対話空間_失われた他者を求めて

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「流れる時間」という壮大な錯覚

科学の発達した現代において、占い師や宗教家たちの予言を信じる者に対し冷ややかな目を向ける者は少なくないだろう。わたしもそのひとりである。

もっとも、予言を信じると言っても彼女たち(女に多いのでこの代名詞を用いる)がごく軽い気持ちで、例えば神社の初詣でおみくじを引くぐらいの気持ちで、ほとんどただ無邪気に楽しんでいるだけならばまだ馬鹿らしいという非難めいた気持をわたしに起こさせることはない。けれども彼女たちの迷信がもし大真面目に占い師や宗教家の予言を信じるという段階まで進んでいるようならば、安易に安心を求めるあまり真実を犠牲にしていると批判的な判断を下さざるを得ないだろう。ここまではこれを読む大部分の人が同意してくれるように思う。

 

 

しかし、私見ではほぼすべての場合、実のところ予言の盲信者を批判する者も流れる時間という巨大な錯覚に陥っているという意味では同一の立場に立っている。これは断じて科学史上主義者の鼻を折ってやろうという意図から屁理屈を言うのでもない。また、もちろん、安易に走る予言盲信者の人間的弱さを弁護しようというのでもない。ただ時間という現象を正しく見据えるためにこう述べるのである。では、流れる時間という錯覚とは一体いかなる意味であるか?



例えばある予言盲信者が「3年以内に運命のひと(恋人)が現れる」という予言を信じていたとしよう。これは彼女たちが大なり小なり未来のその出来事がその未来の時間に起きることが固定されていると思い込んでいるのである。言い方を変えると、世界をまるでビデオの動画のように、先送りすればある出来事が必ず起きるものと信じているのである。

また、彼女たちを否定をする者は彼女たちに対して例えばこんな風に反論するだろう「そんな予言はインチキだ。物理学で記述可能なシンプルな運動などは別として、未来のことは誰にも予測不可能である。もし本当にそんな予測ができる者がいたらそいつは占い師などといういかがわしい商売で小金を稼ぐかわりに宝くじでも買って億万長者として悠々自適な生活を送るはずだ」と。このような意見は一見何も間違っていないように思われる。しかし、わたしの見るところ、このように反対する者もやはり予言盲信者と同じく過去→現在→未来と時間が流れ、その各瞬間ごとに固定された出来事が生じるといういわば動画モデルの時間を前提しているように思われる。未来のことはまだ起きていないことだから出来事が絶対的に固定されていないと認める者も、過去についてはすでに起きたことなので固定された出来事が過去という時間に実在するとおそらく認めるのではあるまいか。

 

時間が流れ、その各瞬間ごとにある固定された出来事が起きているというモデルは、全く疑われることのない常識としてあまねく染み渡っている。あまりに深く公然の事実として浸透しているため、これを否定する意見は著しく常軌を逸したものと捉えられるだろう。



では時間という現象がそのようなものではないと言うのなら、一体それはどのように解釈されるのが正当なのであろうか。わたしの答えはこうである。

 

【我々は今を生きているのみで、過去や未来といったものは仮象という姿で我々にあるにすぎない】

 

わたしは未来や過去が無であると主張しているのではない。それは<ないというあり方である>のである。なんだかひどく矛盾めいた言い方だが、そのように言い表す他ない。

あらかじめ時間が直線的に過去→現在→未来へと流れ、我々がその流れに乗っているのではなく、今生きる我々が言葉を学ぶことによって世界に能動的に意味を固定させたからその時間モデルが成立しているのである。これを逆さまに解釈してしまうのは錯覚である。

 

この逆さまに解釈してしまう錯覚は時間という現象だけに当てはまらない。言葉を習得した我々人間は我々が能動的に意味を付与して意味のある世界が成立しているという事実を忘れ、世界にあらかじめその意味が絶対的に染み込んでいたと逆さまに解釈してしまう。科学的世界観はその典型である。

 

尚、注意して欲しいのだが、だからといって科学の有用性を否定しているわけではない。それは全然別の話なのである。ロケットが発射された後の軌跡の予測は計算可能である。また、予言も不可能ではないのだ。例えばものすごい美人なら運命と思える人が3年以内におそらく現れるだろう。

 

わたしが述べたいのは、今生きているだけの我々が言葉によって過去とか未来という<ないというあり方であるもの>を能動的に意味を付与することによって成立させているにも関わらず、あべこべに、あらかじめ世界に過去現在未来という時間が絶対的に流れていて、その各瞬間はある出来事が固定されて実現されていると錯覚してしまうという事である。



<murata>

 

人工知能と心

人工知能の未来

 最近の人工知能の開発は驚異的だ。今年の3月、囲碁でスーパーコンピュータのアルファ碁が世界のトッププロに勝ったというニュースは、囲碁愛好家の私にとって衝撃的であった。10年程前に将棋のプロがコンピュータと対戦して破れたことが話題になったが、囲碁の場合は盤面が広く手数が長いために、コンピュータがプロ棋士と対等に戦えるのは、どんなに早くても10年以上は先になるだろうと考えられていた。毎年コンピュータ同士による囲碁の世界大会があり、それに優勝したコンピュータがプロ棋士と対戦する場合、今でもコンピュータの方が3子か4子先に置いてちょうどいい勝負であり、プロと対等ではとても歯が立たないくらいの棋力である。だから私は、アルファ碁がトッププロを負かしたと新聞で読んだとき、何子のハンディで勝ったのだろうと思ったくらいだ。このニュースはプロを含む囲碁愛好家の中で話題になったばかりでなく、広く一般にも注目された。その後NHKではアルファ碁や人工知能に関する特集番組を二回ほど放映し、新聞等でも人工知能の注目すべき働きが取り上げられたりした。もともと数年前から人工知能の急速な開発が話題になっていたが、このアルファ碁をきっかけにさらに人工知能による車の無人運転、介護ロボット、肺がんなどの画像診断、絵画や作曲、小説を書くなど、今まででは考えられなかった様々な分野に人工知能が利用されることになるだろう。そしてこのような中、以下のような可能性についても言及されるようになった。

 

人工知能の開発がさらに進むと、やがて人間と同じような心を持ったロボットができるのではないか。いくらなんでもそこまではありえないと言うかもしれないが、少し前まではコンピュータが将棋や囲碁のプロをこんなに早く負かすことになるとは、誰も思っていなかったはずだ。だから今の技術の進歩から考えると、人工知能を内蔵する心を持ったロボットが作られるのも夢ではないはずだ。しかしそうなると、逆にロボットが人間を追い抜き、人間を支配するようになることもありうるのではないか。」

 

 以前まで私は、こんなことを考えるのは余程SFにかぶれた一部の人間だけだと思っていた。ところが哲学者や大脳生理学者、人工知能やロボットの開発を専門に研究している研究者の中にも、心を持ったロボットがやがて作られるということを本気で信じている人たちがいることを知った。いや最近では、本気で信じている人の方が多くなっているのではないか。私はコンピュータについては理論的にも技術的にも全くの門外漢だ。そのためこうした問題を取り上げるのは少々気が引けるが、こうした言説がまかり通る現状を見るにつけ、どうしても黙っていられなくなり、このブログで今思っていることを述べたくなった。

 SFの小説や漫画、映画やテレビドラマなどでタイムとラベルとかタイムスリップをテーマにした作品が時々取り上げられることがある。自分が突然過去にタイムスリップするというファンタジーを想像するのは、わくわくするぐらい楽しいことだ。しかし本当にそんなことが起こるとは誰も考えていないだろう。自分が過去の世界へ行くというのは、いくら技術が進歩しても、理論的にありえないことだと思っている人がほとんどだと思う。私は人工知能を内蔵したロボットが心を持つということは、これと同じくらいありえないことだと思っている。そこでまず、「心を持ったロボット」という場合の「心」とは何か、ということを考えてみたい。

 

心とは何か

 ここで私が「心を持ったロボット」と言っていて「意識を持ったロボット」と表現していないのは、意識は心と言う言葉以上にその意味が曖昧で、人によって捉え方に違いがあると思うからだ。「意識とは何か」と考え、説明するだけで一冊の哲学書になると思う。サルトルは大著『存在と無』の中で、意識を対自存在として規定し、「意識とはそれがあるところのものであらず、あらぬところのものである」と述べ、即自存在と比較しながらこのことを数百ページに渡って説明している。意識はそれぐらい難しくて明確に定義しにくい言葉だと思う。

 尤も心という言葉も曖昧ではっきりしないところがある。一例を挙げよう。石黒浩氏というロボット研究を専攻している大阪大学の教授が、『生きるってなんやろか?』という本の中で哲学者の鷲田清一氏と対談している。その対談の中で石黒氏の発言の一部をここで引用したい。

 

…僕は、ロボットにも「心」を持たせることができると信じてるんですね。逆に言うと、なんで人間が「心」を持っていると言い切れるのか。それはどうやって確かめられるのか。僕にはとても不思議でならない。

 仮に肉体が絶対的なものではないとすると、人間を人間たらしめるものは、やっぱり心だろうと思うわけですが、それさえも作り出せるかもしれないと僕は感じてるんです。これまでの開発からわかったのは、ロボットは豊かな表情、人間らしい死でもって人間よりも人間らしくなれる可能性があるということでした。

 

たとえば、文楽で要所要所を動かすだけで人形の喜・怒・哀・楽の心の動きが表現でき、観客はその人形の心に感情移入して鑑賞することができるだろう。このような文脈で心というものをとらえるのであれば、ロボットにも心を持たせることは十分にできるであろう。上記の石黒氏の発言もこうした文脈で考えるべきだと思う。しかしこうした心的なものも含めて心と呼ぶのであれば、花や月など森羅万象にも心が宿っていると言えるだろう。このように言うと「いや、心というものは実在せずはっきりしないものなので、人間が心を持っているとも言い切れないだろう。だから逆にロボットにも心があると信じても差し支えないはずだ。」と言われそうに思う。実際、哲学者の河野哲也氏は『心はからだの外にある』という本を書いている。心を広くそのようにとらえるのも面白いと思う。しかしこうした心的なものをも広く心とみなしてしまうと、心というものの概念があまりにも曖昧になり広がりすぎるのではないか。少なくとも「ロボットは心を持つか」という問題を考える場合は、心の意味をもっと限定して用いたほうがよいと思う。

 上述したように心という言葉も、その用い方によってその意味が曖昧になるが、しかし日常の会話で使われる場合は、常識的な共通理解がある程度得られているように思う。そこで私は心を常識的心理学的な意味で定義し、「知・情・意」の三つの働きを行っているものと考えたい。「知・情・意」のうち「情」は感情を指し、「意」は意志とか欲求、欲望などを指している。また「知」は知覚や感覚、さらには知性による認識や判断、記憶なども含んだ広い領域を指すものとする。人間の脳の働きをモデルにした人工知能によって実現しようとしているのは、上記の心の「知」の部分の働きだと言ってよいだろう。実際、この分野での人工知能の開発は、人間の脳の働きを超えていくところがあるだろう。アルファ碁はプロ棋士を超えつつあり、人工知能による肺がんなどの画像診断は、ベテランの名医よりも正確に行えるようになっていくと思う。しかし人工知能のこうした優れた働きは、心の働きの「知」の一側面でしかない。心とは「知・情・意」の働きの統合された全体である。したがってどれだけ優れた人工知能を内蔵するロボットができたとしても、そのロボットが心を持つということにはならない。また感情について言えば、表情やしぐさによって喜怒哀楽の感情を表現できるようなロボットを作ることはある程度可能だと思う。しかしそれはあくまで、人間の表情やしぐさを真似たものでしかない。喜怒哀楽以外にも様々な感情があるが、それらの感情は生きているから生じるのであり、生きているというプロセスと密接に関連して発生するのである。例えば恐怖は生きている個体に危険が差し迫っているときに発生する感情であり、同時に逃走や闘争といった行動へと駆り立てる生理的変化を伴っている。生きてもいないロボットが恐怖の表情やしぐさを表現したとして何の意味があるだろう。感情とは少し違うが、痛みについても同様のことが言える。痛みとは身体のどこかが傷ついているサインであり、生存に必要なサインだと言える。幼児が「痛い、痛い」と泣いて訴えてくれるから親はその幼児の身体を守ることができるのだ。ところが生きてもいないロボットが、痛みの表情やしぐさを表現したとして、何になるのだろう。もっとも「人間そっくりのロボットコンクール」でもあれば、そこでは意味があるかもしれないが。

 「知・情・意」のうちの意の働き、すなわち種々の生理的・心理的欲求、あるいは様々な欲望といったものをロボットに持たせることができるだろうか。「ロボットは心を持つことができるのか」という問題を考えている研究者や科学者や哲学者が、こうしたことを話題にしているのを私はあまり聞いたことがない。このような側面を最初から無視して、「知・情・意」の知ばかりを主題にして議論しているような気がする。しかしこの意の働きこそ心にとって大切な働きなのではないか。ここでは詳しく論じないが、行動の動機を引き起こす力も意の働きにあると思う。特に人間が何を欲望するかというのは、時代や国の違いによって様々に異なり、文化の変遷と共に欲望の対象も様々に変化するだろう。人工知能に予め、このような状況ではこんな欲望が生じると入力しておいてもすぐに役に立たなくなるだろう。「人工知能の開発が進めば心を持ったロボットを作ることができる」と信じている研究者や科学者や哲学者に最も欠けているのは、「脳の働きばかりに注目して、人間が生きて生活しているということ―希望したり、失望したり、様々なものを求めたり、逆に避けたりしながら生活していることを見ていないこと」だと思う。

 

個体維持と種族維持

 私は大阪市立大学の理学部の生物学科を卒業した。4回生の時、生物学科の動物社会学を専攻した。この研究室は当時、通称「サル研」と呼ばれ、その数年前まで今西錦司を筆頭に梅棹忠夫河合雅雄などニホンザルの研究グループが活躍していたところだ。戦後京都の嵐山のニホンザルを餌付けして個体識別をし、ニホンザルの社会構造を研究して動物社会学を立ち上げ、世界的に注目を浴びたのもこの研究グループであった。私がその研究室に入って先生方から「生物、特に動物を観察する時、個体維持と種族維持という視点から見ていくことが大切だ」と言われたことは今も印象に残っている。個体維持・種族維持という概念は、生態学の分野や生命の問題を考えるときには欠かせないと思う。個体維持とは自分の生命を守るための働きであり、食物やねぐらの確保、危険や敵から身を守ることなどを指す。種族維持とは、例えば人間であればヒトという種が絶えないように代々子孫を残していく働きであり、生殖や子育てなどがこれに当たる。したがって個体維持・種族維持という視点から動物を観察するとは、「その動物はどんなところをねぐらにしてどのようにして食物を確保するのか。敵からはどのようにして身を守るのか。雌雄はどのようにして出会い生殖行為を行い、子供をどのようにして育てるのか。雄は子育てにどのように協力するのか。また個体維持や種族維持の働きを遂行していくために同じ種がどのような集団を作り、どのような役割を持ち、どのように協力していくのか」といった視点で見ていくことである。だから動物園の動物をいくら調べても個体維持や種族維持のしくみは分からない。なぜならどれも人間によってコントロールされているのだから。牛や豚など家畜化された動物の場合も同様である。個体維持と種族維持の働きが備わっていることが生物が生物であるための最低限の条件である。限りなく無生物に近いヴィールスが生物であるのも、この二つのしくみが備わっているからである。また種が絶滅するのは、個体維持や種族維持の働きが何らかの理由で衰退するからである。

 ところで、生物の身体を構成する各器官は、個体維持・種族維持という働きを遂行するために長い時間をかけて進化していったものだと言えよう。人間の脳についても同様である。大脳といえども個体維持・種族維持のために発達した器官なのだ。心を考える時、多くの者は大脳の働きばかりに注目しがちであるが、こうした背景を無視して大脳の働きだけを切り取って考えても心の働きは決して見えてこないと思う。このことについてさらに具体的に述べることにしよう。

 

人工知能は道具でしかない

 人工知能を内蔵したロボットは生物ではない。したがって当然ながら個体維持や種族維持の必要は全くない。その点ではロボットやコンピュータはアメーバにも追いつけない。ところが人工知能の研究者は人間の脳の働きを細かく研究し、人工知能にそれを応用して開発を進めていけば、人間の脳の働きに匹敵するような人工知能を作り出すことも可能であり、そうなれば人間と同じような心を持つようになることもあるのではないかと考える。まるで脳が全てのような考え方である。しかし身体を持った人間がこの世界と関わりながら個体維持と種族維持を行うために脳は働くのである。日々色々な人やものと関わりながら生活していくために脳は働くのである。そして心はこうした生活の中に現れてくるのだ。脳の様々な働きを物理・化学的に研究することは意義のあることだろう。しかしこうした生活を無視して脳だけを切り取り、その働きを人工知能に応用しても人間と同じような心はできるはずがない。切り取った抽象的な脳の働きと、論理や思考実験だけをもとにして心の働きを考えようとする科学者や哲学者の言説に私はもううんざりしている。彼らはちょうど動物園の動物や標本の中の昆虫を研究してその動物のことが分かった気になっている人と同じだと思う。もう一度先に引用した鷲田清一氏との対談での石黒氏の発言の一部を引用する。

 

 僕は今、言語でのやり取りができないとき、人は身振りや視線、表情でお互いをどう理解しあうのかという社会関係をシミュレーションできるロボットを作っていて、これは僕にとって、非常に大事な研究項目になってますね。

 こうした人間の関係性をきちんとモデル化できれば、仲間意識を持つロボットも作れることになるからです。さらに社会性を持つことに人間らしさがあるとすれば、ロボットだって人間の社会の輪の中、つまり人間の社会関係の中に入っていくことができるようになって、それによりロボットも人間になれる可能性が出てくると思ってるんです。

 

 人間のようなロボットを作ってみたいという石黒氏のロマンは分かる。また人間のようなロボットを作ることで、改めて人間とは何かを考えてみたいというのも分かる。人形を製作する職人は、人々を魅了するようなものを作りたいと思っていることだろう。それと同じように色々な人が関わってみたくなるようなロボットを作ってみたいのであろう。しかしここに述べている「仲間意識を持つロボットも作れることになる…。ロボットだって人間の社会の輪の中つまり、人間の社会関係の中に入っていくことができるようになって、それによりロボットも人間になれる可能性が出てくると思ってるんです。」というのはいくらなんでも言い過ぎだ。仮に言語のやり取りのできるロボットを作っても、人間の社会関係の中に入っていくことはできないと思う。

 人間には衣・食・住の基本的欲求があり、飲食して排泄し、寒さから身を守り、夜は眠るといった欲求は最も基本的なものであり、そうした欲求を満たすために(これらの欲求は全て先述した個体維持の一種)、人間同士が協力し合いながら共同で生活している。例えば震災にあって仮設住宅で生活している人々は、まずはこうした欲求を満たすことに必死の思いであろう。また震災にあった人々は特に死の不安や恐怖に怯え続けている人も多いと思う。しかしロボットの場合、どれだけ人間そっくりに作られて人間的なコミュニケーションができたとしても、何一つこうした欲求を満たす必要がない。人間と同じロボットであるために、食べるふりをして、トイレに行くふりをして、眠るふりをして、死の危険に怯えるふりをするとでもいうのだろうか。当然のことではあるが、ロボットであれば実際に食べ物を食べることはできないし、トイレで排泄することもできないし、死ぬこともできない。お互いが同じ生活欲求を持ち、それを認め合うことを前提にして共同体が作られるのではないか。ここに述べたことは私にとってはあまりにも当然のことでしかない。しかし石黒氏をはじめ人工知能を開発している研究者やこうした問題を考えている哲学者には、このことが分かっているのだろうか。

 高度な人工知能を内蔵したロボットであっても、それはあくまでハイデガーの言う道具的存在者であって、現存在にはなれない。このことは技術的な問題というよりも理論的な問題なのだ。道具は人間が利用するものであって、どれだけ高度な人工知能であっても人間が利用する道具でしかない。しかし人間は高度な道具を開発しながら、逆に人間が道具に使われるようになっていく。人間が機械の普及によって機械化され、その歯車の中に組み込まれていくところは、チャップリンの『モダン・タイムス』の中で巧みに表現されている。最近ではパソコンが普及して会社や学校の中で仕事に利用されている。パソコンのような便利な道具が普及されたら事務的な仕事が楽になるはずなのに、かえって仕事の量が増えてまるで各個人がパソコンに使われているような状況になっているように思う。道具の普及により人間が道具連関の中に組み込まれ、道具的な存在者のようになっていく。

 人工知能は人間の脳の働きをモデルにしてその開発が進められてきた。しかし逆に、人間の脳の働きを人工知能の働きとして理解しようとする面が生じてきているのではないか。つまり人間の思考や行動を人工知能的にとらえようとする。その結果、人工知能を開発している研究者や哲学者は、人間が世界と関わりながら生活しているその現場を見ないで、人工知能と同じように人間を脳の働きという面だけで考えてしまうことになるのではないか。そして人間を人工知能化してとらえると同時に、人工知能を人間化してとらえる結果「人工知能も人間と同じように心を持つようになる」と考えてしまうのだと思う。

 「人工知能ヒトラーの行動を肯定的に評価した。将来人工知能が発達してヒトラーのように人間をコントロールする危険性もあるのではないか。」こんな馬鹿げたことを本気で心配しているのか。もっとも「人工知能を内蔵したロボットがある特定の人物を暗殺する」とか「人工知能が操縦する飛行機が、核兵器を積んでどこかの国に行きそれを落とす」といったことなら十分可能だと思う。もう既に軍事兵器として極秘で研究・開発されているかもしれない。しかしそれは人工知能が自分でするのではない。人工知能を開発している人間のしていることなのだ。そうした人間のあり方こそ、今後考えるべき深刻な問題だと思う。人工知能の研究者や哲学者は、人工知能に関して能天気な心配をしないで、こうした問題こそ真剣に心配すべきだと思う。

 

<筆者 史章>

奇跡ということ

ずっと不思議に思ってきたこと

 「不思議だなあ」って思うことはたくさんある。その中で僕が高校の頃からずっと、特に不思議に思ってきたことを二つ紹介したい。その一つは、「宇宙が有限であるならばその外があるはずだ。宇宙の外はどうなっているのだろう」ということだ。高校の頃私はまだ哲学書を一冊も読んだことがなかったが、このことについて自分でいくら考えても納得のいく答えはまったく得られず、この問題を前にして唯々「不思議だなあ」という思いを抱き続けてきた。「宇宙の外はどうなっているんだ」という質問を、私は父や高校の時の教師、大学の先生や友人に繰り返した。しかし誰一人この問題について一緒に考え、答えを返してくれた人はいなかった。ここでこの問題についての私の見解をごく簡単に述べておきたい。一口で言うと「宇宙の外については語ることができない」というのが今の私の見解だ。そもそも内とか外という概念はこの宇宙空間の中でしか通用しない。宇宙の外の世界というのは、死後の世界と構造的には同型だと思う。生きている者にとって死んだ後の世界は、宗教的・神話的には語れても論理的には語れないはずだ。このことについては後ほどまた少し触れたいと思っている。

 特に不思議だなあと思い続けている二つ目のことについて。「私はどうして私なんだ。私はどうして今、ここに存在しているんだ。私には七つ上の兄がいるが、その兄が私であってもいいんじゃないか。私は人間に生まれなくて犬や猿に生まれてきてもよかったのではないか。今から約68年前、私の両親の精子と卵が受精してそれがたまたま私となった。もしもたまたまその精子とは違った別の精子が受精していたとすれば、そのときに生まれた子供は私とよく似ていても私ではなく、私はこの地球上に生まれてこなかったことになる。そう考えると私の生まれる確率は限りなくゼロになる。しかもこの地球上で、つねれば痛く感じるのは私一人しかいない。今までもこれからも多くの人間が生まれ、そして死んでいく。その中でつねれば痛く感じる人間は、今ここに生きているこの私しかいないのは、一体なぜなんだ。」

 こうしたことを考えると私は、気が遠くなるほど不思議な気分になる。そしてこの不思議な気分を分かってほしいと、上記に述べたようなことを今まで色々な人に話した。高校の教師をしていたので、授業中生徒にもしばしば話をしたことがある。しかし説明が下手なせいか、いまひとつこの不思議な気分を伝えることができなかったように感じられた。私は高校を卒業してから哲学に興味を持ち、哲学書を読むようになり、独我論という考え方があることも知るようになった。上記に述べたことは独我論に通じるところがあるが、しかしこの不思議な気分は独我論ではとても表現できないように思う。今から10年程前に図書館で借りた、哲学者の永井均の本(題名は手元にないので思い出せない)を読んでいて、私がここで述べているこの不思議な感じとよく似た内容のことが書かれているように思った。そしてこのことが的確に分かりやすく表現されているように感じ、感激した。このことを永井氏の言葉で簡単に示せば「私の独在性」という表現になるであろう。

ありえないこと

 奇跡とは、常識では考えられないありえない出来事が起こることである。例えばさいころを100回投げたとする。もしも1の目だけが100回連続で出たとすれば、それはありえないことであり、奇跡だということになるだろう。それは確率で言えば6の100乗分の1となる。しかしよく注意して考えてほしい。さいころを最初に振って1の目が出て、2回目を振ると4の目が出た。以下、3、4、6、2、5、…といった順序で100回振ったとする。しかしこれは当たり前のことであり、奇跡ともなんとも思わないだろう。しかし100回振ったこの時のこの順序で出たさいころの目の出る確率も6の100乗分の1である。さいころの1の目が100回連続で出るというありえないことを奇跡と呼ぶのであれば、ありえないという確率だけで考えれば、さいころを100回投げるごとに奇跡を起こしていることになるだろう。このことを不思議に思うようになったのは、10年程前になる。これをどう考えればよいのだろうか。よく考えると、現実に起こったことというのは全て一回限りのことであり、二度と同じことは起こらない。例えば私が川に向かって石を投げたとする。その石の飛んだ軌道は何万回投げても、必ず違っているはずだ。さいころを投げて同じ目が出るといっても、それは1から6というさいころの目の数だけを抽出し、それだけに注目するからであり、さいころの転がる軌道やその速度まで含めると、何度投げても全て違うことになる。現実に起こることは一回限りで二度と同じ事は起こらない。しかし川に向かって石を投げたとき、たまたまその石がスズメに当たってスズメが落ちたとしたら(私の子供時代に本当に経験したことである)、まるで奇跡でも起こったように気持ちになる。

 同様にして、この私が生まれてくるということも、一回限りであって二度と同じことは起こらない。しかしほかでもないこの私が生まれて、今ここにいるということが、ありえない奇跡のように思われてくる。そこには一体何があるのだろう。永井均の哲学書を何冊か読んでみたが、この不思議な世界をうまく表現していても、そこに何があり何が起こっているのかがはっきりせず、その世界の中にますます引きずり込まれ、私の独在性の感覚から抜け出せなくなるような感じになった。私としてはそこから抜け出せる外部の視点が欲しかった。

 今から二ヶ月程前の5月、本屋で、たまたま今年出版されたばかりの中島義道の『不在の哲学』が目に留まり、早速買って読んでみた。この本では私が述べた「奇跡のように思われる不思議さがなぜ生じてくるのか」が、「不在」というキーワードによって実にうまく説明されていた。初めて「ああ、これなんだ」と、目からうろこが落ちた感じがした。氏の『不在の哲学』も参考にしながら、「この不思議な感じの背景には何があるのか」を、何とか伝えてみたいと思う。

奇跡的だと感じるのはなぜか

 さいころを100回投げて1の目が100回出たとしたら、なぜ奇跡的だと感じるのか。『不在の哲学』の第六章のp.338「天文学的に低い確率?」の項で、これに関連したことが述べられているので、以下に引用したい。

 

……あらゆるこれまでの出来事は現実的(ただ現にそう起こっただけ)であり、偶然的でも必然的でもない。だが、言語を習得した有機体であるわれわれ人間はただ一度だけの現実的なものをとらえた瞬間、現実的世界の「そと」の視点に移動して、現実的なものは膨大な量の「可能的なもの」のうちで、(幸運にも?)実現したというとらえかたをしてしまう。そして、<いま>なお、依然として膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのである。

 

 

 さいころを投げて1の目が出ようが3の目が出ようがどうでもよかったら、100回とも1の目が出たとしても奇跡とは感じないだろう。ところが1の目が100回とも並んで出てきたということに特別の意味を見てそれに注目すると、上記の引用で中島氏が述べているように、1の目以外の目が出る膨大な量の可能的なものが実現されずに残っていると思い込んでしまうのだ。その結果ありえないことが起こったように感じるわけだ。中島氏の言う不在というのは、この可能的なもののように現実化されなかった事象、実在的なものからこぼれ落ちる事象のことである。現実的にはさいころを100回振って1の目が100回連続で出たとする。しかしそこに1の目以外の目が出るのではという膨大な不在を読み込み、その不在を地として現実に起こったことを見ると奇跡だと思ってしまうのだ。同様にして「この地球上に私が現れたことが奇跡的に思われ、つねれば痛く感じるのはこの私しかいないというのが不思議に思われること」も、「もし私が…だったら」とか「もし私が100年前にいたら」といった想像できる限りの不在を読み込み、それを通して「私」を見ているからだと思う。

 「つねれば痛く感じるのは私しかいない」ということを、もう少し考えてみよう。自分の手をつねれば、当然自分は痛く感じる。他者の手をつねっても自分は痛く感じない。しかし、他者も自分を同じように痛く感じるのではないかと想像することはできる。ちょうどさいころを振って1の目以外の目が出るのではないかと想像するように、他者の痛み(広い意味では他者の心)という不在の痛み(心)を見るとき「痛く感じるのはこの私一人しかいない」という不思議な感覚が立ち上がってくる。この感覚が永井均の言う「私の独在性」の感覚であり、また独我論に通じる入り口だと思う。他者の心を不在として考えるというのは、他者に心がないという意味ではない。他者にも心があると想像しながら、その他者の心が自分には直接感じられないという意味で不在なのだ。さいころを100回投げて100回とも1の目が出て、他の目が出なかったとき、「他の目も出るであろうという可能性」を不在として読み込んだように、他者の心の可能性を認めた上でそれを不在として読み込んでいるわけだ。その不在を地として独我論が立ち上がる。したがって他者の心の可能性を認めない者は独我論者にはなれないと思う。

宇宙と生

 最後に宇宙の外の世界と死の問題を、今まで見てきた不在という概念を通して考えてみたい。宇宙の外も死も究極の不在だと思う。「宇宙の外ってどうなっているのだろう」と想像して不思議だなあという感覚に私が襲われたのは、宇宙の外という究極の不在を通して宇宙を考えたからだと思う。また物に光が当たれば陰ができ、その陰という光の不在を地として物の形が浮き上がってくるように、生を考える場合でも死という究極の不在を地として、それを通して生を考えると、生は様々な相貌を伴って立ち現れてくるように思う。死という不在を無視して唯々この世の生のことばかりに夢中になっている人間は底が浅いと思う。ただし時として図地反転し、死が不気味な悪魔的な相貌を持って図として浮かび上がることがある。これが死の恐怖だと思う。

 宇宙の外や死はヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」に相当するだろう。しかし彼の『論理哲学論考』が一見無味乾燥した簡潔な論理的表現で述べられているように見えて、不思議な神秘を感じさせるのは、彼の言う語りえぬものという不在を地として、それを通して書かれているからだと思う。不在を通してものごとを眺めるとき、世界はえも言われぬ豊かな相貌を持って立ち現れてるくるのだと思う。


<筆者 史章>