻がきき、眠ったり起きたりして、喜べば尻尾を振り、やがて死ぬ等という存在として了解する。無論、毛に覆われていない犬もいるし、鼻が利かない犬だってありうるだろう。しかし、それは問題ではない。私たちは「犬」という概念に対してそのような典型的な通念を了解している。ある対象を「犬」という対象の元にとらえるとき、私たちはその対象を典型的な物語の内に位置付け、そしてこの典型的な「犬」の物語がその対象の知覚に反映され、相貌をもたらす。


最後に、公共的な相貌と個人的な相貌について紹介しておこう。太郎と花子の前に一匹の(大きめの)犬がいるとする。太郎は幼少期に犬に噛まれ大怪我をした経験があり、それ以来犬を恐れているところがある。一方花子は長年愛犬家で犬には慣れている。この二人の相貌の違いについてである。二人は「犬」という共通の概念でこの対象を見ているだろう。この概念が、先ほど説明したように、典型的な物語を開く。この対象は、典型的な物語の内に位置付けられる。典型的な「犬」という相貌が二人にもたらされているのだ。このように複数の人に共有される相貌を公共的な相貌と呼ぶ。また、二人は同じ「犬」という概念でこの対象を見ているが、違っているところがある。太郎はその対象を「怖い」というふうに感じ、花子はその対象を「かわいい」と感じていたとしよう。二人の異なった個人的な経験によって、異なった物語が開かれているのである。開かれた物語によって相貌は決定されるのだから、二人のこの犬に対する相貌は異なって「も」いるのである。この場合のように、複数人に共有されていない相貌を個人的な相貌と呼ぶ。このように、私たちは他者と共有する公共的な相貌と、他者と共有しない個人的な相貌を有することになる。つまり、私たちは他者と相貌を共有していていることもあれば、共有していないこともあるのである。


さらに言えば、相貌はそこに開かれる物語によって決定されるのだから、相貌の公共性と個人性は、物語の公共性と個人性ということに他ならない。私たちは他者と物語を共有しつつ生き、それと同時に個人的な物語を生きている。他者と物語を共有しつつ生きているのだから、私は私一人の物語世界を生きているのではない。

 


(前編その4へ続く)

 


<筆者 murata>