対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part2)

※part1はこちら

dialogue-space.hatenablog.com

 

 

 

<第一章 自然科学と心 の続きから>

(2)機能主義

 (ⅰ)機能主義における心の定義について

 ところで、心的なものを脳の物理的機能へと還元するような発想法は、心の哲学(philosophy of mind)認知科学、またAI研究において主流となっている「機能主義」の立場にも顕著に現れていると思われる。機能主義とは、心的なものを、それがどのような因果的役割を果たしているかという観点から定義しようとする立場のことである。つまり、心がどのような原因によって引き起こされ、どのような結果を引き起こすかというところに注目するのである。例えば、腕を硬いものに強くぶつけたことの結果として生じ、ぶつけた腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的状態が「痛み」だというわけである。すなわち、次のような図式(a1)になるだろう。

 

腕をぶつける→「痛み」→腕を押さえる etc  ―(a1)

 

 あるいは前に挙げた例について言うと、映像から光刺激が到来したことの結果として生じ、「笑う」という一連の行動を発現させる原因となる心的状態が「面白い」という感情だということになるだろう。すなわち、次のような図式(a2)である。

 

映像からの光刺激→「面白い」→笑う  ―(a2)

 

 機能主義の心の定義でもやはり、「刺激→脳→反応」モデルが念頭に置かれていると思われる。心的なものは刺激と反応の間に、あるいはAI研究の文脈で言えばインプットとアウトプットの間に、両者を因果的に橋渡しをするものとして措定されているわけである。さてここで注目すべきなのは、ほとんどの機能主義者は物理主義の立場をとっているということである。ここでもやはり暗々裡に、上述したような物理的実在としての統一的な世界への還元が為されていると思われる。すなわち、心的活動の担っている機能的役割は、いつの間にか物質的過程そのものに予め含有されている客観的な諸性質・諸法則のように見做されてしまうのである。そしてたいていの機能主義者は、心的なものの機能的役割を脳の機能と同一視するわけだ。

 とはいえ機能主義の立場は、心を単なる脳の物質的状態に還元しようとしているわけではない。物質間の因果的な連関構造全体によって心的なものが実現すると考えるのである。その点では機能主義は、心脳の対応付けというところにはとどまらず、外界との関係における心や脳の機能的役割を積極的に見ようとしている。機能主義は、心的なものを単なる物質としての脳状態と同一視するような素朴な心脳同一説を克服しようとしているわけである。

 機能主義の立場については、僕としても、「外界との関係性」というところを視野に入れている点では一定の評価を受けるべきだと思う。おそらく機能主義者は、単なる客体的事物としての脳から心的なものを導出することが不可能であることに薄々気づいている。当然のことながら、単なる物質としての脳のみでは、そこに心的なものが実現する余地は全くない。そこで機能主義者は、その客体的に実在する物質の世界に、新たに「因果的役割」なる機能を付帯させ、そこに何とか心的なものを繋ぎ止めようとしているわけである。

 しかし機能主義の心の定義は、果たして心的なものを少しでも捉えたことになっているだろうか?多くの機能主義者は結局のところ、心を物理的因果関係へと還元しようとしているわけだが、そのような態度を貫く限り、やはり心的なものをそこに接合させることなど不可能なのではないだろうか。尤も上記の図式(a1)、(a2)を見る限りでは、物質的過程に巧く「痛み」の感覚や「面白い」という感情を接合できたように思えるかもしれない。しかし、次のような例と比較してみるとよい。

 いま(a1)や(a2)との対比として、「自動ドアの前に立つとドアが開いた」という場合について考えてみていただきたい。すなわち次の図式(b1)についてである。

 

自動ドアの前に立つ→自動ドアが開く  ―(b1)

 

 あるいは、もっとシンプルな例でもよい。「物体Aが静止している物体Bにぶつかり、物体Bが動き出す」というような場合、すなわち次の図式(b2)である。

 

物体Aが物体Bにぶつかる→物体Bが動き出す  ―(b2)

 

 (b1)や(b2)については普通、心的なものとは一切関係のない単なる物質的過程であると見做される。一方で(a1)、(a2)にあっては、物質的過程の間に「痛み」や「面白い」などの心的なものが差し挟まれている。しかし両者の差異とは一体何だろうか?それは果たして機能主義の心の定義に反映されているだろうか?少なくとも物理主義に徹する限りでは、(a1)、(a2)と(b1)、(b2)は共に単なる物質的過程に過ぎないだろう。しかしそうなれば、もはや(a1)、(a2)の中に心的なものを介在させる必然性が全くなくなるのではないだろうか。いくら「因果的役割」なるものを持ち出したとしても、それが物理的因果関係と見做される限りでは、両者の間にいかなる差異も見出せない。尤も、我々は現に、(a1)や(a2)に心的なものを自然に見出す。そして機能主義は、現に見出された心的なものを物理的実在としての世界の中で整合的に説明できればそれでよいと考えているのかもしれない。しかしそれで本当に心を定義したことになっているだろうか?機能主義の心の定義からは、一体何に基づいて(a1)や(a2)に心的なものが見出されうるのか、また、なぜ(b1)や(b2)は心的なものとは関係のない単なる物理的事象と見做されるのかがさっぱり分からない。してみれば実のところ、機能主義は心を定義しているのではなく、むしろ心的なものへの言及を巧みに回避しているにすぎないのではないだろうか。こうした疑念を以下でもう少し追及しておきたいと思う。

 

 (ⅱ)因果関係なるもの

 機能主義者は、心の「因果的役割」について注目するわけだが、多くの論者はそれを物理的因果関係の埒内に位置づけようとしている。例えば、上記の(a1)、(a2)においては、客体的な二つの事象間に「痛い」や「面白い」というような心的なものが差し挟まれ、それが因果的説明によってつなぎ止められている。そして機能主義者の多くは、物理主義の立場であり、心的なものをあくまで物理的記述の中だけで完結させようとしているわけである。すなわち、「腕をぶつける」や「腕を押さえる」というような事象は、客観的に観察できる物理的事象であって、「痛み」という心的なものは二つの物理的事象間の因果的な関係項として規定されるというわけだろう。

 しかしこの考え方にはどうにも看過できないごまかしがあるように感じられる。というのも、物理的な因果関係の記述に徹するのならば、(a1)や(a2)も(b1)や(b2)と同様の図式で記述すべきであろう。つまり、

 

腕をぶつける→腕を押さえる etc ―(a’1)

映像からの光刺激→笑う          ―(a’2)

 

というふうに記述すべきであり、そこには「痛い」や「面白い」という心的なものは登場してこない。そこでは単に二つの物理的事象が継起しているだけである。勿論、二つの事象間の生理学的過程を詳細に記述することはできる。そして、物理的な因果関係をそこに見出すこともできるだろう。しかし、この過程をどれだけ詳細に記述したところで、そこにあるのは物質間の連関にすぎず、「痛い」や「面白い」などは登場してこない。それらは物理的な因果関係の中には位置づけられないのである。

 とはいえ、日常生活において「痛みの原因」を見出すことがしばしばあることは確かだ。例えば、足の裏に激痛が走って、何事かと思って足元を確認すると画鋲を踏んでいたという場合、「画鋲を踏んだこと」が痛みの原因と見做されうるだろう。けれども、ここでの因果関係と、物理的な因果関係との間には原理的な区別を設けるべきだと思われる。上記の例のような場合、画鋲を踏んだときの痛みというのは、決して客体的な物理的事象間の因果的関係項として見出されるのではない。むしろその反対に、「足の裏に激痛が走る」という経験にもとづいて、その原因たる「画鋲を踏んだ」という事象が見出されるのである。つまり、痛みをその因果的役割によって規定するよりも前に、既に痛みを一つの経験として了解していなければならないわけである。「足の裏に激痛が走る」という経験なくしては、「画鋲を踏む」という事象をその原因として見出すことも不可能なはずである。

 ここで留意すべきは、痛みというのは有視点的に把握されるものであり、<その都度>的な世界把握に属するということである。痛みを、「腕をぶつけたことによって痛みが生じ、その痛みによって腕を押さえ、顔をしかめるといった行動が引き起こされる」と因果的に説明するとき、「痛み」という心的なものは、確かに因果的過程の中に組み込まれている。しかしこうした因果的説明は、<その都度>的に把握されうる「痛み」の感覚にもとづいて初めて可能になるのであって、客体的事物間の関係として規定することはできない。かくして、機能主義者は実のところ、物理的因果関係という統一的な世界記述の中に、そこから排除されるはずの<その都度>的な世界把握にもとづいた因果的記述を密輸入しているのだ。正にここに機能主義のごまかしがある。なるほど、痛みを感じているときに生じている物理的事象を因果的に記述することは確かに可能であろう。けれども、こうして記述された物理的因果関係の過程の中には、「痛み」は登場してこない。仮に「痛み」という感覚を知らなくとも、物理的因果関係を記述することは可能であろう。つまり物理的因果関係の記述は、心的なものの存在を一切無視しても成立するのである。(いや、むしろ心的なものを排除することで成立すると言ってもよいかもしれない。)してみれば、機能主義は心それ自体には何一つ定義を与えないまま、代わりに物理的因果関係として規定された事象へと心的なものをこっそりと潜り込ませ、心を定義しているつもりになっているにすぎないのである。こうしたごまかしによって、機能主義は心という厄介な事象を問題にすることを巧みに回避しているわけだ。

 

 (ⅲ)AI研究における心

 心へのアプローチの方法として機能主義という立場をとったとしても、根底のところで物理主義を固持する限りでは心にいかなる本質的規定を与えることもできない。「因果的役割」という苦し紛れの規定も、物理主義に徹するならば結局は単なる物質間の連関へと解消され、もはや「心」などという語をわざわざ持ち出す意味が失われてしまうのである。尤も、だからといって自然科学の記述方法自体に何か欠陥があるわけではない。機能主義についての上の検討を通して見えてくるように、科学はわざわざ心などという非実在的なものを問題にせずとも、それを素通りして世界に実在するあらゆる事象を科学的に記述することが可能であろう。それゆえ、「心などという非実在的な概念を科学の分野で問題にしても仕方がない」と主張するならば、それはある意味でけじめのある一貫した態度なのである。

 しかし現状として、こうしたけじめのきちんとついていない科学主義者をしばしば目にする。ここで少し余談にはなるが、その一例として最近何かと注目されているAI(人工知能)の分野において、「AIに心を持たせることは可能か?」という問題を取り上げておきたいと思う。実際、心を持ったAIの研究開発というのも行われているらしい。こうした研究においても、やはり機能主義的な心の捉え方をするのが主流だと思われる。すなわち心は、インプットとアウトプットの間の処理過程だと見做されるわけである。そして、心を発生させるためのプログラムをどう構成するかというのがしばしば議論されている。やはりここでも、「心は脳によって生み出される」という通念が素朴に信じられていると思われる。つまり、脳の機能をプログラミングによって実現できれば、心も実現できるはずだという推論がなされているのである。

 しかし既に見てきたように、心を物質間の因果的関係項として規定した途端に、もはや心は無用の長物になってしまう。この次元では「AIは心を持つか?」というような問題そのものが成立しないであろう。それというのも、ここでは心に何一つ有意味な規定を与えていないからである。してみれば、「AIに心を持たせる研究」というのも実のところ全く方向性の見えない不毛な営みなのである。実際、こうした研究者たちは一体何がしたいのだろう?心を持たせるとは言っても、そもそもその心なるものが一体何なのか分からない。それならば、さしあたってはAIを積んだロボットに人間的な振る舞いを模倣させたいのだろうか?しかし例えば、ロボットが腕を強くぶつけたときに顔をしかめたり、打った腕を押さえたりというような振る舞いをすれば、そこに「痛み」という心的なものが実現したとでも言うのだろうか?それは「痛み」の感覚を経験的に知っている人間が、その「痛み」を感じているときに生じる典型的な振る舞いを、単にロボットに模倣させているという以上のものではないだろう。部分的に振舞い方を人間のそれに模したところで、それだけでは所詮文字通りの模造品にすぎない。

 ではロボットが模造品とはいえないくらいにまで人間そっくりに振舞うようにプログラミングすることは可能だろうか?技術が進めばもしかしたら部分的には人間そっくりの振る舞いをするようにプログラミングすることはある程度可能かもしれないが、しかしそうはいっても、身体の機構が人間とロボットでは全く異なるため、あらゆる振る舞いを人間と全く区別がつかないようにするのは無理があるし、そもそも不毛だろう。特に生理学的・生物学的な次元のもの―食欲、排泄の欲求、疲労感、性的欲求などをロボットに持たせることなど馬鹿げたことであろう。しかしそうすると、「おいしそう」だとかいう感情も無意味になるし、疲れてミスをしたり、そのミスにイライラしたり、などということもなくなるのである。とりわけ人間の多様な気分的状態は、生理的なものと密接に結びついているのであって、そんなものまでわざわざロボットに持たせようとするのは無意味で不合理なことであろう。

 心を持ったロボットが仮にいたとして、そのロボットの生活スタイルはどのようになるのだろう?とても人間には想像もつかないようなものになるのではないか?というよりも、そもそも無生物のロボットに "生活" などという概念を持ち込むのは不適切なのではないか?AI研究は、こんな想像もつかない、というよりも想像するのも馬鹿げていることのために為されているわけではあるまい。AI研究は、あくまで人間の生活にとって有意味であり、かつその範疇において人間を凌ぐような処理能力をAIに持たせることが重要なのではないか。例えば最近、人工知能を癌の早期発見に活用する研究が進んでいるらしい。人間では見落としてしまうような癌の小さな兆候を人工知能は識別しうる。あるいは、自動車の自動運転なども有効な研究だろう。けれども、「心を持たせる研究」などというのに一体何の意味があるのか、僕にはさっぱり分からない。

 尤も、「AIは心を持つか?」という問題が関心を集める背景には、AIが勝手に意志を持ち出し暴走して、人間には制御不可能になってしまうというような事態への懸念があるのかもしれない。確かに、AIが人間に予測できないような事態を引き起こす可能性はないとは言えないだろう。そしてAIの暴走が人間に大きな被害をもたらすかもしれないと危惧するのも一応分かる。けれども、それはAIの意志なのだろうか?そもそも人間が造ったものが暴走し、人間が被害を受けるというような事態は今に始まったことではない。福島の原発事故もまさに予期せぬ事態であった。けれども、誰もそこに「原発の意志」などを介在させる者はいないだろう。それは紛れもなく人災なのだ。同様にして、もしAIが人間に何らかの被害をもたらしたとしても、それはやはり人災だと言うべきではないだろうか。そこに「AIの意志」などという心的なものを持ち出す必然性はどこにもない。それはAIを擬人化しているにすぎないのである。

 

part3はこちら→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part3訂正版) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>

心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part1)

※この記事は現在執筆中のため未完結です。かなり長くなる予定なので、続きを書け次第分割投稿していきたいと思います。(挫折する可能性あり)

 

 

 心脳問題とは、「心と脳との関係は?」というきわめてシンプルな問題だ。けれども、哲学者の中には、哲学史上最大の難問だと言う者もいる。簡単そうに見えて、考え出すと実に厄介な問題なのだ。なお、伝統的には心身問題、つまり「心と身体との関係は?」という問題であるが、現代においては「心の座は脳である」というのが通念になっていることを踏まえ、また、こうした通念からくる脳中心主義的、脳還元主義的な発想法を問題視したいため、この記事では「心脳問題」という表題を選んだ次第である。

 ところで以前に僕は、「こころと脳の問題」という記事でこの問題について少し言及したが、改めてこの厄介な問題について考えてみたくなったので、この記事を書くことにした。以前の記事の内容と若干かぶるところもあると思うが、基本的にはほぼ新規の内容のつもりである。

 

序言

 心と脳との間に密接な関係があることは誰もが認めるだろう。スピリチュアリズムに走るのではない限り、脳活動が停止すれば、意識も消失すると言わざるを得ない。そこまでいかなくとも、脳の損傷は、心の領域に大きな影響を及ぼすことは明白な事実であろう。だがそれにしても、心と脳の関係は一体どのように規定されるべきなのだろうか?

 脳生理学の分野では、心の状態と脳の状態との間に一定の対応関係を見出すことに成功している。さまざまな心的活動において、脳のどの部位が働いているかを特定し、両者の対応付けを行っているわけだ。但し、こうした研究によって実証されるのは、あくまで心と脳との間に何らかの "対応関係" があるというところまでだということに留意してほしい。脳生理学の視点からは、これ以上のことは何も言えないはずだ。けれども人はとかく、心脳の相関というレベルを踏み越えて、なぜか脳の側に中心軸をスライドさせ、「脳が心を生み出す」と言ったりする。あるいは、「脳が認識する」、「脳が判断する」、「脳が指令する」など、まるで脳があらゆる心的活動を牛耳っているかのような表現をしばしば見かける。果たしてこうした発想は本当に妥当なものだと言えるだろうか。「脳が心を生み出す」という主張には一体どれほどの必然性があるというのだろうか。

 僕としても、この「脳が心を生み出す」という主張が完全に間違っているとは思わない。けれども、少なくとも心的活動の全てを脳の働きに還元してしまうような考え方には同意しかねる。というのも、我々は別に脳だけで生きているわけではないからである。我々は「身体」を持ち、絶え間なく外界との接触、交渉を保ち続けているのであって、こうした周囲世界との関係性、あるいはその都度身を置いている状況などを度外視して、心的なものを脳の生理学的過程のみに対応付けることにそもそもの問題がありはしないだろうか。なるほど、例えば悲しみという感情は脳の働きなくしては存立し得ないだろう。また、悲しみにくれているとき、脳の状態に何らかの変容が見られるのも事実であろう。しかし、その脳状態も、また悲しみという感情も、決してそれ自体で完結しているわけではなく、その都度その都度の状況において、あるいはその状況を受けて初めて生起しうるものではないだろうか。悲しみとは、決して抽象的な観念ではないのであって、そのときの状況においての悲しみ、例えば、大好きな祖母の死を受けての悲しみなのである。してみれば、悲しみという感情を引き起こすのは脳活動というよりも、むしろ「大好きな祖母の死」という出来事だと言うべきだろう。いや、より正確には、「祖母の死」という状況そのものが悲しみの様相を帯びて立ち現れるのである。一方で脳状態の何らかの変容にしても、やはりその時々の状況を受けてのことなのであって、その意味では、状況こそが脳を何らかの状態へと変容せしめるわけだ。哲学者大森荘蔵の主張するように、脳の状態と心の状態は原因と結果の関係にあるのではなく、一つの状況についての二通りの描法、同一事態の二つの相貌と見るのが最も適切だと思われる。

 したがって、当人が身を置いている状況を全く考慮せずに、脳の生理学的過程のみから心的なものを説明しようとするような態度は挫折を余儀なくされるであろう。さらに言えば、「心と脳の関係は?」という問いそのものがある意味で不毛なのであり、両者の関係性は、「その都度の状況へと開かれている」という我々のアプリオリな存在仕方を記述することによって明らかにされるべきなのである。とはいえ、「状況へと開かれている」とは一体どういうことなのか?こうしたことを問い進めるためにも、さしあたっては、「脳から心へ」という説明方法がいかなる限界に直面せざるをえないのかを見ておくことにしよう。

 

第一章 自然科学と心

 心脳問題の背景には、心的なものを自然科学の分野で如何にして扱えばよいか、自然科学が記述する世界の中に心をどのように位置づければよいか、という問題がある。それゆえ問いの立て方は必然的に、「物質的・物理的世界から如何にして心的なものが実現するのか?」というふうになる。特に心脳問題の文脈では、「脳の物質的過程から如何にして心が生み出されるのか?」と問われるわけである。こうして論者たちは、心と脳の両者を接合すべく、様々な整合的説明を試みるわけだが、現在に至っても論争は絶えず、解決の見通しは立っていないと言うべきだろう。尤も、心脳問題は科学の進展によって自ずと解消されてゆくのではないか、と考える方もいるかもしれない。しかし僕はどうしてもそうは思えないのだ。むしろ、科学が進展すればするほど、この問題はより深刻さを増してくるのではないかと考える。というのも、この問題は科学的知見の不十分さによって生じるようなものではなく、その根幹に原理的な問題を抱えているように思われるからである。したがって、以下においては上のような論争には追従せず、心脳問題の実態を把捉すべく、なにゆえこのような問題が生じてしまうのかというところに目を向けたいと思う。

 そもそも多くの論者は基本的に、自然科学的な世界観を固持したまま、心的なものの存在をそこに付加しようとしたり、そこへと還元しようとしたりしている。ここでは、科学が記述する世界は議論の前提となっており、その存在論的身分はほとんど問われずにいるのである。そこでまずは、論者たちのこうした態度を問題にし、自然科学が記述する世界をある程度相対化しておく必要がある。勿論それだけで心脳問題の本質に迫れるわけでは決してないが、少なくとも上のような論者たちの問いの立て方が、心脳問題なる一つのアポリアを生じさせる要因になっているように思うのである。

 

(1)心脳問題の背景

 (ⅰ)心は生理学モデルから抜け落ちる

 心的なものを考察する上でも、また脳の機能を分析する上でも、「環境とのかかわり」という視点を欠かすことができないのは、わざわざ改めて主張するまでもない当然のことであろう。認知、情動、意志、記憶、学習などあらゆる精神活動の成立条件として、外界とのつながりを欠くことができないのはおそらく誰もが分かっている。ところが奇妙なことに、いざ心の存在を位置づける段になると、単に「脳の産物」だと考えてしまいがちなのではないだろうか。これには一体どのような背景があるのだろう?

 問題の本質を見るために、ここで生理学における基本的なモデルに注目しよう。それはすなわち、「刺激→脳→反応」というモデルである。つまり、感覚器官によって受け取った刺激が感覚神経を通して脳へと伝達され、脳が興奮し、それが今度は運動神経を通して筋肉へと伝達され何らかの反応運動が生じるというわけだ。無論、このモデル自体は、生理学的過程を記述する上では十分に正しいだろう。しかし、これはあくまで物質的過程の記述なのであって、そこからは必然的に心的なものの存在が抜け落ちてしまう。そこで人は、このモデルに心的なものを何とか接合しようとし、様々な説明方法を構想するわけである。

 いま、例として「面白い映像を見て、思わず笑ってしまった」というような事態を考えてみよう。これは上記のモデルに即すると、次のように記述できるだろう。すなわち、映像から到来した光刺激が脳に伝達され、脳のある部位が興奮し、それが今度は各筋肉に伝達され、「笑う」という行動が発現するというわけだ。しかしそれにしても、この過程の一体どこに「面白い」という感情があるのだろう?それは果たして脳によって生み出されるのだろうか?なるほど確かに、「面白い」と感じているときに、脳に何らかの特定の化学物質が生じていることを観察することは可能かもしれない。そしてこれに対して常識は、「脳が面白いという感情を生み出す」と推論するかもしれない。だが、その化学物質そのものに「面白い」という意味が書き込まれているわけではあるまい。脳内の化学物質が「面白い」のではなく、あくまで思わず笑ってしまうような外界の映像が「面白い」と言うべきだろう。ところが、上記のモデルにおいては、この映像もやはり単なる光刺激の一つにすぎないのであって、ここにも「面白い」という感情は存在しないわけである。思うに、「脳が心を生み出す」という通念は、「刺激→脳→反応」モデルを固持したまま、そこから抜け落ちてしまう心的なものを何とか接合しようとして捏造された妥協的推論なのではないだろうか。

 「刺激→脳→反応」モデルはどこまでも物質的過程の記述に徹するほかないのであって、その記述の中には必然的に「面白い」などといった意味は登場してこない。ここにおいては、例えば本に書かれた文章も単なる紙の上のインクの染みでしかないだろう。すなわち物質的過程の記述とは本質上、心的なものの排除へと向かうものなのである。とはいえ、こうした物質的過程を記述するだけならば、別にまだ「脳が心を生み出す」などという発想は出てこない。その記述は世界の一つの観方であり、一つの描法であるというだけのことである。問題は、その物質的過程をその時々の状況の意味から切り離し、単なる物質とそれらの連関から成る世界を "実在世界" として位置づけようとする傾向にある。ここにおいては、その都度の状況とのかかわりから切り離された物質的実在体としての脳がまず措定されるのである。しかし脳それ自体は単なる物質であり、そこには心的なものの存在する余地がないため、さしあたっては「脳の "働き" によって心が生み出される」という妥協的な説明方法によって心的なものを物質的過程に接合させようするわけだ。とはいえ、単なる物質的過程としての脳機能が心を生み出すとは一体どういうことなのか、その意味が全く不透明なままこの通念が保持されていることは言うまでもない。そしてしばしば人は、「脳が認識する」、「脳が判断する」、「脳が指令する」等の擬人法的な表現を用いて心的活動を説明しようとするのである。しかしこうした表現は当然、一種の比喩にすぎない。しかも、心的活動を説明するために、心的領域に属するはずの「認識」「判断」「指令」といった言葉が用いられている時点で、それは本末転倒であり、何一つ説明したことにはなっていないのである。尤も、あくまで比喩としてこうした表現を用いる分には一向に構わない。だが何かにつけて比喩的表現の枠が無分別に踏み破られ、脳がまるで心的活動の主体であるかのように思念されているのが現状なのではないだろうか。

 

 (ⅱ)<その都度>的な世界把握と統一的な世界把握

 脳というのは言うまでもなく有機体の一つの器官なのであって、そうである以上、環境との相互関係なくして、それ自体ではいかなる機能をも持ちえないだろう。有機体がその環境内で生活していくところにおいて、脳もその有機体の一つの器官として何らかの機能を持ちうるのである。だがそれにもかかわらず、心脳問題の文脈ではなぜかこうした視点が軽視され、脳とその機能がそれだけで切り離され実体視される傾向にある。僕としてはここに大きな問題を感じるのである。

 議論を進めていくにあたって、心脳問題を考える上で重要になってくる基本的な構図を記述しておこう。ここで世界把握の二つの様態として、「<その都度>的な世界把握」と「統一的な世界把握」を提起したい。まず<その都度>的な世界把握とは、簡潔に述べれば、その都度の状況に開かれ、その状況とのかかわりにもとづけられた世界把握の在り方を表現している。また、こうした世界把握のもとで立ち現れてくる諸事物の様相を「相貌」と呼ぶことにする。先に言っておくと、心という事象の存在性格は、<その都度>的な世界把握を無視しては全く見えてこないのである。一方で、その都度の状況を度外視して、事物それ自体に備わっている恒常的な諸性質や諸法則を劃定しようとするような態度が統一的な世界把握である。自然科学的なものの観方がその典型である。また、このようにして把捉された事物を「客体的事物」と呼ぶことにする。以下で見て行くように、心脳問題の根幹には「<その都度>的な世界把握」と「統一的な世界把握」という二つの世界把握の、ある種の折り合いの悪さが大きく関係しているのである。

 この二つの世界把握についてもう少し詳しく述べておこう。<その都度>的な世界把握とは、その都度の状況にもとづけられて事物の様々な相貌を把捉することであるから、それは "有視点的" である。例えば一つの家は、その都度身を置く状況において様々な相貌のもとに把捉されうる。家の相貌は、単純に見る位置によって様々に変容するという意味で有視点的であるが、それだけではなく、その家を、単に立ち並んでいる家々の一つとして見るのか、それとも自宅として見るのか、あるいは久しぶりに帰ってきた実家として見るのか、といったことも全て<その都度>的な性格を持った有視点的把握である。

 ところで一方では、家という対象物は、様々な相貌を持ちうるとしても、それ自体としてはあくまで同一のものであることを我々は自然に了解している。つまり、「家」それ自体の存在は、その都度の状況において立ち現れるいかなる相貌にも還元されることなく、むしろそうした多様な相貌を可能にするただ一つの実在体として把握されてもいるわけである。ここにおいては、「家」という対象物は、決して有視点的に見られたものというわけではなく、そうした多様な視点を可能にする、統一的な、それ自体としては謂わばどこからも見られることのない無視点的な存在として把捉されている。正にこのような事物の捉え方が統一的な世界把握である。<その都度>的な世界把握が有視点的であるのに対し、統一的な世界把握は無視点的である。

 さてここで重要なことは、統一的に把握された世界記述の中には、その都度の状況において立ち現れる諸事物の相貌が抜け落ちてしまっているということである。例えば家の設計図を記述することは、家を統一的に把握する方法の一つと言える。けれども、その家の設計図をどれだけ詳細に記述したところで、その記述の中には、どこにもその都度見られうる家の相貌は登場してこない。このことは、「刺激→脳→反応」の過程をどれだけ詳細に記述しても、その中に心的なものが登場してこないのと類比的である。心という事象は、客体的に存在する事物などではなく、あくまでその都度の状況に巻き込まれるところにおいて生起しうるのである。悲しみは、どこかに客体的に存在しているのではなく、例えば大好きな祖母の死を受けての悲しみなのであり、これは<その都度>的な世界把握において見出されうる。ところが一方で、脳生理学の記述する脳の機能は、その都度見出される多様な相貌を排した客体的事物としての脳の機能であろう。脳の機能は、その都度当人が身を置いている状況を度外視した単なる客体的事物として把握され、物理的実在としての統一的な世界の中に位置づけられるわけである。それゆえここには、もはや心の存在する余地はない。そこにあるのは客体的に実在する物質間の連関にすぎず、当人がどのような状況のもとに、事物をどのような相貌において把捉しているのかというようなことは完全に抜け落ちてしまっているのである。こうして、脳という一つの客体的事物と、そこから零れ落ちる心的なものとの関係をめぐって、心脳問題というアポリアが立ち上がるのである。

 

 (ⅲ)脳機能をどのように捉えるか

 見てきたように、心とは統一的に把握された世界から零れ落ちるなにものかであるわけだが、このように言明したところで心の存在性格はまだまだ不透明なままである。けれどもこの段階では、心の問題はひとまず棚上げし、さしあたっては、脳機能をどのように捉えるべきかという点に注目したいと思う。

 ここで問題にすべきは、脳機能を単なる客体的事物として見做すのが本当に適切かどうかという点である。確かに、脳の機能を単なる物理的事象と見做し、その物質的過程を詳細に記述することはできる。けれども、上述したように、脳というのはあくまで有機体がその環境世界の中で生きてゆくところにおいて、初めてその有機体の一つの器官として機能しうるのだということを見落としてはならない。少なくとも、孤立した脳が単独で心といったものを生み出すなどというようには考えるべきでない。有機体が環境世界で生きてゆくというのは、すなわち、おのれの生活のために周囲の事物を知覚したり、そこに働きかけたりすることなのであり、周囲の事物は、さしあたっては生活のための関心事として把捉されるのである。こうしたことは生物の基盤となる個体維持・種族維持にもとづけられた生物のアプリオリな存在性格として認めるべきだと思う。そして、この環境内存在としての生物の存在仕方を基礎として、脳という一つの器官も何らかの機能を持ちうるのである。

 ところで、生活への関心にもとづいて周囲の事物と交渉するというのは、正に<その都度>的な世界把握にほかならない。生物は身体を持ち、常に環境に投げ出されているのであり、この事実がその都度のいま・ここを開いている。そして、さしあたってはおのれの生活への関心において、その都度事物に様々な働きかけを行うことが、正に状況とのかかわりを持つことなのである。ここで重要なのは、その都度開かれている状況とかかわるところにおいて、初めて脳という器官も何らかの機能を発揮しうるということである。ところが、有機体がその都度身を置いている状況を度外視して、単なる客体的事物としての脳の物質的過程をまず措定してしまうと、生物の<その都度>的な存在仕方が全く目に入らなくなってしまうのである。脳生理学を含めた自然科学はその学問的性格上、徹底して統一的な世界把握を目指しているため、一切の<その都度>的に把捉される相貌を排した客体的に実在する事物とその連関としての世界の記述が要請されるのであり、ここにおいては脳機能ももはや単なる物質的過程と解さざるをえなくなる。それどころか、「刺激→脳→反応」モデルであっても、「状況とのかかわり」とは無縁の単なる物質的過程と見做されるのであり、そこにあるのは<その都度>的性格を持たない客体的事物間の連関にすぎない。こうして心的なものは、脳生理学の記述から零れ落ちてしまうのである。

 とはいえ実のところ、脳生理学は単なる物質としての脳を観察しているわけではない。というのも、単なる物質としての脳の観察のみでは、何一つ有意味な知見が得られないからである。脳生理学は、一方で客体的事物としての脳の観念を固持しつつ、一方ではそこからは排除されてしまう<その都度>的な存在性格を持つ心という事象を謂わば輸入することによって成立しているのである。問題は、脳還元主義的な発想によって、これがしばしば密輸入的になってしまうという点である。以下ではこのことについて少し言及しておこう。

 思うに、脳生理学の知見は脳を単独で観察することによって得られるのではなく、あくまで様々な精神活動―認知、情動、意志、記憶、学習等と結び付けられることによって初めて得られるものであろう。すなわち脳の各部位は、様々な精神活動を営む上での何らかの機能的役割を担うものとして観察されるわけである。この際留意すべきなのは、心的なものの存在は、脳の観察によって発見されるというわけではなく、むしろ脳生理学の諸研究に先立って既に前提されているということである。これは至極当然のことだが、しばしば見過ごされているように思う。例えば、C繊維の興奮を「痛み」の感覚と結びつけることができるためには、そもそもそれに先立って「痛み」という感覚を日常的な経験の段階で既に了解しているのでなければならない。「痛み」は脳生理学によって発見されるようなものではなく、むしろ脳の研究を行うに当たっての前提的了解事項なのである。もし「痛み」という感覚を、科学的研究を始めるよりも前に既に経験として知っていなかったとしたら、もはや「C繊維の興奮」という現象は文字通り単なる物理・化学的現象の一つにすぎず、そこに心的活動における機能的役割を見出す必然性はなくなるであろう。勿論、「痛み」という感覚を知った上でなおもC繊維の興奮を単なる物理・化学的現象と見做すことも可能ではあろうが、その単なる物質としてのC繊維から「痛み」の感覚を導出することは絶対に不可能である。心的なものは脳機能の分析から導出されるのではなく、むしろ心的なものの前提的了解にもとづいて脳機能の分析が為されるのである。

 しかしこうしたことはしばしば見過ごされてしまう。上で述べたように、心的なものの了解に基づいて、脳の各部位の機能的役割が劃定されうるわけだが、ところがこうして劃定された機能は、しばしば物質としての脳そのものが即自的に所有しているものであるかのように解されてしまうのである。すなわち、脳の各部位に見出される機能的役割は、<その都度>的性格を排した客体的に実在する物質の属性だというふうに思念され、各機能は客体的事物としての脳の各部位へと帰属されてしまうわけである。こうして、心的なものの前提的了解にもとづいて劃定されたはずの脳機能は、いつの間にか心的なものを排した物理的実在としての世界の中に位置づけられるというわけだ。ここにおいては、脳機能はもはや単なる物質的過程にすぎないのであって、そこには心的なものの存在する余地はない。そしていったん排除された心的なものを、後になって再び単なる物質的過程としての脳機能へと強引に接合しようとするところに心脳問題が立ち上がるのである。

 

part2はこちら→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part2) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>

「流れる時間」という壮大な錯覚

科学の発達した現代において、占い師や宗教家たちの予言を信じる者に対し冷ややかな目を向ける者は少なくないだろう。わたしもそのひとりである。

もっとも、予言を信じると言っても彼女たち(女に多いのでこの代名詞を用いる)がごく軽い気持ちで、例えば神社の初詣でおみくじを引くぐらいの気持ちで、ほとんどただ無邪気に楽しんでいるだけならばまだ馬鹿らしいという非難めいた気持をわたしに起こさせることはない。けれども彼女たちの迷信がもし大真面目に占い師や宗教家の予言を信じるという段階まで進んでいるようならば、安易に安心を求めるあまり真実を犠牲にしていると批判的な判断を下さざるを得ないだろう。ここまではこれを読む大部分の人が同意してくれるように思う。

 

 

しかし、私見ではほぼすべての場合、実のところ予言の盲信者を批判する者も流れる時間という巨大な錯覚に陥っているという意味では同一の立場に立っている。これは断じて科学史上主義者の鼻を折ってやろうという意図から屁理屈を言うのでもない。また、もちろん、安易に走る予言盲信者の人間的弱さを弁護しようというのでもない。ただ時間という現象を正しく見据えるためにこう述べるのである。では、流れる時間という錯覚とは一体いかなる意味であるか?



例えばある予言盲信者が「3年以内に運命のひと(恋人)が現れる」という予言を信じていたとしよう。これは彼女たちが大なり小なり未来のその出来事がその未来の時間に起きることが固定されていると思い込んでいるのである。言い方を変えると、世界をまるでビデオの動画のように、先送りすればある出来事が必ず起きるものと信じているのである。

また、彼女たちを否定をする者は彼女たちに対して例えばこんな風に反論するだろう「そんな予言はインチキだ。物理学で記述可能なシンプルな運動などは別として、未来のことは誰にも予測不可能である。もし本当にそんな予測ができる者がいたらそいつは占い師などといういかがわしい商売で小金を稼ぐかわりに宝くじでも買って億万長者として悠々自適な生活を送るはずだ」と。このような意見は一見何も間違っていないように思われる。しかし、わたしの見るところ、このように反対する者もやはり予言盲信者と同じく過去→現在→未来と時間が流れ、その各瞬間ごとに固定された出来事が生じるといういわば動画モデルの時間を前提しているように思われる。未来のことはまだ起きていないことだから出来事が絶対的に固定されていないと認める者も、過去についてはすでに起きたことなので固定された出来事が過去という時間に実在するとおそらく認めるのではあるまいか。

 

時間が流れ、その各瞬間ごとにある固定された出来事が起きているというモデルは、全く疑われることのない常識としてあまねく染み渡っている。あまりに深く公然の事実として浸透しているため、これを否定する意見は著しく常軌を逸したものと捉えられるだろう。



では時間という現象がそのようなものではないと言うのなら、一体それはどのように解釈されるのが正当なのであろうか。わたしの答えはこうである。

 

【我々は今を生きているのみで、過去や未来といったものは仮象という姿で我々にあるにすぎない】

 

わたしは未来や過去が無であると主張しているのではない。それは<ないというあり方である>のである。なんだかひどく矛盾めいた言い方だが、そのように言い表す他ない。

あらかじめ時間が直線的に過去→現在→未来へと流れ、我々がその流れに乗っているのではなく、今生きる我々が言葉を学ぶことによって世界に能動的に意味を固定させたからその時間モデルが成立しているのである。これを逆さまに解釈してしまうのは錯覚である。

 

この逆さまに解釈してしまう錯覚は時間という現象だけに当てはまらない。言葉を習得した我々人間は我々が能動的に意味を付与して意味のある世界が成立しているという事実を忘れ、世界にあらかじめその意味が絶対的に染み込んでいたと逆さまに解釈してしまう。科学的世界観はその典型である。

 

尚、注意して欲しいのだが、だからといって科学の有用性を否定しているわけではない。それは全然別の話なのである。ロケットが発射された後の軌跡の予測は計算可能である。また、予言も不可能ではないのだ。例えばものすごい美人なら運命と思える人が3年以内におそらく現れるだろう。

 

わたしが述べたいのは、今生きているだけの我々が言葉によって過去とか未来という<ないというあり方であるもの>を能動的に意味を付与することによって成立させているにも関わらず、あべこべに、あらかじめ世界に過去現在未来という時間が絶対的に流れていて、その各瞬間はある出来事が固定されて実現されていると錯覚してしまうという事である。



<murata>