対話空間_失われた他者を求めて

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ポリフォニーの世界(前編その3)

その1とその2の記事はこちら

ポリフォニーの世界(前編その1) - 対話空間_失われた他者を求めて

ポリフォニーの世界(前編その2) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

 


前回のおさらい

 

私たちは、有視点把握と無視点把握という二つの世界把握の様態を携えて生きている。有視点把握とは主体のあり方と関わっている世界把握であり、無視点把握とは主体のあり方に関わらない世界把握であった。有視点把握は無視点把握なしでは有視点把握として成立しないし(無視点把握がなければそれは秩序なき混沌に過ぎない)、逆に無視点把握は有視点把握に依存しているということを述べた。

 

 

 


W=f(o,s,b,m)

 

さて、今回は初めに世界が秩序づけられる四つの要因について紹介しておこうと思う。それは後編に取り上げようと予定している相貌論の「物語」という概念にも関わってくる。
まず上の関数について説明しておこう。これは、世界を秩序づけるあり方を便宜的に多変数関数で表現したものである。
各文字は下記の意味である。

 

W:世界のあり方(Wはworldの頭文字か)
o:対象のあり方(oはobjectの頭文字か)
s:対象との位置関係(sはspaceの頭文字か)
b:身体に関わる要因(bはbodyの頭文字か)
m:意味に関わる要因(mはmeaningの頭文字か)

 

数学に苦手意識のある方は逃げ出してしまうかもしれないが、高度な数学的知識がなければ理解不可能なことを述べているわけでは無い。
y=f(x)という関数を高校の頃に学んだと思う。これは、yがxの関数であるといい、つまりyの値がxの値によって決まるという関数だ。
z=f(x,y)なら、zの値がxとyの値によって決定されるという関数である。
つまりこの関数は、世界のあり方(W)が、対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体の関わる要因(b)、意味に関わる要因(m)の四つの要因に依存していることを表現しているのである。
無論、この関数表現は物理学的記述のような対象と対象の関係を扱ったものではなく、便宜的な表現として理解すべきだろう。

 

時計という例で説明していこう。
第一に、対象のあり方(o)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これは詳しく説明する必要はないだろう。例えば時計の示す時間が違えば、違うように見えるという、ただそれだけのことである。
第二に、対象との位置関係(s)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。これもそのままである。今の時計の例でいえば、ある人からは時計がよく見えるけれど、別の部屋にいる人からは時計が見えないという事実をあげておけばいいだろう。
第三、身体に関わる要因(b)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。例えば、視力の強弱に違いがあるために、同じ時刻、同じ場所にいるのに、ある人には時計の文字盤が見えるのに、ある人にはぼやけてよく見えないという場合がある。これは、身体のあり方が世界のあり方に影響するという事実の一例である。
最後第四に、意味が関わる要因(m)が世界のあり方(W)の要因の一つであるということについて。私たちは時計を時間を知るための道具としてその相貌を見るが、もし時計を知らない人(例えば原始人)が同じものを見たなら私たちが時計を見るのとは違った相貌でそれを見るだろう。

 

野矢氏は四つの要因のうち、対象との位置関係(s)と身体に関わる要因(b)に着目して世界のあり方を分析することを眺望論を呼び、当書でその完成をみたと宣言している。そして、四つの要因のうち、意味に関わる要因(m)に着目して世界のあり方を分析することを相貌論と呼び、以前の研究から前進させることができたと述べている。前進させることができたというのは、ネガティブな表現をすれば、まだ未完成であり不十分だということである。確かに、ここの分析は一筋縄でいかないところがある。対象のあり方(o)、対象との位置関係(s)、身体に関わる要因(b)は、外的なものを観察することが分析のヒントになるだろうが、最後の意味に関わる要因(m)だけはただ自分自身に問いかけるしか分析のよすががないからだ。しかし眺望論で掬いきれないこの相貌論の分析こそが、非常に重要な主題であるように思う。主観と客観の関係性、あるいは多くの哲学的アポリアも、実は問題ではないのだ。意識の繭などないのだから。


相貌論について詳しくは後編で扱う予定だか、今少し触れておこう。野矢氏は相貌論において、「物語」という概念を用いて分析を試みている。これはつまり、相貌はそこに開かれる物語によって決定される、ということに依拠した分析である。それぞれの開かれた物語に応じて、相貌は違ってくる。このことは、先ほどの時計の話が好例となっているだろう。


また、概念は典型的な物語を開くということを紹介しよう。例えば、「犬」という概念についてである。私たちがある対象を「犬」という概念で捉えた時、その対象は「犬」という概念が開く物語の中に位置付けられる。つまり、それは親から生まれ、毛に覆われていて、ワンと鳴き、四つ足で歩き、鼻がきき、眠ったり起きたりして、喜べば尻尾を振り、やがて死ぬ等という存在として了解する。無論、毛に覆われていない犬もいるし、鼻が利かない犬だってありうるだろう。しかし、それは問題ではない。私たちは「犬」という概念に対してそのような典型的な通念を了解している。ある対象を「犬」という対象の元にとらえるとき、私たちはその対象を典型的な物語の内に位置付け、そしてこの典型的な「犬」の物語がその対象の知覚に反映され、相貌をもたらす。


最後に、公共的な相貌と個人的な相貌について紹介しておこう。太郎と花子の前に一匹の(大きめの)犬がいるとする。太郎は幼少期に犬に噛まれ大怪我をした経験があり、それ以来犬を恐れているところがある。一方花子は長年愛犬家で犬には慣れている。この二人の相貌の違いについてである。二人は「犬」という共通の概念でこの対象を見ているだろう。この概念が、先ほど説明したように、典型的な物語を開く。この対象は、典型的な物語の内に位置付けられる。典型的な「犬」という相貌が二人にもたらされているのだ。このように複数の人に共有される相貌を公共的な相貌と呼ぶ。また、二人は同じ「犬」という概念でこの対象を見ているが、違っているところがある。太郎はその対象を「怖い」というふうに感じ、花子はその対象を「かわいい」と感じていたとしよう。二人の異なった個人的な経験によって、異なった物語が開かれているのである。開かれた物語によって相貌は決定されるのだから、二人のこの犬に対する相貌は異なって「も」いるのである。この場合のように、複数人に共有されていない相貌を個人的な相貌と呼ぶ。このように、私たちは他者と共有する公共的な相貌と、他者と共有しない個人的な相貌を有することになる。つまり、私たちは他者と相貌を共有していていることもあれば、共有していないこともあるのである。


さらに言えば、相貌はそこに開かれる物語によって決定されるのだから、相貌の公共性と個人性は、物語の公共性と個人性ということに他ならない。私たちは他者と物語を共有しつつ生き、それと同時に個人的な物語を生きている。他者と物語を共有しつつ生きているのだから、私は私一人の物語世界を生きているのではない。

 


(前編その4へ続く)

 


<筆者 murata>

ポリフォニーの世界(前編その2)

前回の記事はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

前回のおさらい

 

多くの人が想定してしまう意識の繭(まゆ)とはどのようなものだったか。それは外界と隔絶された、私に閉じられた意識であった。それは繭の外界にある物それ自体が表象する場所であった。意識の繭に生まれる表象は、外界の物それ自体とはどれだけ詳細に観察しようが原理的に完全に一致することはない。また、その表象は見間違えのように、物それ自体とは全く一致しないこともある。さらにそれは、幻覚や幻聴のように、外界にはないものを全くでっち上げてしまうことすらある。意識の繭とはそのようなものだった。
しかしこの意識の繭なるものは哲学的捏造物に過ぎない。それを前編で示そうとしているのだが、そのためにその2では有視点把握と無視点把握という二つの世界の把握の仕方について紹介しようと思う。

 

 


有視点把握と無視点把握


我々は二つの仕方で世界を把握する。それが有視点把握と無視点把握である。と書いても誤解を与えてしまうかもしれない。というのは、この書き方だと、ある時には世界を有視点的に把握し、またある時には無視点的に把握することがあるというふうに、あたかもスイッチを切り替えるかのような二つの把握の仕方だと捉えられかねないからである。そうではない。世界はいつでも有視点的にも無視点的にも把握されているのである。そして、有視点把握と無視点把握は相互依存的なのだ。つまり、有視点把握が成立していなければ無視点把握は成立し得ないし、逆に無視点把握が成立していなければ有視点把握は成立し得ない。具体例を挙げつつ説明しよう。

 

まずは有視点把握についてである。私の住む京都の玄関口である京都駅のメイン改札口を出れば、目の前には白い京都タワーが見える。観光客がよくそこから写真を撮っている。

 

 

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改札口前という特定の視点から撮られた写真に撮った主体は写り込んでいないが、しかしどこから撮られたのかという視点がどこにあるのかということは示されている(改札口の前である)。このように、主体の把握のあり方が示されているような把握の仕方を野矢氏は有視点把握と呼ぶ。


一方、無視点把握について説明する。同じく京都タワーを例にとって説明する。

 

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京都駅周辺の上の地図には京都タワー(赤い点)が描かれているが、そこには先ほどの改札前の写真とは違って、視点がどこにあるのかということが示されていない。主体の視点が無いのである。このように、主体のあり方を示唆することなしに成立しうる世界把握が無視点把握である。

今あげた例はあくまで視覚を例にとった把握に過ぎないが、世界把握の基礎には全て有視点把握と無視点把握が相互に働きつつ成立しているのである。私たちは有視点把握と無視点把握を共に携えて生活している。例えば、今私は、家の椅子に座って机の上にあるパソコンに文字を打っている。近い場所、例えば机の上に目をやれば、メガネケースや筆記用具などが雑然と散らばっているのを見る。そして振り返ってやや遠くに目をやれば、書棚やキッチンが見える。それらは今私が座った椅子から見られた有視点的な把握である。そして一方で私はメガネケース、筆記用具、書棚やキッチンを、私の視点によらず家のどの場所にあるのかを把握している。これが無視点把握である。このように私たちの世界把握は無視点的な様相と有視点的な様相を共に備えている。

 

 

さて、有視点把握と無視点把握は相互依存的であるということについても述べておきたい。

まず有視点把握が無視点把握に依存していることを示す。これは立体ということを例にして考えていきたい。

 

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上の図は一脚の椅子(のつもり)である。絵が下手なのはご容赦いただくとして、これを読む人はパソコンの画面、あるいはスマートフォンの画面にこの椅子の絵が写っているはずである。それがどうしたと思われるかもしれない。しかし、この絵が一脚の椅子であるというのはどのようにして成立しているのであろうか。画面に映っているのは、単なる線に過ぎない。それが椅子という意味を成立させているのは何であるか? それは、他の様々な方向から見られた眺望の了解である。一脚の椅子であるという意味が形成されるためには、他の複数の地点からの眺望が同一の対象のもとに関係付けられ、まとめあげられるということが必要なのである。断片的に一つのものだけを見ているだけでは、そこに意味を持ったものは形成されない。それは、この場合では単なる線という以上の意味を持たない。それが一脚の椅子であるという意味を持たせるには、他の視点からの、つまり私が今立ち会っていない別の場所からの眺望と関係づけられていなければならない。それを関係付け、まとめ上げられなければ一脚の椅子という意味は形成されない。このことは、有視点把握は無視点把握に依存しているということに他ならない。すなわち、今、上の絵を見る人は、画面の前から有視点的にこの絵を椅子という意味で把握しているが、それがそのこととして成立しているのは、画面の前のみならず、様々な複眼的な視点、一般的な視点からの、すなわち無視点的な了解があり、それによってまとめ上げられているからこそなのである。この意味で、有視点把握は無視点把握に依存していると言えるのである。これはあくまで視覚という特殊な例における説明に過ぎないが、本(『心という難問』)には一般的な解説が記述されている。

 

次に無視点把握も有視点把握に依存していることを示す。
これは、先ほど挙げたメガネケースを例にとって説明してみよう。
今、私がこれを書いている机の上にはメガネケースが置いてある。私はそれを椅子に座って、ある特定の視点から見る。有視点把握である。それと同時に、私はこの椅子に座った視点からだけでなく、視点によらず、そのメガネケースが家のこの机の上に置いてあることを把握している。無視点把握である。私はこの二つの世界把握を携えてこのメガネケースを把握している。しかし、メガネケースはいつも机の上に置いてある訳ではない。机に置いてあることがほとんどだが、カバンの中に入っていることもあれば、ベッドの横のテーブルに置いていることもある。ある時、私はかけているメガネを外してメガネケースに入れようとしたとする。しかし、机の上にあったと思っていたメガネケースは(私は習慣としてメガネケースを大抵机の上に置いているから)見当たらない。ベッドの横のテーブルを見る。そこにもない。カバンを探す。あった。すなわち、この例に置いて、無視点的に把握されたメガネケースの位置は机の上からカバンの中へと更新されたのである。日常では無視点的な眺望が極めて安定しているケースも多いが(京都タワーなど)、このメガネケースの例のように、無視点的な、つまりある特定の視点によらない位置の把握も更新(アップデート)されていく。この更新は、知覚による主体のある視点からの新たな情報の取り込みがなければ不可能である。この一例から、無視点把握は有視点把握に依存していることが理解されると思う。尚、野矢氏はこの更新ということの他に、細密化や忘却ということからも無視点把握が有視点把握に依存していることを説明している。

 


さて、私たちは意識の繭などないということを示そうとしているのだった。総括はまた後で行うが、今少しだけ述べておこう。意識の繭論者はおそらく、無視点把握されたあり方こそ世界の真のあり方だと思い込んでいるのだろう。そして、有視点把握は真なる無視点把握の表象であるかのように捉えているのだろう。しかしそうではない。知覚は意識の繭に生まれた表象などではない。従って、誤った知覚(例えば錯覚)とされるものは、誤った表象ではなく、それはそれで世界のあり方なのである。

 

(前編その3へ続く)


<筆者 murata>

ポリフォニーの世界(前編その1)

 

 

先日、『心という難問 空間・身体・意味』(野矢茂樹著)という昨年出版されたばかりの新しい本を読み終え、その内容に感銘を受けた。この感銘を動機としてこの記事を書いてみようと思う。


本記事の内容であるが、まず野矢氏の主張を紹介し(前編)、その後、その中でも特に相貌論における「物語」という概念について取り上げ、私自身の今抱いている考えを述べるつもりである(後編)。おそらく一つの投稿にしては読む方にしても長くなるだろうし、私も途中まで書いて何らかの理由で放棄して全部駄目にしてしまうかもしれないと思ったので、その日に書けたところまで分割して投稿していくことにする。今の極めていい加減な見立てでは前編と後編を合わせておそらく五つか六つぐらいの投稿になるだろうか。しかしそれよりも長くなるかもしれないし、挫折して数回で終わってしまうかもしれない。特に後編はあまりにお粗末でまとまりのつかない混乱状態を開陳することになるかもしれず、それなら恥をかきたくないからそのまま読者の前から逃亡してしまう恐れがある。

 

しかし、後編について、なぜとりわけ相貌論の物語について取り上げるのか? 本論に入る前にその理由を説明しておこう。この著作において野矢氏は素朴実在論を一貫してその正当性を主張しているのだが、私見によればそれは基本的にはハイデガーの世界内存在と同じ洞察をしている。つまり、野矢氏とハイデガーにとって、私とは身体を持ち、世界に開かれ、世界にじかに接し、まさにそこで生活している私である。決して伝統的な哲学が想定したような、客観を認識する意識主観なるものではない。世界内存在はハイデガー読書会で(あるいはそれ以前から)もう長く私の慣れ親しんだ考えであり、したがって野矢氏の素朴実在論そのものには特別な新鮮味は感じなかった。野矢氏がその素朴実在論の正当性を論理明晰に説明していくさまは見事ではあるけれど(実に見事である!)、その考えそのものに目新しさというものはない。しかし、内容のうち、相貌論において物語という概念を駆使して分析していた箇所は私には斬新であり、特に面白かった。ハイデガーの『存在と時間』では自己が立ち上がるありさまを時間性と絡めて分析しているが、物語(これも当然時間性と絡んでいる)という概念を用いて観察すれば、その事態は見えやすくなるかもしれない。物語は、自己の自己性を読み解く有効な概念だと感じたのである。このことについて今の分からないことも含めてこの機会に文字に残しておきたいと思った。

 

 

 

意識の繭(まゆ)とは

さて、まずこの前編では主にこの著作における野矢氏の主張、つまり素朴実在論への回帰について紹介しよう。それは極めて重要な指摘であるように思われるから、紹介する価値はあるだろう。野矢氏がこの著作で述べていることを大雑把に一言でまとめてしまえば以下のようになる。それは、「意識の繭などなく、我々はじかに生き生きとした世界を生き、心ある他者と出会っている」ということである。繭とは昆虫が作り出す、あの繭のことである。野矢氏はこの著作において、わたしの意識の繭という、世界ないし他者と隔絶された伝統的な哲学的虚構物をしりぞける。そして私は実生活において生き生きとした世界・心ある他者とじかに立ち会っているという常識的に考えられている素朴な事実へと回帰する。といってもまだうまく伝わらないかもしれない。詳しく述べていこう。


意識の繭というのは、つまり意識のことである。繭と表現しているのは、それが私に閉じられた意識であることを示す比喩であろう。意識の繭理論に従って具体例を挙げて考えてみよう。例えば、私の目の前にりんごがあるとする。意識の繭理論によればこのりんごは、私の意識に生じたりんごということになる。そして、それは私の意識の外部に真なるりんごというものがあって、私の意識の繭に映されたりんごは真なるりんごとは別物(完全に一致しない)だということを示唆している。
なんだかわかる気もするし、一方で奇妙な考えだと思われるかもしれない。私たちが普段日常生活をしているときにはりんごは意識に生じたりんごなどとは考えず、目に映っているこのりんごはそのままそのりんごであるから、この意識の繭理論は実感に基かない奇妙な考えだと感じられるだろう。けれども、生活から一歩退いて、いわばメタ的な視点でこの目の前のりんごのことを考えると、このような理屈も別にまずいところはなく成立しているように思われるだろう。
この意識なるものを想定するのが正当であることを実証するかのような日常的な例がある。それは見間違いである。例えば、山を歩いている時に道の先に蛇が見えたとする。驚いて足が止まる。しかしよく観察してみるとそれは蛇などではなく、単に打ち捨てられたロープにすぎなかった。この例において、驚いて足を止めたとき、意識にあったのは蛇であるが、本当にそこにあったのはロープである。このように私の意識に生じているものは外部にある真なるものと必ずしも一致しないというケースが少なからずある。また、本来そこにないものを見たり聞いたり(幻覚・幻聴)することもある。このような事実は、私が見ているものが素朴にそのままそれ自体であるという考えを覆すもののように思われる。従って私の意識と外部のそれ自体客体的なものという二つのものを想定することに別段不都合はないように考えられるのである。
実際、この意識(の繭)というものを哲学では当然のもののごとく考えられてきたのである。不勉強でもしかするといい加減なことを言っているかもしれないが、特に20世紀に入るまでの哲学は意識主観と客観の関係を説明することに奮闘してきた歴史があるようだ。もちろん今でも意識というものを想定して哲学している学者も少なくないだろうし(というよりそちらが主流?)、学者ではなくとも生活から一歩後退してメタ的に世界を観察することのある哲学的な人ならば、ごく普通にこのような考えを抱くことがあるのではないだろうか。
この意識というものを前提して哲学を始めてしまうと解決の糸口が見出せない様々な難問・擬似問題が生み出され袋小路に陥ることになったり、あるいは独我論のような実感に基かない極端な考えが生み出されることになる。なぜ袋小路に陥ったのであろうか? なぜ実感に基かない考えが導かれたのか? 問題が行き詰まった時、それを解くためには我々は問題が始ったその地点に引き返さねばならない。そしてその地点とは、意識の繭なるものを想定したその時である。

 
意識(の繭)なるものを想定するということは、私という意識の繭と繭の外部、つまり世界あるいは他者との間に原理的に絶対に越えることのできない壁を築くということである。私は意識の繭に閉じ込められていて、背後にある真の世界に触れることはできない。また、同じく繭に閉じ込められている他者と真に心ある交流を持つことはできない。
果たしてこの繭は破られるのだろうか?


(前編その2へ続く)


<筆者 murata>