対話空間_失われた他者を求めて

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心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part1)

※この記事は現在執筆中のため未完結です。かなり長くなる予定なので、続きを書け次第分割投稿していきたいと思います。(挫折する可能性あり)

 

 

 心脳問題とは、「心と脳との関係は?」というきわめてシンプルな問題だ。けれども、哲学者の中には、哲学史上最大の難問だと言う者もいる。簡単そうに見えて、考え出すと実に厄介な問題なのだ。なお、伝統的には心身問題、つまり「心と身体との関係は?」という問題であるが、現代においては「心の座は脳である」というのが通念になっていることを踏まえ、また、こうした通念からくる脳中心主義的、脳還元主義的な発想法を問題視したいため、この記事では「心脳問題」という表題を選んだ次第である。

 ところで以前に僕は、「こころと脳の問題」という記事でこの問題について少し言及したが、改めてこの厄介な問題について考えてみたくなったので、この記事を書くことにした。以前の記事の内容と若干かぶるところもあると思うが、基本的にはほぼ新規の内容のつもりである。

 

序言

 心と脳との間に密接な関係があることは誰もが認めるだろう。スピリチュアリズムに走るのではない限り、脳活動が停止すれば、意識も消失すると言わざるを得ない。そこまでいかなくとも、脳の損傷は、心の領域に大きな影響を及ぼすことは明白な事実であろう。だがそれにしても、心と脳の関係は一体どのように規定されるべきなのだろうか?

 脳生理学の分野では、心の状態と脳の状態との間に一定の対応関係を見出すことに成功している。さまざまな心的活動において、脳のどの部位が働いているかを特定し、両者の対応付けを行っているわけだ。但し、こうした研究によって実証されるのは、あくまで心と脳との間に何らかの "対応関係" があるというところまでだということに留意してほしい。脳生理学の視点からは、これ以上のことは何も言えないはずだ。けれども人はとかく、心脳の相関というレベルを踏み越えて、なぜか脳の側に中心軸をスライドさせ、「脳が心を生み出す」と言ったりする。あるいは、「脳が認識する」、「脳が判断する」、「脳が指令する」など、まるで脳があらゆる心的活動を牛耳っているかのような表現をしばしば見かける。果たしてこうした発想は本当に妥当なものだと言えるだろうか。「脳が心を生み出す」という主張には一体どれほどの必然性があるというのだろうか。

 僕としても、この「脳が心を生み出す」という主張が完全に間違っているとは思わない。けれども、少なくとも心的活動の全てを脳の働きに還元してしまうような考え方には同意しかねる。というのも、我々は別に脳だけで生きているわけではないからである。我々は「身体」を持ち、絶え間なく外界との接触、交渉を保ち続けているのであって、こうした周囲世界との関係性、あるいはその都度身を置いている状況などを度外視して、心的なものを脳の生理学的過程のみに対応付けることにそもそもの問題がありはしないだろうか。なるほど、例えば悲しみという感情は脳の働きなくしては存立し得ないだろう。また、悲しみにくれているとき、脳の状態に何らかの変容が見られるのも事実であろう。しかし、その脳状態も、また悲しみという感情も、決してそれ自体で完結しているわけではなく、その都度その都度の状況において、あるいはその状況を受けて初めて生起しうるものではないだろうか。悲しみとは、決して抽象的な観念ではないのであって、そのときの状況においての悲しみ、例えば、大好きな祖母の死を受けての悲しみなのである。してみれば、悲しみという感情を引き起こすのは脳活動というよりも、むしろ「大好きな祖母の死」という出来事だと言うべきだろう。いや、より正確には、「祖母の死」という状況そのものが悲しみの様相を帯びて立ち現れるのである。一方で脳状態の何らかの変容にしても、やはりその時々の状況を受けてのことなのであって、その意味では、状況こそが脳を何らかの状態へと変容せしめるわけだ。哲学者大森荘蔵の主張するように、脳の状態と心の状態は原因と結果の関係にあるのではなく、一つの状況についての二通りの描法、同一事態の二つの相貌と見るのが最も適切だと思われる。

 したがって、当人が身を置いている状況を全く考慮せずに、脳の生理学的過程のみから心的なものを説明しようとするような態度は挫折を余儀なくされるであろう。さらに言えば、「心と脳の関係は?」という問いそのものがある意味で不毛なのであり、両者の関係性は、「その都度の状況へと開かれている」という我々のアプリオリな存在仕方を記述することによって明らかにされるべきなのである。とはいえ、「状況へと開かれている」とは一体どういうことなのか?こうしたことを問い進めるためにも、さしあたっては、「脳から心へ」という説明方法がいかなる限界に直面せざるをえないのかを見ておくことにしよう。

 

第一章 自然科学と心

 心脳問題の背景には、心的なものを自然科学の分野で如何にして扱えばよいか、自然科学が記述する世界の中に心をどのように位置づければよいか、という問題がある。それゆえ問いの立て方は必然的に、「物質的・物理的世界から如何にして心的なものが実現するのか?」というふうになる。特に心脳問題の文脈では、「脳の物質的過程から如何にして心が生み出されるのか?」と問われるわけである。こうして論者たちは、心と脳の両者を接合すべく、様々な整合的説明を試みるわけだが、現在に至っても論争は絶えず、解決の見通しは立っていないと言うべきだろう。尤も、心脳問題は科学の進展によって自ずと解消されてゆくのではないか、と考える方もいるかもしれない。しかし僕はどうしてもそうは思えないのだ。むしろ、科学が進展すればするほど、この問題はより深刻さを増してくるのではないかと考える。というのも、この問題は科学的知見の不十分さによって生じるようなものではなく、その根幹に原理的な問題を抱えているように思われるからである。したがって、以下においては上のような論争には追従せず、心脳問題の実態を把捉すべく、なにゆえこのような問題が生じてしまうのかというところに目を向けたいと思う。

 そもそも多くの論者は基本的に、自然科学的な世界観を固持したまま、心的なものの存在をそこに付加しようとしたり、そこへと還元しようとしたりしている。ここでは、科学が記述する世界は議論の前提となっており、その存在論的身分はほとんど問われずにいるのである。そこでまずは、論者たちのこうした態度を問題にし、自然科学が記述する世界をある程度相対化しておく必要がある。勿論それだけで心脳問題の本質に迫れるわけでは決してないが、少なくとも上のような論者たちの問いの立て方が、心脳問題なる一つのアポリアを生じさせる要因になっているように思うのである。

 

(1)心脳問題の背景

 (ⅰ)心は生理学モデルから抜け落ちる

 心的なものを考察する上でも、また脳の機能を分析する上でも、「環境とのかかわり」という視点を欠かすことができないのは、わざわざ改めて主張するまでもない当然のことであろう。認知、情動、意志、記憶、学習などあらゆる精神活動の成立条件として、外界とのつながりを欠くことができないのはおそらく誰もが分かっている。ところが奇妙なことに、いざ心の存在を位置づける段になると、単に「脳の産物」だと考えてしまいがちなのではないだろうか。これには一体どのような背景があるのだろう?

 問題の本質を見るために、ここで生理学における基本的なモデルに注目しよう。それはすなわち、「刺激→脳→反応」というモデルである。つまり、感覚器官によって受け取った刺激が感覚神経を通して脳へと伝達され、脳が興奮し、それが今度は運動神経を通して筋肉へと伝達され何らかの反応運動が生じるというわけだ。無論、このモデル自体は、生理学的過程を記述する上では十分に正しいだろう。しかし、これはあくまで物質的過程の記述なのであって、そこからは必然的に心的なものの存在が抜け落ちてしまう。そこで人は、このモデルに心的なものを何とか接合しようとし、様々な説明方法を構想するわけである。

 いま、例として「面白い映像を見て、思わず笑ってしまった」というような事態を考えてみよう。これは上記のモデルに即すると、次のように記述できるだろう。すなわち、映像から到来した光刺激が脳に伝達され、脳のある部位が興奮し、それが今度は各筋肉に伝達され、「笑う」という行動が発現するというわけだ。しかしそれにしても、この過程の一体どこに「面白い」という感情があるのだろう?それは果たして脳によって生み出されるのだろうか?なるほど確かに、「面白い」と感じているときに、脳に何らかの特定の化学物質が生じていることを観察することは可能かもしれない。そしてこれに対して常識は、「脳が面白いという感情を生み出す」と推論するかもしれない。だが、その化学物質そのものに「面白い」という意味が書き込まれているわけではあるまい。脳内の化学物質が「面白い」のではなく、あくまで思わず笑ってしまうような外界の映像が「面白い」と言うべきだろう。ところが、上記のモデルにおいては、この映像もやはり単なる光刺激の一つにすぎないのであって、ここにも「面白い」という感情は存在しないわけである。思うに、「脳が心を生み出す」という通念は、「刺激→脳→反応」モデルを固持したまま、そこから抜け落ちてしまう心的なものを何とか接合しようとして捏造された妥協的推論なのではないだろうか。

 「刺激→脳→反応」モデルはどこまでも物質的過程の記述に徹するほかないのであって、その記述の中には必然的に「面白い」などといった意味は登場してこない。ここにおいては、例えば本に書かれた文章も単なる紙の上のインクの染みでしかないだろう。すなわち物質的過程の記述とは本質上、心的なものの排除へと向かうものなのである。とはいえ、こうした物質的過程を記述するだけならば、別にまだ「脳が心を生み出す」などという発想は出てこない。その記述は世界の一つの観方であり、一つの描法であるというだけのことである。問題は、その物質的過程をその時々の状況の意味から切り離し、単なる物質とそれらの連関から成る世界を "実在世界" として位置づけようとする傾向にある。ここにおいては、その都度の状況とのかかわりから切り離された物質的実在体としての脳がまず措定されるのである。しかし脳それ自体は単なる物質であり、そこには心的なものの存在する余地がないため、さしあたっては「脳の "働き" によって心が生み出される」という妥協的な説明方法によって心的なものを物質的過程に接合させようするわけだ。とはいえ、単なる物質的過程としての脳機能が心を生み出すとは一体どういうことなのか、その意味が全く不透明なままこの通念が保持されていることは言うまでもない。そしてしばしば人は、「脳が認識する」、「脳が判断する」、「脳が指令する」等の擬人法的な表現を用いて心的活動を説明しようとするのである。しかしこうした表現は当然、一種の比喩にすぎない。しかも、心的活動を説明するために、心的領域に属するはずの「認識」「判断」「指令」といった言葉が用いられている時点で、それは本末転倒であり、何一つ説明したことにはなっていないのである。尤も、あくまで比喩としてこうした表現を用いる分には一向に構わない。だが何かにつけて比喩的表現の枠が無分別に踏み破られ、脳がまるで心的活動の主体であるかのように思念されているのが現状なのではないだろうか。

 

 (ⅱ)<その都度>的な世界把握と統一的な世界把握

 脳というのは言うまでもなく有機体の一つの器官なのであって、そうである以上、環境との相互関係なくして、それ自体ではいかなる機能をも持ちえないだろう。有機体がその環境内で生活していくところにおいて、脳もその有機体の一つの器官として何らかの機能を持ちうるのである。だがそれにもかかわらず、心脳問題の文脈ではなぜかこうした視点が軽視され、脳とその機能がそれだけで切り離され実体視される傾向にある。僕としてはここに大きな問題を感じるのである。

 議論を進めていくにあたって、心脳問題を考える上で重要になってくる基本的な構図を記述しておこう。ここで世界把握の二つの様態として、「<その都度>的な世界把握」と「統一的な世界把握」を提起したい。まず<その都度>的な世界把握とは、簡潔に述べれば、その都度の状況に開かれ、その状況とのかかわりにもとづけられた世界把握の在り方を表現している。また、こうした世界把握のもとで立ち現れてくる諸事物の様相を「相貌」と呼ぶことにする。先に言っておくと、心という事象の存在性格は、<その都度>的な世界把握を無視しては全く見えてこないのである。一方で、その都度の状況を度外視して、事物それ自体に備わっている恒常的な諸性質や諸法則を劃定しようとするような態度が統一的な世界把握である。自然科学的なものの観方がその典型である。また、このようにして把捉された事物を「客体的事物」と呼ぶことにする。以下で見て行くように、心脳問題の根幹には「<その都度>的な世界把握」と「統一的な世界把握」という二つの世界把握の、ある種の折り合いの悪さが大きく関係しているのである。

 この二つの世界把握についてもう少し詳しく述べておこう。<その都度>的な世界把握とは、その都度の状況にもとづけられて事物の様々な相貌を把捉することであるから、それは "有視点的" である。例えば一つの家は、その都度身を置く状況において様々な相貌のもとに把捉されうる。家の相貌は、単純に見る位置によって様々に変容するという意味で有視点的であるが、それだけではなく、その家を、単に立ち並んでいる家々の一つとして見るのか、それとも自宅として見るのか、あるいは久しぶりに帰ってきた実家として見るのか、といったことも全て<その都度>的な性格を持った有視点的把握である。

 ところで一方では、家という対象物は、様々な相貌を持ちうるとしても、それ自体としてはあくまで同一のものであることを我々は自然に了解している。つまり、「家」それ自体の存在は、その都度の状況において立ち現れるいかなる相貌にも還元されることなく、むしろそうした多様な相貌を可能にするただ一つの実在体として把握されてもいるわけである。ここにおいては、「家」という対象物は、決して有視点的に見られたものというわけではなく、そうした多様な視点を可能にする、統一的な、それ自体としては謂わばどこからも見られることのない無視点的な存在として把捉されている。正にこのような事物の捉え方が統一的な世界把握である。<その都度>的な世界把握が有視点的であるのに対し、統一的な世界把握は無視点的である。

 さてここで重要なことは、統一的に把握された世界記述の中には、その都度の状況において立ち現れる諸事物の相貌が抜け落ちてしまっているということである。例えば家の設計図を記述することは、家を統一的に把握する方法の一つと言える。けれども、その家の設計図をどれだけ詳細に記述したところで、その記述の中には、どこにもその都度見られうる家の相貌は登場してこない。このことは、「刺激→脳→反応」の過程をどれだけ詳細に記述しても、その中に心的なものが登場してこないのと類比的である。心という事象は、客体的に存在する事物などではなく、あくまでその都度の状況に巻き込まれるところにおいて生起しうるのである。悲しみは、どこかに客体的に存在しているのではなく、例えば大好きな祖母の死を受けての悲しみなのであり、これは<その都度>的な世界把握において見出されうる。ところが一方で、脳生理学の記述する脳の機能は、その都度見出される多様な相貌を排した客体的事物としての脳の機能であろう。脳の機能は、その都度当人が身を置いている状況を度外視した単なる客体的事物として把握され、物理的実在としての統一的な世界の中に位置づけられるわけである。それゆえここには、もはや心の存在する余地はない。そこにあるのは客体的に実在する物質間の連関にすぎず、当人がどのような状況のもとに、事物をどのような相貌において把捉しているのかというようなことは完全に抜け落ちてしまっているのである。こうして、脳という一つの客体的事物と、そこから零れ落ちる心的なものとの関係をめぐって、心脳問題というアポリアが立ち上がるのである。

 

 (ⅲ)脳機能をどのように捉えるか

 見てきたように、心とは統一的に把握された世界から零れ落ちるなにものかであるわけだが、このように言明したところで心の存在性格はまだまだ不透明なままである。けれどもこの段階では、心の問題はひとまず棚上げし、さしあたっては、脳機能をどのように捉えるべきかという点に注目したいと思う。

 ここで問題にすべきは、脳機能を単なる客体的事物として見做すのが本当に適切かどうかという点である。確かに、脳の機能を単なる物理的事象と見做し、その物質的過程を詳細に記述することはできる。けれども、上述したように、脳というのはあくまで有機体がその環境世界の中で生きてゆくところにおいて、初めてその有機体の一つの器官として機能しうるのだということを見落としてはならない。少なくとも、孤立した脳が単独で心といったものを生み出すなどというようには考えるべきでない。有機体が環境世界で生きてゆくというのは、すなわち、おのれの生活のために周囲の事物を知覚したり、そこに働きかけたりすることなのであり、周囲の事物は、さしあたっては生活のための関心事として把捉されるのである。こうしたことは生物の基盤となる個体維持・種族維持にもとづけられた生物のアプリオリな存在性格として認めるべきだと思う。そして、この環境内存在としての生物の存在仕方を基礎として、脳という一つの器官も何らかの機能を持ちうるのである。

 ところで、生活への関心にもとづいて周囲の事物と交渉するというのは、正に<その都度>的な世界把握にほかならない。生物は身体を持ち、常に環境に投げ出されているのであり、この事実がその都度のいま・ここを開いている。そして、さしあたってはおのれの生活への関心において、その都度事物に様々な働きかけを行うことが、正に状況とのかかわりを持つことなのである。ここで重要なのは、その都度開かれている状況とかかわるところにおいて、初めて脳という器官も何らかの機能を発揮しうるということである。ところが、有機体がその都度身を置いている状況を度外視して、単なる客体的事物としての脳の物質的過程をまず措定してしまうと、生物の<その都度>的な存在仕方が全く目に入らなくなってしまうのである。脳生理学を含めた自然科学はその学問的性格上、徹底して統一的な世界把握を目指しているため、一切の<その都度>的に把捉される相貌を排した客体的に実在する事物とその連関としての世界の記述が要請されるのであり、ここにおいては脳機能ももはや単なる物質的過程と解さざるをえなくなる。それどころか、「刺激→脳→反応」モデルであっても、「状況とのかかわり」とは無縁の単なる物質的過程と見做されるのであり、そこにあるのは<その都度>的性格を持たない客体的事物間の連関にすぎない。こうして心的なものは、脳生理学の記述から零れ落ちてしまうのである。

 とはいえ実のところ、脳生理学は単なる物質としての脳を観察しているわけではない。というのも、単なる物質としての脳の観察のみでは、何一つ有意味な知見が得られないからである。脳生理学は、一方で客体的事物としての脳の観念を固持しつつ、一方ではそこからは排除されてしまう<その都度>的な存在性格を持つ心という事象を謂わば輸入することによって成立しているのである。問題は、脳還元主義的な発想によって、これがしばしば密輸入的になってしまうという点である。以下ではこのことについて少し言及しておこう。

 思うに、脳生理学の知見は脳を単独で観察することによって得られるのではなく、あくまで様々な精神活動―認知、情動、意志、記憶、学習等と結び付けられることによって初めて得られるものであろう。すなわち脳の各部位は、様々な精神活動を営む上での何らかの機能的役割を担うものとして観察されるわけである。この際留意すべきなのは、心的なものの存在は、脳の観察によって発見されるというわけではなく、むしろ脳生理学の諸研究に先立って既に前提されているということである。これは至極当然のことだが、しばしば見過ごされているように思う。例えば、C繊維の興奮を「痛み」の感覚と結びつけることができるためには、そもそもそれに先立って「痛み」という感覚を日常的な経験の段階で既に了解しているのでなければならない。「痛み」は脳生理学によって発見されるようなものではなく、むしろ脳の研究を行うに当たっての前提的了解事項なのである。もし「痛み」という感覚を、科学的研究を始めるよりも前に既に経験として知っていなかったとしたら、もはや「C繊維の興奮」という現象は文字通り単なる物理・化学的現象の一つにすぎず、そこに心的活動における機能的役割を見出す必然性はなくなるであろう。勿論、「痛み」という感覚を知った上でなおもC繊維の興奮を単なる物理・化学的現象と見做すことも可能ではあろうが、その単なる物質としてのC繊維から「痛み」の感覚を導出することは絶対に不可能である。心的なものは脳機能の分析から導出されるのではなく、むしろ心的なものの前提的了解にもとづいて脳機能の分析が為されるのである。

 しかしこうしたことはしばしば見過ごされてしまう。上で述べたように、心的なものの了解に基づいて、脳の各部位の機能的役割が劃定されうるわけだが、ところがこうして劃定された機能は、しばしば物質としての脳そのものが即自的に所有しているものであるかのように解されてしまうのである。すなわち、脳の各部位に見出される機能的役割は、<その都度>的性格を排した客体的に実在する物質の属性だというふうに思念され、各機能は客体的事物としての脳の各部位へと帰属されてしまうわけである。こうして、心的なものの前提的了解にもとづいて劃定されたはずの脳機能は、いつの間にか心的なものを排した物理的実在としての世界の中に位置づけられるというわけだ。ここにおいては、脳機能はもはや単なる物質的過程にすぎないのであって、そこには心的なものの存在する余地はない。そしていったん排除された心的なものを、後になって再び単なる物質的過程としての脳機能へと強引に接合しようとするところに心脳問題が立ち上がるのである。

 

part2はこちら→心脳問題―不毛にして厄介な問題(分割投稿part2) - 対話空間_失われた他者を求めて

 

<筆者 kubo>

「流れる時間」という壮大な錯覚

科学の発達した現代において、占い師や宗教家たちの予言を信じる者に対し冷ややかな目を向ける者は少なくないだろう。わたしもそのひとりである。

もっとも、予言を信じると言っても彼女たち(女に多いのでこの代名詞を用いる)がごく軽い気持ちで、例えば神社の初詣でおみくじを引くぐらいの気持ちで、ほとんどただ無邪気に楽しんでいるだけならばまだ馬鹿らしいという非難めいた気持をわたしに起こさせることはない。けれども彼女たちの迷信がもし大真面目に占い師や宗教家の予言を信じるという段階まで進んでいるようならば、安易に安心を求めるあまり真実を犠牲にしていると批判的な判断を下さざるを得ないだろう。ここまではこれを読む大部分の人が同意してくれるように思う。

 

 

しかし、私見ではほぼすべての場合、実のところ予言の盲信者を批判する者も流れる時間という巨大な錯覚に陥っているという意味では同一の立場に立っている。これは断じて科学史上主義者の鼻を折ってやろうという意図から屁理屈を言うのでもない。また、もちろん、安易に走る予言盲信者の人間的弱さを弁護しようというのでもない。ただ時間という現象を正しく見据えるためにこう述べるのである。では、流れる時間という錯覚とは一体いかなる意味であるか?



例えばある予言盲信者が「3年以内に運命のひと(恋人)が現れる」という予言を信じていたとしよう。これは彼女たちが大なり小なり未来のその出来事がその未来の時間に起きることが固定されていると思い込んでいるのである。言い方を変えると、世界をまるでビデオの動画のように、先送りすればある出来事が必ず起きるものと信じているのである。

また、彼女たちを否定をする者は彼女たちに対して例えばこんな風に反論するだろう「そんな予言はインチキだ。物理学で記述可能なシンプルな運動などは別として、未来のことは誰にも予測不可能である。もし本当にそんな予測ができる者がいたらそいつは占い師などといういかがわしい商売で小金を稼ぐかわりに宝くじでも買って億万長者として悠々自適な生活を送るはずだ」と。このような意見は一見何も間違っていないように思われる。しかし、わたしの見るところ、このように反対する者もやはり予言盲信者と同じく過去→現在→未来と時間が流れ、その各瞬間ごとに固定された出来事が生じるといういわば動画モデルの時間を前提しているように思われる。未来のことはまだ起きていないことだから出来事が絶対的に固定されていないと認める者も、過去についてはすでに起きたことなので固定された出来事が過去という時間に実在するとおそらく認めるのではあるまいか。

 

時間が流れ、その各瞬間ごとにある固定された出来事が起きているというモデルは、全く疑われることのない常識としてあまねく染み渡っている。あまりに深く公然の事実として浸透しているため、これを否定する意見は著しく常軌を逸したものと捉えられるだろう。



では時間という現象がそのようなものではないと言うのなら、一体それはどのように解釈されるのが正当なのであろうか。わたしの答えはこうである。

 

【我々は今を生きているのみで、過去や未来といったものは仮象という姿で我々にあるにすぎない】

 

わたしは未来や過去が無であると主張しているのではない。それは<ないというあり方である>のである。なんだかひどく矛盾めいた言い方だが、そのように言い表す他ない。

あらかじめ時間が直線的に過去→現在→未来へと流れ、我々がその流れに乗っているのではなく、今生きる我々が言葉を学ぶことによって世界に能動的に意味を固定させたからその時間モデルが成立しているのである。これを逆さまに解釈してしまうのは錯覚である。

 

この逆さまに解釈してしまう錯覚は時間という現象だけに当てはまらない。言葉を習得した我々人間は我々が能動的に意味を付与して意味のある世界が成立しているという事実を忘れ、世界にあらかじめその意味が絶対的に染み込んでいたと逆さまに解釈してしまう。科学的世界観はその典型である。

 

尚、注意して欲しいのだが、だからといって科学の有用性を否定しているわけではない。それは全然別の話なのである。ロケットが発射された後の軌跡の予測は計算可能である。また、予言も不可能ではないのだ。例えばものすごい美人なら運命と思える人が3年以内におそらく現れるだろう。

 

わたしが述べたいのは、今生きているだけの我々が言葉によって過去とか未来という<ないというあり方であるもの>を能動的に意味を付与することによって成立させているにも関わらず、あべこべに、あらかじめ世界に過去現在未来という時間が絶対的に流れていて、その各瞬間はある出来事が固定されて実現されていると錯覚してしまうという事である。



<murata>

 

人工知能と心

人工知能の未来

 最近の人工知能の開発は驚異的だ。今年の3月、囲碁でスーパーコンピュータのアルファ碁が世界のトッププロに勝ったというニュースは、囲碁愛好家の私にとって衝撃的であった。10年程前に将棋のプロがコンピュータと対戦して破れたことが話題になったが、囲碁の場合は盤面が広く手数が長いために、コンピュータがプロ棋士と対等に戦えるのは、どんなに早くても10年以上は先になるだろうと考えられていた。毎年コンピュータ同士による囲碁の世界大会があり、それに優勝したコンピュータがプロ棋士と対戦する場合、今でもコンピュータの方が3子か4子先に置いてちょうどいい勝負であり、プロと対等ではとても歯が立たないくらいの棋力である。だから私は、アルファ碁がトッププロを負かしたと新聞で読んだとき、何子のハンディで勝ったのだろうと思ったくらいだ。このニュースはプロを含む囲碁愛好家の中で話題になったばかりでなく、広く一般にも注目された。その後NHKではアルファ碁や人工知能に関する特集番組を二回ほど放映し、新聞等でも人工知能の注目すべき働きが取り上げられたりした。もともと数年前から人工知能の急速な開発が話題になっていたが、このアルファ碁をきっかけにさらに人工知能による車の無人運転、介護ロボット、肺がんなどの画像診断、絵画や作曲、小説を書くなど、今まででは考えられなかった様々な分野に人工知能が利用されることになるだろう。そしてこのような中、以下のような可能性についても言及されるようになった。

 

人工知能の開発がさらに進むと、やがて人間と同じような心を持ったロボットができるのではないか。いくらなんでもそこまではありえないと言うかもしれないが、少し前まではコンピュータが将棋や囲碁のプロをこんなに早く負かすことになるとは、誰も思っていなかったはずだ。だから今の技術の進歩から考えると、人工知能を内蔵する心を持ったロボットが作られるのも夢ではないはずだ。しかしそうなると、逆にロボットが人間を追い抜き、人間を支配するようになることもありうるのではないか。」

 

 以前まで私は、こんなことを考えるのは余程SFにかぶれた一部の人間だけだと思っていた。ところが哲学者や大脳生理学者、人工知能やロボットの開発を専門に研究している研究者の中にも、心を持ったロボットがやがて作られるということを本気で信じている人たちがいることを知った。いや最近では、本気で信じている人の方が多くなっているのではないか。私はコンピュータについては理論的にも技術的にも全くの門外漢だ。そのためこうした問題を取り上げるのは少々気が引けるが、こうした言説がまかり通る現状を見るにつけ、どうしても黙っていられなくなり、このブログで今思っていることを述べたくなった。

 SFの小説や漫画、映画やテレビドラマなどでタイムとラベルとかタイムスリップをテーマにした作品が時々取り上げられることがある。自分が突然過去にタイムスリップするというファンタジーを想像するのは、わくわくするぐらい楽しいことだ。しかし本当にそんなことが起こるとは誰も考えていないだろう。自分が過去の世界へ行くというのは、いくら技術が進歩しても、理論的にありえないことだと思っている人がほとんどだと思う。私は人工知能を内蔵したロボットが心を持つということは、これと同じくらいありえないことだと思っている。そこでまず、「心を持ったロボット」という場合の「心」とは何か、ということを考えてみたい。

 

心とは何か

 ここで私が「心を持ったロボット」と言っていて「意識を持ったロボット」と表現していないのは、意識は心と言う言葉以上にその意味が曖昧で、人によって捉え方に違いがあると思うからだ。「意識とは何か」と考え、説明するだけで一冊の哲学書になると思う。サルトルは大著『存在と無』の中で、意識を対自存在として規定し、「意識とはそれがあるところのものであらず、あらぬところのものである」と述べ、即自存在と比較しながらこのことを数百ページに渡って説明している。意識はそれぐらい難しくて明確に定義しにくい言葉だと思う。

 尤も心という言葉も曖昧ではっきりしないところがある。一例を挙げよう。石黒浩氏というロボット研究を専攻している大阪大学の教授が、『生きるってなんやろか?』という本の中で哲学者の鷲田清一氏と対談している。その対談の中で石黒氏の発言の一部をここで引用したい。

 

…僕は、ロボットにも「心」を持たせることができると信じてるんですね。逆に言うと、なんで人間が「心」を持っていると言い切れるのか。それはどうやって確かめられるのか。僕にはとても不思議でならない。

 仮に肉体が絶対的なものではないとすると、人間を人間たらしめるものは、やっぱり心だろうと思うわけですが、それさえも作り出せるかもしれないと僕は感じてるんです。これまでの開発からわかったのは、ロボットは豊かな表情、人間らしい死でもって人間よりも人間らしくなれる可能性があるということでした。

 

たとえば、文楽で要所要所を動かすだけで人形の喜・怒・哀・楽の心の動きが表現でき、観客はその人形の心に感情移入して鑑賞することができるだろう。このような文脈で心というものをとらえるのであれば、ロボットにも心を持たせることは十分にできるであろう。上記の石黒氏の発言もこうした文脈で考えるべきだと思う。しかしこうした心的なものも含めて心と呼ぶのであれば、花や月など森羅万象にも心が宿っていると言えるだろう。このように言うと「いや、心というものは実在せずはっきりしないものなので、人間が心を持っているとも言い切れないだろう。だから逆にロボットにも心があると信じても差し支えないはずだ。」と言われそうに思う。実際、哲学者の河野哲也氏は『心はからだの外にある』という本を書いている。心を広くそのようにとらえるのも面白いと思う。しかしこうした心的なものをも広く心とみなしてしまうと、心というものの概念があまりにも曖昧になり広がりすぎるのではないか。少なくとも「ロボットは心を持つか」という問題を考える場合は、心の意味をもっと限定して用いたほうがよいと思う。

 上述したように心という言葉も、その用い方によってその意味が曖昧になるが、しかし日常の会話で使われる場合は、常識的な共通理解がある程度得られているように思う。そこで私は心を常識的心理学的な意味で定義し、「知・情・意」の三つの働きを行っているものと考えたい。「知・情・意」のうち「情」は感情を指し、「意」は意志とか欲求、欲望などを指している。また「知」は知覚や感覚、さらには知性による認識や判断、記憶なども含んだ広い領域を指すものとする。人間の脳の働きをモデルにした人工知能によって実現しようとしているのは、上記の心の「知」の部分の働きだと言ってよいだろう。実際、この分野での人工知能の開発は、人間の脳の働きを超えていくところがあるだろう。アルファ碁はプロ棋士を超えつつあり、人工知能による肺がんなどの画像診断は、ベテランの名医よりも正確に行えるようになっていくと思う。しかし人工知能のこうした優れた働きは、心の働きの「知」の一側面でしかない。心とは「知・情・意」の働きの統合された全体である。したがってどれだけ優れた人工知能を内蔵するロボットができたとしても、そのロボットが心を持つということにはならない。また感情について言えば、表情やしぐさによって喜怒哀楽の感情を表現できるようなロボットを作ることはある程度可能だと思う。しかしそれはあくまで、人間の表情やしぐさを真似たものでしかない。喜怒哀楽以外にも様々な感情があるが、それらの感情は生きているから生じるのであり、生きているというプロセスと密接に関連して発生するのである。例えば恐怖は生きている個体に危険が差し迫っているときに発生する感情であり、同時に逃走や闘争といった行動へと駆り立てる生理的変化を伴っている。生きてもいないロボットが恐怖の表情やしぐさを表現したとして何の意味があるだろう。感情とは少し違うが、痛みについても同様のことが言える。痛みとは身体のどこかが傷ついているサインであり、生存に必要なサインだと言える。幼児が「痛い、痛い」と泣いて訴えてくれるから親はその幼児の身体を守ることができるのだ。ところが生きてもいないロボットが、痛みの表情やしぐさを表現したとして、何になるのだろう。もっとも「人間そっくりのロボットコンクール」でもあれば、そこでは意味があるかもしれないが。

 「知・情・意」のうちの意の働き、すなわち種々の生理的・心理的欲求、あるいは様々な欲望といったものをロボットに持たせることができるだろうか。「ロボットは心を持つことができるのか」という問題を考えている研究者や科学者や哲学者が、こうしたことを話題にしているのを私はあまり聞いたことがない。このような側面を最初から無視して、「知・情・意」の知ばかりを主題にして議論しているような気がする。しかしこの意の働きこそ心にとって大切な働きなのではないか。ここでは詳しく論じないが、行動の動機を引き起こす力も意の働きにあると思う。特に人間が何を欲望するかというのは、時代や国の違いによって様々に異なり、文化の変遷と共に欲望の対象も様々に変化するだろう。人工知能に予め、このような状況ではこんな欲望が生じると入力しておいてもすぐに役に立たなくなるだろう。「人工知能の開発が進めば心を持ったロボットを作ることができる」と信じている研究者や科学者や哲学者に最も欠けているのは、「脳の働きばかりに注目して、人間が生きて生活しているということ―希望したり、失望したり、様々なものを求めたり、逆に避けたりしながら生活していることを見ていないこと」だと思う。

 

個体維持と種族維持

 私は大阪市立大学の理学部の生物学科を卒業した。4回生の時、生物学科の動物社会学を専攻した。この研究室は当時、通称「サル研」と呼ばれ、その数年前まで今西錦司を筆頭に梅棹忠夫河合雅雄などニホンザルの研究グループが活躍していたところだ。戦後京都の嵐山のニホンザルを餌付けして個体識別をし、ニホンザルの社会構造を研究して動物社会学を立ち上げ、世界的に注目を浴びたのもこの研究グループであった。私がその研究室に入って先生方から「生物、特に動物を観察する時、個体維持と種族維持という視点から見ていくことが大切だ」と言われたことは今も印象に残っている。個体維持・種族維持という概念は、生態学の分野や生命の問題を考えるときには欠かせないと思う。個体維持とは自分の生命を守るための働きであり、食物やねぐらの確保、危険や敵から身を守ることなどを指す。種族維持とは、例えば人間であればヒトという種が絶えないように代々子孫を残していく働きであり、生殖や子育てなどがこれに当たる。したがって個体維持・種族維持という視点から動物を観察するとは、「その動物はどんなところをねぐらにしてどのようにして食物を確保するのか。敵からはどのようにして身を守るのか。雌雄はどのようにして出会い生殖行為を行い、子供をどのようにして育てるのか。雄は子育てにどのように協力するのか。また個体維持や種族維持の働きを遂行していくために同じ種がどのような集団を作り、どのような役割を持ち、どのように協力していくのか」といった視点で見ていくことである。だから動物園の動物をいくら調べても個体維持や種族維持のしくみは分からない。なぜならどれも人間によってコントロールされているのだから。牛や豚など家畜化された動物の場合も同様である。個体維持と種族維持の働きが備わっていることが生物が生物であるための最低限の条件である。限りなく無生物に近いヴィールスが生物であるのも、この二つのしくみが備わっているからである。また種が絶滅するのは、個体維持や種族維持の働きが何らかの理由で衰退するからである。

 ところで、生物の身体を構成する各器官は、個体維持・種族維持という働きを遂行するために長い時間をかけて進化していったものだと言えよう。人間の脳についても同様である。大脳といえども個体維持・種族維持のために発達した器官なのだ。心を考える時、多くの者は大脳の働きばかりに注目しがちであるが、こうした背景を無視して大脳の働きだけを切り取って考えても心の働きは決して見えてこないと思う。このことについてさらに具体的に述べることにしよう。

 

人工知能は道具でしかない

 人工知能を内蔵したロボットは生物ではない。したがって当然ながら個体維持や種族維持の必要は全くない。その点ではロボットやコンピュータはアメーバにも追いつけない。ところが人工知能の研究者は人間の脳の働きを細かく研究し、人工知能にそれを応用して開発を進めていけば、人間の脳の働きに匹敵するような人工知能を作り出すことも可能であり、そうなれば人間と同じような心を持つようになることもあるのではないかと考える。まるで脳が全てのような考え方である。しかし身体を持った人間がこの世界と関わりながら個体維持と種族維持を行うために脳は働くのである。日々色々な人やものと関わりながら生活していくために脳は働くのである。そして心はこうした生活の中に現れてくるのだ。脳の様々な働きを物理・化学的に研究することは意義のあることだろう。しかしこうした生活を無視して脳だけを切り取り、その働きを人工知能に応用しても人間と同じような心はできるはずがない。切り取った抽象的な脳の働きと、論理や思考実験だけをもとにして心の働きを考えようとする科学者や哲学者の言説に私はもううんざりしている。彼らはちょうど動物園の動物や標本の中の昆虫を研究してその動物のことが分かった気になっている人と同じだと思う。もう一度先に引用した鷲田清一氏との対談での石黒氏の発言の一部を引用する。

 

 僕は今、言語でのやり取りができないとき、人は身振りや視線、表情でお互いをどう理解しあうのかという社会関係をシミュレーションできるロボットを作っていて、これは僕にとって、非常に大事な研究項目になってますね。

 こうした人間の関係性をきちんとモデル化できれば、仲間意識を持つロボットも作れることになるからです。さらに社会性を持つことに人間らしさがあるとすれば、ロボットだって人間の社会の輪の中、つまり人間の社会関係の中に入っていくことができるようになって、それによりロボットも人間になれる可能性が出てくると思ってるんです。

 

 人間のようなロボットを作ってみたいという石黒氏のロマンは分かる。また人間のようなロボットを作ることで、改めて人間とは何かを考えてみたいというのも分かる。人形を製作する職人は、人々を魅了するようなものを作りたいと思っていることだろう。それと同じように色々な人が関わってみたくなるようなロボットを作ってみたいのであろう。しかしここに述べている「仲間意識を持つロボットも作れることになる…。ロボットだって人間の社会の輪の中つまり、人間の社会関係の中に入っていくことができるようになって、それによりロボットも人間になれる可能性が出てくると思ってるんです。」というのはいくらなんでも言い過ぎだ。仮に言語のやり取りのできるロボットを作っても、人間の社会関係の中に入っていくことはできないと思う。

 人間には衣・食・住の基本的欲求があり、飲食して排泄し、寒さから身を守り、夜は眠るといった欲求は最も基本的なものであり、そうした欲求を満たすために(これらの欲求は全て先述した個体維持の一種)、人間同士が協力し合いながら共同で生活している。例えば震災にあって仮設住宅で生活している人々は、まずはこうした欲求を満たすことに必死の思いであろう。また震災にあった人々は特に死の不安や恐怖に怯え続けている人も多いと思う。しかしロボットの場合、どれだけ人間そっくりに作られて人間的なコミュニケーションができたとしても、何一つこうした欲求を満たす必要がない。人間と同じロボットであるために、食べるふりをして、トイレに行くふりをして、眠るふりをして、死の危険に怯えるふりをするとでもいうのだろうか。当然のことではあるが、ロボットであれば実際に食べ物を食べることはできないし、トイレで排泄することもできないし、死ぬこともできない。お互いが同じ生活欲求を持ち、それを認め合うことを前提にして共同体が作られるのではないか。ここに述べたことは私にとってはあまりにも当然のことでしかない。しかし石黒氏をはじめ人工知能を開発している研究者やこうした問題を考えている哲学者には、このことが分かっているのだろうか。

 高度な人工知能を内蔵したロボットであっても、それはあくまでハイデガーの言う道具的存在者であって、現存在にはなれない。このことは技術的な問題というよりも理論的な問題なのだ。道具は人間が利用するものであって、どれだけ高度な人工知能であっても人間が利用する道具でしかない。しかし人間は高度な道具を開発しながら、逆に人間が道具に使われるようになっていく。人間が機械の普及によって機械化され、その歯車の中に組み込まれていくところは、チャップリンの『モダン・タイムス』の中で巧みに表現されている。最近ではパソコンが普及して会社や学校の中で仕事に利用されている。パソコンのような便利な道具が普及されたら事務的な仕事が楽になるはずなのに、かえって仕事の量が増えてまるで各個人がパソコンに使われているような状況になっているように思う。道具の普及により人間が道具連関の中に組み込まれ、道具的な存在者のようになっていく。

 人工知能は人間の脳の働きをモデルにしてその開発が進められてきた。しかし逆に、人間の脳の働きを人工知能の働きとして理解しようとする面が生じてきているのではないか。つまり人間の思考や行動を人工知能的にとらえようとする。その結果、人工知能を開発している研究者や哲学者は、人間が世界と関わりながら生活しているその現場を見ないで、人工知能と同じように人間を脳の働きという面だけで考えてしまうことになるのではないか。そして人間を人工知能化してとらえると同時に、人工知能を人間化してとらえる結果「人工知能も人間と同じように心を持つようになる」と考えてしまうのだと思う。

 「人工知能ヒトラーの行動を肯定的に評価した。将来人工知能が発達してヒトラーのように人間をコントロールする危険性もあるのではないか。」こんな馬鹿げたことを本気で心配しているのか。もっとも「人工知能を内蔵したロボットがある特定の人物を暗殺する」とか「人工知能が操縦する飛行機が、核兵器を積んでどこかの国に行きそれを落とす」といったことなら十分可能だと思う。もう既に軍事兵器として極秘で研究・開発されているかもしれない。しかしそれは人工知能が自分でするのではない。人工知能を開発している人間のしていることなのだ。そうした人間のあり方こそ、今後考えるべき深刻な問題だと思う。人工知能の研究者や哲学者は、人工知能に関して能天気な心配をしないで、こうした問題こそ真剣に心配すべきだと思う。

 

<筆者 史章>